カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

中東イスラム圏の最近の政治紛争 ー イスラム教概論28(了)(学び合いの会)

2021-11-30 09:54:45 | 神学


Ⅹ 中東イスラム圏の最近の政治紛争 : 米ソの介入(1)

 現在国連加盟国は193カ国だが(日本政府の承認国は195カ国)、ウイキペディアによると2020年時点で戦争に従事している国家や集団は24カ所くらいあるらしい。そのうち死者が1万人を超えるのは、アフガニスタン内戦・イラク内戦・・シリア内戦・メキシコ麻薬戦争だという。以下に中東の紛争で継続中のものを思いつくままにあげてみた。

 

(世界の紛争地域:茶色大規模 赤色中規模 橙色小規模 黄色小競り合い)

 

 

①レバノン

 中東のレバント(地中海東部沿岸地域)に位置する共和制国家。シリアとイスラエルに接する。公用語はラビア語。人口は700万人弱。。宗教では、ざっと、キリスト教マロン派が1/3,シーア派が1/3、スンニ派が1/3といわれる。大統領はキリスト教徒、首相はスンニ派、国会議長はシーア派と住み分けているといわれてきた。小国だが歴史的に国際的影響力は大きい。また景観の美しい国だという。
 2020年8月に空港近くの倉庫で爆発事故が発生。その責任追及に関して内乱が発生し、キリスト教とスンニ派民兵との間に戦闘が始まった。

②チェニジア

 北アフリカのマグリブ(エジプト以西のアラブ諸国)に位置する共和制国家。西にアルジェリア、南東にリビアと接する。北は地中海だ。公用語はアラビア語。人口は1200万人くらい。イスラム教が国教で国民ほとんどがスンニ派。アフリカ世界の一部であり、地中海世界の一部であり、アラブ世界の一部でもあり、地政学的に重要な位置を占めるようだ。
 アラブの春で民主化を成功させた唯一の例とされたが、若者の失業率が40%を超えるなど経済が破綻した。サィード大統領は2021年7月に首相を解任し、国会を停止し、独裁色を強めた。民衆の反発デモが発生した。9月に新首相が指名されたが、今のところ議会は再開されていない。

③アゼルバイジャン対アルメニアの軍事紛争(ナゴルノ=カラバフ紛争)

 ナゴルノ・カラバフ地域を巡るアルメニアとアゼルバイジャンとの数十年にわたる紛争が再燃している。アゼルバイジャンはイスラム教国で産油国、アルメニアはキリスト教国で非産油国。両国が領有権を主張しているナゴルノ・カラバフ地域は国際的にはアゼルバイジャンの一部とされてきたが、事実上アルメニア系住民が多数派で地域を支配していた。
 2020年9月から続いた紛争はトルコの支援を受けたアゼルバイジャンが勝利した。なぜアルメニアは負けたのか。なぜロシアはアルメニアを助けなかったのか。
 アルメニアとロシア対アゼルバイジャンとトルコという図式で語られるが、ロシアはなぜ軍事介入しなかったのか。詳しいことはわからないが、ロシアの調整能力が不十分だったと言われる。もともとはアルメニアもアゼルバイジャンもソ連領に含まれており、ロシアは両国を敵と見なせなかったのであろう。

④アフガニスタン

 2021年8月米軍撤退が完了した。武装勢力タリバーンが首都カブールに入り、暫定政府を発足させた。報道によれば内戦が収まったとは思えない。

⑤スーダン

 北東アフリカに位置する共和制国家。公用語はアラビア語。アラブ国家だ。人口は4000万強で面積も広く、アフリカではアルジェリア・コンゴにつぐ第3の大国だという。2011年にはダルフール紛争(北のアラブ系と南の非アラブ系の対立)を経て南スーダンが独立する(第二次スーダン内戦)。
 2019年のクーデターでバシール政権は崩壊した。民政移管を目指す軍・民共同の枠組みは2年で崩壊した。2021年10月軍事クーデターで首相が軍に拘束され、暫定政権は崩壊した。日本政府(外務省)は「世界最大の人道危機」にあるとして援助を続けている。

⑥イエーメン

 アラブの春の民主化運動とともに反サレハ政権のデモが本格化し、2012年に政権は崩壊。混乱の中でシーア派のザイド派指導者フーシが2015年に首都サヌアを掌握した。暫定政権がアラブ連盟に軍事介入を求めて内戦が始まる。イランはフーシを支持し、サウジアラビアはハーディー暫定政権を支える。イエーメン内戦はシリアやリビアの内戦と比べてもイランとサウジアラビアの代理戦争の性格が強い。人権重視の米国バイデン政権がサウジ支持をやめたので、サウジの姿勢に変化が見られるという。サルマン皇太子の出方が注目される。だが中東諸国とイランの対立が収まらない限りイエーメン内戦は終わらないとの見方が強いようだ。


