【 ツーリング時代 】
こんな中、平成6年の夏の終わり頃からスタートしたアッシの「バイク行脚」がいよいよ幕が上がったのでごぜぇますだ。前述した話と、少し重複いたしやすが、まぁ、我慢して聞いていてくだせぇ~。
自分じゃ「バイク」なんてぇ柄じゃなかったんでごぜぇますが、或る日、義弟が自宅に遊びにきて,アッシにバイクの誘いの話しに来たのでござぇます(笑)。
アッシは、その話にまぁまぁつきあっていたんでやんすがね、これが又、毎週の休日にやってまいりましてね、バイクの話をするんでごぜぇますだ(笑)。
しまいにゃ、近所のバイク屋まで連れていかれましてねぇ。あまりに熱心さにとうとう根負けしてしまいましてね、柄にもなく「ライダーマン」になる羽目になりやした(笑)。
最初は、中古の「アメリカン」を購入したんでやんすがね、倒れたときにバイクをおこすのに必死の力がいることがわかり、1ヶ月ほどでこのアメリカンを諦めやしてねぇ~(笑)。
今度は、オフバイクの「セロー」を新車で購入いたしやしたんで(笑)。今度は、アメリカンに比べてとても軽いので、自分にはぴったりでしたですなぁ。
ところで、バイクの免許は持っていたのかって?へぇ~、それがアッシが車の免許を取った時代にゃ、自動的にバイクの免許も一緒に付いてきたんでさぁ。と、いうわけで、アッシは一度もバイクの運転はしたことがなかったんでごぜぇますだ。それで、バイクを買ってしまったんですから、今、考えると驚きますですねぇ(笑)。
そういうわけで、運転は義弟に教わったんでごぜぇますだ。ただし、教えてくれたのは、「発進」「ブレーキ」のみで、へぇ(笑)。
そんなこんなで、まだ肌寒い北国の春の五月八日、富良野の「十勝岳温泉」へ義弟と共に、初ツーリングに出掛けたのでごぜぇます。まだまだビギナーのアッシのバイク経験での状態で、あの急勾配の十勝岳温泉への走りは矢張り無謀でしたなぁ(笑)。しかも四十九歳で(笑)。ほとんど技術的な事は皆無という状態で、ただ走る事が出来るという状態でしたからなぁ。
富良野に先ず向かい、「北の国から」で一躍有名になった「麓郷ロクゴウ」へと目指しましたアッシ達でごぜぇましただ。その「麓郷」で、東京からツーリングに来ていた女性ライダーと知り合いになり、三人で「十勝岳温泉」へと向かったのでごぜぇます。まさかアッシにだけ悲劇が待ち受けているなんてぇ事をちっとも知らずに(笑)。
十勝岳温泉の目前てぇ所は、急勾配のカーブの多い個所でごぜぇましてなぁ、義弟のほうは、バイクの運転技術はまぁまぁでしたがアッシの方はてぇと、初心者もいい所でしてそんな急勾配のカーブの多い坂道を走る技術なんてぇものはこれっぽちも持ち合わせていねかったんで(笑)。
てぇ訳で、アッシ一人置いてけぼりを喰らいましてなぁ、あせる気持ちも有ったんでしょうかねぇ、途中の坂道でエンジンが止まっちまったんでごぜぇますだ。
坂道でござんしょ、アッシは内心、必死でブレーキを掛けながら短けぇ両足で踏ん張ったんでさぁ。その内、ちょっとの気の緩みで、とうとうコケちまったんでごぜぇます(笑)。俗に申します「立ちゴケ」てぇ奴でございましたなぁ。
頭をガーンとおもいっきりぶつけましたな。ヘルメットが無けりゃ一巻の最後でしたなぁ。それほど強烈でございましたなぁ(笑)。 右肩を強打していたんでございますが、無我夢中の時てぇのは恐ろしいもんで、そんな痛みはちっとも感じませんでしたなぁ。
そんな所へ、先に登ってしまっていた義弟が、あまりアッシが遅いので様子を見に戻ってきたんでごぜぇますだ。アッシのバイクを傍らに寄せておいて、義弟のバイクのうしろに乗っかって頂上の十勝岳温泉へ行ったアッシでごぜぇやした。
そういう訳でアッシだけ温泉に浸ることが出来なかったんでごぜぇますだ(笑)。帰路はアッシのバイクをふもとまで、その女の子と交互に乗ってどうにか、ふもとから自力で乗ることが出来ましたんでございますがね(笑)。
アッシのバイクのブレーキハンドルは、折れちまってわずか三センチくらいしか無かったでやんすなぁ。そんな状態で、ようよう旭川へ戻ったてぇ訳で。
帰宅してからは夕食も食べずにすぐ寝床に潜りましたなぁ。翌朝のことでごぜぇますだ。寝床から起き上がることが出来ねぇんでごぜぇます。あれにはさすがのアッシも驚きましたな。カミサンに手伝ってもらってようよう起き上がる事が出来ましたが、こりゃただ事じゃねえと感じまして、すぐ病院へ駆けつけたところ、なんと強打した右肩が骨折していたんでさぁ(笑)。
