カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

顕教か密教か ー 仏教概論(6) 学びあいの会

2022-11-30 11:24:23 | 神学


Ⅴ 様々な仏教(浄土教・禅宗・密教)

 第5章は基本的には大乗仏教の分類論だ。報告の詳細は2018年2月のブログに載せてあるので、ここでも私見をいれながら報告へのコメントをしてみたい。
 今回のポイントは、日本仏教では浄土教の影響が圧倒的に強いということ、そして禅宗は信仰ではなく修行方法だから仏教の一つと見なさなくとも良いのではないか、という点だ。

1 顕教と密教

 仏教の各宗派をどのように分類・整理するのかは定説はないようだ。上座部仏教・大乗仏教との分類がよく見られるがどこまで定説なのかはわからない。日本仏教を見ても、奈良仏教・平安仏教・鎌倉仏教と時代別に分類したり、13宗派56派とわけたり、ご本尊別に分類したりもするようだ。浄土宗系・禅宗系という分け方もあるようだ。伝統宗教・新興宗教・新新宗教という切り方もあるようだ。ここでは顕教系・密教系という切り方をしてみる。顕教・密教というのはなんなのか。

 顕教とは基本的に修行を積まないと成仏できないと考え、釈迦を本尊とする宗派が多い。密教はすべてが大日如来の化身であるとする宗派のことと考えてみよう。経典で言えば、顕教は華厳経・法華教・般若経などを用い、密教は大日経・金剛頂経などを重視するようだ。

 仏教を顕教と密教に分けるという考え方は空海によるという。空海は密教の優位性をこの分類で示したようだ。他方、最澄は仏教を大乗・小乗にわけて、大乗のなかに顕教・密教という区分があると考えたようだ。つまり、天台宗は顕教でもあり、密教でもあるということになる。真言宗は当然密教教団ということになる。これは空海と最澄の関係がどうだったかという歴史問題になるらしく、素人があれこれ言えることではないらしい。

 

【即身成仏】

 


2 浄土教

 日本仏教を浄土教系・非浄土教系とわけるのも理解しやすい。といっても日本仏教では浄土教の影響が圧倒的であり、日本仏教といえば浄土教系と考えても良さそうだ。たとえば、信徒数でいえば浄土真宗は(本願寺と大谷派をあわせれば)1600万(人・世帯)、寺院数ではほぼ5割を占めるという(「宗教年鑑」)。浄土真宗を抜きに日本仏教を語ることはできない(1)。
 なぜ日本では浄土教がこれほど広まったのか。詳しいことは専門家の議論にまかせるとして、浄土教の教えは我々になじみのある般若心経や法華経の教えとは全く異なるようだ(2)。成立年代でいえば、般若経→法華教→浄土教 ということらしい。浄土教も飛鳥時代にはすでに経典が日本に伝わっていたようだが、日本で広く受け入れられていったのはやはり平安時代の末法思想の登場のようだ。釈迦入滅後、時代は「正法の時代→像法の時代→末法の時代」と変わるとされ、すでに末法の時代に入ったと考えられたようだ。浄土教の定着はこういう時代背景で説明されることが多い。

 浄土教とは浄土信仰のことで、阿弥陀仏がいる極楽浄土へ往生することを目的とする信仰だ。そのため阿弥陀信仰とも呼ばれる。阿弥陀とは「アミターバ」の漢訳で、「無限の光」という意味だという。経典は「浄土三部経」と呼ばれ、「無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経」のことだという。経典よりも阿弥陀信仰の方が大事らしい。とにかく「南無阿弥陀仏」と唱える、ナンマイダ・ナンマイダと唱えれば救われるとする教えだ。ここに他力救済説を読み取ってキリスト教との親近性を説く論者も多いようだ。
 浄土信仰のキーワードは「極楽浄土」という言葉だろう。この世とは別の世界が存在し、そこには阿弥陀様がいて、あなたもブッダになれますよ、ということらしい。浄土教の信仰対象はお釈迦様ではなく阿弥陀様なのだという。阿弥陀様の方がお釈迦様より格段に偉いブッダだという事のようだ。浄土信仰に釈迦はいない。

