北の隠れ家

 総本家「ホームページ風又長屋」・本家「風又長屋」の別館もございますのでご訪問を。 SINCE 2008.12.19

北の大地の春

2016年05月10日 13時48分52秒 | 花&庭

今日もまぁまぁの天気 薄晴れの空だが 日差しは届いているなり
ようやく 日中はストーブを消していても過ごせるようになってきた
しかし この春模様もあっという間に 過ぎ去っていくのだろうなぁ

年々 四季の移り変わりがスピードアップしてきているなり
身体のほうも 年々体力が落ちてきて アチコチに支障が出てくるのも
自然界の法則ゆえ 致し方ないことであろう
まずは 持病を抱えつつも 元気でいることに感謝すべきであろう



庭のツツジや木牡丹も 花の芽がほこらんできているなり
彼らも 一年のうちであっという間に花を咲かせ 散ってしまう
諸行無常の この世のならい 自然界の法則なり

明日の天気は 曇り後雨だとか 晴天の五月晴れが続か無すぎるなり
長い々 雪に囲まれた生活から やっと緑の温かい生活になったというのに
しかし 北国なら北国の 南国では南国での
それぞれの 四季があり それぞれの生活がある
住めば都 この言葉のように 感謝の心を忘れずに
毎日を 過ごしていくのが しあわせなことなのであろう


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一週間ぶりの五月晴れ

2016年05月09日 13時59分06秒 | 花&庭

一週間ぶりの青空 お日様燦々の天気となった
早朝パークも 久々であった やはり芝は少し伸びていたなり
スコアは 一元変わらず まぁ 一週間ぶりにしては上出来かも

気温も最高気温18度 パークでも少し汗ばんできていた
そろそろ 半袖姿かな 否々 まだ少し早いかも
油断大敵 風邪に捕まっては元も子もないなり



花畑のチューリップも ようやく開花したなり
まだ 蕾の花も少しみえる 全部開花したら 
賑やかなチューリップ群生地になるだろう

昨日の強風で ヒヤシンスがなぎ倒されていたので 
支柱を建てて 倒されたたのを元へ戻すなり
毎年 恒例の光景である



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小雨&強風

2016年05月07日 10時43分57秒 | 花&庭

起きる前から 強風の風音が聞こえていた
小雨も入り混じり 今日も早朝パークは断念せざるを得なかった
4日連続の パークお休みとなった 明日も雨降りの天気だとか

五月になったというのに 五月晴れの天気は2日と3日だけ
一週間になるというのに わずか二日間の青空の北の大地
今日もストーブを炊いている 着ダルマの格好で


この程度のことで 不満顔をしていてはいけな
熊本のことを思えば  贅沢なことは云ってられないなり
それにしても 未だに余震が毎日のように起きているとは

地震らしい地震を 当地で体験したことのない吾
地震らしきものを 初体験したのは東京での学生時代のみ
天災には 本当に遭遇体験のない吾なり



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GW明け

2016年05月06日 11時46分00秒 | 花&庭


今年のGWも 幕が下りた
北の大地のGWの天気は 中半の五月2日・3日だけの好天で そのほかは散々の天気であった
道東方面では 大雪の降雪 当地も気温が低く連日ストーブを炊いたほどである

観光に北の大地へ 訪れた観光客には本当に申し訳のない天気であった
一昨日 当地にもようやく桜開花宣言が出たが 花見にも行けない天気である
明日明後日も イマイチの天気のようで 桜が散ってしまわなければ良いがと心配している



今朝は 久々に明るい青空が顔を見せた天気だったのだが
金曜で パーク場が休日 ついていないGW明けの天気である
その後 曇ったり晴れたりの空模様で イマイチの天気なり

そんな中での ブログネタの庭・花畑の写真を撮る吾
外へ出ると けっこう温かい 家の中でのストーブを慌てて消したなり
でも やはり家の中は寒く 着ダルマの格好に戻っている吾の姿
外は 雲の合間から日差しが射し 園児たちの嬌声が聞こえてくる



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夢のまた夢 ・ 中 完

2016年05月04日 08時09分11秒 | 夢のまた夢
☆心筋梗塞 妹葬儀☆


       


平成十年九月二十日、会社から帰路、パソコンショップに寄り道し、いろいろ見ていたら、急に目の前が真っ暗になり火花が散り、胸が苦しくなりましただ。
おもわずその場にしゃがみこむこと数分、よほど店員に救急車の手配を頼もうかと思ったほどの苦しさであった。が、数分後、どうにかその苦しみも治まり、顔色は恐らく真っ青に花って威ただだろうが、胸を右手でおさえつつ、ジムニーを片手運転して帰宅したアッシでごぜぇましただ。

帰宅して、そのまま寝床に潜り込んで寝ましたんでごぜぇますが、翌朝、どうも普通ではない感じがしたので、会社を休んで、カミさんと一緒に旭川市立病院へ。数時間待合室で待たされ、ようやく診察室へ。
昨夜の状態を医師に説明すると、即、車椅子が用意され、そのまま緊急入院。IGQに三日間も入れられたんでごぜぇますだ。
診察の結果はなんと「心筋梗塞」とのこと、検査々の連日 そのうちカテーテル検査をし、カテーテル手術を済ませ一カ月、明日は退院だと云うときに浜松で暮していた妹、康子が肺癌で死んだとの凶報が入りましたんでのでごぜぇますだ。

担当医師に、葬儀に出席したいんだがと相談したところ、浜松を「浜益」と、どうも聞き違いしたらしく、即、了承していただいたんでごぜぇますだ。手術後一週間で、浜松の葬儀に出席したのでごぜぇます。



矢張り、少し、精神的にも肉体的にもつらい日々でごぜぇましたなぁ。旭川空港から羽田空港まで、そこから新幹線で浜松の妹の家へ。
葬儀場を借りずに、自分の家で葬儀を行ったのでごぜぇますだ。娘が二人おりやして、長女が高校一年生、次女が中学二年でごぜぇましただ。亡くなった妹は数年前に離婚しており、母子家庭でございやして頑張っていたようでやんした。

5日ほどで、葬儀その後の手続きなどを終え、あっしはまた、病室へ戻ってきたのでごぜぇますだ。数日後には、退院するということも決まり、その日が目前に迫ってきた或る日、医師から、いろいろな検査の結果、胆嚢にポリープが発見されたとのこと、悪性の腫瘍か良性のものかは、手術して細胞を接種し、検査してみなければ何とも云えないとのことで、さすがにあっしも内心、青くなったのを覚えておりやすでやんすよ。