でも医者の云うことにゃ、この状態では、ほおっておいて自然に肉が固まり治るのを待つしかないと云われ、唖然としたアッシでごぜぇましただ(笑)。そんな為、会社は二週間も休みましたでやんすよ。
それからでしたなぁ~、本屋へ行って、バイクの運転に関する本を買って、真剣に勉強したアッシでごぜぇやした(笑)。 ちょうど、バイクの魅力がわかりかけてきた頃のことでごぜぇますだ。肩を怪我してから、一か月過ぎた頃の六月十二日にゃ、もうバイクに乗っていたアッシでございました。
七月にゃ、名寄から林道に入り、「ピアシリ林道」と言う有名な道北の林道へ挑戦したのでごぜぇますだ。ソロツーリングでごぜぇやしたが、今思うと怪我も治ったばかりだというのに良く一人で山の中を一人で走ったもんで、へぇ。
どちらかというてぇと、アッシはグループツーリングよりもソロツーリングのほうが好きでしたなぁ。大勢で走るのも楽しかったことは楽しかったんでございますが、自分のペースで走ることが出来ないことが多かったせいでしょうかなぁ、一人で風の吹くまま気の向くままに走る方が好んでいたアッシでしたなぁ。
そろそろ涼しい秋風が肌に感じ始めた九月の四日、念願の「宗谷岬ツーリング」にチャレンジしたアッシでごぜぇましただ。この頃はかなりバイクの運転技術も上がり、へぇ、アッシもそれなりに本などで勉強した成果が出て来た頃でごぜぇやす。
お陰で自己流でやんしたが、随分コツがわやかるようになりまして結構上手くなっていたアッシでござんしたなぁ。自宅を出発したのが夜中の三時十五分でごぜぇましたんで。真っ暗闇の道路を走ったのはこの時が初めてでごぜぇやした。走って三十分もしないうちにゴーグルが、夜露で曇って参りましたなぁ。ジャケットも夜露に濡れ重く感じやした。
そんな中、一路、宗谷岬を目指して走りやしたんで。夜が白々と明けはじめたのはどの辺でしたかなぁ、忘れちまいましたが、完全に明けたのが、「音威子府オトイネップ」の駅で、そこで一時間ほど休息したのを覚えておりやす。
駅舎にゃ二人の学生さんがテントを張って寝ていやしたなぁ。予想外に長く休息しちまったので、それからは少し飛ばしましたなぁ。中頓別、浜頓別を経由してオホーツクの海風を感じたときはなんともいえぬ気持ちでごぜぇやしたぁ。
空はあいにくと、曇り空でありましたが、どうにか雨は避けられた感でごぜぇやしただ。ようよう目的地の「宗谷岬」に立ったのが、八時四十分でごぜぇやしたなぁ。感無量でしたなぁ。
はるか彼方に島影が・・・・。そうなんでございます、「樺太」が見えたのでごぜぇます。今でもその時の光景を、はっきり覚えているアッシでごぜぇやす。それから「ノシャップ岬」をおとづれ、その後は日本海側のオロロンラインを、「サロベツ原野」を左に、そして右に霊峰「利尻島」を望みながら一路、帰路を。
日帰りの強行軍のツーリングでごぜぇましたが、思い出に残るツーリングの一つになりましたのでごぜぇますだ。 アッシは、ツーリングした月日、コースなどをそのツーリングに行った際に、撮った写真を貼ったアルバムに「北海道地図」を描き、コース上に赤鉛筆でたどっておりやす。
この三年間で、北海道の東西南北の岬は制覇いたしやした。北海道の夏は短いので、ツーリングシーズンも限られておりやして、毎週の日曜の休日にゃ、天気が雨で無い限り、ツーリングにでかけていたアッシでごぜぇましただ。
このツーリングは、アルバムにその全ツーリングのコースなど一覧表にしてアルバムの裏に貼り付けているんでごぜぇますだ(笑)。 「宗谷岬」「襟裳岬」「納沙布岬」「霧多布岬」「地球岬」等々、全道くまなくツーリングいたしやしたが、心に残っているのは、「知床 カムイワッカの湯」「洞爺湖 函館ツーリング」「宗谷岬」「納沙布岬ツーリング」でございましたなぁ。
ライダーになってから、最も良かったのは、それまで旭川からほとんど出たことのなかったアッシが、バイクに乗ることによって、行動範囲がとても広くなったことでごぜぇましたなぁ。そして、車のドライブとはまた違った、バイク独特のあの「風を切る」、あの気分はとても車じゃ味わえないものでしたですなぁ。
観光地へ「車」で行っても、他人に話し掛けれないものですが、「ライダー」同士であれば、それが気安く出来るのには驚きのアッシでしたでやんすなぁ。 初めて、バイクに乗って、わずか時速60キロしかスピードを出せなかったアッシが、120キロのスピードを出して乗るようになったんですからなぁ(笑)。
平成五年の秋から、平成十年までの短い年数のライダー生活でございましたが、あの「心筋梗塞」の病気にさえかからなければ、現在でもきっと「風」をきっていることでございましたでしょう(笑)。
つづく