カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

旧約と新約が描く個人の終末とは ー 終末論(3)(学び合いの会

2022-09-30 09:39:30 | 神学


Ⅱ-3 旧約時代の死後の観念

 以上はイスラエル民族または人類全体の終末についての旧約の考え方であるが、人間個人個人の終末または死についての考え方を以下の通りにまとめてみた。

 もともとユダヤ教の伝統は神とイスラエル民族全体との結合(つまり契約)がテーマであり、古代イスラエル人は個人の死についてはあまり問わなかった。旧約聖書全般では、長生きすること・富と子宝に恵まれること・社会的地位や名声を得ることが、人生の目的とされた。人間は死ぬと、シェオール(よみ 黄泉、新共同訳では陰府)に下り、地上との関係のみならず神との関係も絶たれ、悦びも希望もない陰のような存在になると考えられていたようだ。知恵文学以外で死者の希望を語るものはまれだという。死後の「報い」について語るのは「知恵の書」だけである。

 だが、捕囚期以降、個人の死が問われるようになる(ヨブ記・第二イザヤ)。前2世紀頃から死後の生命への希望が芽生える。マカバイ時代(1)には来世の賞罰を考えるようになり、殉教精神が芽生え、死者のための祈りがおこなわれるようになる。

 黙示文学では義人の復活や永遠の生命が語られ、終わりの日の復活という思想が発展する。正しい人は永遠の生命を得、不正な人は永遠の死に入ると考えられた。復活について様々な論争が起こった。ヘレニズム期には霊肉二元論により、肉体は滅びるが霊魂は不滅だと考えられた。人間は死後、魂は天国で終末を待つと考えられたようだ。

 紀元1世紀頃のユダヤ教各派の死後についての考え方は以下の通りである。

①サドカイ派:死は個人の終わりである。死後の生はない。黙示思想に反対し、モーセ五書(律法)のみを認める。
②ファリサイ派:最後の日には肉体が文字通り復活する。
③エッセネ派:自らを終末的祭司の国を実現する者と見なし、霊魂の不滅を主張した。
④クムラン教団:肉体の復活を信じているが、死体が息を吹き返すのではなく、復活後は人は天使のような存在形態になると考えた。共有財産制と独身制を守り、病人・貧者を排除し、終末を早めようとする閉鎖的な集団。終末的集団ともいえる(2)。

Ⅲ 新約聖書

 新約は旧約の終末思想をイエス・キリストに収斂させ、イエスこそ旧約の預言者たちが告知したメシアであると断言する。だがイエスをどう理解するかは新約の文書の類型ごとに微妙に異なる。文書を類型化して整理してみる。

1 共観福音書

①イエスの説く終末は、恐るべき主の日というよりも、貧しい心砕かれた人々への神の恵みの到来だとされる(ルカ4:18-19,マタ20:1-16)。旧約の悲しみの断食ではなく、婚姻の喜びで表す(マコ2:18-20)。終末の到来は神の国の実現であり、ユダヤ教の体制から除外された人々が先にこの国に入るとされた。
②終末の神の国の構成員として、正統ユダヤ教では不浄とされた徴税人(マタ9:9-13)や、いわゆる罪人や(3)、罪の女も集められる。
③神の国は、地中に埋められた真珠(マタ13:44-46)や種の内に隠されている。律法の遵守や信心業によって人が自力で神の国を実現できると思ってはならない。神の国の決定的実現の時は神だけが知る。
④日常的な生活においては、神の国の恵みを生きるためには神の義を求めなければならない(山上の説教、その生き方)。互いに相手の内にイエスの姿を認め、助け合う隣人愛の実践が神の国である(マタ25:31-46)。かくしてアガペーが最高の掟となる(4)。
⑤一方では神の国はすでに到来しているが、他方では完全には到来していないともされる。したがって神の国の到来を祈り求めなければならない(マコ13:9-31)。
⑥イエスがメシアであることは、イエスの受難・復活・昇天によって示される。神の右の座についた栄光のキリストの霊と共に(5)、目に見える神の国である教会も発展する。その歩みはキリストの再臨と共に完成する(使徒1:6-11)。

