カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

カトリックは内村鑑三をどうみるのか ー なぜお札の肖像にはなれないのか

2025-02-25 11:15:23 | 教会

 わたしの所属教会の信徒の集まりである「アカシアの会」(1)で、M氏の報告があった。
テーマは「内村鑑三について」というものだった。長老のカトリック信徒が内村鑑三を論じるというのでわたしは是非お話を聞きたいと思った。テーマに惹かれてか多くの方が集まった。天皇誕生日の振替休日で教皇様の病状が案じられる中、15名もの方が集まった。

 講演としては、内村鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』(1895)(2)の内容紹介が中心だった。M氏が現役時代に作られたモデレーター・プログラムを配布されて、説明を加えるという形の報告だった。
 この本には内村の1888年のアメリカからの帰国までが描かれており、彼の数度にわたる「回心」の経緯が記されている。M氏は丁寧に内村の前半生を説明された。不敬事件など内村鑑三のその後の人生については触れられなかった(4)。

 M氏は、内村鑑三は「尊敬に値する人」だが、彼の主張や行動を全面的に肯定しているわけでは無いと言っておられた。とはいえ強く私淑している印象を受けた。第二バチカン公会議以前の日本のカトリックの世界を知る者として、内村鑑三に学ぶことが多かったのであろう。M氏によるとカトリック信徒で内村鑑三を論じる人は多くは無いという(5)。

 質疑応答は多岐にわたる論点を巡ってなされた。例えば、

①内村鑑三は代表的日本人として「西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮」の5人を挙げているがそれはなぜか。内村は愛国心ナショナリズムをどうみていたのか。
②カトリックの若松栄輔氏の『内村鑑三 ー 悲しみの使徒』をどう評価するか。つまり、井上洋治師や遠藤周作氏が強調した母性重視の霊性論が内村鑑三に本当にあったのか。
③キリスト教の中核観念は「愛」ではなく「謙遜」だという内村鑑三の主張をどう評価するか。かれは儒教や仏教をどうみていたのか。
無教会主義とはなにか。教会を持たない無いキリスト教があり得るのか。教会の階統制に抵抗したのか。
⑤内村鑑三の思想は「上州人」(群馬県人)の気質を反映しているというがどういうことか。内村の「行動よりは内省」は気質なのか。

 などなど質問はつきなかった。どれも簡単な答えがある質問ではないが、M氏が穏やかに応答しておられたのが印象的だった。別の機会に講演の続きを期待して閉会した。

 最後に教皇様のご回復を祈って皆でお祈りをした。以前の「主祷文」と「めでたし」を使った。昔の文語体のお祈りだ。この世代の人々にはこちらの方がまだなじみがあるのだろう(6)。

【配付資料の表紙】


1 当教会の「アカシアの会」という名称の信徒の集まりは長い歴史を持つようだ。高齢の信徒の集まりなので神父様は出席されないようだ。主に婦人会中心に運営されていると聞いているが、実際には男性信徒も出席しているようだ。基本は相互の交流で、毎回どなたかが話題を提供しておられるようだ。
2 現在の紙幣の肖像は、渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎に変わった。福沢諭吉の時代が終わったことが印象的だ。だが内村鑑三は選ばれなかった。
     (1984)    (2004)   (2024)
・1万円:福沢諭吉 →  福沢諭吉 → 渋沢栄一
・5千円:新渡戸稲造 → 樋口一葉 → 津田梅子
・1千円:夏目漱石 →  野口英世 → 北里柴三郎

3 『余は如何にして基督信徒となりし乎』は1895年に『How I Became a Christian』のタイトルでまず英語で出版された。全体の日本語訳は内村の没後(1930)に出ており、以後数種類の翻訳が刊行されているという。岩波文庫本がよく読まれているというが、河野純治訳『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』もわかりやすい訳本として今回紹介された。
4 内村鑑三と言えば、不敬事件に代表される反戦論的な預言者という印象が強いが、「二つのJ」論、「無教会」派論など神学的にも教会論的にも重要な論点を提起していたという。
5 M氏は若松栄輔氏に言及しておられた。
6 【カトリック教会で2000年2月15日まで使用していた主の祈り(文語体の主祷文) 現在は公式には使用されていない】