3 密教

 続けて密教の説明があった。密教は歴史的には4・5世紀頃生まれるが、インドで仏教が衰退し始めた7世紀頃盛んになる。釈迦仏教はあまりにも高踏的で難しく、大衆はヒンズー教に流れていく。そこで仏教はヒンズー教に近づく形で自らを密教として再編成する。密教とはヒンズー教化した仏教、といっても良いのかもしれない。中国や日本にはこの時期に密教が入ってくるが、インドではあまりにもカルト的になってしまい、13世紀には滅亡する。だが日本では華厳経をベースに密教が定着していったようだ。
 奈良の「大仏様」、つまり、「盧舎那仏座像」は華厳宗の総本山東大寺にある。華厳経の教えは法華教や浄土教よりも古くから日本に根付いていたという。華厳経が密教につながっていく教理上の近さや歴史的経過はわたしにはよくわからなかったが、密教は空海が突然もたらしたものというわけではなさそうだ。

 密教の修行の最終目標は「即身成仏」だという(3)。真言密教では修行方法は「三密加持の行」と呼ばれるらしい(4)。つまり、曼荼羅(マンダラ)を眺め、真言を唱え、印契を結び、心を集中し、自らを大日如来と一致させる、というのが行だという。よく加持祈祷というと、護摩(ホーマー)を炊き、灌頂する(水を濯ぐ)シーンがあるが、これは修行のひとつのようだ(5)。
 
【両界曼荼羅】(胎蔵曼荼羅と金剛曼荼羅)

 

 

 


4 禅宗

 次いで禅宗の紹介があった。禅というと達磨大師(528年没)が思い浮かぶが、禅は達磨大師以前から中国に伝わっていたという。インドでは座禅の法は仏教独自のものではないらしく、釈迦の登場以前からあったようだ。わたしは座禅、ヨガ、マインドフルネスなどの違いがよくわからないが、禅宗は修行の方法論であって、信仰の対象ではなさそうだ。あえて言えば禅宗は宗教ではないのではないか
 ジョンストン師が座禅に凝っていて、神秘主義神学の立場から好意的に評価していてもわれわれカト研のメンバーは当時は違和感を持たなかった。イエズス会の視線は厳しかったようだが、われわれはカト研の合宿でも座禅のまねごとをしていたのを思い出す。現在は真正会館の講座に禅に関わるテーマを見ることはなくなった。


 禅の思想は分析的だが、体系性を持たない。修行でいえば、曹洞宗の只管打坐、臨済宗の公安は有名だが、自給自足や労働を認めているという。釈迦の仏教では考えられないことらしい。同じように禅には「戒律」がないという。禅宗は仏教の僧の集団ではない、つまり、在家の普通の人間の集まりだから厳しい規則は必要なかったのであろう。禅の源は中国の道教にあるという。道教にも「清規・威儀・斎法・建醮」など戒律らしきものがあるようだがいわゆる「律」ではないらしい。あえていえば、律を持たない仏教が禅宗なのかもしれない。
 教義的には涅槃教の「一切衆生悉有仏性」をベースにしていて、人間はだれでも「仏性」を持っているという教えが中心らしいが(6)、あえて禅宗は宗教ではないと理解した方がわかりが良い気がした。参加者みんなで議論してみたかった。


1 浄土教系の宗派としては浄土宗、浄土真宗、時宗があげられる。天台宗でも教義のなかに浄土信仰が入っているという。
2 浄土教系、例えば浄土真宗の葬儀に出ると作法の違いに驚く人が多いようだ。
3 つまり、目標は釈迦仏教のように「悟り」を得ることとはいわないようだ。即身成仏といえば、高野山の「生身供(しょうじんぐ)」はよく知られている。空海は入定後今日まで1200年間生きていて、一日二回毎日食事が届けられているという。
4 「三密加持」とは、「身蜜」(手で印を結ぶ)・「口蜜」(口で真言つまりマントラを唱える)・「意蜜」(宇宙の真理を心に思い描く)と意味するようだ。

【密教の世界】

 

 

 

 

5 カトリックでも同じように、信者が聖水盤を使ったり(今はコロナで使用禁止だが)、司祭が聖水を灌水器に入れ、灌水棒で信者に散水(聖水を振りかける)したりする。水はどの宗教でもなにか汚れを祓う、清めるものとして使われるのだろうか。
6 「仏性」(ぶっしょう)と言うのもわかりずらい言葉だ。キリスト教的にはあわれみの心(新形式のミサにならえば慈しみ)を連想するが、そうではなく、仏性とは「ブッダとしての本質・特性」ということらしい。つまり人間は誰でも努力すれば(努力しなくとも)ブッダになれますよ、という教えのようだ。