今まで、病気らしい病気で入院したことがあったのは「盲腸」のときだけのアッシだっただけに、このときは心底まいりかけましたなぁ。 というわけで、五階の内科より、三階の外科に病室が変わりましただ。
そんなこんなで、あっしは万が一のことを考え、「墓」を購入いたしましたんでやんすよ。外出許可をもらって、墓を購入してきたあっしでやんしたよ。場所は、観音霊園でごぇますだ。自分が死んでしまったら、墓が無かったら、カミさんが大変だろうと思いましてな。「死」のことばかり、考えていたアッシでございましたなぁ。いろいろな検査の結果、開腹手術になったのが、十二月の頭でございましたなぁ。

全身麻酔の手術でございましたんで、全く手術の様子は覚えておりませんだ。ただ、手術を終えたあとの二日間は高熱にうなされ、つらい思いをしたのは鮮明に覚えておりやす。手術までの期間が二ヶ月ほどありましたので、その間、もし悪性腫瘍の癌だったらと何度脳裏を掠めたことでござんしょう。今、思うとやはり若かったせいもあったんでやんしょうねぇ、マイナス思考の考えばかり繰り返し考えておりやしたですなぁ。


手術したおりの、尿道カテーテルからの血がなかなか止まらず、この出血が止まらない限りは退院は許可出来ねぇと云われやしえねぇ。何日経っても、出血が止まりやせんでやんしたよ。そこで、ハッとあっしは気がついたんでやんすよ。もしかしたら、心臓の薬のなかで、血液をサラサラにするのがありやしたので、ドロドロの血液にしたら出血が止まるんじゃねぇかと。。。そこで、外科の医師に心臓の薬を三日ほど飲むのをやめても大丈夫かと、心臓の担当医師に問い合わせてくれと頼んのでやんすよ。

心臓の担当医師は、三日なら薬は止めても大丈夫だと返事がきたんで、さっそく心臓の薬を飲むのをとめたんでやんすよ。なんと、三日目で見事に出血が止まったじゃござんせんか。外科の担当医師がヤブ医者だと初めてそのとき知ったあっしでやんした(笑)。
もしかしたら、年末年始は病室で過ごすことになるのではと思っておりやしたが、十二月二十日無事退院し帰宅することが出来たアッシでごぜぇましただ。年末年始を我が家で過ごし、四日からもう会社へ出勤した自分でごぜぇましただ。


この話は、ここらへんで一息入れたいのだがなぁ~。
これ以降の、50代60代にまたまた、波乱万丈の出来事が起こったんじゃがのう(笑)。
一応、ここらへんで一息つきたいと思ってのう。また、機会があったら「続編」を話ししてみたいがな(笑)。 

中 完
 

 後 記 


平成11年の正月明けの仕事始めのところで、筆を置いたのだが、それから数十年、
なんと筆は再び執ることなく、平成28年の春を迎えてしまっている現在なり。
一端、筆を置いてしまうと、なかなか再び筆を執るということが
如何に困難であるかが良く身に浸みたなり。

今月5月28日でもって、マイHPがサーバーの事情で閉鎖されることになってしまった為、
この「夢のまた夢」が、
このまま陽の目を見ることなく姿を消されることが惜しい気持ちから、
この「北の隠れ家」に載せた次第でございます。
果たして、続編が綴る日が到来するかどうかはわかりませんが、
その折はまた、一見のほどよろしくお願い致します。

平成28年5月4日筆
       

夢のまた夢 ・ 十七部

2016年05月03日 11時08分36秒 | 夢のまた夢
☆ライダー時代2☆


      


【 平成八年 温泉めぐり 】




平成八年の一月に、珍しい人と再会しましたなぁ。新婚時代、本町の静香荘から、春光町の「雇用促進住宅」の団地へ移転し生活していた頃に、我が家の向かいの部屋に住んでおられた及川さん夫婦の奥さんに再会したんんでごぜぇますだ。

風の便りに、数年前にすでに離婚されていたとかで、気にはなっていたのでごぜぇますが、及川さんの奥さんとは、なんと十四年振りの再会でやんしたなぁ。そんなこんなで、二月二十五日に初めて「層雲峡 氷爆まつり」に家族一緒で、行ってまめいりましたでごぜぇますだ。

夕方四時頃、旭川を出発し、五時半頃層雲峡の会場に着きやしたんで。アイスバーンの道路を心配しておりやしたんですが、道路は完全に乾いてアスファルトが出ている状態でごぜぇまして助かりやした(笑)。
風は吹いておりませんでしたが、結構シバレがきつく、夜空には見事な、まんまるなお月さまが浮かんでおりやしたですなぁ。何十年と地元に居ながら、初めてきた「氷爆まつり」、カラフルな照明に怪しくも浮かび上がる氷の彫刻、まるでメルヘンの世界へ足を踏み入れた感でごぜぇやしたなぁ。

シバレている中での屋台のラーメンがとてもおいしかったのを覚えておりやす。 雪に囲まれた北の大地の冬は、どうしてもスキー、スケート以外にゃアウトドアが、いまいちといった感でごぜぇやしたので、今年の冬はひとつ外へ出ることにチャレンジしてみようと思い、休日はできる限り「脱旭川」を心がけようと思いましたなぁ。






そこで、二月十八日、近郊愛別の「協和温泉」へカミサンと一緒に行ってめいりました。あいにくと、小雪がちらつく天気模様でございましたが、ユッタリ、のんびりと温泉に浸かってまめいりました。 三月三日「桃の節句」にやぁ、沼田町の「幌新温泉」へと夫婦で行って参りました。地図片手に、途中道を間違えながらも無事にたどり着き、気持ち良い湯にのんびり浸かってまいりました。

三月十日の休日には、富良野の「道の下温泉」へと出かけてめいりました。家を出るときは、芦別近郊の「湯の花温泉」に行く予定だったのでごぜぇますが、地図上には確かに「湯の花温泉」と有るのでごぜぇますが、なかなか見つかりませんで、或る家で問合せましたところ、なんと十数年前にもう廃湯となって現在は存在しないということでございました。やぁ~、まいりましたなぁ~(笑)。

そういうわけで、せっかく来たので、富良野まで足を伸ばして、「道の下温泉」へ行くことにいたしやした。翌週の日曜日の三月十七日にゃ、下川の「五味温泉」へと夫婦で行ってめいりましたでやんす。道がよくわからず、やっとの思いで到着したのを覚えておりやす。
その翌週の日曜日三月二十四日にやぁ、深川の「沖里河温泉」へ行ってまいりました。昭和初期頃に建てられたような湯治専門のような温泉宿といった感じの建物でしたなぁ~。中に入って湯に浸って、驚きましたなぁ。あまり、客がこないようで、湯はあまりきれいとは云えない感じで、シャワーも蛇口も無いといった浴室でした。

