カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

改革派の三日月 ー 岩島師教会論19(学びあいの会)

2020-11-27 11:11:43 | 教会

 岩島師の教会論の紹介の後、S氏はドイツの宗教事情について話をされた。ドイツで駐在員生活をしたことがある氏の話はおもしろかった。参加者のどなたもドイツには観光旅行では行ったことがあるので話はそれなりに盛り上がった。そこでの話題を少し紹介しておきたい。いわば宗教改革後のドイツの宗教地図の話だ。

 この29日の日曜日から教会では新しい「暦年」が始まる。いってみれば「新年」が始まる。待降節第一主日だ。主日は「B年」に替わる。週日は「第一周年」となる。今年(2020典礼年度 2019年11月30日から始まっていた)は突然新型コロナに襲われ、思わぬ一年になった。勉強会の参加者の顔ぶれにも変化が起きた。宗教改革の話どころではないと言われればそれまでだが、淡々と日常生活を積み重ねていくことの重要性をかみしめている。

「改革派の三日月」

 この地図は1600年頃のルター派の領域と「改革派の三日月」と呼ばれる改革派の領域を示している。当時はまだ神聖ローマ帝国の領土は現在のドイツよりも広かったようだ。改革派が北ヨーロッパで三日月のように伸びていることがわかる。

 


「ヨーロッパ全体の宗教地図」

これはヨーロッパ全体の宗教分布の地図。①はプロテスタント、②はカトリック、③はオーソドックス を示しているようだ。かなりきれいに分かれているのが印象的だ。

 

「ドイツの宗教地図」
 ドイツはどうだろう。現在は、ドイツでは大雑把に言えば、北はプロテスタント(ドイツ福音主義教会(ルター派、改革派など)、南と西はカトリック、旧東ドイツ圏は無宗教がマジョリティーといえようか。地図で見るとこんな感じか。

 

 

 ドイツの宗教地図を考えるとき、まず、ドイツはキリスト教国だという当たり前の事実を確認しておく必要があるようだ。ルターの生まれた国だからなんとなくプロテスタントの国だろうと思いがちだが、実はカトリックとプロテスタントは現在はほぼ半々の割合のようだ。統計によって異なるようだが、大体人口の28%がカトリック、27%がプロテスタント(ほとんどドイツ福音主義教会)で、人口全体でいえばキリスト教徒が過半数ということになる。

 人口は2019年時点で8302万人。6700万人くらいのフランスよりも多い。無宗教の人も多く、統計にもよるが大体37%くらいは無宗教のようだ。教会離れも進んでいて、神を信じている人は2019年現在で55%で、15年間で11%も減少しているという。東ドイツではわずか26%だという。難民・移民も増えており、人口比は12%前後という統計もある。宗教事情はさらに複雑さを増しているのであろう。

 この教会離れは、世俗化が進む現代の傾向だろうが、ドイツでは特に「教会税」の徴収が大きな原因になっているという説も強いようだ。

 ドイツの教会税の話はよく知られているが、教会税はドイツだけではないようだ。スウェーデン・デンマーク・スイス・オーストリア・フィンランドなどヨーロッパ各国にみられるようだ。教会税といっても、各人が税務署に自分の宗教を申告して、それをもとに課税されるようだ。所得税の8~9%らしいが、ドイツは州によって違いがあるらしい。州といっても連邦州は16もあるようだから税率は州によってさまざまなのであろう。9%を教会のために払うというのは負担が大きい。教会員をやめて税金を払いたくないという人が増えるのもわからなくもない。

 教会は国家から(税金から)経済的に支援されるので、財政的には豊なようだ。ドイツの司教区が強く、教会も立派なのもうなずける。プロテスタントの牧師はいわば特別職の国家公務員(1)みたいなもので、国から給与をもらっているようなものだ(2)。

 州の違いといえば、祝祭日が州によって異なるのも日本とは異なる。もちろん全国共通の祝日はあるだろうが、カトリックの州とプロテスタントの州では祝祭日が異なるようで、なんともわかりづらい。たとえば、復活祭やクリスマスは全州共通のようだが、6月11日の聖体祭はバイエルンなどカトリックの州で、10月31日の宗教改革記念日はブランデンブルクなどプロテスタントの州での祭日のようだ(ちなみに11月1日は諸聖人の祝日(万聖節)でカトリック)。