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釈迦からブッダへ ー 仏教概論(2) 学びあいの会

2022-11-28 18:23:04 | 神学


 アドヴェント(待降節 Advent)が始まった。昨日のごミサでは4本中最初のローソクに灯がともされた。4週間後のクリスマスまで一本づつローソクに灯がともっていく。家ではアドヴェント・クランツ(リース)を飾った。街中では、楽しいのは子どもだけではなく、大人もクリスマス・ショッピングで忙しい期間だ。
 11月の学びあいの会は寒さが戻った曇天の中で開かれた。昨日のワールドカップでの日本代表の思いがけない敗戦の翌日と言うことで、集まりは寂しかった。
 仏教概論の二回目である。テーマは仏教の歴史的展開と諸宗派の比較の話だった。ポイントは、釈迦の仏教がブッダの仏教、大乗仏教に変化していく過程を知ることだ。今回の講義の要旨は既に2018年2月17日のブログに載せてあるので繰り返さない。ここでは主要な論点だけをピックアップして私見を述べてみたい。

4 仏教の歴史的展開

 この章では、初期仏教としての釈迦の仏教から、釈迦の教えの解釈の違いから部派仏教が生まれ、やがて大乗仏教が東北アジアに入ってくる経緯が説明された。解釈の違いと言っても具体的には「戒律」の理解の仕方をめぐって部派が分かれたようだ。佐々木閑氏は「破僧の定義変更」と呼んでいる(1)。破僧とはサンガを分裂させる行為を指すようだ。結局、部派は上座部と大衆部をあわせて20部くらい生まれたという。

 解釈の違いは弟子たちの間にいわば「派閥」を生み出した。部派とは派閥みたいなものらしい。だがそれは「異端」とはされなかった。ある派閥を、部派を、異端と認定するような中心組織が仏教にはなかったからだろう(2)。異端ではなく、「多様な解釈」として様々な部派が生まれたのだろう。現在でも仏教には異端は存在しない

 後世、異端的な考えは宗派として独立していく。小乗、浄土、禅宗、密教などは宗派と言うよりはおのおの独立した仏教と考えてもよいほど教理の違いが大きい。中心経典が異なるのだ。むしろはっきりとおのおの独立した宗教を見なしてもよいのかもしれない。釈迦がいなくとも成立する仏教とも考えられる。キリスト教には異端は様々あれど、イエスの存在を認めないキリスト教は考えられない。

 特に大乗仏教では仏の概念が変化する。如来観音など多種多様な仏が作り出され、仏が神格化されてくる。有神論的色彩を帯びてくる。日本に入ると神仏混淆が起こり、権現などが生まれてくる。大乗仏教は上座部仏教に対していわば改革派であり、在家の信者を組織していった。厳しい修行よりは祖先への回向を重んじた。礼拝中心になっていったといえよう。

 大乗仏教の経典(般若経・法華経・華厳経など)は主に紀元1~3世紀頃書かれたようだ。新約聖書も紀元1~2世紀ごろ書かれている。ちなみに記述言語も大乗経典はサンスクリット語が多いという。上座部経典がパーリ語が多いのにたいして(大衆向けのやさしい俗語)、サンスクリット語はインド・アーリア語系でペルシャ語・ギリシャ語などと近いという。知識人向けの言語ということらしい。
 文字表記はいろいろあるようだが、仏典が中国に輸入され、漢訳され、さらに日本では読み下しされる。現代日本でお経が日本語訳ではなく、そのまま漢文風に読まれ、誰も意味がわからないのは異常としか言いようがない(3)。曽てわれわれのミサが日本でもラテン語で行われていたのと変わらない。仏事に読まれる般若心経は書き下し文で読んでほしいところだ(4)。
 13世紀のイスラムの侵入によってインドでは仏教は滅亡する。仏教は南と北に伝播していく。

【仏教の伝播】(出典:佐々木閑「大乗仏教」76頁)

 

 


1 佐々木閑 『集中講義 大乗仏教』 NHK出版、2017,23頁
2 現在の日本にある「全日本仏教会」は連合組織であって各宗派を統治しているわけではなさそうだ。59宗派の連合組織だという。寺院などは約7万余という。
3 日本の仏教界はあえて日本語訳しないという姿勢を取っているようだ。その意図については諸説あるようだ。イスラム教の「クルアーン」(コーラン)もアラビア語のままで読まねばならない。翻訳は許されない。だからどの国のイスラム教徒でもある程度誰でもアラビア語がわかるという。ちなみに聖書協会によると、聖書は2020年には700言語以上で読めるという(世界中の言語数については諸説ある 3000とも7000ともいう)。翻訳は66言語で完成しているという。
4 「摩訶般若波羅蜜多心経」の冒頭部分と書き下し文の例 全文は容易に検索可能だ
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時
観自在菩薩が、深く般若波羅蜜多を行じたまいしとき、
照見五蘊皆空 度一切苦厄
五蘊は皆空なりと照見し、一切の苦厄を度したもう。
舎利子
舎利子
色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
色は空に異ならず、空は色に異ならず。色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり。
受想行識亦復如是
受想行識もまたかくの如し。

 

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「またあなたとともに」が始まる ー 待降節・新年・A年

2022-11-27 15:27:14 | 教会


 今日から待降節が始まった。教会暦でいえば新年が始まった。聖書朗読は今年はA年で、主にマタイが読まれる。B年のマルコ、C年のルカに較べると何か難しい。
 今日のミサから「新しいミサ式次第」が実施された。新形式による初めてのミサである。私どもの教会ではまだ地区ごとの分散ミサが続いているが、私の組は幸運にも今日の朝10時からのミサに割り当てられた。出席者は多かった。50人くらいはおられたであろうか。
 新しい「ミサの式次第(会衆用)」が配られた。横浜教区発行のものだ。各人が氏名記入の上持ち帰るように指示された(1)。ごミサそのものは何の混乱もなく無事挙げられた。司祭や司会者に若干の言い間違いはあったが、なにぶん練習なしのぶっつけ本番なのだから致し方ない。

 

【ミサの式次第】

 

 

 

 新形式の式次第は、内容を細かく見ると大分変更点がある。われわれは、ずっと「新しい式次第」に目をやって間違いないように気をつけるのが精一杯だった。お祈りどころではなかった。
 考えてみると、約半世紀前、バチカン公会議のあと数年後に新しいミサが導入・実施された。ラテン語ではなく日本語のミサが始まった。あのときの興奮と高揚感は今回はない。大きな変更がなされているのだが、定着するのにそれほど時間はかからないように思える。ごミサとしてそれほど違和感はなかった。
 式次第(訳文)は全体的にはローマ形式に戻る(近づく)印象があり、何が何でも日本の文化・言語にあわせるという姿勢は弱まっているようだ。その点現代の日本語にはすんなりとはなじまない表現もあるようだが(2)、いずれ落ち着いてくるだろう(3)。
 とはいえ、なんといっても変化の一番は、「また司祭とともに」が「またあなたとともに」に変わったことだろう。司祭というと、司教や助祭がでは俺は含まれないのかとひがむからだったと言うが、それなら規範版通りに「またあなたの霊と共に」(And also with your spirit)でもよかった気がしなくもない(4)。



1 教会によっては、持ち帰りを許さず、跪つき台(長椅子や入口)に残すところもあるようだ。
2 たとえば、奉献文で、パンを「割る」が「裂く」に変わった。
3 訳語を現代日本語や日本文化に合わせるという姿勢は理解できるが、他方、典礼文を通して(聖書の翻訳を通して)、逆に日本語に影響を与えていく、日本文化に変化をもたらすという気概があまり感じられない。たとえば「愛」ということばは日本語に定着したと言って良いだろう。キリスト教の影響なしにこの変化は起きなかったように思える。
4 9月24日に雪の下教会で開かれた「新しいミサ式次第ー直前準備講座」で、梅村司教様が、今回の新式文の改訂作業を説明された折り、この部分の変更はバチカンの典礼秘跡省と激しくやり合ったが日本司教団は最後まで譲らなかったと言われた。日本司教団としてはかなりの覚悟を持った訳文変更だったようだ。いずれまた、日本語の「霊」とか「霊魂」「魂」「精神」などのことばの意味内容やコノテーションに変化が起きれば、「またあなたの霊とともに」が復活するのかもしれない。
5 この「新しいミサ式次第ー直前準備講座」はカテキスタ会の公開講座(第24回)だった。司教様の講演要旨が当教会の教会報に掲載されたのでポイントだけ触れてみる。