2 パウロ書簡

 パウロ書簡では終末論は体系的には展開されていないとされるが、基本的には終末的恵みの存在と再臨への期待を含んでいる。

・キリストの復活によって、失われた人間性が回復されて、旧約が期待した終末が完成されたとした(ロマ6:2-11)。
・この世は神と和解し、罪人は信仰によって義とされる(ロマ5:6-11)。
・人は洗礼とエウカリスチアによりキリストと結ばれ(6)、キリストの肢体となる(コロ2:10-13)
・宇宙もキリストの勝利に服する(コロ2-15)
・しかし他方で、キリストの再臨が待望される。パウロは当時の黙示文学的手法を使って肉における最終的復活と裁きを告知する(1コリ15章)
・被造界はこの完成の時を待望している(ロマ9-11章)
・教会の現在は「すでに」と「まだ」の中間にある(2コリ5:1-5)

3 ヨハネ文書

 ヨハネにおいては,終末の現在性が強調される。つまり終末はすでに来ているとされる。

・信じる者には生命が移る(ヨハ5:24)
・もはや死の支配下にはない(ヨハ6:50)
・イエスにおける神の現存を信じない者はすでに裁かれている(ヨハ3:17-21)
・信じる者は栄光に与る(ヨハ17章)
・イエスの受難・復活・昇天を通してイエスとすべての人々は兄弟として同じ父なる神をいただく(ヨハ20:17)
・アガペーがこの終末の力である(1ヨハ3:13-18)
・イエスキリストを認めないこの世には救いはない(1ヨハ4:1-6)

 一方、ヨハネ黙示録には、福音書の現在的終末論とは対比的な黙示思想が現れる。すなわち、終末の時にサタンが最終的決戦を挑むが神に滅ぼされ、その後全人類の復活と審判がなされ、新たな天地が選民に与えられる(黙20章)。
 この図式は黙示文学には共通する。ヨハネ黙示録は二世界説をとり、神話的表徴が見られ、秘義的である。この書は、ネロ(在位54~68)、ドミティアヌス帝(在位81~96)下で迫害された信徒を励ますために書かれたと見なされている(7)。
 他方で、この書は、主の復活、キリストの救いの現在性を示し(すでに救われているとする)、さらに諸教会へは回心を勧め、神の国の再臨の「突然性」が強調される(黙1~3章)。こういう意味では単なる黙示思想の域を脱している(8)。

4 新約聖書の終末論のまとめ

 新約の終末論は、この世の価値観を否定し、貧しく小さな者に到来する神の恵みと支配を強調し、イエスの復活による新たな歴史における人間の生き方を示す。教会はキリストの復活と再臨の間を終末に向かって歩む。グノーシス主義的ペシミズム、つまり超越的彼岸にのみ期待し、現実を逃避するペシミズムを超克した、希望に満ちた生き方を主張する終末論である。

 

 [最後の審判](ミケランジェロ)(システィナ礼拝堂祭壇)

 



1 マカバイとは前2世紀にシリアに対するユダヤの反乱を指導したユダの別名。マカバイ戦争は前167年。マカバイ記は七十人訳聖書では4文書あるが、カトリック教会は第1と第2を正典として認め、新共同訳では続編に含められている。
2 クムラン教団 Qumran community  クムラン宗団とも。死海写本で明らかになる。エッセネ派と見なす見解が主流だが他の説もあるようだ。イエスはエッセネ派の影響下にあったという議論も根強い。
3 罪人とは誰かは色々議論はあろうが、ここでは律法を守れない人、実行できない人をさすと理解しておこう。
4 アガペー 日本語では愛と訳されるが、日本語ではアガペーをエロス、フィリアと区別することが出来ないので説明が難しい概念のようだ。ギリシャ哲学ではあえてアガペーを神愛、フィリアを友愛、エロスを純愛(性愛)と訳すこともあるようだが日本語としてはなじまない気がする。アガペーはキリスト教の中心概念で、基本的に新約聖書のなかで成立する概念といえよう。やがて隣人愛として概念化され、より普遍的な意味をもつようになる。
5 「左の文化」が支配的な日本文化からみると、なぜ「左の座」ではなく「右の座」なのかは興味深いテーマだ。神から見て右側だろうから、対面する我々からは左側に見えるのだろうか。キリスト教図像学のテーマらしい。仲村圭志「宗教図像学入門」(中公新書2021)など。
6 エウカリスチアとは聖体祭儀のこと。「感謝の祭儀」とも呼ばれる。ミサで言えば、「ことばの典礼」に続く。カトリックでは七つの秘跡の中で洗礼・堅信にならぶ最も重要な秘跡である。
7 第一次ユダヤ戦争は66年、第二次ユダヤ戦争は132年。ヨハネ黙示録は新約の中でも謎めいた文書だ。エフェソなど7つの教会に宛てた手紙の形式をとっており,7つの角と7つの目をもった子羊が7つの巻物の封印を解き、7人の天使が順番にラッパを吹き、7つのから神の怒りが降り注ぎ、世界に終末が訪れる。やがてキリストと殉教者たちが千年間支配する千年王国の時代が続く。ついで、サタンが再び現れるが神の前に敗れ去る。ここで最後の審判がおこなわれ、新しいエルサレムが降り、再臨したキリストが支配する神の国が永遠に続く。ちなみに、12使徒の中で唯一殉教しなかった、つまり生きて天寿を全うしたのが使徒ヨハネだという。だが黙示録の著者が使徒ヨハネかどうかは現代でも賛否が分かれているという。
87 黙示文学という文学類型は、歴史の終末を預言し、不正と悪に支配される現代は、正義が支配する未来に席を譲らねばならない、と説くのが特徴だ。そしてヨハネの黙示録は神の国の再臨を「すぐにも起きるはずのこと」(黙1:1)として描く。終末は今すぐ来てもおかしくはない、とヨハネは説いている。黙示思想の域を脱しているとはこういう意味であろう。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終末に審判はあるのか ー 終末論(2)(学び合いの会)

