風の声

想いつくまま

「見える虚構」と「見えない虚構」

2022年01月27日 | 日記

どう生きるか、何のために生きるかは人生永遠のテーマ。

その見えない価値観に悩みもがくところに「ひと」のらしさがある。

私たちの見えている景色も、人間社会も、法やシステムや思想さえも「虚構」にすぎない。だから、生きる価値という「見えない虚構」はさらに高度なものということ。見えないものに価値を求めるのだから、とても幸せな知能ゲームだ。そんなことは「ひと」にしかできない。

「ひと」が「虚構」を求める高度な知能を手に入れたのは、他者への「思いやる心」という知性にある。

700万年前にチンパンジーから枝分かれした私たちの祖先。そのまま700万年暮らし続けるチンパンジーに較べ、驚くほどの進化と進歩を遂げた。その差を決定づけたのは他者を「思いやる心」だ。

その「思いやる心」が、愛する人を喜ばせようと火を扱い、道具を創り出し、思いを伝える言葉をあみだし、より伝えようと文字をも創作した。愛しい人の身をまもる服を、雨風をしのぐ家を造らせる。種を保全する出産では女性やファミリーが助け合い、一緒に子育てをするコミュニティも作った。

そんな数々のモノや技術、文明や文化をあみだした力は他者を「思いやる心」があったから。その心が「想像力」と「創造力」をはぐくみ脳を発達させ、今日のような文明社会を創り出した。

他者を「思いやる心」が、まだ見たことのない世界を「見えない虚構」として想像し実現してきたということ。価値観や政治、法律や道徳、社会性や文化性、教育や慣習、経済や社会システム、宗教といったものや、理想や夢や幸せ感もその「見えない虚構」ということになる。

「ひと」は一人では種の保全はできない。生きていけない。そんな運命にある「ひと」が本能的に身につけた能力、それが他者を「思いやる心」。その心がすぐれて進化したイマジネーションとクリエーションとなり、人間社会を完成させながら様々なモノを創り出してきた。

だが、その「見えない虚構」を実現してきた力は、他者を思いやることとは真逆の「虚構」も創り出してしまう。戦争や差別といったものがそれだ。先の世界大戦では8,000万人ともされる命の犠牲をはらった。戦争という名の殺し合いをした。戦争という「見えない虚構」は敵だけか人類を滅亡させてしまう力となってしまった。

戦争を引き起こしたのは「見えない虚構」。差別が戦争へと国家を突き動かした。生まれたところや皮膚や目の色、人種や民族、貧富、性別や身体の障がい、性指向自認の違い、そんなことを理由に差別する。その象徴的な戦争犯罪が大量殺戮のナチスのホロコーストだ。差別が人殺しの原動力になった。まさに差別という「虚構」が人類の悲劇となってしまった。

見えない「虚構」は創造も破壊もつくりだす。希望も絶望も与える。幸福も不幸も感じさせるということだ。

だとすると「ひと」として生きるのなら、どっちの「虚構」を描くかだ。

破壊された世界より創造する世界を。絶望のなかで生きるより希望を抱いて生きることを。不幸を嘆く日々より幸福のなかで微笑む日々を。そう生きたいと、私は願う。

「見えない虚構」に両義性があるとすれば、どっちを選ぶかは、それぞれの勝手ということ。戦争好きの面々もいれば、平和を好む「ひと」もいる。差別がないと生きていけない醜い人もいれば、差別大嫌いという素敵な「ひと」もいる。どっちを選ぶかはそのひとの生き方。

身近な「虚構」の典型に「世間体」がある。だが、世間体という人やモノを見たことがない。世間体が服を着て駅前を歩いていたということもない。なのに、この世間体は結構な威力で人々にまとわりつく。悩ませる。そのせいで時にひどい差別まで発動させる。この国の「見えない虚構」にダマされる光景のひとつだ。

ダマす犯人は世間体じゃない。自分で存在しない世間体という「虚構」を作ってるだけ。犯人は自分自身。

この国では、そんな見えない「虚構」が心の隅っこにこびりついている。コロナ禍で「同調圧力」が法律よりも機能したのはそのせいだ。まるで日本人のDNAにプログラムされているかのように。

社会的なサークルや団体もそうだ。一定の人が「価値」を認めるから存在する。いわば、幼児の「ごっこ遊び」と一緒。役割や役職を作って呼び合い「虚構」の世界で活動しているにすぎない。だから、ひとたびみんながサークルや団体の存在する「価値」を否定すれば、一瞬にして消えてなくなり、ごっこ遊びは終わる。

経済の世界でも、ドルや円などの通貨もみんなが「価値」を共有するから通用する。みんなが価値を否定した瞬間に通貨として消える。ビットコインなどの仮想通貨はその典型だ。まさに「見えない虚構」によって成り立っている。金やダイヤモンドも一緒。「虚構」の世界で存在する。

どうやら「見えない虚構」は、みんなが「価値」を共有したら存続して機能するようだ。

だとしたら、みんながその価値を一斉に否定すれば、アッという間に、一瞬にして差別や戦争は消去できるということ。

これが、「見えない虚構」の入り口を一歩踏み入れて見えてきた。

ハッキリしてるのは、「見ない虚構」の装置は「ひと」だけが手にした能力ということ。その傑作のひとつに「人権」がある。生まれながらに天から授かったとされる人権。とても見事な最高傑作品の「虚構」だ。

そして、ここからがちょっと難解になる。

「見える虚構」さえも、実はすべて「まぼろし」にすぎない。「見える虚構」というのは身の回りに実在するモノすべてのこと。家や車やビルも工場も核兵器も、そして山や川、この星や宇宙のモノすべて。

「いやいや物質として存在しているのにそれはない」とみんな思うだろう。だが、今、ここに見えているモノも、息絶えたら一瞬にして、その人には見えなくなる。まさにこの世は一瞬にして「まぼろし」になる。見えている実在のモノは生きている限りでの「見える虚構」というわけだ。

「見える虚構」さえも「まぼろし」だとするのは、それほど、「ひと」の命ははかなく、この星の生命や人類の歴史に較べれば、まばたきほどもない刹那。あっという間の一瞬の人生だということ。

それなら、人殺しの戦争などという虚構にうつつを抜かしていないで、生きろ。しょうもない差別の虚構などにビクついたり汲々としてないで、生きろ。一瞬の刹那のまぼろしを生きているのなら、くだらない勿体ない生き方をするな。
今の悩みも「まぼろし」のこの世のこと。1年も過ぎれば笑える、ということだ。

そんな、「見える虚構もまぼろし」にすぎないという、入り口のあたりが見えてきた。












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