【開祭】
①回心の祈りでは胸を三回打ったりしない(韓国では昔どおりに打つ 日本でも昔は打った)
②「また司祭とともに」は「またあなたとともに」」変更する
③公式祈願(集会・奉納・拝領)は訳し分けた
④回心の祈りで「兄弟の皆さん」は「兄弟姉妹の皆さん」に変更する
⑤「いつくしみの賛歌」で「あわれみ」は「いつくしみ」に変更する
⑥「栄光の賛歌」では頭を下げる
【ことばの典礼】
①朗読者はおわりに「神のみ言葉」と唱え、司祭は福音朗読後は「主のみ言葉」と唱える
②信仰宣言では頭を下げる。ニケア・コンスタンチノープル信条では「・・・唯一の教会を信じます」と「唯一」を最後に持ってくる  複数の形容詞の並び順は言語によって異なる
【感謝の典礼】
①パン→いのちの糧、ぶどう酒→救いの杯
②4つの奉献文(第一はローマ、第二は聖ヒポリテュス、第三はバチカン公会議、第四は東方典礼)のうち、主日では第三奉献文を使う方向で考える
③サンクトス(感謝の賛歌)で「万軍の神なる主」は「すべてを治める神なる主」に変更する
④奉献文で「割って」は「裂いて」に変更する
⑤「信仰の神秘」への応唱は3通りある(*当教会では司会者が一番目の利用を指示された)
⑥「交わりの儀」では、「現代に平和をお与えください」は「世界に平和をお与えください」に変更。「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの」は「国と力と栄光は、永遠にあなたのもの」に変更
⑦「教会に平和を願う祈り」につき、アーメンの前に、「あなたはまことのいのち、すべてを導かれる神代々とこしえに」を新たに付け加える。
⑧「拝領前の信仰告白」では司祭の言葉に、「世の罪を取り除く神の子羊」を追加する。また、「食卓に招かれた者は幸い」は「食卓に招かれたは幸い」に変更する
⑨会衆の拝領前の信仰告白として、「・・・あなたをおいて誰のところに行きましょう」(ヨハネ福音書のペテロの信仰告白にもとづく日本固有の式文)のかわりに、「主よ、わたしはあなたをお迎えするにふさわしいものではありません。お言葉をいただくだけで救われます」(規範版にあるマタイ福音書の百人隊長の言葉)を使う。どちらを選んでもよい。

 わたしが理解できたポイントをあげてみたが、どれももう少し詳しい説明がほしいところだ。少し勉強してみたい。印象深かったのは、ネットを利用したミサの評価だ。わたしもコロナ禍で日曜日のミサはほとんどがYouTube利用だが、「ゆるしの秘跡は人間的対面がなくてはダメ」と司教様は言われた。つまり、ネット利用では主日のミサに参加したことにならないという。霊的聖体拝領は聖体拝領ではないということらしい。聖体訪問は有なのにな、とか、現在はコロナ禍でミサの参加義務は免除されているはずだが、とか思わなくもなかった。
 なお、この新しいミサ式次第については、このブログでは2021年11月21日と2022年9月26日にも投稿している。内容に重複があればご勘弁いただきたい。

 

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奥只見の紅葉にみた全国旅行支援

2022-11-03 10:14:18 | 観光


 コロナもほとぼりが冷めたようなので奥只見湖とドラゴンドラに紅葉旅行を楽しんできた。険しい場所らしく自分でクルマを運転しては行けそうもないところらしいので諦めていたが、ツアーがあったので思い切って申し込んでみた。奥只見湖の紅葉は評判に違わず素晴らしい景色だった。俳句や絵心でもあればこの感動を表現できるのだろうが、無趣味で不器用な自分はただ息を飲み込むだけだった。苗場ドラゴンドラは紅葉もさることながらゴンドラの設計にも圧倒された。聞きしに勝る景観だった。

【苗場ドラゴンドラから】

 


 外国人観光客もちらほら見られた。コロナによる3年にわたる長い蟄居期間からやっと解放されるのだから、観光地はどこも高齢者の観光客で一杯だった。
 コロナと言えば、全国旅行支援なるものが急遽実施され、旅行は様変わりだ。我々の今回のツアーは、この支援策が公表される大分前に申し込んだものだったが、旅行実施直前になんとひとりあたり8000円もリファンドされた。3000円のクーポン券ももらえた。ほとんどがご夫婦ふたりでの参加なので一組あたり22000円となる。この大判振る舞いに首をかしげないでもなかったが、3年間じっと耐えていたのだからそのご褒美と考えて素直にいただいておいた。これを機に海外意旅行もという声も聞こえた。円安もコロナ疲れには勝てないようだ。年寄りには日本経済の先行きを心配している暇はない。きな臭くなる前に少しは出歩いておきたいというのが皆さんのお話だった。

 

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