2022-09-28 16:55:50 | 神学


Ⅰ 終末論の概念

 終末論 eschatologia(ラ) eschatology(英)とは、最終の事柄(終末)に関する論述のこと。「時間の終わり」または「救いの完成」について(1)聖書が述べていることを吟味する神学的作業をさす。
 伝統的なスコラ神学では、終末論のテーマは、一方では個々の人間の死の後に起こる私審判、煉獄、天国、地獄という出来事を指し、他方では、世界の歴史の終わりの出来事、つまり、キリストの再臨、死者の復活、公審判を指していた。
 だが、20世紀半ばにカトリック神学に起こった人間学への接近により、終末論は「死についての神学」と位置づけられるようになる。人間の、生きている間になされた自由意志に基づく決断が、死に臨んで徹底的なものになると考えるようになる(K・ラーナー、ゼメロート)(2)。
 第二バチカン公会議で現代世界憲章が制定された後、世界史的・宇宙論的次元における完成という考え方が明確に取り入れられるようになった。つまり、終末論とは、神の国において約束されたわれわれ(個人・教会・世界)の究極的将来に対するキリスト教的希望を学問的基礎において解釈するものとして位置づけ直された。その神学的根拠は聖書と教会の伝統の中に見いだされるとした。

Ⅱ 旧約聖書

 旧約聖書は完結した終末論を持っている。終末とは、神が歴史に介入し(3)、イスラエルを救う徹底的な時をさす。それはメシアにより媒介されて実現される(4)。悪人にとっては裁きの時であり、回心する者にとっては恵みの時である。旧約の終末論は、時代と共に展開し、やがて黙示思想に至る。

1 捕囚期以前

 捕囚期前のイスラエルでは不正が横行し、バール礼拝が始まっていた(5)。預言者アモスとそれに続くオセアは、主の日が来て(アモ5:18-20)、裁きが下り、回心する者、貧しい者にとっては救いの時であると主張した(アモ9:11-15,ホセ14:2-10)。
 南のユダ王国に3人の若者、預言者が現れ、おのおの時代を画する。イザヤは終末の日々にも(イザ2:10-17)、インマニエルによる救いを告げる(イザ8:23-29)。アッシリアへの批判だ。
 ミカは、貧しい者・残りの者は裁きを免れ(ミカ5:6-7)、メシアによって救われるとした(ミカ5:1-5)。エルサレムの没落を預言する。
 エレミアは、終末にあってはシナイ契約は無力になり(6)、新しい契約が結ばれるとした(エレ31:31-34)。ユダ王国が新バビロニアに破壊されるという預言だが、結局無視され、紀元前598年以降数回にわたりバビロン捕囚が始まる。

 【シナイ山】(ホレブ山とも シナイ半島)


2 捕囚期時代

 以上の終末論の基本的構造はは捕囚期においても変わらなかったが、バビロン捕囚と帰還という大事件を機に、その視野は世界史的・宇宙論的次元に拡大した。バビロン捕囚の中でユダヤ人独特の文化が生まれ、ユダヤ人という新たな民族的概念、アイデンティティーが生まれた。エゼキエルや第二イザヤなどの預言者が登場し、ヤーウエ信仰を守ろうとした。

