夢の中の逃走
暗闇の中を走っていた。
いつから走っているのか分からなかった。
どこを走っているのか、どこまで走り続けなければならないのか、それも分からなかった。
息が切れて苦しい。すぐにでも立ち止まりたかった。
しかし、何か得体の知れないものが後ろから執拗に迫ってきた。
それが何なのか、振り返ってみることができなかった。
暗くて足元が見えない。道の先も見えなかった。
どこへ向かって走っているのか、今、何時で、今日がいつなのかも分からなかった。
足が空回りして思ったように進まない。足がもつれて転んでしまいそうだった。
気ばかり焦り、追いつかれるのではないかと気が気でなかった。
冷たい汗が幾筋も額を流れた。いっそ転んで、なるようになれと思っても、次の瞬間、何が起こるか分からない恐ろしさに、身の毛がよだつほどだった。
足元が見えないのに不思議と道はまっすぐにどこまでも続いていた。
ふと、何も見えない暗闇の中で何かに足をとられた。
前に倒れこむ身体を支えようと足を前に出そうとしても、罠にかかった獲物のように足が動かなかった。
倒れる身体を支えようと手を前に出したくても、両手が縛られたように自由にならなかった。
頭から前のめりに崩れ落ちる。
そう観念して固く目を閉じ、顔を横にそむけて歯を食いしばった。
しかし、予想した衝撃はなく、ただ深い穴の中にすっぽり包まれるように落ち込んだみたいだった。
身動きがとれないので、そのまま息を殺して追って来るものを待った。
やがて、遠くから風の吹き過ぎるような音が聞こえてきた。
それが段々大きくなって、風の音ではなく大勢の人間が叫んでいる声だということが分かった。
声はますます大きくなっていった。無数の人間が死に物狂いで身体の奥底から発しているような声だった。
その声が外でしているのか、それとも自分の身体の中でしているのか分からなかった。
自分自身叫んでいたのかもしれない。走っている時より心臓が高鳴り張り裂けそうだった。
その声は大地を揺るがすような最高潮に達した後、潮が引くように遠のいて行った。
あとには深い闇と沈黙があるばかりだった。自分の心臓の鼓動だけが余韻のように響いていた。
どれくらい時間がたっただろう。いつの間にか眠っていたようだった。
目がさめると暗闇の奥に一筋の光が射していた。戸の隙間から居間の明かりが漏れているようだった。
いつの間にか家に帰って来ていたのだ。
深い安堵から大きく息を吐いて目を閉じた。
頭といわず手足といわず全身が熱っぽく、意識が朦朧としていた。
身体の芯で熱のかたまりが沸騰し、頭の中に過去のあらゆる時代の映像や音がこま切れにめまぐるしく入れ替わった。
白衣を着た人が鋭く光る金属製の器具を握って何かをしていた。耳元で金属の触れ合う音が高く響いた。
自分の胸から漏れる息が蒸気のように熱く湿っていた。意識の細い糸がもつれるように絡まった。
隙間の向こうで人の話し声がしたようだった。聞きなれたなつかしい家族の声だった。
しかし、聞こえるのは途切れ途切れのつぶやきのような声で、何を話しているのか分からなかった。
やがて、話し声が大きくなって、激しく言い争う声がしたと思うと、何かが壊れる音がした。食器やガラスの割れる音のようだった。
暗澹たる気持ちで隙間から向こうを覗くと、家族だと思った二人はまったく知らない他人だった。
自分がいつの間にか間違った場所に来てしまったことに気が付いた。
しかし、ここへ来た道も方法も分からないように、ここから出て行く道も方法も分からなかった。
どこへ行くという当てもなかった。
身体の熱はいつの間にかすっかり下がっていた。まるで冬の大地のように冷たく凍りついたようだった。
雨が静かに降っているようだった。いつから降っているのか分からなかった。
ほんのり白んだ闇の中で、雨は永遠に降り続いているように思われた。
夜が明けようとしているのか、それとも日が暮れようとしているのか分からなかった。
狭いところに押し込められたように身動きができず息苦しかった。
湿った土と枯葉のにおいがした。
時間が静かに地層のように積み重なっていった。
何か月たったのか、何年たったのか分からなかった。
長い年月が過ぎて、ふと明るい光が頭の上に射したので見上げると、からりと晴れた青空が天まで突き抜けるように広がっていた。 (了)