カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

蔵書整理で廃棄処分のカール・ラーナーとハンス・キュンク

2023-08-30 18:31:09 | 神学


 先日教会の図書室で本棚を覗いていたら驚くべき光景に出くわした。
私どもの教会の図書室は図書室といえるほどの独立した部屋ではなく、集会室の壁の一部に本棚が数本置いてあるだけである。


 とはいえ、この書架には、昔の聖書、カトリック大辞典、資料集、製本された過去の月報、他教会からの会報など重要なものがきちんと整理保存されている。図書室をどの程度充実させるかはその時の主任司祭や教会委員会の意向によって変わるので、時代の変化を知ることもできる。

 今回、「蔵書を整理するので不要な本を処分します。ご入用の方はお持ち帰りください」との掲示とともに段ボール箱に数十冊の本が放り込まれていた。何気なく覗いてみるとそこにはなんと、「キリスト教とは何か」(カール・ラーナー)、「公会議に現れた教会」(ハンス・キュンク)が無造作に置かれていた。前者は(邦訳)は1981年、後者は1966年なので、あまりにも古いということで処分の対象となったのであろう。

 それにしてもラーナーの「キリスト教とは何か」はラーナーの晩年に書かれおそらく代表作といってよい著作だろう。値段が高くて私は手が出なかった書物だ(1994年に新版がでている)。後者はパンフレット風だが第二バチカン公会議の立役者キュンクの教会論だ。私は涙を流しながら喜んでいただいてきた(また返すつもりなので借りてきたと言うべきか)。

 ラーナーとキュンクが選ばれていたのは偶然なのだろうか。キュンクは一昨年訃報が伝えられたばかりだ。ラーナーは現在の日本のカトリック神学者のなかで最も影響力のある神学者だろう。『神学ダイジェスト』(1)では繰り返し特集が組まれており、正平協よりの司祭からは偶像視されているように見える。
 ラーナーとキュンク。両者の比較は専門家たちがいろいろやっているようなので、私も学んでいきたいものだ。ラーナーの「匿名のキリスト者」論、キュンクの「下からのキリスト教」論、ラーナーの超越主義に基づく普遍主義説、キュンクの多様性説に戻づく教会改革論、というような言葉が脳裏に浮かんでくる。二人とも現代の混迷するカトリック教会が将来進むべき道をそれぞれ示しているようだ。

 キリストを知らないで死んだ人も救われるのですか。教皇は不可謬だと聞きますが本当ですか。どうして女性は司祭になれないのですか。死んだらお寺のお墓に入ってもいいのですか・・・などなどごく普通の質問への答えは、ほとんど『カトリック教会の諸宗教対話の手引き――実践Q&A』(2)に記されているが、その神学的な意味はラーナーやキュンクにさかのぼらなければよく理解できない気がする。

 蔵書整理でラーナーとキュンクが廃棄処分される時代がきている。日本社会の分裂を反映するかのようにカトリック教会にも分裂の兆しが訪れているのかもしれない(3)。教会の一致を、教会内の一致を、これからも辛抱強く祈っていこう。

【初版】

 

 


1 上智大学神学会誌。現在は年2回刊行されているようで、著名な外国神学者の論文を翻訳紹介している。編集長は光延一郎師。イエズス会で、元上智大学神学部長。正平協の秘書だという。

2 日本カトリック司教協議会 2009

3 キュンク風に言えば、土着派対ローマ派、ラテンミサ派対公会議派、リベラル派対保守派、正平教派対信仰派、などなど教会の分裂の線はいろいろ引くことができるだろう。しかもそれらの分裂は普通の 保守/革新、伝統/近代、右/左というイデオロギー軸できれいに線引きできない。例えば女性司祭は反対だが護憲一本やりという組み合わせもあるようだ。
 それにしてもラーナーの『キリスト教とは何か』は難しい。「現代カトリック神学基礎論」とサブタイトルがついているが、これはもともと講義録のようだ。原題は Grundkurs des Glaubens:Einfuhrung in den Begriff des Christentums 1976 。キリスト教入門という意味なのだろうが、入門書ではない。ただ。論述の仕方は、神論・人間論・原罪論・救済論・キリスト論・教会論・終末論とオーソドックスな議論の進め方(章立て)となっている。

 

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やられたらやり返せ ー 「僕たちの哲学教室」を観る

2023-08-26 20:40:16 | 映画


 暑い中を映画を見に出かけた。コロナ禍で映画館は避けていたので久しぶりだった。
この映画の原題は Young Plato だという。「少年プラトン」とか「子どもプラトン」とかいう意味だろう。プラトンとはギリシャの哲学者プラトン(前428-前347)のことである。プラトンのように哲学する小学生という意味のようだ。

 では何を哲学するのか。結局は、子ども同士のけんかを例にとりながら、「暴力は暴力を生む」(Violence breeds violence)という問題を子ども自身に考えさせながら、北アイルランド問題やベルファストの将来を展望させるということらしい。

 北アイルランドのベルファストにあるホーリークロス男子小学校(Holy Cross Boy's Primary School)が舞台だ。つまり女の子はこの映画には登場しない。主役は哲学の授業をするマカリービー校長先生(ボス Boss)か子どもたち(10歳前後)かよくわからないが、内容はドキュメンタリー風の北アイルランド紛争(1)だ。主題は子ども同士のいじめ問題だが、これがカトリック対プロテスタントの対立の比喩であることはすぐにわかる。「やられたらやりかえせーーでいいのですか。なにかほかに手立てはないのですか」と問うマカリービー校長とカウンセラー役の女性教師の活躍が描かれる。

 宗教映画ではない。だが日本のカトリック中央協議会も後援しているから、カトリックサイドからの描写だ。1998年の聖金曜日合意(ベルファスト合意、Good Friday Agreement ,英・アイルランド・北アイルランド間で結ばれた和平合意)から20年あまり経ち、ベルファストではまたあちこちで衝突が生まれているようだ。巨大な「平和の壁」が実は分断の壁、分裂の壁であることが描かれる。

 この映画は監督の自伝風でもあるので監督が何を訴えたいのかを知りたいところだが、明白なメッセージは読み取りにくい。むしろこの映画に何を読みとるかは観客次第だろう。哲学論(人生論)か、宗教論か、政治論か(2)。いろいろな読み取り方が可能なので一緒に映画を観た友人との感想話には事欠かないだろう。

 とはいえ、この映画は北アイルランド問題に少し予備知識が無いと理解が難しそうだ。カトリックもプロテスタントも内部は分裂している。Unionist vs. Royalist(統一派対王党派), Republican vs. Nationalist(共和派対民族派)、聖公会派対長老派(3)などなど。また、この映画ではコロナ禍も触れられており、ことによったらEU離脱問題も影響を与えているのかもしれない。ということでなかなか手強い映画だという印象だった。

 ということでこの映画には終わりはない。映画も壁に絵が描かれて突然終わる。いろいろな映画賞をもらった名映画ということだが、映画のタイトルがあまりピンとこないので大ヒットにはなっていないのは残念なことだ。

【学校の壁の絵】

 



1 「北アイルランド紛争」とは Northern Ireland Conflicts のこと。北アイルランド問題と呼んだり、呼称は定まっていない。呼び方次第で論者の立場性が明らかになるので、表現の仕方が難しい。 The Troubles ともよく言われるがこれはカトリックサイドからの呼称ではないか。
2 カト研として言えば、今年はジョンストン師の(仏教風に言えば)13回忌なので、師の故郷の現在を知ることが出来てよかった。師があれほど愛したベルファストは、師が1930年代、1970年代に観たベルファストと変わったのだろうか。
3 以前はアイルランドでは長老派のプロテスタントはイギリス国教徒ではないので差別されていたという。いわゆる「スコッチ・アイリッシュ」「アルスター・スコッツ」問題だ。

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