 こういう違いは宗教改革の影響と一概に言い切ることはできないのだろうが、ドイツがいかにキリスト教国かということを示しているようだ。「ライシテ」の原理がまだ生きているフランスとの違いを感じる(3)。

1 特別職の国家公務員で身近なのは、自衛官などの防衛省職員や裁判官などの裁判所職員。消防団員は非常勤の特別職の地方公務員。消防署員は地方公務員のようだ。警察官は地方公務員だが、警察庁は国家公務員だという。
2 日本で、僧侶や神官が国から経済的援助を受けるなんて考えられるだろうか。政教分離原則が極限にまで徹底している日本ではすぐに政教分離に反するとかいう話が出てくるのではないだろうか。 現代の日本では、政教分離の憲法規定を錦の御旗に掲げる法学者と、宗教習俗論を唱える宗教学者の争いの中でがんじがらみにされて、バランスの取れた議論ができなくなっているようだ。ドイツと日本の宗教事情は歴史的背景の違いなので比較してもあまり意味はないのかもしれない。
3 ライシテ laicite とはフランスの政教分離原則のこと。フランスはこの意味ではキリスト教国ではない。
 統計上はフランス国民の7~8割はカトリックということになっているが、実際に教会に行っている人の割合は一割以下らしい。ほとんどの人はイースターとクリスマスにだけ教会に顔を出す程度のようだ。日本の仏教徒がお彼岸にだけお寺参りするのと同じみたいだ。
 学校でイスラム教徒のスカーフは禁止される。もちろんキリスト教徒のロザリオも禁止だ。教室に十字架はない。「ライシテ憲章」が生きているようだ。
 2015年には、シャルリー・エブド襲撃事件が起こる。ムハンマドを風刺する風刺画がイスラム過激派のテロリストに事件を起こさせた。今年2020年には、イスラム教過激派に感化されたとみられるチェチェンからの難民によるフランス人教員の殺害テロ事件がおこる。表現の自由か、無宗教の自由(信教の自由)か。フランスはまだ答えを持っていないようだ。
 わたしは詳しい事情は分からないが、個人的意見としては、フランス革命の伝統をつぐ風刺画はフランス国内では大事にされるべきだろうが、なにも外国のイスラム教のムハンマドを風刺しなくともよいのではないかと思う。
 といっても、このパリの教師殺害事件は、1991年に『悪魔の詩』を訳した五十嵐一さんが研究室で(おそらく)イスラム教徒に殺害された事件を思い起こさせる(同僚だった)。両方の事件とも、「ファトワー」と呼ばれるイスラム教の宗教令に触発されたのではないかと言われているが、イスラム教は殺人を禁じているにもかかわらず、無念でならない。

 

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教会は「完全な社会」か ー 岩島師教会論18(学びあいの会)

2020-11-25 21:04:52 | 教会


第18章 宗教改革と反宗教改革

 本章は岩島師の宗教改革論だが、師は宗教改革の歴史的経緯を述べているわけではない。あくまで教会論からみての宗教改革の評価が中心になっている(1)。

Ⅰ ルターの教会観

ルターの教会観は思想的にはアウグスティヌスとオッカムのラインなのだという。どういうことか。
1 関係としての信仰という理解

 信仰は神からの働きかけで、「神の言葉」によって仲介される。人間は義人(神に向かう自己)にして罪人(自己に向かう自己)だが、信仰によって義と認められる。

2 教会

 教会は「見えざる教会」であり、聖者(義人)の交わりの場で、神のみが支配している。命令は霊的だという。教会の外的・地上的なものは非本質的である。見えない教会を見えるようにしている徴は「言葉と秘跡」だという。信徒祭司職をみとめる(万人祭司説)。特別の祭司職も認めるが、共同体全体からの公的委任以上のものではないとした。
 つまり、神の言葉(福音)が教会であるという説明で、福音が説かれなければ教会ではないということになる。ここでは使徒や伝承や典礼は二次的なものになる。