(イエーメン勢力分布 赤ハーディー・緑フーシ・白その他勢力)

 

 


1  中東の地域紛争は数が多くてなかなかフォローしきれない。日本の外務省のホームページには「中東」という項目(ページ)があり役立つが、「アフリカ」は別扱いになっている。

 

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アメリカ同時多発テロはアメリカを変え、中東を変えた ー イスラム教概論27(学び合いの会)

2021-11-29 11:22:25 | 神学


Ⅵ アメリカ同時多発テロ


1 同時多発テロ事件

 2001年9月11日(火)の朝、イスラーム過激派テロ組織アルカイダはアメリカ北東部の空港から出発した飛行機4機をハイジャックし、アメリカ合衆国に4回のテロ攻撃をおこなった。アメリカ同時多発テロ事件(1)である。いろいろな背景が指摘されているが、アサマ・ビン・ラディンによれば、聖地メッカを有するサウジアラビア国内に米軍基地が置かれていることに反発したからだという。

(グラウンド・ゼロ Ground Zero)

 


2 イラク戦争(第二次湾岸戦争)

 ブッシュ大統領(子)は2003年3月にに有志連合を作ってイラクおよびアフガニスタンに進軍した。ともに長期にわたる戦争となり、世界に与えた影響は大きい。イラクでは侵攻の理由として挙げられた大量破壊兵器は結局発見されず、2011年12月に米軍は完全撤退した。アフガニスタンからの米軍撤退は2021年8月で、実に20年近く戦闘が続いたことになる(2)。

 このアメリカ同時多発テロ事件を契機に,アメリカは社会的にも政治的にも分断が深化し、中東は混迷の度を強めたようだ(3)。


Ⅶ 「アラブの春」民主化運動の成功と挫折

 「アラブの春」 Arab Spring  とは、2010年にチェニジアで始まった「ジャスミン革命」をきっかけに、2011年以降アラブ諸国に広まった民主化運動をさす。ヨルダン・エジプト・バーレーン・リビアなどで反政府運動が起こり、チュニジア・エジプト・リビアでは政権が交代した。

・チェニジアではベン・アリ、エジプトのムバラク、リビアのガダフィ、イエーメンのサレハなど独裁者が失脚した。
・アラブの春はシリアにも波及し、アサド政権の命運はつきたかに思われたが、アサドはロシアとイランの支援を受け、現在もしぶとく延命中。シリアはロシアにとり中東での唯一の拠点なのだ。アサド政権を支えるアラウィ派は人口の1割程度の少数派だが、一応シーア派に入るのでイランが支援しているようだ。
・イランはライシ大統領に変わるも各国の反政府運動に介入し、イエーメン内戦ではフーシ派を支援している(4)。
・アラブの春の民主化運動は結果的には内戦、内乱、無政府状態をもたらした。エジプトは軍事政権に復帰し、リビアは内戦に陥り、シリアも同じく内戦状態が続く。イエーメンもサウジアラビアとイランの代理戦争で内戦状態だ。
・2020年以降アラブ諸国で反政府運動が起こり、「アラブの春2.0」到来という説もあるが、事態は流動的だ。
・部族制をとる王制国家(サウジアラビア・クエート・バーレーン・カタール・アラブ首長国連邦・オマーン・ヨルダン・モロッコの8カ国)は比較的政情が安定していると言われる。部族制を基盤とするアラブ世界では民主制は時期尚早なのかもしれない(5)。