天にましますわれらの父よ、
願わくは御名の尊まれんことを、
御国の来たらんことを、
御旨の天に行わるる如く
地にも行われんことを。
われらの日用の糧を
今日われらに与え給え。
われらが人に赦す如く、
われらの罪を赦し給え。
われらを試みに引き給わざれ、
われらを悪より救い給え。
アーメン

【カトリック教会が現在使っている口語訳の主の祈り】

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
アーメン

 「主の祈り」と「アヴェ・マリアの祈り」の訳文については現在でも議論が絶えないという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「弱さ」の神学 ー 待降節黙想会の講話

2024-12-09 15:56:14 | 神学


 当教会で待降節の黙想会があった。ごミサの前に教会で開かれるということで、保久要師の講話が中心だった(1)。
 講話のタイトルは「クリスマス~弱さの中の希望」というもので、その内容は興味深いものであった。「弱さ」に関する保久師のお考えを整理されたもののようだ。師は神学という言葉を使ってはおられないが、弱さをテーマにした議論は教会内では珍しいので、ここに印象を書き残しておきたい。

 黙想のテーマは「神様の救いの計画」というもので、師は5ページにわたる長文のレジュメを配られた。以下、骨子だけをまとめてみたい。

【レジュメ】

 

 

 師の主張は簡潔だった。「なぜ救い主は「弱い」存在としてこられたのか?
この問いに答えるために師はつぎのように話を始められた。

①第一の創造では、神はアダムとイブを作られた : アダムとイブは 「大人の姿」として創造された。人間は「幼子」として創造されたのでは無い。

 神は恵みとしてアダムとイブを贈られた。「強い存在」としてではなく、「恵み」として贈られた。だが知恵の実を食べてしまい、自分が強い存在、神になろうとした。
 イスラエルは強さを求めて、強さがすべてという社会を作ってしまった。だが、圧政の中、「いつか、ダビデやソロモンのような偉大が王が現れると思い、救い主を待望」した。

* 原罪(楽園からの追放)、イスラエルの度重なる罪、戦争と圧政、搾取 = 強者が支配する社会

②第二のアダムであるキリストは「幼子」として到来した。大人として突如現れたのでは無い

 ここには、強さを求めるのでは無く、弱さを大切にする社会をつくるというメッセージが込められている。これが、幼子イエスが送られた意味であり、クリスマスの意味である。
 
* 幼子は、無力・無防備・弱き者で、人の助けが必要である = 「弱さ」を中心とした社会に!

 師は、紀元前11世紀のイスラエルから説きおこされ、イエスの到来まで詳しくお話しされた。このような前置きの後、師は、メインテーマである「弱さ」とは何かをつぎのように説明された。

【講話】

 

 


 具体的には、
①村上春樹『壁と卵」(エルサレム賞受賞スピーチ 文藝春秋2009年4月号)
②教皇フランシスコ 「東京カテドラルでの若者との対話」(2019・11・25)
③高橋源一郎・辻信一『弱さの思想 たそがれを抱きしめる』(2014 大月書店)

 の3冊を取り上げ、おのおののなかで「弱さ」がどのように説明されているかを詳しく紹介された。

 ①では、「政治的正しさ」(Political Correctness)の欺瞞性が指摘された。「わたしは弱い者の味方である。弱い者は正しいからだ」という言説も欺瞞的だ。「弱い者は正しい」という言説は広く受け入れられている。では村上春樹も左翼なのか。師は、ラベリングよりも、村上春樹が人間を蝕む「本質的な弱さ」を「物語」を通して描いていると述べられた。