Ⅱ その後の発展

1 アウグスブルク信仰告白 Augsburger Bekenntnis

 ルター派最初の信仰告白文書(2)。1530年に神聖ローマ皇帝カール5世によって召集されたアウグスブルク帝国議会で、メランヒトンがルターと相談して急遽起草されたという。この信仰告白はルター派だけではなくプロテスタント全体にとって重要な旗印となる。ドイツ文とラテン文があるという。1555年のアウグスブルク宗教和議によって帝国法上も公認される。内容は2部構成で、教理と教会論だが、聖書中心のプロテスタント信仰が表明されているという。特に「義認」が強調されているようだ。「見えざる教会」という表現は回避されており、「見える教会」とは全信徒の集まりで、福音が説教され、秘跡が与えられれば充分だとされている。 
全体としてローマ批判のトーンは低く、カトリック側からの評価もそれほど否定的ではないようだ。
 
2 カルヴァン Jean Calvin (1509-64)

 フランスの宗教改革者。ルターの立場から離れていく。カルヴァンの思想はフランス・ユマニスム(人文主義)(3)の方法を用いた神中心主義だという。かれの改革の特徴は、思想だけではなく、教えを教会組織や市民生活全般にわたる実践に結びつけたことにあるという。1536年に家族共々ストラスプールに亡命しようとするが方針を変えてジュネーブでの宗教改革運動に参加する。これは失敗し、ストラスプールで3年過ごす。教会の本質は選ばれた者の見えざる一致だと説く。1541年に請われてジュネーブに戻り、教会の革新、市政の改革を始める。フランス語圏の宗教改革にも乗り出す。1959年には教会は見えるもの、外的説教で立てられるものと説く。説教者は神のみ言葉の器官にすぎないとした。

Ⅲ プロテスタンティズムの神学的評価

1 主体的信仰と仲介構造の否定

 プロテスタンティズムは主体としての神の民の自己主張で、すべての信者が平等であると主張した。洗礼・福音・信仰のみが人を霊的にし、キリストの民とする。仲介構造である聖職者制度は否定する。

2 転換

 だが、改革の過程の早い時期に、伝承・教会・職制・教会規律の必要性に気づき、教えを転換する。

3 教会仲介構造の不足点

 教会の仲介機能を完全に否定したわけではなかったが、それでも不十分な点がいくつかあった。
①内容的に見れば、聖書を選択的に利用して自己の立場を正当化している。伝承も一面的な継承にとどまる。たとえば、カルヴァンはヒエロニムスに一方的に依存し、ペテロの役割・聖職の権威・公会議などを否定している。しかもルターの悲劇は教会が世俗的権力と癒着してしまったことであった。
②教皇中心の教会制度を否定するあまり、自らも認めていた教会の仲介機能(みことばの説教と秘跡)の過小評価に陥り、教会の本質的・歴史的性格を無視することになってしまった。

Ⅳ トリエント公会議(反宗教改革)

 やっとトリエント公会議が開かれる(1545-63)。ルターの95ヶ条(1517)から30年近く経っている。この公会議の目的は、宗教改革への対抗にあった。だがこの公会議では教会についてのまとまった教令は出なかった。教令は、信条・聖書と伝承・ヴルガタ訳と聖書解釈・原罪・義化・秘跡・聖体祭儀・聖人・贖宥について作成された。
 改革派の主張に対する反動的主張もあるが、全体として彼らの問題提起を否定せず、それを踏まえて論じている面もある。

①改革派:外的・法的・制度的面の否定、内的な教会理解。教会制度の改革は不可能と断じた
②トリエント:改革派の主張がいかに既存の教会制度と関係あるかを問うた。例えば義化の教令。

 教会論としてみると、トリエント公会議は制度としての教会理解の傾向が強く、その後のカトリック教会の教会説に影響を与えた。

 

(トリエント・ミサ)

 


Ⅴ ベラルミーノの「完全な社会」論

 ベラルミーノ Roberto Bellarmino (1542-1621)はイエズス会初期の神学者。枢機卿。あまり知られてはいないが、主著は『異端反駁』。対抗宗教改革ではプロテスタンティズムに対する論陣を張った。ガルカリズム(4)に対抗して、位階制と「完全な社会」 ソチエタス・ペルフェクタス(5) である教会を擁護した。ベラルミーノの教会論は制度としての教会論だ。「教会は同一のキリスト教信仰を同じ秘跡を通して一つにされた人々の共同体で、正統な牧者たるキリストの代理人ローマ教皇の下に存在する」と述べている。制度的教会論が中心で、主体としての神の民については語られない。もっぱら仲介構造としての教会が主題となっている。第一バチカン公会議までのその後の教会論に大きな影響を与えた。1930年に列聖されている。


 ということで、以上の岩島師の宗教改革論で注目したいのは、師が Reformation を宗教改革ではなく「教会改革」と訳したいと言っている点だ。トリエント公会議をそれなりに評価したいという考えのように理解したが、現在「トリエント・ミサ」をどのように評価するかは微妙な問題なのであまり深入りした議論はなされてはいない(6)。

 

1 わたしは個人的には教会の Counter Reformation  Gegenreformationen を師が「反宗教改革」と訳していることに違和感を感じる。現在は「対抗宗教改革」という訳語が定着していると思われる。反宗教改革という言葉遣いは「反動宗教改革」という言葉と連動して使われることが多いので使用は避けたいところだ。トリエント公会議は宗教改革を全面否定しているわけではない。本書が1980年代に刊行されているので、この訳語の採用は時代的制約なのか、師がなにか特定の意味を込めているのかはわからない。ちなみに、『岩波キリスト教辞典』(2008)には、索引に反宗教改革はあるが対抗宗教改革を参照するように指示され、説明はそこでなされている。また、『角川世界史辞典』(2007)は反宗教改革という項目名で説明がなされており、対抗宗教改革でひくと反宗教改革を参照するよう指示される。山川の世界史は対抗宗教改革で一貫しているようだ。
2 信仰告白 confession of faith とは公に表明された信仰内容の要約のこと。個人が信仰を自覚するとともに共同体(教会)への帰属を公けに宣言するもの。カトリックでは「使徒信条」または「ニケア・コンスタンチノープル信条」がミサの中で唱えられる。プロテスタントでは、1530年のルター派の「アウグスブルク信仰告白」、1646年の英国教会の「ウエストミンスター信仰告白」がよく知られている。
『祈りの手帳』ドン・ボスコ社(2002)
徳善義和『アウグスブルク信仰告白の解説』聖文舎(1979)
村川・袴田訳『ウエストミンスター信仰告白』一麦出版(2008)
3 ユマニスム(人文主義) humanism とは、ルネッサンス期の代表的な知的潮流。スコラ哲学の思弁に対抗して、人間中心の世俗的世界観を展開した。古代ギリシャ・ローマの文化を再興することで人間性を発見しようと、「もっと人間的な学問」をいわれた「人文学」の復興を目指したので人文主義と称されるようになったようだ。 
4 ガリカニスム gallicanisme とは、フランスの国家と教会が、宗教的にはローマの傘下にとどまりながらも教皇権からは距離をとり、自国の宗教的・政治的自立性を確保しようとする思想のこと。ガルカとはフランスの古名だ。フランス革命は聖職者を完全に国家に従属させ、ガルカニスムの究極の帰結だった。1905年の政教分離法の制定で実質的意味を失う。
5 教会が「完全な社会」 Perfect Society であるという考え方は16世紀から存在するが、特に19世紀から20世紀前半にかけて支配的な教会観となる(ピウス9世、レオ13世)。第一バチカン公会議の草案には、「教会は完全な社会。十全な立法権、司法権、刑罰権を有し、絶対的な独立を保っている」と書かれていて、教会が世俗の権力の下にあることを否定していた。国家は「自然的な完全なる社会」で、人間の生存に必要な領土と法、機構、主権を持つ(アリストテレス的・トマス的)が、教会は超自然的な生命の維持のために必要な仲介機能の総体であり、「超自然的な完全な社会」であるとした。こういう教会論は第一バチカン公会議(1869-70)で頂点に達する。そして第二バチカン公会議(1962-65)で乗り越えられていくことになる。我々は現在第二バチカン公会議後の世界に生きている。
6 「トリエント・ミサ」とは伝統的なラテン語ミサのこと。「特別形式のローマ典礼」と呼ばれることもある。現在通常行われている各国語を用いた対面式の「通常形式のローマ典礼」とは異なる。

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公会議は教皇より偉いか ー 岩島師教会論17(学びあいの会)

2020-11-24 22:16:38 | 教会

 暖かい秋晴れの日に学びあいの会に出た。勤労感謝の日。昔風にいえば新嘗祭。どの社会にも見られる秋の収穫の祝い。とはいえ、現在では、年間最後の祝日といった方がわかりやすいか。連休の最後の日だったので、出席者の数はいつもよりは少なかった。

 今回は、第17章「中世から近代への胎動」、第18章「宗教改革と反宗教改革」の2章が取り上げられた。近代社会への入り口の話で、どのように整理するかは論者の視点が問われる。岩島師はあくまで「教会論」の視点から見ていく。本書の特徴である。

第17章 中世から近代への胎動

Ⅰ 中世後期の時代的特徴(1)

 ヨーロッパ中世は神の秩序への信頼で成り立っていた。14世紀以降この信頼感は崩壊していく。これが教会にも打撃を与えていく。この経緯は、アヴィニヨンの捕囚(1309~77)(2)→シスマ(教会大分裂 1378~1417)→宗教改革(95ヶ条は1517)→近代教会(トリエント公会議は1545~63) へという流れで説明されることが多い。岩島師は時代的特徴として以下の4点を挙げている。

①信仰と理性の分離(スコトゥスやオッカム)・主意主義的信仰主義的な信仰の理解・個の自由
②新しい人間像の開花(ルネッサンス)(3)
③社会・国家が教会・教皇の支配から離脱する(一つの頭から二つの頭をもつ社会への変化)
④個人的キリストへの信仰(敬虔主義)の傾向:『キリストに倣いて』など’3)

Ⅱ 教皇絶対主義(Conciliarism)

 シスマ(教会大分裂)のなかで、教皇では教会という組織が持たないということがはっきりしてくる。教皇が二人も三人も並立し、教皇がバチカンに住まない期間が7代70年近くも続くと、教会は組織として教皇以外によりどころを求めざるを得なくなる。公会議だ(5)。公会議が拠り所として求められてくる、または力を振るい始める。教皇絶対主義に対抗する公会議至上主義の登場だ。

 教皇と公会議とどちらが上なのか。教皇は公会議が選出する。しかし教皇はやがて枢機卿を選んで公会議を牽制する。これは神学の問題ではなく、組織の問題だ。現在は(21世紀は)教皇の方が強いという評価が多いようだが、本書刊行の段階では(1987年)岩島師ははっきりした判断は下していない。両者は拮抗しているという評価のようだ。

1 教皇の権威の強化と崩壊

 グレゴリウス7世(1020-85)以降、教皇は俗権との争いに勝利し、圧倒的地位を獲得する。教皇権はイノケンティウス3世(1198-1216)の時に絶頂に達する(6)。1215年の第4ラテラノ公会議で西欧圏での指導的地位が確保された。そして、ボニフチウス8世(1234-1303)の勅書「ウナム・サンクタム」(唯一・聖なる教会)(1302)(7)は、教皇は「キリストの代理人」であり、「俗界の権威者(皇帝)は精神界の権威者(教皇)に従うべし」と宣言し、教皇中心主義の思想が確立する。

2 教皇権の没落

 「ウナム・サンクタム」という文書の上では教皇権は極限にまで拡大されたが、教皇はアナーニに滞在中国王一派に幽閉され(1303年のアナーニ事件)た。教皇は関係者を破門するが何の効果もない。実質的教皇権は無くなっていた。教皇は失意のうちに世を去る。そして「アヴィニヨンの捕囚」(1305~1378)(8)から大シスマ(教会大分裂 1378-1417)を経て、教皇の権威の失墜は決定的となる。

Ⅲ 公会議至上主義(Concilarisumus)

 大シスマにより、教会を指導するのは教皇ではないことが明らかになる。公会議が唯一の拠り所となる。
 コンスタンツ公会議(1414-18)が3人の対立教皇を廃止させ統一教皇マルティヌス5世を選出し、公会議の決定は教皇でさえ覆せないと教令で規定した。ここに大シスマは解消され、公会議至上主義は最盛期を迎えた。だが、この公会議はヨハネス・フスを異端として焚刑に処したため(1415)、フス派のプラハ市民を蜂起させることになる(フス戦争 1419-36 宗教改革が始まるきっかけとなる)。

 ついでバーゼル公会議(1431-37)は教皇マルティヌス5世によって1431年に招集され、同年エゥゲニウス4世によってスイスのバーゼルで開催された。公会議至上主義者の司教たちが主導権を握る。いろいろな経緯があり、開催地はフェラーラに、次いでフィレンツに移動する。結局1438-43年に教皇の裁治首位権が確認され、教皇の権威が再興される。ここに教皇主義(Papalismus)が成立する。

Ⅳ ウィクリフとフスの予定論的教会論

 この間、教会の世俗化が進む中で、各地で教会の改革を求める運動が起こる。

① 14世紀後半には、オックスフォード大学の神学教授ウィクリフ Wycliffe (1320-84)は教皇権を否定し、教会財産の国庫への没収を認め、イングランドの教会および国王は教皇から独立すべきだと主張した。教義では聖書主義を唱え、聖書の英訳をおこなった。教会の本質は「救済を予定された者の集い」であるという予定論を展開し、「見えざる教会」を主張した。かれの説に対してグレゴリウス11世は査問し(1377)、異端とみなした。だがかれはランカスター公の保護のもとに生き延びる。

②プラハ大学の神学教授フス Huss (1370-1415)はウィクリフの説に共鳴し、教会の土地所有や贖宥状を批判し、破門されるが、国王の支持があり断罪を免れる。聖書のチェコ語訳をおこなう。神学的にはアウグスティヌスの内面主義、精神主義に回帰した。聖者の教会(見えざる教会)と秘跡の教会(見える教会)を区別した。フスの著作はチェコ文学の古典とされているという。1414年にコンスタンツ公会議に召喚され、ウィクリフの説の否認と自説の撤回を要求されるが、それを拒否した。そのため翌年焚刑に処せられた。

(ヤン・フス像) 

 

 やがてフス戦争(1419-36)が始まり、宗教改革の口火が切られていく。フス派はたびたび皇帝軍を破るが、やがて内部分裂が起こり、カトリック教会連合軍に敗れる。このフス戦争はドイツに対するチェコ人の民族運動という性格も持っていたようだ。

 岩島師は、ウィクリフとフスの説はオッカムの影響下にあり(9)、個人的信仰という近代人の教会観の萌芽だったとまとめている。

 



1 中世とか中世後期とかいうが、いつのことを指すのか限定するのは難しいようだ。13世紀をヨーロッパキリスト教世界の頂点と見なすなら、中世後期とは14世紀以降を指していると思われる。
2 「バビロン捕囚」(1309-77)ともいう。これはユダヤ人がバビロニアに連行された紀元前586-前538の苦難の歴史になぞらえている。
3 大航海時代とか科学革命とか通常の歴史解説書で触れられる経緯は言及されない。修道会の変化など教会論にも影響を与えていると思われるが、あえて触れないのは岩島師の歴史観なのであろう。4 師は敬虔主義(Pietsmus)の登場を重視しているようだ。教会論の発展にとり重要だったのだろう。敬虔主義とは、17世紀後半から18世紀の主のドイツで起こった信仰覚醒運動をさす。神学的にはプロテスタント正統派神学(ルター派などの領邦教会)に対抗して個人の信仰・道徳・実践を重視し、教会の法規や典例、教義を重視しない運動。あまり違いを強調しすぎることはよくないが、ドイツの思想史や文化への影響は大きかったようだ。運動ではシュペーナーの『敬虔なる願望』(1675)に教会改革案が載っているというが私は読んだことはない。
 トマス・ア・ケンピス(1380-1471)の『キリストにならいて』にはいくつもの邦訳があり、信者ならだれでも一度は手にしたことがあるだろう。まるで修道院生活を描いているようで、徹底的な自己放棄と自己否定が信仰を受け入れる道であり、キリストに倣う途であると言っているようだ。こう言うとなにか陰鬱な道徳書・倫理書みたいだが、文章(祈り)には明るさというか透明性がある。旧約聖書の「コヘレトの言葉(伝道の書)」が与える印象とは違う。ちなみにトマス・ア・ケンピスはわたしの堅信名である。ケンピス村のトマスということだろうが、ケンピスは現在のケンペンのことのようだ。トマス・ア・ケンピスは実在が疑われたこともあるが、現在は実在したことが受け入れられているようだ。
5 公会議 Ecumenical Council はもともとは新約聖書にある教会会議に原型があるとされる。2世紀中頃から各地の司教たちが教理や教会についての正統的立場を確認するために「部分」教会会議を開いていたようだ。「全体」教会会議つまり第1回の公会議はアレイオスの異端に対処したニカイア公会議(325)である。
6 この時代、日本では鎌倉幕府が始まり、中国では南宋が滅亡の時期に入り始める。西ヨーロッパでは神聖ローマ帝国でハプスブルク家が拡大し、フランス王国はカペー朝の頂点にある。小アジアではビザンツ帝国(東ローマ帝国)がほぼ滅亡し、地中海世界・インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化が進んでいた。
7 ボニファティウス8世はフランス王フィリップ4世とフランス国内の教皇課税(教会領に教皇が課税する権利)をめぐって争い、この勅書を通して教皇中心主義を宣言したという。
 「ウナム・サンクタム」は回勅ではなく勅書と呼ばれている。回勅はもともとは教皇の回状 Litterae encyclicae を意味していただけらしいが、現代では回勅は教皇から全世界の司教宛に出される勅命を指すとされている。この意味内容の変化は18世紀以降のことのようだ。そして、勅書は教皇の出す勅令、勅許、書簡、教令などすべてを含む言葉のようだ。たとえば、現在のフランシスコ教皇が出された『ラウダート・シ ともに暮らす家を大切に』(2015)(わたしの主よ、あなたはたたえられますように という意味 教会の文書は書き出しの文字が書名になる)は「回勅」だが、『キリストは生きている』(2019)は「使徒的勧告」だ。使徒的勧告は司教たち(シノドス(世界代表司教会議)など)がまとめたものを教皇が発表するもので、重要度は回勅より低いようだ。つまり回勅と勧告は教皇と使徒(司教)の関係を反映するようだ。
8 アナーニ事件後、クレメンス5世は教皇庁を南フランスのアヴィニヨンに移す。以後7代約70年にわたり教皇はフランス王の支配下に置かれる。教皇もフランス人がなる。これは古代のユダヤ人の苦難になぞらえて「教皇のバビロン捕囚」とも言われる(バビロン捕囚は紀元前586ー前538)。
1378年に教皇庁はグレゴリウス11世によりローマに戻され、次の教皇ウルバヌス6世はイタリア人にもどる。だがフランスの枢機卿は対立教皇クレメンス7世を立て、アヴィニヨンにふたたび教皇庁を設置した。フランス国王フィリップスは教皇に圧力を加え、「ウナム・サンクタム」を撤回させ、アナーニ事件の関係者を赦免させた。フランス・ナポリ・スコットランドがこのアヴィニヨン派を支持し、イタリア諸国・ドイツ諸侯・イングランドなどはローマ派を支持した。ここに教会の大分裂(シスマ)がおこる。教皇の権威は完全に失墜した。
 この辺の歴史的叙述は岩島師は省いている。教会論としてはあまり重要とはみなしていないようだ。
9 オッカム  William of Ockham (1285-1347) はイギリスのスコラ哲学者。普遍論争では唯名論の立場に立つ(普遍という性格は事物にではなく言語にあるという主張)。哲学的には主意主義(意思主義)を唱え、行為の善悪は意思の働きの是非で決まるとした。教皇権については、霊的な事柄についてのみ認め、世俗的事柄は教皇権から独立しているとした。教会論では「見えざる教会」(信徒の霊的共同体)と「見える教会」(現実の現行の教会)を区別し、前者は不可謬だが後者は誤ることもあるとして、公会議が教皇を替えることも可能だと主張した。「オッカムの剃刀 Ockam's razor」という格言で知られる。オッカムの剃刀とは、議論の中で必然性なしに不必要な仮定を置いてはならないという規則のこと。節減の原理とか節約の原理 principle of economy とも呼ばれるようだ。

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