Ⅷ 「イスラム国」

 「イスラム国」(IS,ISIL)はイラクとシリアにまたがる領域で活動するイスラム系過激派組織である。2019年10月に最高指導者のアブー・バヅガーディーが米軍により殺害されたが、活動は続いているようだ。「疑似国家」だという説もあるようだ。
 イスラム国はもともとはイラクのアルカィーダのメンバーの一部が、そのあまりの過激さ故にアルカイダから破門され独立した組織だという。スンニ派系だ。
・ムハンマドの血を引くと自称したアブ・バクル・アルバクダディーが率いた
・2003年にイラク戦争の結果フセイン政権が崩壊し、2011年のアラブの春でアサド政権が弱体化した結果、イラクとシリアの間に無政府地帯が生じた。彼らはこの広範囲の地帯を支配した。
・2014年に「イランとイラクのイスラム国」を「イスラム国」と改称し、全世界のイスラム地域を支配すると主張した
・バグダディは「カリフ」を名乗った
・イスラム国成功の要因は、フセイン時代の軍幹部の協力、政府軍の武器獲得、イラク中央銀行の資金強奪、人質ビジネス、石油ビジネスなどといわれる
・人材的には域内外の多くの若者が参入した
・やがてアラブ諸国、イラン、クルド族に包囲され、2014年の米軍の空爆開始でイスラム国は崩壊する。
・2019年10月に米軍がバグダーディーを急襲し、かれは自爆死した だがメンバーはテロリストとして世界各地に拡散したという
・イスラム世界の統一はアラブ人の夢だろうが、現実に国民国家が存在する以上難しいだろう
・イスラム国は、アルカィーダのようなテロリズムではなく、国家を目指した特異な存在だ(首都はシリアのラッカだったが、ここでは国家統治の術を訓練していたという)

 

Ⅸ クルド民族問題

 クルド民族はトルコ・イラク・イランにまたがる地域に暮らす遊牧民族で、イラン系の山岳民族という。人口は5000万人弱で、中東ではアラブ人・トルコ人・イラン人についで多く、国家を持たない世界最大の民族と言われる(スペインや韓国規模の人口)。
 クルド人は米国の支援のもとにイスラム国と激しく戦ったが、イスラム国崩壊後はアメリカはクルド人支援をやめた。クルド人はシリアに接近する。アメリカ軍は2019年にシリアから撤退を開始したのでトルコはシリアへ侵攻し、クルド人への攻撃を開始した。



1 「アメリカ同時多発テロ事件」というのは日本独特の表現らしい。英語では Synchronized attacksとかいろいろな表現があるらしいが、September 11 Attackstが普通らしい。9/11 だけで通じるようだ。
2 アメリカ史上最長の戦争と言われる。それでも撤退は早すぎたという声は未だにあるようだ。
3 こういう評価の妥当性を議論しだしたらキリが無い。アメリカ同時多発テロ事件はそれほど影響力が大きかったというわけだ。
4 フーシ派はイスラム教シーア派のひとつで軍事組織だという。イスラム教スンニ派のサウジアラビアは暫定政府派を支持して軍事介入しているようだ。
5 部族国家とは古代国家の最後の形態で、長子相続制にもとづく族長政治を特徴とする。単独の部族が支配したり、部族連合が支配したりするようで、現在も国により異なる。部族はtribeと訳されるが、出自の同一性では氏族と、言語の同一性では民族と、文化の同一性ではエスニック・グループと、区別が難しい。社会科学では現在はあまり使われない用語といえそうだ。
 アラビア半島で見れば、サウド家という部族が現在サウジラビアを支配しているが、サウジアラビア人という民族意識は生まれていないという。ましてやサウジ国民という意識は薄く、出身部族・出身地域・所属宗派・所属階級で自分や他者を見ているという。サルマン皇太子登場以降近年のサウジアラビアはワッハーブ派の原理主義国家から大きく変わりつつあるとも言われる。だが部族制の王制国家であることを忘れてはならない。

(ヴェールは女性差別か)

 

 

 

 

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サダム・フセインの野望と3回の戦争 ー イスラム教概論26(学び合いの会)

2021-11-28 14:19:19 | 神学


 古代から中東の覇権争いのプレイヤーは変わっていない。エジプト・メソポタミア・ペルシャだ。やがてトルコが覇権争いに加わる。

①イラン・イラク戦争 1980・9-1988 痛み分け

 イラクのサダム・フセイン(1937-2006)は中東制覇の野望を抱き、革命後のイランを攻撃した。1979年にイラン革命によってイランにシーア派のイスラム共和国が成立したばかりだ。イラン・イラク戦争が始まる。、欧米各国、ソ連や中国は革命の波及を恐れてイラクを支援した。戦いは実に8年におよんだ。両軍は多大な犠牲を払いながらも決着はつかず、1988年にイランは国連の停戦決議を受け入れた。形式的にはイラクの勝利だが、実質痛み分けと言って良いようだ。

②クエート侵入と湾岸戦争

 1990年8月2日にフセインは突如クエートを侵攻し、占領した。小国クエートはひとたまりもなく侵入を許し、王族(サバーハ家)は辛くも陸路サウジへ亡命した。この亡命は奇跡に近いほど切迫したものだったようだ。1991年1月17日に多国籍軍がイラクを空爆し、湾岸戦争が始まった。
 フセインは、アメリカは黙認すると読み間違えたようだ。米軍を中心とする多国籍軍がイラクに侵攻し、フセインは勢力範囲を縮小した。ブッシュ大統領(父)はフセインを残存させた(1)。

③アメリカによるイラク征服
 米国同時多発テロを経験したアメリカはブッシュ大統領(子)がイラクを征服し、フセイン体制は完全に崩壊する。フセインは2006年に絞首刑で死刑が執行された。シーア派住民は喜び、スンニ派住民は政府を非難したという。
 フセイン体制崩壊後のイラクの政情は安定していない。イラクの人口の約60%はシーア派、20%がスンニ派、20%がクルド族といわれる。フセイン政権は少数派のスンニ派主体だった。戦後は立場が逆転し、シーア派がアメリカの支援のもと政権を持っているが安定していないと言われる(2)。


(倒されるフセインの銅像)

 


1 日本も多国籍軍に協力したが、クエートの感謝広告に日本の名前はなく、逆にアメリカから「金だけだして人的支援が無かった」と非難された。1兆円を超す日本の支援額はほとんどアメリカに入りクエートにはわずかしか渡らなかったことが明らかになり、日本では大問題となった。
2 フセインは恐怖政治でシーア派・スンニ派・クルド人の対立を押さえ込んでいた。戦後はアメリカの占領政策の失敗とイラク政府の無能さにより内戦状態に近い状態が生まれているようだ。シリアからイスラム国(IS)が流入し、政府軍・クルド人・シーア派民兵・フセイン派の残党スンニ派などの相互の戦いがが入り乱れ、治安は相当悪いようだ。

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ソ連のアフガン侵攻はソ連のベトナム戦争だった ー イスラム教概論25(学び合いの会)

2021-11-27 10:44:02 | 神学

Ⅳ ソ連のアフガン侵攻

 ソ連軍のアフガニスタン侵攻は1979年から1989年まで実に約10年に及ぶ。長期化した戦争による被害は大きかった。ソ連軍の撤退後もアフガニスタンで内戦が続いている。

1 ソ連・アフガニスタン戦争(1979-89)(1)

① 1979年12月24日 ソ連がアフガニスタンに軍事介入 アフガン人民民主党(共産主義政党)の要請とされる 
②「ムジャーヒディーン」とよばれる抵抗運動が生まれる
③ソ連のアフガン侵攻は、異教徒によるイスラムの土地への侵略とされた
④この侵略への対抗は全ムスリムの責務とされ、アフガンはジハード主義者たちの聖域となる
⑤アフガンとパキスタンにジハード主義者たちが集結した。アメリカ・サウジアラビア・パキスタンはこれを支援し、両者は冷戦の最前線としてソ連に対抗した(2)
⑥エジプト・アルジェリア・シリア・チェニジアの過激派の若者は各国政府から厄介払いの形で送り出される
⑦1988年5月~1989年2月 ソ連はアフガニスタンから撤退
⑧アフガンは内戦状態となる ジハード戦士たちはアフガンにとりまねからざる客となってしまう
⑨ジハード戦士たちは二つの道に分かれていく:
 ・祖国に戻り、政権と対峙していく(アルジェリアの内戦、エジプトのテロなど)
 ・他地域の紛争に参加していく(ボスニア・チェチェン・コソボなど)
 ・アルカイーダの登場(3)。
⑩1996年9月 ターリバンが首都カブールを占領
⑪2021年5月 アメリカ軍撤退開始
⑫2021年8月 ターリバンが首都カブールを再度制圧 権力掌握か

 

(飢えるアフガニスタン・人道危機)

 

 

2 グローバル・ジハードの展開

 1970年代から80年代にかけて反体制運動としてイスラムのジハード運動が生まれてくる。やがてこの運動が国外に流出し、グローバル化してくる。
 ジハード運動は、アメリカ同時多発テロ事件(2001)やイラク戦争(2003~2011)当初は「ローン・ウルフ型」(一匹狼型)のテロ活動と考えられていたが、「アラブの春」(2011)を契機に運動の性格が変わり、グローバル化してきたという。9/11はアルカイーダだが、その後「イスラム国」が生まれてくる。この、「9/11→イラク戦争→アラブの春→イスラム国」の流れは一連の流れとして次稿でみていきたい。