翌週の四月六日は、もう旭川近郊の温泉もほとんど行ってしまった感で、残されていた「塩狩温泉」、そう、あの三浦綾子での小説にもなった塩狩温泉へと、それも夜になってから出発してしまい、温泉に着いたときはちょうど、九時になっており、宿の玄関ガラスには、九時までで閉館の張り紙が。まいりましたなぁ~。せっかく来たので、頼み込んで、温泉に浸らせていただきましたでやんすよ(笑)。



【ゴールデンウイーク  函館 大沼公園へ 】  

平成八年五月四日前日の夜中の三時に自宅を出発、一路「函館」を目指して車を走らせましたんでごぜぇますだ。が、札幌近くになって夜も明け、空は真っ青に青い空、しまった、こんな素晴らしい天気だったらどこかバイクでツーリングするんだったと、運転していながら考えておりましたなぁ。




よっぽど旭川へ引き返してバイクに乗ろうかなぁと思いましたですなぁ(笑)。そんなこんなで、駒ケ岳を右目にのぞみながら車を走らせていたアッシ達でしたが、途中で横道に入り、駒ケ岳に上り始めていた愛車ジムニーでやんした(笑)。
登り口に鎖が引いて入れないようになっていたんでやんすが、鎖をはずして、車を乗り入れましたんで。結構、上ったところで、もうそれ以上は、車では無理というところで断念したんでごぜぇますが、快晴に恵まれて、駒ケ岳は素晴らしい景色というか、風景でごぜぇましただ。

そうそう、この二,三カ月ほど前に何年かぶりに駒ケ岳が噴火していたんでごぜぇます、それで鎖が張ってあっていた訳でやんす。 そうこうしながら、大沼公園に着いていましたなぁ。ゴールデンウイークということで、すごい人出でしたなぁ。
天気も快晴で、春の到来だなぁと感じさせた気候で、本当に良かったですなぁ。当初の予定では、新婚旅行以来の函館での一泊を考えていたんでごぜぇますが、あまりにも天気が良いので、バイクに乗りたくなり、急遽、日帰りの旅となってしまい、帰路、ニセコ方面を回りました函館の旅でごぜぇやした(笑)。なんと、宅した時間が夜中の十二時でございましただ。

早速、翌日は「朱鞠内湖」へソロツーリングに行ってめいりました。朱鞠内湖近くになると、雪が三メートルほど道路の両側に壁を作っておりやした。このあたりは、まだまだ積雪が多く、朱鞠内湖はまだ凍結しておりやした。春遠からじといった感でごぜぇましたなぁ。
カミさんは車で、アッシはバイクでというツーリングでありやした(笑)。翌日の最後の連休は、あいにくと曇り空といった天気で、近郊の富良野、「北の国から」の麓郷にソロツーリングに行ってまいりました。こんな三連休のゴールデンウイークは幕を閉じたのでごぜぇますだ。



【 静内 二十間道路 】  

五月十九日の休日に、カミさんと一緒に日高、静内二十間道路にドライブしてめいりましてなぁ。ちょうど、桜の花が満開の時期で、お花見の客でとても混雑しておりやした。朝、八時に自宅を出て、到着したのが十一時四十五分でしたなぁ。帰路、占冠の「湯の沢温泉」で、温泉に浸ってめいりやした。  



【 平成八年のツーリングあれこれ 】





なんだかんだいって、本格的にツーリングできるようになったのは、五月の末頃でございやしたなぁ。
五月二十六日、「上湧別 チューリップ畑」「滝上 芝桜公園」とソロツーリングに出かけてめいりました。好天に恵まれ素晴らしい久しぶりのツーリングでごぜぇましただ。

「上湧別 チューリップ畑」「滝上 芝桜公園」共に、すごい人出でとても、見事なチューリップ畑、芝桜公園でごぜぇました。滝上芝桜公園では、たまたま「ミス芝桜」の催しがあり、多くの人たちが、彼女らにカメラを向けておりましたなぁ。えっ?もちろん、アッシもその一人でしたがね(笑)。でも、公園入り口の、あの急な坂をバイクで登るときは内心、コケナイなようにと必死の運転でしたなぁ(笑)。  

翌週の日曜日にゃ、日高山中の「管野温泉」へツーリングしてめいりやした。バイク雑誌に載っている有名な歴史のある温泉で、数種類の温泉の湯船がございましたなぁ。




朝六時半に自宅を出て、少し曇り空の下でしたが、午後から晴れるとの天気予報を信じて、かじかむ手を我慢しながら富良野経由で、目的地の管野温泉に向かいやしたんで。管野温泉の手前、十四キロはダートの砂利道で、オフバイクでないと無理な道でやしたなぁ
温泉の浴室が五つもあり、露天風呂もありましたが、難点は、浴室の移動が裸で行ったり来たりといった状態でした(笑)。帰りは、美瑛のパッチワークの丘を通って戻ってめいりました。





六月九日は、支笏湖の「丸駒温泉」「伊藤温泉」とツーリングしてまめいりましただ。朝六時半に出発し、快晴の天気に恵まれ、札幌経由で支笏湖に進路を取ったのでごぜぇます。日曜日のせいもあり、ドライブの車がとても多く、その中をスイスイとかいくぐってまいりましたんで。

途中での、残雪におおわれた恵庭岳を正面に見てのツーリングは快適そのものでごぜぇましたなぁ。丸駒温泉に着いたのが、十一時頃で、なんと入浴料が大人千円には驚きましたなぁ。真っ青な青空の下、水上ジェットモーターが走る支笏湖、残雪の恵庭岳を見ながらの露天風呂は最高に気分でしたなぁ。
帰路、すぐ近くにある「伊藤温泉」にも寄り、一風呂浴びてめいりました。そこの入り口も、すごい急な坂道で、運転は内心必死でしたなぁ(笑)。走行距離、三百七十二キロのツーリングでごぜぇました。


六月二十三日の日曜日は、少し曇り空の天気でしたので、遠出は止め、近くの富良野、「吹き上げ温泉」へツーリングしてめいりましただ。何度も行っている「吹き上げ温泉」でやんしたが、相変わらず多くの人で、混雑していましたですなぁ。帰途、「望岳台」に寄り道をしてめいりました。  

六月三十日の日曜日は、念願の「離島 ツーリング」に行ってめいりましただ。目的地は「焼尻島」、朝五時頃に起床、カーテンを開けると、前日の好天が一転し、どんよりとした厚い雲が。一瞬ツーリングに行くかどうか迷いの気持ちが、でも矢張り、決行することに。

思考している時間が無かったので。と、いうのは予定している焼尻島へのフェリーの時間が決まっていたからでごぜぇますだ。五時三十五分、自宅を出発、留萌でコンビニを経営している友人にちょっと逢い、羽幌に着いたのが八時十分頃でごぜぇました。

八時五十分発のフェリー「おろろん」に乗り、五十五分の船旅で「焼尻島」に到着。まぁまぁカモメが、船に寄ってきて、その鳴き声のにぎやかなこと(笑)。人間一人の運賃が、千五百円なのに、なんとバイクは二千五百円、しかも片道ですぜよ(笑)。
島周囲が、わずか十二キロしかないんですから、あっという間に走り回ってしまい、お金があったら、隣の「天売島」まで行きたい気持ちでごぜぇましたですなぁ(笑)。わずか一時間ほどの島滞在でごぜぇました。 

翌週は、幌加内の「せいわ温泉」へツーリングしてめいりやした。この七月、長男坊がなんと二度目の停学処分を受け丸坊主にさせられましたんで。アッシも、長男坊の恥ずかしい思いを一緒に味わってやろうと、三十三年ぶりに坊主頭に刈ってめいりましたが、果たしてこのアッシの気持ちが息子に伝わったことでしょうかなぁ(笑)。






七月七日、枝幸の「カニ祭り」ツーリングへ出かけてめいりやした。朝、五時二十分目覚め、即、部屋のカーテンを開け、空を見上げるとなんと、昨日までの厚い、今にも振り出しそうな空が、真っ青な青空になっているではありませんか。前夜、諦めていた枝幸の「カニ祭り」ツーリングへ行くのに即、決定いたしやした(笑)。

準備を全くしていなかったので、自宅を出発したのは六時半頃でしたなぁ。旭川は素晴らしい天気でごぜぇましたが、美深あたりから、厚い曇天模様の天気に変わってまいり、ユーターンしようかと考えましたが、せっかくここまできたのだからと、雨が降り出さないことを祈りつつ、一路枝幸を目指したアッシでございました。

気温も低めで身体も冷え込み、何度かトイレタイムを要しやしたですなぁ(笑)。そんなこんなで、枝幸の「カニ祭り会場」へ着いたのが、十一時頃でしやんした。その頃には、天気も、少し明かりが出てきた空模様でごぜぇましただ。
会場はすでに多くのひとが来ており、カニなべなどフーフー言いながら楽しんでおりやしたですなぁ。帰路に、枝幸の「三笠山展望台」、「千畳岩」へ寄り道し、その後は美深の「道の駅」までノンストップ。
和寒で丁度、開催されていた「全日本モトクロス第六戦」が開かれていたので、道路ぎわの草むらで一時間ほど観戦し、帰宅したのは、五時手前でごぜぇましただ。走行距離三百三十九キロでしたなぁ。  


翌週の7月七日は、それまで念願だった日高の「トムラウシ温泉」と「ヌプントムラウシ温泉」へと行ってめいりました。朝七時、自宅を出発、空は曇り模様でしたが、ようやく前日の天気予報通り、陽が射してきて晴れ模様に。旭川二十七度、帯広三十度になるという天気予報、狩勝峠を過ぎた頃から、気温が上がってきた様子でごぜぇました。

新得、屈足、岩松、東大雪湖を経由して、ようやく「曙橋」へ到着。右十三mキロ先は「ヌプントムラウシ温泉」、左九キロ先は「トムラウシ温泉」への別れ道でごぜぇましただ。

「トムラウシ温泉」へ先ず行くことにし、ダートな砂利道九キロを走破、目的地の東大雪荘へ到着。時刻は十一時半頃で、バイク雑誌に載っていた、大浴場、露天風呂へ浸り、一時頃に別れを告げ、今度は「ヌプントムラウシ温泉」へ。
「曙橋」まで戻り、そこから右折、十三キロのダートなヘアピンカーブが多い砂利道林道へ。狭い林道で、途中二台のオフバイクとすれ違うなり。きっと、内地からのライダーであったでごぜぇましょう。

ようようにして、秘湯「ヌプントムラウシ温泉」へ着いたのが、二時半頃でごぜぇましただ。念願の秘湯に浸ったが、すぐそばに硫黄が噴出しておりその匂いといい、そばを流れているヌプントムラウシ川のせせらぎの音といい、全く大自然に囲まれた秘湯でごぜぇました。
三時過ぎに再び「曙橋」に進路を取り、帰路は天気予報が当たり、真夏の気温のなか、帰宅したのは八時頃でごぜぇましただ。走行距離四百三十九キロ。燃料十三、ニリットル、(千四百六十二円)でやんしたですなぁ。  





八月二十五日には、快晴のもと、室蘭の「地球岬」「測量山」ツーリングへ出かけやした。朝四時半起床、五時自宅を出発、未だ夜が明けたばかりで、空は厚い雲におおわれておりガスがかかっておりやしただ。
途中、ガスでゴーグル、ウェアーなどがびっしょり濡れ始め、ユーターンしようかとも思ったほどの天気でごぜぇましただ。岩見沢あたりで、青い空が顔を見せはじめ、ホッといたやした。岩見沢より国道ニ百三十四号線を経由して、苫小牧へ。そこから、三十六号線で一路室蘭を目指氏やしたのでごぜぇます。

目的地の「地球岬 幸福の鐘」に立ったのが、ちょうじ十時でごぜぇました。快晴の青空の下、穏やかな太平洋の海、見渡せばはるか駒カ岳、恵山などが望まれ,最高の気分でごぜぇやしただ。 それから、「測量山」に進路を取り、細い市街地の坂道を走り、展望台に立つやしたんで。
そこからは、室蘭市街、室蘭港、新日鉄製作所、日本製鋼所、建設中の白鳥大橋などが一望の下に見渡せましたでごぜぇます。十二時に室蘭に別れを告げ、苫小牧を経由し、日高紋別に進路を取りやした。
日高紋別より国道ニ百三十七号線に進路を取り、日高,占冠を通り、途中「湯の沢温泉」の温泉で疲れを取り、自宅に着いたのが六時半でごぜぇましただ。臀部が痛くなるほどの長距離ツーリング,走行距離五百五十二キロでごぜぇました。  

九月八日、「塩別つるつる温泉」へツーリング。前夜の天気予報で今日は快晴とわかっていたので、九時半に自宅を出て層雲峡、ようやく完成したばかりの「銀河トンネル」を通過し、二十年ぶりの石北峠を越え、以前に通ったときとは、比較にならないほど立派に舗装された道路を走り、ようやく温根湯温泉の手前にある「塩別 つるつる温泉」にちょうど十二時に到着いたしやした。

バイク雑誌に載っていた雄大な露天風呂にユッタリ浸ってのんびりしやしたせいか、本当に肌がツルツルになったようでごぜぇましましただ。一時頃、帰路に月、途中層雲峡で、大函小函で休憩し自宅に着いたのは、四時頃でごぜぇましただ。  

次男坊が、十月五日に「韓国 修学旅行」へと出発し、二十一日に帰宅しやした。次男坊も、最後の学生生活も来年を残すのみとなりやした。   



【 平成九年 長男坊実高卒業 就職 】  

平成八年から平成九年のウインターシーズンは、大雪に見舞われ、我が家の庭から雪の姿が見えなくなったのは、四月二十日でごぜぇましただ。長男坊は、二月二十八日に「卒業式」を終えホッとシテいたのでやんすが、なんと、三月に購入した車「シーマ」を二週間で物損事故を起してしまいやしたんで。

親の言うことを聞かずに、燃費の悪い高級車を買ってしまった天罰ではなかったかと想わざるを得ない心境でごぜぇましただ。わが子ながら、こんなわがままな子に育ててしまったことを今さらながら悔いを残しているといっても過言ではごぜぇませんでやんした。甘やかししすぎた結果、と反省しやしたが手遅れの感でごぜぇましただ。

四月一日、真新しいスーツ姿で、初出勤した長男坊でごぜぇましたが、スーツ姿は、これが最初で最後になる職場であることを本人は自覚していたことでごぜぇましたでしょうかなぁ。 
カミさんは、二月一日にアッシが購入した新車「ジムニー」で、パンと電話帖の宅配の仕事に頑張っていやした。アッシはてぇと、それまで、育ての親・その長男・その子供と三台に渡って、努めておりやしたが、不景気のため、リストラの波がとうとう、勤め先の千秋亭の店にまで波及してきたのでごぜぇますだ。

そんな状況で、リストラの見本を身内で示さねばと一大決心をして、辞職願を出したのでごぜぇます。それからの2年間は、職を変えること二度、苦難の時代でごぜぇましただ。

そうこうしているうちに、52歳の時、四月二十一日から、義弟の誘いで自分の親が経営している「中林機械鉄工」へと勤めることとなりやした。職業がまったく180度違うもんで随分迷ったのでやんすが、経理事務をするということで努める事になりやしたんでごぜぇます。

ゴールデンウィークの五月三日に、中林家の家族と、我々夫婦は一緒に上川にある「アイスパビリオン」「熊牧場」「エスポワールの鐘」「アンガス牧場」と出かけやしたんでごぜぇます。裏大切にあたるアンガス牧場は、まだまだ残雪が多うごぜぇましただ。 





平成九年7月、「納沙布岬」まで一泊二日のキャンプツーリングに行ってめいりやした。上川神社祭で、連休となったんで、泊まりがけのツーリングに行けたんでごぜぇますだ。
朝五時に自宅を出て、狩勝峠を通過し、帯広、釧路を横目に一路、根室の「納沙布岬」を目指しやした。途中、霧多布岬に寄り道、東京から来ていて女性ライダーと知り合いやした。パソコンの表計算ソフトの「ロータス社」に勤めているとのことで、ちょうどアッシもパソコンもやり始めていた時だったので、話に花が咲きやしたのを覚えておりやす。

そんなこんなで、目的地の「納沙布岬」に到着したのは、予定よりも二時間遅れの午後二時でごぜぇましたなぁ。かなりの観光客が訪れていやした。しばらく休息してから、今夜の野宿地、屈斜路湖の「砂湯」を目指しやして到着したのは、陽が暮れかかった夕方でごぜぇましただ。





キャンプ場で、キャンプを張り、翌日は「美幌峠」を経由し、網走を目指しやした。「網走」では、「網走刑務所」「北都山」へと寄り道をし、興部経由で帰路に着きやした。  
九月八日のお盆休暇には、義弟と「洞爺湖・函館」一泊キャンプツーリングに行ってきやした。天気に恵まれ、岩見沢、千歳、支笏湖、洞爺湖とツーリングしてめいりやした。洞爺湖で、キャンプを張り、一泊、夏休みのせいか家族連れがとても多かったのを覚えておりやす。

翌日は、昭和新山を見に寄り道し、長万部、森、駒ケ岳、大沼公園とコースを取り、函館「五稜郭」、函館市街を経由し、恵山を通り、函館半島を横断し、帰路に着きやしたんで。途中、伊達あたりで、義弟が先に走っており、アッシはその姿を見失ってしまい、そのまま日高紋別まで走り、富良野経由で帰宅しやした。  

九月十四日、九人でグループツーリング「襟裳岬」へ行ってきたんでごぜぇますだ。グループツーリングは、初めての経験でございましたですなぁ。男性五名、女性四名のグループでしたなぁ。
何度も行っていた襟裳岬でしたが、岬付近は相変わらずのすごい風でごぜぇましたなぁ。グループツーリングは、集団行動を共にしなくてはならねぇので、スピードも合わせなければならず、やはりアッシにはソロツーリングのほうが向いているような感じが致しやしたなぁ。そんなこんなで、平成九年も幕を閉じていきましたですなぁ。   


【 平成十年 】  




護国神社祭の連休、会社の同僚と「ニセコ、積丹半島」一泊ツーリングに行ってめいりましたですなぁ。 快晴の天気に恵まれ、最高のツーリングでごぜぇました。旭川~由仁町~千歳~支笏湖~喜茂別~ニセコ~五色温泉とツーリングし、そこで一泊しやした。
翌日、五色温泉~倶知安~岩内~神恵内~神威岬~積丹岬~余市~小樽~石狩~新十津川~深川~旭川のコースで帰宅しやしたのが、夕方でやんしたなぁ。  

7月は、「十勝岳温泉」へツーリングしてめいりやした。七月五は、念願の「岩間温泉」へソロツーリング行ってめいりやした。快晴に恵まれ、糠平温泉の手前、何度かツーリングで訪れてことのある「幌加温泉」の少し手前、三股橋を右折、林道を数キロ走ったところで、川幅五メートルほどの小さな川が流れており、ここを渡らないと目的地の「岩間温泉」へは行けねぇンでごぜぇますだ。





この「川渡り」の情報は、バイク雑誌ですでにつかんでいたので、驚くには値しやせんでやんしたが、浅瀬の川とはいえ、川の中は大きな石がゴロゴロと重なり合っていやすんで、うまく運転しないと、川の真ん中で横転する恐れは十分にごぜぇますだ。
一瞬、転倒のシーンが脳裏をかすめやしたが、この「初川渡り」は予定の中に入っていたので、思い切って、川の流れの中へ。一心に、転倒だけは避けなければの内心必死の心境であったアッシでごぜぇやした(笑)。

バイクの左右に、川の水しぶきが跳ね上がり、爽快な気分、この気分も向こう岸にようやく辿り着いたときに初めて味わった気分ではごぜぇましたがね(笑)。そこから、目的地の「岩間温泉」はすぐでごぜぇましただ。

先着していた東京から来たというライダーと話を交わしていると、そのライダーは、さっきの川でなんとバイクが転倒したとのこと、服、ブーツが水浸しになっておりやした。温泉前に流れる川にかかっている丸木橋を渡り、「岩間温泉(露天風呂)」へ入ろうとしたら、なんと熱過ぎて入れないでねぇですか(笑)。

ちょうど先に来ていたライダー二人にアッシも含めて、三人でそばに流れている川の水を何度もすくっては湯船にいれ、ようやく露天風呂の中へ。自己満足ではありやしたが、初めての川渡りを無事成功してでの露天風呂の湯は、最高の気分でごぜぇました。このツーリングが、まさか最後のツーリングになるとは夢にも想わず・・・・。 

つづく

夢のまた夢 ・ 十六部

2016年05月02日 12時03分43秒 | 夢のまた夢
☆ライダー時代☆


        


【 ツーリング時代 】




 こんな中、平成6年の夏の終わり頃からスタートしたアッシの「バイク行脚」がいよいよ幕が上がったのでごぜぇますだ。前述した話と、少し重複いたしやすが、まぁ、我慢して聞いていてくだせぇ~。
自分じゃ「バイク」なんてぇ柄じゃなかったんでごぜぇますが、或る日、義弟が自宅に遊びにきて,アッシにバイクの誘いの話しに来たのでござぇます(笑)。
アッシは、その話にまぁまぁつきあっていたんでやんすがね、これが又、毎週の休日にやってまいりましてね、バイクの話をするんでごぜぇますだ(笑)。
しまいにゃ、近所のバイク屋まで連れていかれましてねぇ。あまりに熱心さにとうとう根負けしてしまいましてね、柄にもなく「ライダーマン」になる羽目になりやした(笑)。




最初は、中古の「アメリカン」を購入したんでやんすがね、倒れたときにバイクをおこすのに必死の力がいることがわかり、1ヶ月ほどでこのアメリカンを諦めやしてねぇ~(笑)。
今度は、オフバイクの「セロー」を新車で購入いたしやしたんで(笑)。今度は、アメリカンに比べてとても軽いので、自分にはぴったりでしたですなぁ。
ところで、バイクの免許は持っていたのかって?へぇ~、それがアッシが車の免許を取った時代にゃ、自動的にバイクの免許も一緒に付いてきたんでさぁ。と、いうわけで、アッシは一度もバイクの運転はしたことがなかったんでごぜぇますだ。それで、バイクを買ってしまったんですから、今、考えると驚きますですねぇ(笑)。

そういうわけで、運転は義弟に教わったんでごぜぇますだ。ただし、教えてくれたのは、「発進」「ブレーキ」のみで、へぇ(笑)。
そんなこんなで、まだ肌寒い北国の春の五月八日、富良野の「十勝岳温泉」へ義弟と共に、初ツーリングに出掛けたのでごぜぇます。まだまだビギナーのアッシのバイク経験での状態で、あの急勾配の十勝岳温泉への走りは矢張り無謀でしたなぁ(笑)。しかも四十九歳で(笑)。ほとんど技術的な事は皆無という状態で、ただ走る事が出来るという状態でしたからなぁ。
富良野に先ず向かい、「北の国から」で一躍有名になった「麓郷ロクゴウ」へと目指しましたアッシ達でごぜぇましただ。その「麓郷」で、東京からツーリングに来ていた女性ライダーと知り合いになり、三人で「十勝岳温泉」へと向かったのでごぜぇます。まさかアッシにだけ悲劇が待ち受けているなんてぇ事をちっとも知らずに(笑)。


十勝岳温泉の目前てぇ所は、急勾配のカーブの多い個所でごぜぇましてなぁ、義弟のほうは、バイクの運転技術はまぁまぁでしたがアッシの方はてぇと、初心者もいい所でしてそんな急勾配のカーブの多い坂道を走る技術なんてぇものはこれっぽちも持ち合わせていねかったんで(笑)。




てぇ訳で、アッシ一人置いてけぼりを喰らいましてなぁ、あせる気持ちも有ったんでしょうかねぇ、途中の坂道でエンジンが止まっちまったんでごぜぇますだ。
坂道でござんしょ、アッシは内心、必死でブレーキを掛けながら短けぇ両足で踏ん張ったんでさぁ。その内、ちょっとの気の緩みで、とうとうコケちまったんでごぜぇます(笑)。俗に申します「立ちゴケ」てぇ奴でございましたなぁ。

頭をガーンとおもいっきりぶつけましたな。ヘルメットが無けりゃ一巻の最後でしたなぁ。それほど強烈でございましたなぁ(笑)。 右肩を強打していたんでございますが、無我夢中の時てぇのは恐ろしいもんで、そんな痛みはちっとも感じませんでしたなぁ。
そんな所へ、先に登ってしまっていた義弟が、あまりアッシが遅いので様子を見に戻ってきたんでごぜぇますだ。アッシのバイクを傍らに寄せておいて、義弟のバイクのうしろに乗っかって頂上の十勝岳温泉へ行ったアッシでごぜぇやした。
そういう訳でアッシだけ温泉に浸ることが出来なかったんでごぜぇますだ(笑)。帰路はアッシのバイクをふもとまで、その女の子と交互に乗ってどうにか、ふもとから自力で乗ることが出来ましたんでございますがね(笑)。

アッシのバイクのブレーキハンドルは、折れちまってわずか三センチくらいしか無かったでやんすなぁ。そんな状態で、ようよう旭川へ戻ったてぇ訳で。
帰宅してからは夕食も食べずにすぐ寝床に潜りましたなぁ。翌朝のことでごぜぇますだ。寝床から起き上がることが出来ねぇんでごぜぇます。あれにはさすがのアッシも驚きましたな。カミサンに手伝ってもらってようよう起き上がる事が出来ましたが、こりゃただ事じゃねえと感じまして、すぐ病院へ駆けつけたところ、なんと強打した右肩が骨折していたんでさぁ(笑)。




でも医者の云うことにゃ、この状態では、ほおっておいて自然に肉が固まり治るのを待つしかないと云われ、唖然としたアッシでごぜぇましただ(笑)。そんな為、会社は二週間も休みましたでやんすよ。
それからでしたなぁ~、本屋へ行って、バイクの運転に関する本を買って、真剣に勉強したアッシでごぜぇやした(笑)。 ちょうど、バイクの魅力がわかりかけてきた頃のことでごぜぇますだ。肩を怪我してから、一か月過ぎた頃の六月十二日にゃ、もうバイクに乗っていたアッシでございました。

七月にゃ、名寄から林道に入り、「ピアシリ林道」と言う有名な道北の林道へ挑戦したのでごぜぇますだ。ソロツーリングでごぜぇやしたが、今思うと怪我も治ったばかりだというのに良く一人で山の中を一人で走ったもんで、へぇ。

どちらかというてぇと、アッシはグループツーリングよりもソロツーリングのほうが好きでしたなぁ。大勢で走るのも楽しかったことは楽しかったんでございますが、自分のペースで走ることが出来ないことが多かったせいでしょうかなぁ、一人で風の吹くまま気の向くままに走る方が好んでいたアッシでしたなぁ。 




そろそろ涼しい秋風が肌に感じ始めた九月の四日、念願の「宗谷岬ツーリング」にチャレンジしたアッシでごぜぇましただ。この頃はかなりバイクの運転技術も上がり、へぇ、アッシもそれなりに本などで勉強した成果が出て来た頃でごぜぇやす。
お陰で自己流でやんしたが、随分コツがわやかるようになりまして結構上手くなっていたアッシでござんしたなぁ。自宅を出発したのが夜中の三時十五分でごぜぇましたんで。真っ暗闇の道路を走ったのはこの時が初めてでごぜぇやした。走って三十分もしないうちにゴーグルが、夜露で曇って参りましたなぁ。ジャケットも夜露に濡れ重く感じやした。

そんな中、一路、宗谷岬を目指して走りやしたんで。夜が白々と明けはじめたのはどの辺でしたかなぁ、忘れちまいましたが、完全に明けたのが、「音威子府オトイネップ」の駅で、そこで一時間ほど休息したのを覚えておりやす。

駅舎にゃ二人の学生さんがテントを張って寝ていやしたなぁ。予想外に長く休息しちまったので、それからは少し飛ばしましたなぁ。中頓別、浜頓別を経由してオホーツクの海風を感じたときはなんともいえぬ気持ちでごぜぇやしたぁ。

空はあいにくと、曇り空でありましたが、どうにか雨は避けられた感でごぜぇやしただ。ようよう目的地の「宗谷岬」に立ったのが、八時四十分でごぜぇやしたなぁ。感無量でしたなぁ。
はるか彼方に島影が・・・・。そうなんでございます、「樺太」が見えたのでごぜぇます。今でもその時の光景を、はっきり覚えているアッシでごぜぇやす。それから「ノシャップ岬」をおとづれ、その後は日本海側のオロロンラインを、「サロベツ原野」を左に、そして右に霊峰「利尻島」を望みながら一路、帰路を。

日帰りの強行軍のツーリングでごぜぇましたが、思い出に残るツーリングの一つになりましたのでごぜぇますだ。 アッシは、ツーリングした月日、コースなどをそのツーリングに行った際に、撮った写真を貼ったアルバムに「北海道地図」を描き、コース上に赤鉛筆でたどっておりやす。




この三年間で、北海道の東西南北の岬は制覇いたしやした。北海道の夏は短いので、ツーリングシーズンも限られておりやして、毎週の日曜の休日にゃ、天気が雨で無い限り、ツーリングにでかけていたアッシでごぜぇましただ。

このツーリングは、アルバムにその全ツーリングのコースなど一覧表にしてアルバムの裏に貼り付けているんでごぜぇますだ(笑)。  「宗谷岬」「襟裳岬」「納沙布岬」「霧多布岬」「地球岬」等々、全道くまなくツーリングいたしやしたが、心に残っているのは、「知床 カムイワッカの湯」「洞爺湖 函館ツーリング」「宗谷岬」「納沙布岬ツーリング」でございましたなぁ。



ライダーになってから、最も良かったのは、それまで旭川からほとんど出たことのなかったアッシが、バイクに乗ることによって、行動範囲がとても広くなったことでごぜぇましたなぁ。そして、車のドライブとはまた違った、バイク独特のあの「風を切る」、あの気分はとても車じゃ味わえないものでしたですなぁ。 

観光地へ「車」で行っても、他人に話し掛けれないものですが、「ライダー」同士であれば、それが気安く出来るのには驚きのアッシでしたでやんすなぁ。 初めて、バイクに乗って、わずか時速60キロしかスピードを出せなかったアッシが、120キロのスピードを出して乗るようになったんですからなぁ(笑)。

平成五年の秋から、平成十年までの短い年数のライダー生活でございましたが、あの「心筋梗塞」の病気にさえかからなければ、現在でもきっと「風」をきっていることでございましたでしょう(笑)。






つづく


夢のまた夢 ・ 十五部

2016年05月01日 11時38分55秒 | 夢のまた夢

☆バイクの夜明け☆


     




平成五年、この年からアッシの「バイク人生」が始ったのでごぜぇますだ。
カミサンの妹の亭主がこれまた、その頃バイクに凝っておりやして、アッシにも乗ってみろと強く勧めたのがきっかけでごぜぇましたなぁ。

なんと毎週の休日に、我が家に押しかけて来てはバイクの面白さ、楽しさを、そして終いにゃ、近くのバイク屋に連れて行く始末でごぜぇまして。
ええっ、おめぇさんはところでバイクの免許を持っていなさるんですって?へぇ、アッシが車の免許を取ったのが二十歳の時でごぜぇましたが、その頃は普通自動車免許を取得いたしますてぇと、自動的にバイクの免許も付いて来たんでごぜぇますだ。




ですから、今の時代のように、車の免許のほかにバイクの免許を取らなければならねぇ時代じゃなかったんでごぜぇます。良い時代でしたなぁ(笑)。 八月三十日、とうとうバイクを買っちまいましてね、へぇ。義弟の熱心さといううか、しつこさというか、とうとう根負けちまったと云ったほうがようござんすねぇ(笑)。

「アメリカン」というオンバイクの中古でござんしたなぁ。免許は持っているものの、運転は初めてでやんしてねぇ。若い頃は「スクーター」てぇもには乗ったことがあるんですがね(笑)。
なんとか発進と、止まることだけは義弟に伝授していただいたんですがね、後は独学てぇ奴でして(笑)。
とにもかくにも初心者なもんで、よく「立ちゴケ」をいたしやしたなぁ。アッシは力もねぇ方なもんで、倒したバイクを起こすのにゃ大変な力を要したんでごぜぇますだ(笑)。
そういう訳でして、一カ月でこの重いアメリカンを手放し、今度は軽いオフバイクの「セロー」を買ったてぇ訳で、へぇ。バイクに「オン」と「オフ」が有るてぇこともこの時、わかったアッシでごぜぇますだ(笑)。




旭川市内の道路は、まだまだ走る度胸がなく、よく近郊の「鷹栖」「江丹別」へ練習しに参りましたなぁ。そんな初心者のアッシが義弟と、「初ツーリング」へ富良野の十勝岳温泉へと向かったのでやんすが、温泉への登り道でエンジンが切れ、立ちゴケしてしまったんでごぜぇますだ。
肩を強打し、ブレーキハンドルは半分折れるし、もう肩の痛みで温泉どころじゃごぜぇませんでしなぁ(笑)。ようようにして戻ってきたんでごぜぇますが、翌日病院へ行くてぇと、強打した右肩が複雑骨折していやしたでやんすよ(笑)。


国道は、車の流れが大体七十キロくらいでやんしたが、アッシはなんと六十キロしか出せず、迷惑を掛けちまいましたなぁ。あと、10キロのスピードが出せなかったんでやんすよ(笑)。それが、1年後にゃ、もう百キロで走るようになったんですからなぁ(笑)。

【 藤本家一族旅行 】

こんな中、九月四日に、昨年に引き続いて旭岳温泉一泊藤本家一族旅行」がおこなわれたんでごぜぇますだ。ところが、運の悪い事に前日になって、祖母が急性肺炎になっちまいまして、森山病院に緊急入院されちまって参加できなかったんでごぜぇます。

しかも、当日、深夜は台風十三号が北海道に上陸し、夜中は風雨激しく、一時はどうなることやらと心配しやしたが、翌朝は台風一過の素晴らしい青空が々を迎えてくだせぇましたんで。祖母も大事に至らず無事に退院いたし、胸をなでおろしましたなぁ。 





また、この平成五年は、我が家で、アッシと息子二人の三人マージャンが始まったのを覚えておりやす。

息子達は、なんと、その頃流行していた「ゲーム機」で、マージャンを覚えていたんでごぜぇますだ。親父と一緒に遊んだという思い出づくりにと始めたこの「三人マージャン」、なんと平成八年頃までやっていたのでごぜぇます(笑)。  



【 長男・次男 旭川実業高校入学 】

平成六年は、長男坊の俊輔が高校受験という十五の歳でもありましたなぁ。成績はてぇと問われると、返す言葉がありません状態でしたなぁ(笑)。親が見ていても机に向かっている姿を見たことがなかったほどですからなぁ。
そんな訳で高校進学は、「公立」は最初から諦めておりやしたんで、へぇ。私立一本で勝負に出た長男坊でごぜぇましただ。お陰でどうにかその一本に合格出来たんでごぜぇます。 

いよいよアッシの息子たちも、「青春」のまっただ中へと入って行こうとしていた頃でごぜぇやしたなぁ。
北の大地にもようやく春の気配が感じられるようになってきた弥生の「別れの季節」から、卯月の「出会いの季節」へと季節は変わっていきやしたでやんすなぁ。




長男坊が、「旭川実業高校」へと入学したのでごぜぇますだ。三月二十二日、合格発表の日、アッシは心配で心配で勤務中、車を飛ばして実業高校の発表掲示板を見に行ったもんでござんす。親馬鹿だったんでやんすねぇ(笑)。

息子の受験番号をそこに見つけた時てぇのは、もうホッとするか安心するというか、無常の喜びを感じましたなぁ。自分の当時の若かりし頃を思い出しやしたなぁ。
旭川実業高校「建築学科」へ、入学いたしやしたのは四月九日でごぜぇましただ。何故,建築科を選んだかと申しますてぇと、アッシは内心、将来息子に「大工」の道へ進んで欲しかったからなんでぇ。
アッシは相変わらず、仕事柄休めず、カミサンだけが参列するいつもの入学式でございましたなぁ。へぇ、アッシはてぇと、息子たちの「入学式」「卒業式」にゃ一度も参列したことがねぇんでごぜぇますだ。

今のご時世じゃ、両親揃っての入学式、卒業式が多いようでごぜぇますがアッシの時代じゃ、両親揃っての参列てぇのは珍しい事でごぜぇましただ。時代が変わって行っているんでございますなぁ。
でも今、思えば「卒業式」てぇのには、一度出席してみたかったでやんすなぁ。アッシは卒業式で歌われる「蛍の光」「仰げば尊し」、これが好きでしたもんでね、へぇ。  

翌年の平成七年、今度は次男坊が、兄に続いて同じ「旭川実業高校」の「電子機械科」へ入学したのでごぜぇますだ。兄と同じ「科」じゃ、嫌だろうと思いましてなぁ(笑)。
よく、先生から「あの山本の弟か?」って聞かれたそうでごぜぇやす(笑)。それが、果たして良い方だったのか、悪い方だったのかはわかりやしませんがね(笑)。恐らく、後者の方だったことでしょう。 




「この息子達の「高校時代」の中で、忘れられないのが長男坊が、高校三年の秋、「学校を止めたい」と言い出したことでごぜぇますだ。それまで、二度の「停学処分」をくらっており、三度目の停学処分の時でごぜぇました。

もう半年で「卒業」だと言う時期に、正直、まいりましたなぁ。説得するのに、三日掛かりましたなぁ。中学時代からヤンキーぶっていた息子でしたが、自分の息子に限って、という世間一般の親の思いで、育て方の甘かったことがこの時ほど、悔やまれたことはありませんでしたなぁ。 

でも、なんとか、言い包めて三月の「卒業式」に出席させることが出来やしたんでごぜぇますだ。就職の方も、なんとか職に付くことが出来やした。
次男坊の方は、これといって、大きな問題も起すことなく、無事「卒業」することが出来やした。 
これで、一応二人とも、社会人として世間に巣立っていったと思って安心していたのでごぜぇますが、この思いがなんと、その後、いかに甘かったかということが、身に沁みて感じるようになるとは、さすがのアッシも想像出来なかったのでごぜぇますなぁ(笑)。 

子供てぇもんは、小さいうちが花で、大きくなるに連れて、心配の種が同じように大きくなっていくものだとは、こればかりはその経験者ではわからないもんでございましょうなぁ。

アッシが、学生時代を経て、周囲にそれほど心配を掛けた思いが少なかったせいもあり、社会に出た息子達を信用していたのでしょうねぇ。
今の時代は、「車」「携帯電話」と、アッシの時代にや、その必要性は全く無かった時代でしたからねぇ~。でも、すべてこれ、時代のせいに出来ねぇとアッシは思うんでごぜぇやすが。こうした時代でも、コツコツ真面目に生きていっている人が大勢居いらしゃるんですからねぇ。要は、本人の考え方ひとつなんじゃないかと思うんですがねぇ。

つづく