 ②では、教皇フランシスコが言いたかったのは、「人間はそもそも弱い存在で、それを思い起こさせるために神は人となった」ということではなかったか。

 ③では、社会的弱者(精神障害者・身体障害者・介護を必要とする老人・難病にかかっている人などなど)の「弱さ」のなかに新しい社会の可能性がある。効率的な社会・均質的な社会・弱さを排除し、強さと競争を市場原理とする社会は、本質的に脆さを抱えている。

 最後に師は、ご自分の主張をつぎのように整理された。

①弱さは周りを変えていく。弱さにこそ力がある
②弱さを中心として共同体はみんなが幸せになれる
③弱さはいいもんだ! 弱さの中に希望=救いがある!

 このように文字化してしまうとなにかきれい事を仰っていたようにしか聞こえないが、師のお人柄のせいか、違和感の無い流れのお話であった(2)。師は最後にフランシスコ教皇様のつぎのような言葉で締めくくられた。

 「よくいう、『生きている限り希望はある』は正しくありません。言うならばその逆で、いのちを生かし続け、守り、世話し、育むものが希望です」(『キリスト者の希望 教皇講話集』ペテロ文庫)

 ということで、クリスマス前の黙想会としてはかなり難解なテーマだったという印象がある。「正義は弱者にある」は本当なのか(3)。

注 
1 黙想会にはいろいろな形があるようだが、今回は講話の後にごミサという流れだった。つまり、ミサ中のお説教も講話につながる話だった。福音朗読はルカ3・1~6で洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼の話だが、お説教はイザヤ書の「荒れ野」についてのお話だった。荒れ野とか荒野とか言われても多様な森林帯を持つ日本ではイメージしにくいが、砂漠とでも考えておけば良さそうだ。
2 師は教区では事務局での仕事をずっとしてこられ、司教様の信頼も厚いという話を知人から聞いた。小教区司祭になったのは今回が初めてだと自己紹介されていた。小説も書いておられるようで、文学に造詣が深い印象を持った。
3 競争社会に生きているサラリーマンや学生にはあまり説得力の無い主張ですね、と師自身も講話の中で認めておられた。では、キリストに倣って生きるとはどういうことなのか。わたしは今、ヨゼフ・ラッチンガー(教皇ベネディクト16世)の『ナザレのイエス』(2007)と、ハンス・キュンク『イエス』(2012)を比較しながら読んでいる。二人が描くイエスの姿の違いに驚くというより、「キリスト者である」ということ、「キリストに倣って生きる」ということについて、二人の理解の違いに驚いている。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒップホップとキリスト教 ー 孫のダンス発表会

2024-11-05 13:16:41 | Weblog


 孫二人が通っているダンス教室の発表会があり、久しぶりに観てきた。ヒップホップなのだが踊り手は幼稚園生から70歳代までいたようだ。
 オリンピック種目にもなったブレイキン(ブレイクダンス)とヒップホップがどう違うのか、見た目ではわからなかった。どうもダンスとしてはモダンダンスとは区別されるコンテンポラリーダンスの一つらしいが、スポーツでもないし舞踏でもなくて「文化」なのだという。よくわからない世界だが孫たちは力一杯踊って楽しそうだった。

 いつ頃生まれた踊りなのかわからないが(1)、我々が生まれ育った時代にはなかったものだ。大音響なので年寄りにはつらいが、お孫さん応援に来ている高齢者も結構おられた。2時間半の演技は長かったが、いろいろな世界大会もあるようで、ダンス教室はビジネスとしても拡大中らしい。

 ヒップホップは文化だというが、もともとはストリートダンスらしく、そういう意味では黒人文化なのだろう。ゴスペルブルースの混合(聖と俗の混合)した文化だというが、日本のヒップホップに宗教性は一切ない(2)。ヒップホップがキリスト教を背景にしていることは日本では関係ないようだ。ただ、「型にとらわれず」に、踊りと音楽と映像を楽しむものらしい。特にバトンを使ったダンスは興味深かった。バトンがヒップホップとどういう関係があるのかは知らないが、別のジャンルのダンスなのかもしれない。
 大音響に疲れたが、孫たちが、現代の子供たちが、住む世界の一部を垣間見れて楽しい時間だった。

【ヒップホップ】

 



1 wikipedia の説明では1970年代とか1980年代とか書いてあるが、時代よりは生まれた場所がアメリカだという事に興味を引かれる。
2 小学生・中学生の孫娘はカトリックの洗礼を受けてはいるが、ヒップホップがキリスト教を背景にしているとは思ってもみたことがないだろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「死者の日」のミサ ー死去から帰天へ

2024-11-03 16:07:04 | 教会


 11月2日(土曜日)の「死者の日」のミサにでた。主日のミサと変わらないくらいの人数の方がおられた。
 当教会では、昨年11月からこの10月までに帰天された方のお名前のリストが配布される。今回は23名の方の霊名があった。コロナ禍後とはいえ多くの方が帰天されたということだ(1)。

 死者の日は昨日の「諸聖人の日」の翌日と定められているので(2)、どこの国でもお墓参りの時期だ(3)。日本の仏教で言えばお盆の時期ということになる(4)。

 神父様もお説教で死者を追悼することの意味を丁寧の説明されていた。
葬儀や追悼というと「かみともにいまして」を思い出す。「また会う日まで」と覚えている人が多いという(5)。

【死者の日のミサ】



1 帰天とは死去のことを指すカトリックでの用語である。プロテスタントでは召天(昇天ではない)と呼ぶことが多いという。ちなみに聖マリアのみは、帰天ではなく、被昇天と呼ぶ。
 用語で言えば、カトリックでは納骨を埋葬と呼ぶことが多い。たとえば、納骨式というよりは埋葬式と呼ぶことが多い。とはいえ、カトリックの共同墓地には墓地以外に納骨堂もあるが、これも昔からの言い回しがそのまま残っているのであろう。(現在の日本では当然だが土葬は許されない)。
2 諸聖人の日(All Saints Day)はプロテスタントでは万聖節(All  Soul's Day)と呼ぶようだ。日本ではハロウィーンの時期といった方がわかりやすいようだ。
3 日本のような非キリスト教国では教会の共同墓地はどの教会での土地不足その他の理由で数が少ないようだ。つまりどの小教区(教会)も自分たちだけの共同墓地を持っているわけではないようだ。複数の小教区が一つの墓地を共有するという形が多いようだ。イグナチオ教会のクリプタは例外的なケースだろう。したがって、一般の霊園(公営・民営)にお墓を持つ方も増えているという。ちなみに、教会の共同墓地の維持費は寺院墓地のそれと比べると破格に安く、一般の霊園のそれよりも安いと言われる。おそらく納骨堂なら年間数千円の範囲ではないか。
4 お盆が仏教固有のの儀式といえるかどうかわからないが、日本では祖先崇拝の儀式として定着しているとはいえるだろう。
5 この聖歌は必ずしも葬儀のためにつかられた歌ではないそうだが、教会では「お葬式の歌」として歌われる。納骨式ではかならず歌われるようだ。歌詞だけを見てみよう。


1、神ともにいまして ゆく道をまもり
あめのみ糧もて ちからを与えませ
また会う日まで また会う日まで
かみのまもり 汝が身を離れざれ
2、荒野をゆくときも あらし吹くときも
ゆくてをしめして たえずみちびきませ
また会う日まで また会う日まで
かみのまもり 汝が身を離れざれ
3、御門に入る日まで いつくしみひろき
みつばさのかげに たえずはぐくみませ
また会う日まで また会う日まで
かみのまもり 汝が身を離れざれ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「躓かせる」とはどういうことか

2024-09-29 22:10:22 | 神学


 今日の御ミサは主任司祭が出張不在のため、前前任の主任司祭のH神父様が司式された。人柄の良さで人望があったH師の久しぶりのミサということで多くの方が集まった。お聖堂が信徒であふれたのはコロナ禍以来初めてだったと思う。

 今日は年間第26主日で「世界難民移住移動車の日」ということで、福音朗読はマルコ9:38~48だった。この章ではイエスが自分の受難を予告する場面が読まれるのだが、この箇所では「誘惑の警告」をしている。地獄の説明などおどろおどろしい表現があるのでのであまり読んでみたくなる箇所ではない。ここの42節はこのように始まる。

「わたしを信じるこれらの小さな者のひとりをつまづかせる者は大きな石臼を首にかけられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」

 ここで「つまづかせる」という言葉が出てくる。H師は今日のお説教でこの言葉の意味や用法、使い方について話された。興味深いお説教だったので少し考えてみた(1)。

 神父様が言われるように、「つまづく」ということばは我々は日常会話ではほとんど使うことがない。だが、「聖書と典礼」では「新共同訳聖書」からこの文言を引用してくる。ちなみに「協会共同訳聖書」でもおなじ訳語がつかわれている。では、つまづくとはどういう意味なのだろう。

 日常用語でいえば、「広辞苑」は二つの用法を挙げている。①けつまづくという意味で、なにか障害物に足先を蹴り当てる(段差でつまづく) ②中途で失敗する(経営につまづく)。つまり宗教的な意味や用法は指摘していない

 宗教的な意味では、例えばキリスト教では、「信仰上の理解を妨げるもの」と説明されている(2)。例として、救い主が人間のかたちをとって現れたこと(マタイ11:6)、神の子の十字架の死が躓きになる(Ⅰコリ1:23)。
 『岩波キリスト教辞典』(2008)では、躓きとは人を転倒させる障害物をさすが、転じて、失敗や過失の原因、神が民に敵対して与える苦難、イエスが期待されたメシア像を裏切ったため人々が信ずることができないこと、を指すと説明している。さらに、「倫理的には、隣人にとって傷害となる言葉や行為」のことと説明している。あまりはっきりしないが、教会内での用法はこちらの説明に近い印象がある。

 問題は訳語だ。「つまずかせる者」という訳語は聖書によって異なる。バルバロ訳では、「小さな人の一人にでも罪を犯させる者」とある(3)フランシスコ会訳は「つまづかせる人」である。新共同訳、協会共同訳でも「つまづかせる」だ。
 H師は英訳では「whoever causes one of these little ones who believe in me to sin」とあり(4)、要は罪を犯すよう誘惑する者・事を意味するようだと説明された。もっともな説明だった。
 でも、なぜ「つまづかせる」などという訳語があえて選ばれているのか。他の言語ではどのように訳されているのか知りたいところだ(5)。

【年間第26主日】

 


1 H師のお説教は以前と同じくわかりやすいものだった。わかりやすく解説するというのは難しいことだが、師は今日の朗読箇所を「我々の信仰生活が不完全なままでもよいのではないか」という趣旨で説明された。もちろんイエスは「完全を求めよ」と繰り返し説いており、完全を求めねばならないが、それでも自分の不完全さを認めてもよいのではないか、と言われた。聞き慣れた「H節」の連発で久しぶりに痛快なお話であった。
2 『聖書辞典』(新教出版社、2007,291頁)
3 バルバロ訳の注では、つまづきについて、「有力な古写本にはなく、書入れがどうか不明である」とある。
4 この訳文は、The Holy Bible English Standard Version, 2014 のもの。
5 『文語訳新約聖書』(岩波文庫)では「躓かする者」とある。聖書の翻訳には聖書学者だけではなく、文学者、言語学者、芸術家など多くの分野の人が関わっているという。「つまづく」という訳語は広く受け入れられているようだ。とはいえ、わたしにはその宗教的意味合いは現在は薄れてきているような印象がある。信仰の障害になるという意味でつまづくという言葉は使われる機会は減ってきているのではないだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする