Ⅵ 宗教的多元主義への教会からの警告 ー 教皇庁教理省宣言
宗教的多元主義に対する教会の立場を明らかにした宣言がある。2000年9月5日付でバチカンの教理省が発表した36ページの文書だ。教理省長官ヨーゼフ・ランッチンガー枢機卿(現名誉教皇ベネディクト16世)と秘書タルシシオ・ベルトーネ大司教が署名したものである(1)。
内容は、宗教的多元主義を論ずるカトリックの神学者たちへの警告である。この警告は宣言という形をとっている。宣言(Declaratio)は一般に教会の「姿勢」を表明するもので、憲章や教令よりも軽いと言われる。だが、この宣言は神学者むけで一般信徒向けではないので、かなり厳しい表現が使われている。
1 目次
教皇庁教理省 『宣言 主イエス ー イエス・キリストと教会の救いの唯一性と救いの普遍性について』
導入
1章 イエス・キリストの啓示の十全性と決定性
2章 救いの業における受肉したみ言葉と聖霊
3章 イエス・キリストの救いの秘儀の唯一性と普遍性
4章 教会の唯一性と一致
5章 教会:神の国とキリストの統治
6章 救済の関わりにおける教会と他の宗教
結び
Dominus Jesus 「宣言 主イエス」
2 要点
内容を簡単に整理してみよう。
①カトリック神学者の中に、すべての宗教は同等であると論ずる相対主義者がいる。真理に対する相対主義的態度、理性のみに頼る主観主義、折衷主義、教会の伝統と教えから外れた聖書解釈をする傾向が見られる。教理省はこの宣言によって介入する。
②イエス・キリストによる救いは十全で絶対である。
③イエス・キリストによる救いは唯一性と普遍性を有している
④イエスは教会によってその業を継承している。教会の唯一性:イエス・キリストによって建てられた教会とカトリック教会との間には歴史的継続性がある。
⑤キリストだけが救いの仲介者である。キリストは教会の中に現存する。全人類がキリストにおいて救われる可能性を有する。
3 宣言の論点と性格
①この文書は、カトリック教会内、特に神学者のためのカテキズムである
②この文書は、他宗教の信徒を相手にしているわけではない
③この文書は、カトリック信仰の主張であり、教導権によって解釈された教会の伝統的信仰を表す
④諸宗教対話にかかわる人々の中には、諸宗教の共通点だけを強調し、異なる点に目をつぶる「誤った対話の概念」に支配されている人々がいる。真の対話とは、相手を尊重しながら、自分の信仰をはっきり相手に伝えることである
4 反応と課題
①この宣言は、カトリック以外の人々からは、エキュメニカル運動、諸宗教間対話の視点からは,
独断的主張とみられ、彼らに不快感を与える結果となった。キリストについての「唯一・普遍・絶対」という用語の強調、教会に関する「唯一・普遍」という用語の強調への反感が起こり、否定的反応が生じた。
②しかしこの文書はカトリック教会内の「内向きの」文書で、カトリック外のためのものではない
③内容は純粋な信仰を表明したもので、それ自体問題はないが、伝える方法が適切であったかどうか。語調に問題がある。もっと謙虚な表現を使うべきではなかったか。教皇庁キリスト教一致推進協議会のワルター・カスパー枢機卿は「宣言に含まれる諸原則には同意するが、必要な感性に欠けている」と語った。
Ⅶ 結び
諸宗教の神学は21世紀における最大の神学のテーマと言われる。確かに大きな難しいテーマであり、明快な結論の出しにくい問題であろう。
1 カトリック信仰の基本的立場
①創造主である神の愛はすべての被造物に及ぶ。すなわち神の救いは普遍的であり、全人類がその救いの対象である。
②神の全人類に対する救いは、御子イエス・キリストを通して行われる。すなわちイエス・キリストは神と人類との唯一の仲介者である。イエス・キリストの歴史的一回性・絶対性・普遍性。
③キリストの救いは自ら創設された教会を通してなされる。キリストの教会はカトリック教会の中に存在する(2)。
このような信仰箇条からはともすれば排他的な傾向が導かれがちである(3)。
2 現代世界の状況
古代・中世はいざ知らず、グローバル化が進んだ現代にあって、世界には多くの民族・文化伝統と宗教の存在が認識されている。いくつかの高等宗教も存在する。
キリスト教は時間的・空間的に全世界をカバーしているわけではない。現代世界のキリスト教徒の比率を考えても、一部のプロテスタントの主張するように、排他主義に固執することには無理がある。だからこそカトリック教会は第二バチカン公会議で他宗教における救いの可能性を認めたのである。
しかしながら、他宗教を認めるといっても、宗教的無差別主義、相対主義をとることは妥当ではない。
3 カトリック教会の現在の立場
カトリックの信仰箇条を保持しつつ他宗教を認めるには、結局、宗教的包括主義をとらざるを得ない。包括主義は自己中心的であるとか、形を変えた排他主義であるなどの批判があっても、カトリック教会が包括主義をとる所以である。
4 宣教の問題
他宗教を認めるのであれば宣教は無意味だという意見がある。しかし、他宗教を尊重しつつ、対話の重要性が叫ばれている今日、自己の信仰内容を確信を持って対話の中で相手に表明することが重要である。決して妥協することなく、カトリックの信仰を告白することが宣教だと考えられる(4)。
注
1 逆に言えば、教皇(ヨハネ・パウロ2世)の署名はない。文書は、カトリック中央協議会の「諸文書:教理省」の中に納められている。https://www.cbcj.catholic.jp/category/document/docroma/doctrine/
翻訳は2006年に書籍として販売されている。
2 長い検討の後、「キリストの教会はカトリック教会である」とは断定せず、「の中にある」という表現に修正・変更されたようだ。エキュメニズムの影響であろう。
3 これは論者の主張であり、教会が言っているわけではない。
4 この辺の文言のトーンは、信徒の視点からなされているというよりは、司祭が信徒に与えるお説教の一部のように聞こえる。ちなみに小笠原優師は「教会が諸宗教という場合、原則的に伝統的宗教を指しているのです。長い歴史を持ち、それぞれの時代にあって人々に生きる勇気と希望を与え続け、深い霊性を磨き上げてきた宗教ということです」と述べている(『信仰の神秘』2020 358頁)。
つまり日本でいえば、新興宗教は「他宗教」のカテゴリーには含まれないが、仏教や神道について学ぶことは大事だということを言っている。これは「教会の土着化」の問題につらなるもので、「日本文化との一致」をどこまで、どのように実現するかという問題になる。具体的にはトリエント典礼の改革の範囲と内容ということになる。たとえば、「洗礼を受けたら家の位牌はどうしよう」「仏教の法事に参加しても良いのか」「町内会による神社への寄付金を払っても良いのか」など個別的・具体的問いへの回答は一般論では済まない。司祭や教会のガイドブックなどに頼ることになる(『祖先と死者についてのカトリック信者の手引き』カトリック中央協議会)。諸宗教の神学の射程距離は長い。