北の隠れ家

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夢のまた夢 ・ 十五部

2016年05月01日 11時38分55秒 | 夢のまた夢

☆バイクの夜明け☆


     




平成五年、この年からアッシの「バイク人生」が始ったのでごぜぇますだ。
カミサンの妹の亭主がこれまた、その頃バイクに凝っておりやして、アッシにも乗ってみろと強く勧めたのがきっかけでごぜぇましたなぁ。

なんと毎週の休日に、我が家に押しかけて来てはバイクの面白さ、楽しさを、そして終いにゃ、近くのバイク屋に連れて行く始末でごぜぇまして。
ええっ、おめぇさんはところでバイクの免許を持っていなさるんですって?へぇ、アッシが車の免許を取ったのが二十歳の時でごぜぇましたが、その頃は普通自動車免許を取得いたしますてぇと、自動的にバイクの免許も付いて来たんでごぜぇますだ。




ですから、今の時代のように、車の免許のほかにバイクの免許を取らなければならねぇ時代じゃなかったんでごぜぇます。良い時代でしたなぁ(笑)。 八月三十日、とうとうバイクを買っちまいましてね、へぇ。義弟の熱心さといううか、しつこさというか、とうとう根負けちまったと云ったほうがようござんすねぇ(笑)。

「アメリカン」というオンバイクの中古でござんしたなぁ。免許は持っているものの、運転は初めてでやんしてねぇ。若い頃は「スクーター」てぇもには乗ったことがあるんですがね(笑)。
なんとか発進と、止まることだけは義弟に伝授していただいたんですがね、後は独学てぇ奴でして(笑)。
とにもかくにも初心者なもんで、よく「立ちゴケ」をいたしやしたなぁ。アッシは力もねぇ方なもんで、倒したバイクを起こすのにゃ大変な力を要したんでごぜぇますだ(笑)。
そういう訳でして、一カ月でこの重いアメリカンを手放し、今度は軽いオフバイクの「セロー」を買ったてぇ訳で、へぇ。バイクに「オン」と「オフ」が有るてぇこともこの時、わかったアッシでごぜぇますだ(笑)。




旭川市内の道路は、まだまだ走る度胸がなく、よく近郊の「鷹栖」「江丹別」へ練習しに参りましたなぁ。そんな初心者のアッシが義弟と、「初ツーリング」へ富良野の十勝岳温泉へと向かったのでやんすが、温泉への登り道でエンジンが切れ、立ちゴケしてしまったんでごぜぇますだ。
肩を強打し、ブレーキハンドルは半分折れるし、もう肩の痛みで温泉どころじゃごぜぇませんでしなぁ(笑)。ようようにして戻ってきたんでごぜぇますが、翌日病院へ行くてぇと、強打した右肩が複雑骨折していやしたでやんすよ(笑)。


国道は、車の流れが大体七十キロくらいでやんしたが、アッシはなんと六十キロしか出せず、迷惑を掛けちまいましたなぁ。あと、10キロのスピードが出せなかったんでやんすよ(笑)。それが、1年後にゃ、もう百キロで走るようになったんですからなぁ(笑)。

【 藤本家一族旅行 】

こんな中、九月四日に、昨年に引き続いて旭岳温泉一泊藤本家一族旅行」がおこなわれたんでごぜぇますだ。ところが、運の悪い事に前日になって、祖母が急性肺炎になっちまいまして、森山病院に緊急入院されちまって参加できなかったんでごぜぇます。

しかも、当日、深夜は台風十三号が北海道に上陸し、夜中は風雨激しく、一時はどうなることやらと心配しやしたが、翌朝は台風一過の素晴らしい青空が々を迎えてくだせぇましたんで。祖母も大事に至らず無事に退院いたし、胸をなでおろしましたなぁ。 





また、この平成五年は、我が家で、アッシと息子二人の三人マージャンが始まったのを覚えておりやす。

息子達は、なんと、その頃流行していた「ゲーム機」で、マージャンを覚えていたんでごぜぇますだ。親父と一緒に遊んだという思い出づくりにと始めたこの「三人マージャン」、なんと平成八年頃までやっていたのでごぜぇます(笑)。  



【 長男・次男 旭川実業高校入学 】

平成六年は、長男坊の俊輔が高校受験という十五の歳でもありましたなぁ。成績はてぇと問われると、返す言葉がありません状態でしたなぁ(笑)。親が見ていても机に向かっている姿を見たことがなかったほどですからなぁ。
そんな訳で高校進学は、「公立」は最初から諦めておりやしたんで、へぇ。私立一本で勝負に出た長男坊でごぜぇましただ。お陰でどうにかその一本に合格出来たんでごぜぇます。 

いよいよアッシの息子たちも、「青春」のまっただ中へと入って行こうとしていた頃でごぜぇやしたなぁ。
北の大地にもようやく春の気配が感じられるようになってきた弥生の「別れの季節」から、卯月の「出会いの季節」へと季節は変わっていきやしたでやんすなぁ。




長男坊が、「旭川実業高校」へと入学したのでごぜぇますだ。三月二十二日、合格発表の日、アッシは心配で心配で勤務中、車を飛ばして実業高校の発表掲示板を見に行ったもんでござんす。親馬鹿だったんでやんすねぇ(笑)。

息子の受験番号をそこに見つけた時てぇのは、もうホッとするか安心するというか、無常の喜びを感じましたなぁ。自分の当時の若かりし頃を思い出しやしたなぁ。
旭川実業高校「建築学科」へ、入学いたしやしたのは四月九日でごぜぇましただ。何故,建築科を選んだかと申しますてぇと、アッシは内心、将来息子に「大工」の道へ進んで欲しかったからなんでぇ。
アッシは相変わらず、仕事柄休めず、カミサンだけが参列するいつもの入学式でございましたなぁ。へぇ、アッシはてぇと、息子たちの「入学式」「卒業式」にゃ一度も参列したことがねぇんでごぜぇますだ。

今のご時世じゃ、両親揃っての入学式、卒業式が多いようでごぜぇますがアッシの時代じゃ、両親揃っての参列てぇのは珍しい事でごぜぇましただ。時代が変わって行っているんでございますなぁ。
でも今、思えば「卒業式」てぇのには、一度出席してみたかったでやんすなぁ。アッシは卒業式で歌われる「蛍の光」「仰げば尊し」、これが好きでしたもんでね、へぇ。  

翌年の平成七年、今度は次男坊が、兄に続いて同じ「旭川実業高校」の「電子機械科」へ入学したのでごぜぇますだ。兄と同じ「科」じゃ、嫌だろうと思いましてなぁ(笑)。
よく、先生から「あの山本の弟か?」って聞かれたそうでごぜぇやす(笑)。それが、果たして良い方だったのか、悪い方だったのかはわかりやしませんがね(笑)。恐らく、後者の方だったことでしょう。 




「この息子達の「高校時代」の中で、忘れられないのが長男坊が、高校三年の秋、「学校を止めたい」と言い出したことでごぜぇますだ。それまで、二度の「停学処分」をくらっており、三度目の停学処分の時でごぜぇました。

もう半年で「卒業」だと言う時期に、正直、まいりましたなぁ。説得するのに、三日掛かりましたなぁ。中学時代からヤンキーぶっていた息子でしたが、自分の息子に限って、という世間一般の親の思いで、育て方の甘かったことがこの時ほど、悔やまれたことはありませんでしたなぁ。 

でも、なんとか、言い包めて三月の「卒業式」に出席させることが出来やしたんでごぜぇますだ。就職の方も、なんとか職に付くことが出来やした。
次男坊の方は、これといって、大きな問題も起すことなく、無事「卒業」することが出来やした。 
これで、一応二人とも、社会人として世間に巣立っていったと思って安心していたのでごぜぇますが、この思いがなんと、その後、いかに甘かったかということが、身に沁みて感じるようになるとは、さすがのアッシも想像出来なかったのでごぜぇますなぁ(笑)。 

子供てぇもんは、小さいうちが花で、大きくなるに連れて、心配の種が同じように大きくなっていくものだとは、こればかりはその経験者ではわからないもんでございましょうなぁ。

アッシが、学生時代を経て、周囲にそれほど心配を掛けた思いが少なかったせいもあり、社会に出た息子達を信用していたのでしょうねぇ。
今の時代は、「車」「携帯電話」と、アッシの時代にや、その必要性は全く無かった時代でしたからねぇ~。でも、すべてこれ、時代のせいに出来ねぇとアッシは思うんでごぜぇやすが。こうした時代でも、コツコツ真面目に生きていっている人が大勢居いらしゃるんですからねぇ。要は、本人の考え方ひとつなんじゃないかと思うんですがねぇ。

つづく