1 アフガン侵攻とかアフガニスタン紛争とかいくつかの呼称があるようだ。どう呼ぶかで論者の立場性が問われることもあるらしい。なお、3次にわたる「アフガン戦争」(Afghan Wrs )はインド防衛を図るイギリスとアフガニスタンとの戦争を指す。
2 ムジャーヒディーンには各国から20万人ほどの戦士が集まったという。やがてアメリカ同時多発テロをおこなうウサーマ・ビン・ラーディンもその一人である。
3 アルカイーダまたはアルカイダ  Al Qeda。欧米とイスラエルに対するテロを主張するスンニ派系イスラム過激組織。グローバル・ジハードは彼らのスローガンであったという。もともとは、ビン・ラディンがソ連撤退後も残存させた武装組織で、国際的ネットワークを持つ。現在のアフガニスタンを再度支配し始めたターリバンの結成はソ連撤退後の1994年頃で、ターリバンはバシュトウン人(アフガンの主要民族)中心の土着組織のようだ。アルカイーダとは背景も性格も異なるようだ。再度掌握した権力が今後どうなるかはまだわからない。ターリバンはアルカイーダ、IS(イスラム国)と対立関係が強まってきているようだ。

 

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予想外のホメイニー革命の成功と持続 ー イスラム教概論24(学び合いの会)

2021-11-26 10:40:29 | 神学


Ⅲ イランのホメイニ革命

 ホメイニー革命(イラン革命)とは、イラン・パフラヴィー朝において1978年1月に始まった革命のこと。フランスに亡命中であったアヤトラ・ルーホッラー・ホメイニーを精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者と民衆勢力が、モハンマド・レザー・バフラビー国王の専制に反対して革命を起こし、1979年2月11日に政権を奪取した革命をさす(1)。

 専制を排除し、「イラン・イスラム共和国」を成立(4月1日)させたという意味で民主主義革命であったが(2)、ホメイニーをアヤトラ(最高指導者)(3)とするイスラム回帰の反動的革命(4)だったとも言われる。

1979年11月 イラン・アメリカ大使館人質事件 アメリカとの対立激化
1979年 イスラム革命の波及を恐れたソ連がアフガニスタンに侵攻
1980年 イラクがイランに侵攻してイラン・イラク戦争勃発 8年続くがイラクが崩壊

 イランは、アメリカと対立するのみならず、サウジアラビアなどのイスラム教スンニ派諸国とも対立している。現在のイエーメン内戦はイランとサウジの代理戦争と言われる。
 イランはイスラエルの抹殺を掲げており、「核開発疑惑」とならんで、中東の不安定要因の一つとなっている。だが、国際的に孤立しているわけではなく、第三世界の一部の国や中国はイランを支持しているようだ(5)。

 

(イラン核合意の構図)

 


1 ホメイニー革命は、イラン革命とかイスラム革命とも呼ばれる。日本の教科書ではイラン革命という名称が一般的なようだ。英語では Islamic Revolution という使い方が多いという。
2 この革命は民衆主導の革命だった点が大きな特徴だ。アメリカにもソ連にも依存しない新しいタイプの革命であった。
3 アヤトラとはシーア派の十二イマーム派の宗教法学者のなかで優れた精神的(宗教的)指導者をさすようだ。19世紀末頃から使われ始めた名称のようだ。十二イマーム派とはシーア派の主流派で、「お隠れのイマームの再臨」を信じている。イマームとは初代アリー(661年没)以来のシーア派指導者をさす。
 ルーホッラー・ホメイニーは、日本では「ホメイニ師」とか「最高指導者」とか呼ぶ慣例があるが、ホメイニーは元首でもあった。ルーホッラーもホメイニーも姓(名字)ではなく名だという。なお、ホメイニではなく、長音記号をつけたホメイニーが言語の発音に近いらしい(イラン人の知人の話 日本のWikipediaもこの説を採っている 世界史の教科書は単にホメイニと記述している)。
4 ホメイニーに従って、「法学者」が支配し、「イスラム法」の徹底した適応を目指したようだ。イスラム原理主義的と呼んで良いかどうかは議論のあるところだが、政治的自由を抑圧するという意味で反動的と言える。統治体制は権威主義的であると言われる。
5 トルコやソ連はイラン寄りらしい。問題は、ホメイニー革命が成功してこの体制がこれほど長く続いていることをどう評価するかだ。イランの社会、宗教、教育、女性の地位などの変化のフォローが重要になってくる。

 

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