 エゼキエルの預言は、イスラエルの裁き→捕囚による破局→神殿の再建と神の恵みによる再興 というもので、人々に希望を与えた。再興への希望は、「枯れた骨の生き返り」(エゼ37:1-11 生き返りは復活とか幻とも訳される)により表されているという。他方かれの終末論は黙示思想的になり、歴史的と言うよりは祭司的な色彩を帯びたという(エゼ28:25-26)。

 第二イザヤは、神がペルシャ王キュロスを用いてイスラエルを救うと救済観を述べ、人々に希望を与えた。救いは、栄光のメシアによるのではなく、「主の僕」によって実現されるとした(イザ52:13-53)(7)。この僕は、人々の罪を贖うメシアであり、ダビデのような政治メシア像は転換される。イエス・キリストの最も明らかな預言とされる。

3 捕囚期以後

 ユダヤ人がエルサレムに帰還した時代に終末論は預言者的終末論から黙示文学的終末論へ移行したと言われる(8)。エズラネヘミアが活躍し、城壁を再建する。
 
 ゼカリアは、終末の到来を超越論的・宇宙論的・予定論的に描き、「七つの幻」として示す(ゼカ1-8)。メシアは、ロバに乗ってエルサレムに来る王として、また、刺し貫かれた者として、二つの異なった類型で描かれる。
 ヨエルは、終末時の神の霊の再臨を描写する。終末の裁きは、イスラエルのみならず世界史的規模へと拡大される。
 ダニエル書は黙示文学の頂点である。その終末の描写は神話的・秘義的・メシア的で、人の子の描き方も宇宙論的である。
 黙示思想の終末論は善悪二元論の傾向が強く、予定論的でもある。預言者的終末論と比べると、終末における悔い改めの要素が希薄で、現実への深いペシミズムが流れている。預言者的終末論は歴史における救いの完成とそれに対する人間の回心と責任を強調するが、黙示思想的終末論は神秘的・秘義的であり、予定説的である。人間の歴史的責任や回心を奪い、グノーシス主義的な(9)現実逃避の傾向を持つ。



1 「または」は「すなわち or」の意のようだ。もともと「時間の終わり」と「救いの完成」は同じではないとされてきたが、新しい終末論・救済論では同じだと言いたいようだ。終末論は歴史の終わりの視点から歴史全体を意味を持つ統一体として理解しようとする。これは独特な歴史観だ。歴史に意味は無いとか、時間は循環するだけだとか考えるとき終末という思想は生まれてこない。
2 K・ラーナーは「無名のキリスト者」論で知られる。O・ゼメロートは共同体論的な神学を展開した。キュンクやラーナーやゼメロートは第二バチカン公会議に大きな理論的影響を与えた。
3 「神が歴史に介入する」とはよく聞く言葉だがその意味するところは多様だ。普通は、神が世界の出来事に介入するということだが、なにかを引き起こすだけではなく、なにかが起きることを防ぐ・妨げる場合も神の介入という人もいる。旧約聖書全体が神の介入の例だともいえるし、イエスの誕生と復活に限定することもあるようだ。
4 メシアとは救世主のことで、「油注がれた者」という意味のようだ。いろいろな説明が可能だろうが、聖書的には、ダビデのような政治的・軍事的な解放者というイメージか、イエスのような受難に代表される神の僕というイメージの二つがあるようだ。メシアを待つ、とはどのような解放者をイメージするかで意味が異なってくるようだ。
5 バール(バアル)とはカナン人の神のこと。最高神では無いが重要な神であったようだ。人間や家畜や作物を不妊・不作・死から救い出すと考えられていた。性的な秘義性を持つといわれ、律法を守らなくともよいと考えていたようだ。聖書によればイスラエル人はカナン人の影響を受けるようになる。
6 シナイ契約とは、モーセがシナイ山で神と結んだ契約のこと。神とイスラエルの民との間で結ばれた契約をさす。神はイスラエルの民の神となり、イスラエルは神の民となる、という契約。十戒を指すこともある(第1戒 わたしのほかに神があってはならない・・・)。
7 イザヤ書の1~39章は第一イザヤ、40~55章は第二イザヤと呼ばれ、捕囚を解放するペルシャ王キュロスの台頭を背景としている。56~66章は第三イザヤで、前520年に始まり前515年に完成したエルサレムの神殿再建が背景となっている。
8 黙示 apocalypse(英)とはもともと「覆いをはがすこと」という意味らしい(岩波哲学思想事典)。転じて世界と歴史の奥義を明らかにすることを意味するようになる。具体的には世界と歴史の終わりを意味することになる。旧約で言えば「ダニエル書」が代表とされるようだ。黙示思想や黙示文学は多岐にわたるようだが、歴史を始まりから終わりに(創造から終末に)直線的につながるものとして理解する点では共通だという。歴史に繰り返しや循環はないと考える独特の時間観念である。ユダヤ教黙示思想はキリスト教を生み出す母胎だったとされる。
9 グノーシス主義とは1~4世紀頃盛んで、古代教会の正統派からは異端とされた思想。霊肉の二元論をとる。グノーシスとは知識・認識を意味し、本質(光・霊)を物質(闇・肉体)よりも重視する。マニ教もグノーシス主義のひとつだという。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「審判」論から「完成」論へ ー 終末論(1)(学び合いの会)

2022-09-27 13:21:34 | 神学


 2022年9月の学び合いの会は、台風一過、秋晴れのもとに開かれた。すがすかしい空気のもとで参加者も増え、10名はおられたようだ。
 今回のテーマは終末論である。カトリック神学のなかで「神学的人間論」のテーマで言えば、神論・創造論・原罪論・恩恵論に続く最後のテーマとなる。永らく誰も触れたくないテーマだったが、21世紀に入って終末論への関心が世界的に高まってきているという。

 昨日は年間第26主日(C年)で、福音朗読はルカ16:19-31だった。ラザロとファリサイ派の金持ちの話である。陰府の場面が出てくるからだろうか、YouTubeで与ったイグナチオ教会のミサでは神父様(日本人)はお説教でしきりに「今はお彼岸だからお墓参りしましょう」と言われ、彼岸・此岸の比較と「浄め」の説明をしておられた。言いたいことはわからなくもないが、せっかくのお説教なのだからキリスト教の煉獄論でも聞きたかったところだ。

 【ラザロと金持ち】

 

 

 終末論と言われてもなかなかピンと来ない。それは、現代の終末論は一昔前の終末論とは全くといってよいほど異なるからだ。人は死んだら私審判と公審判があるとか、煉獄のような中間期(待機状態)があるとか、天国は「上」で地獄は「下」だとか、昔の公教要理で習った終末に関する教義を相変わらずそのまま信じている信徒が少なくない。こういう視点で「ラザロと金持ち」の話を聞かされてもあまり腑に落ちないのは当然だろう。現代の(第二バチカン公会議以降の)終末論は、「審判」論ではなく、世界史的・宇宙論的「完成」論として展開されている。この変化を論じるのが今日の終末論の課題なのだと思う。何のことを言っているのか、これをこれから少し考えてみたい。

 終末論を考えるとき、大前提が二つある。一つは、終末には、個人(人間)の終末と、世界(宇宙と歴史)の終末の二つがあるという点だ。個人の死と世界の死はー神学的には結局は同じであってもー区別して見ていく必要がある。
 第二の前提は終末論は基本はイスラエルの歴史がベースになっている。現代のディアスポラ(難民とは区別される)を視野に入れた終末論ですら、その歴史観・時間観はユダヤ教的だ。イスラエルの歴史、特に聖書時代から離散時代までの歴史の知識がないと終末論は理解が難しいようだ。終末論は歴史の展開のなかでー極端に言えばーユダヤ教的な民族(国家)の解放と救済の話からキリスト教的な個人の解放と救済の話に切り替わる。イスラエルの歴史を少しふり返っておきたい(1)。

 今回の終末論の目次は以下の通りである。順番に見ていきたい。

1 終末論の概念
2 旧約聖書
  ①捕囚期以前 ②捕囚期時 ③捕囚期後 ④旧約時代の死の概念
3 新約聖書
  ①共観福音書 ②パウロ書簡 ③ヨハネ文書 ④新約聖書の終末論のまとめ
4 教義的観点
  ①世界史的次元 ②個人史的次元
5 体系的終末論
  ①普遍的な神の国への希望 ②教会の役割 ③個人の死と永遠の生命への希望

 難しい話になりそうなので、自分が理解できるところだけを整理してみたい。


1 イスラエルの歴史をごくごく簡単に整理してみた。イスラエルの歴史は紀元前18世紀頃始まったようだ。いくつかの説があるようなので厳密な話ではなさそうだ。
 
【聖書時代】 紀元前17~6世紀
①族長時代。アブラハム・イサク・ヤコブがイスラエルに定住。飢饉によりエジプトに避難。約400年間エジプトに隷属する
②出エジプト 前13世紀
モーセによるエジプト脱出 シナイ砂漠を40年間放浪し、十戒などトーラーを授かる(モーセ五書)
③王国の時代 前13~10世紀
イスラエル民族がイスラエルに定住 サウル・ダヴィデ・ソロモンの王国時代 やがて南北に分裂
④北のイスラエル王国がアッシリアにより滅亡 B.C.722-720
⑤バビロン捕囚 南のユダ王国がバビロニアに征服される B.C.586
【第二神殿時代】
①バビロンから帰還 神殿の再建 B.C.536-515
②アレキサンダー大王がイスラエルを征服 ギリシャ支配が始まる B.C.332
③ハスモン朝の自立 前2世紀
④ローマ軍司令官ポンペイがエルサレムを占領
【ローマ支配時代】
①ローマのヘロデ王がイスラエルを支配 63BCE
②ナザレのイエスの伝道 20-33CE(1)
③第一次ユダヤ戦争(ローマへの反乱) 66-70CE
④第二神殿の崩壊 70CE
【外国の統治とディアスポラ】 紀元4世紀から20世紀まで
①イスラエル建国 1948CE



1 ここでは(参考文献が違うので)BCとBCEを混用しているが意味は同じ。BCはBefore Christ, BCEはBefore the Common Era。ちなみに ADはAnnno Domini(the year of Our Lord)で西暦のことでCE(Common Era)とも言うようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新しいミサ式次第」の準備

2022-09-26 21:12:50 | 教会


 2022年9月24日(土)に梅村昌弘司教を講師とするカテキスタ会の公開講座(第24回)が雪の下教会で開かれたようだ。わたしは急用で出席できなかったが、90名ほどの出席者があったという。いずれ詳しい報告がなされるだろうが、新しいミサ式次第がすぐに始まる。
 横浜教区典礼委員会はその冊子「典礼の風」(No.27)などで周知を図っているようだが、わたしの所属教会ではこの冊子すら配布されず、神父様もお説教で11月からミサが変わることに一言の言及もない。さすが来月にはミサの練習がおこなわれるだろうが、他教会では準備が始まっているところもあると聞く。コロナ対策でミサは相変わらず地域割り・名簿順割が続き、練習どころではないのかもしれない。
 横浜教区典礼委員会は「新しいミサ式次第」の研修用動画を公開しているので大体の様子はわかるが、文言が大分変わるようだ。同委員会によると、
「今年の11月27日日曜日(待降節第一主日)から新しい「ミサの式次第」の使用が始まります。それに伴い、横浜教区典礼委員会では新しい「ミサの式次第」実施に向けての準備のために、2つの研修用動画(①新しい「ミサの式次第」を使った模擬ミサ、②新しい「ミサの式次第」についての解説)を作成いたしました(各約30分)。以下のリンクあるいはQRコードからご視聴いただけますので、ご利用いただければ幸いです。」とある。

https://youtu.be/Il82flgJxYI
https://youtu.be/W1CD0SpKeiM

 【新しいミサ式次第】

 

 カトリック中央委員会は『新しい「ミサ式次第と第一~第四奉献文の変更箇所』を昨年10月に出版しているので(1)、ミサではこれを使うのだろうが、なにかもっと簡単に持ち運びできるものが欲しいところだ。
 変更箇所は多岐にわたるようだが、研修用動画を見た限りではあまり違和感は感じなかった。さすが「また司祭とともに」が「またあなたとともに」とか「あわれみ」が「いつくしみ」に変わるとか「パンを割る」が「パンを裂く」になるとか、慣れるまで時間がかかるだろうが、わたしが一番印象深かったのは、4つの賛歌にラテン語表記が戻ったことだ。
   いつくしみの賛歌(キリエ)・栄光の賛歌(グロリア)・感謝の賛歌(サンクトゥス)・平和の賛歌(アニュス・ディ)
 さすが メア・クルパ(わが過ち)はないだろうが、「キリエ、エレイソン・・・」は復活するのかもしれない。
 などなど色々知りたいこともあるが、他教会の様子がわからないのですこし愚痴を連ねたてみた。カト研の皆さんの教会ではどういう状況でしょうか。


1 新しいミサの式次第については昨年11月21日のブログにもその時の印象を投稿している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする