Ⅱ-3 旧約時代の死後の観念
以上はイスラエル民族または人類全体の終末についての旧約の考え方であるが、人間個人個人の終末または死についての考え方を以下の通りにまとめてみた。
もともとユダヤ教の伝統は神とイスラエル民族全体との結合(つまり契約)がテーマであり、古代イスラエル人は個人の死についてはあまり問わなかった。旧約聖書全般では、長生きすること・富と子宝に恵まれること・社会的地位や名声を得ることが、人生の目的とされた。人間は死ぬと、シェオール(よみ 黄泉、新共同訳では陰府)に下り、地上との関係のみならず神との関係も絶たれ、悦びも希望もない陰のような存在になると考えられていたようだ。知恵文学以外で死者の希望を語るものはまれだという。死後の「報い」について語るのは「知恵の書」だけである。
だが、捕囚期以降、個人の死が問われるようになる(ヨブ記・第二イザヤ)。前2世紀頃から死後の生命への希望が芽生える。マカバイ時代(1)には来世の賞罰を考えるようになり、殉教精神が芽生え、死者のための祈りがおこなわれるようになる。
黙示文学では義人の復活や永遠の生命が語られ、終わりの日の復活という思想が発展する。正しい人は永遠の生命を得、不正な人は永遠の死に入ると考えられた。復活について様々な論争が起こった。ヘレニズム期には霊肉二元論により、肉体は滅びるが霊魂は不滅だと考えられた。人間は死後、魂は天国で終末を待つと考えられたようだ。
紀元1世紀頃のユダヤ教各派の死後についての考え方は以下の通りである。
①サドカイ派:死は個人の終わりである。死後の生はない。黙示思想に反対し、モーセ五書(律法)のみを認める。
②ファリサイ派:最後の日には肉体が文字通り復活する。
③エッセネ派:自らを終末的祭司の国を実現する者と見なし、霊魂の不滅を主張した。
④クムラン教団:肉体の復活を信じているが、死体が息を吹き返すのではなく、復活後は人は天使のような存在形態になると考えた。共有財産制と独身制を守り、病人・貧者を排除し、終末を早めようとする閉鎖的な集団。終末的集団ともいえる(2)。
Ⅲ 新約聖書
新約は旧約の終末思想をイエス・キリストに収斂させ、イエスこそ旧約の預言者たちが告知したメシアであると断言する。だがイエスをどう理解するかは新約の文書の類型ごとに微妙に異なる。文書を類型化して整理してみる。
1 共観福音書
①イエスの説く終末は、恐るべき主の日というよりも、貧しい心砕かれた人々への神の恵みの到来だとされる(ルカ4:18-19,マタ20:1-16)。旧約の悲しみの断食ではなく、婚姻の喜びで表す(マコ2:18-20)。終末の到来は神の国の実現であり、ユダヤ教の体制から除外された人々が先にこの国に入るとされた。
②終末の神の国の構成員として、正統ユダヤ教では不浄とされた徴税人(マタ9:9-13)や、いわゆる罪人や(3)、罪の女も集められる。
③神の国は、地中に埋められた真珠(マタ13:44-46)や種の内に隠されている。律法の遵守や信心業によって人が自力で神の国を実現できると思ってはならない。神の国の決定的実現の時は神だけが知る。
④日常的な生活においては、神の国の恵みを生きるためには神の義を求めなければならない(山上の説教、その生き方)。互いに相手の内にイエスの姿を認め、助け合う隣人愛の実践が神の国である(マタ25:31-46)。かくしてアガペーが最高の掟となる(4)。
⑤一方では神の国はすでに到来しているが、他方では完全には到来していないともされる。したがって神の国の到来を祈り求めなければならない(マコ13:9-31)。
⑥イエスがメシアであることは、イエスの受難・復活・昇天によって示される。神の右の座についた栄光のキリストの霊と共に(5)、目に見える神の国である教会も発展する。その歩みはキリストの再臨と共に完成する(使徒1:6-11)。
2 パウロ書簡
パウロ書簡では終末論は体系的には展開されていないとされるが、基本的には終末的恵みの存在と再臨への期待を含んでいる。
・キリストの復活によって、失われた人間性が回復されて、旧約が期待した終末が完成されたとした(ロマ6:2-11)。
・この世は神と和解し、罪人は信仰によって義とされる(ロマ5:6-11)。
・人は洗礼とエウカリスチアによりキリストと結ばれ(6)、キリストの肢体となる(コロ2:10-13)
・宇宙もキリストの勝利に服する(コロ2-15)
・しかし他方で、キリストの再臨が待望される。パウロは当時の黙示文学的手法を使って肉における最終的復活と裁きを告知する(1コリ15章)
・被造界はこの完成の時を待望している(ロマ9-11章)
・教会の現在は「すでに」と「まだ」の中間にある(2コリ5:1-5)
3 ヨハネ文書
ヨハネにおいては,終末の現在性が強調される。つまり終末はすでに来ているとされる。
・信じる者には生命が移る(ヨハ5:24)
・もはや死の支配下にはない(ヨハ6:50)
・イエスにおける神の現存を信じない者はすでに裁かれている(ヨハ3:17-21)
・信じる者は栄光に与る(ヨハ17章)
・イエスの受難・復活・昇天を通してイエスとすべての人々は兄弟として同じ父なる神をいただく(ヨハ20:17)
・アガペーがこの終末の力である(1ヨハ3:13-18)
・イエスキリストを認めないこの世には救いはない(1ヨハ4:1-6)
一方、ヨハネ黙示録には、福音書の現在的終末論とは対比的な黙示思想が現れる。すなわち、終末の時にサタンが最終的決戦を挑むが神に滅ぼされ、その後全人類の復活と審判がなされ、新たな天地が選民に与えられる(黙20章)。
この図式は黙示文学には共通する。ヨハネ黙示録は二世界説をとり、神話的表徴が見られ、秘義的である。この書は、ネロ(在位54~68)、ドミティアヌス帝(在位81~96)下で迫害された信徒を励ますために書かれたと見なされている(7)。
他方で、この書は、主の復活、キリストの救いの現在性を示し(すでに救われているとする)、さらに諸教会へは回心を勧め、神の国の再臨の「突然性」が強調される(黙1~3章)。こういう意味では単なる黙示思想の域を脱している(8)。
4 新約聖書の終末論のまとめ
新約の終末論は、この世の価値観を否定し、貧しく小さな者に到来する神の恵みと支配を強調し、イエスの復活による新たな歴史における人間の生き方を示す。教会はキリストの復活と再臨の間を終末に向かって歩む。グノーシス主義的ペシミズム、つまり超越的彼岸にのみ期待し、現実を逃避するペシミズムを超克した、希望に満ちた生き方を主張する終末論である。
[最後の審判](ミケランジェロ)(システィナ礼拝堂祭壇)
注
1 マカバイとは前2世紀にシリアに対するユダヤの反乱を指導したユダの別名。マカバイ戦争は前167年。マカバイ記は七十人訳聖書では4文書あるが、カトリック教会は第1と第2を正典として認め、新共同訳では続編に含められている。
2 クムラン教団 Qumran community クムラン宗団とも。死海写本で明らかになる。エッセネ派と見なす見解が主流だが他の説もあるようだ。イエスはエッセネ派の影響下にあったという議論も根強い。
3 罪人とは誰かは色々議論はあろうが、ここでは律法を守れない人、実行できない人をさすと理解しておこう。
4 アガペー 日本語では愛と訳されるが、日本語ではアガペーをエロス、フィリアと区別することが出来ないので説明が難しい概念のようだ。ギリシャ哲学ではあえてアガペーを神愛、フィリアを友愛、エロスを純愛(性愛)と訳すこともあるようだが日本語としてはなじまない気がする。アガペーはキリスト教の中心概念で、基本的に新約聖書のなかで成立する概念といえよう。やがて隣人愛として概念化され、より普遍的な意味をもつようになる。
5 「左の文化」が支配的な日本文化からみると、なぜ「左の座」ではなく「右の座」なのかは興味深いテーマだ。神から見て右側だろうから、対面する我々からは左側に見えるのだろうか。キリスト教図像学のテーマらしい。仲村圭志「宗教図像学入門」(中公新書2021)など。
6 エウカリスチアとは聖体祭儀のこと。「感謝の祭儀」とも呼ばれる。ミサで言えば、「ことばの典礼」に続く。カトリックでは七つの秘跡の中で洗礼・堅信にならぶ最も重要な秘跡である。
7 第一次ユダヤ戦争は66年、第二次ユダヤ戦争は132年。ヨハネ黙示録は新約の中でも謎めいた文書だ。エフェソなど7つの教会に宛てた手紙の形式をとっており,7つの角と7つの目をもった子羊が7つの巻物の封印を解き、7人の天使が順番にラッパを吹き、7つの鉢から神の怒りが降り注ぎ、世界に終末が訪れる。やがてキリストと殉教者たちが千年間支配する千年王国の時代が続く。ついで、サタンが再び現れるが神の前に敗れ去る。ここで最後の審判がおこなわれ、新しいエルサレムが降り、再臨したキリストが支配する神の国が永遠に続く。ちなみに、12使徒の中で唯一殉教しなかった、つまり生きて天寿を全うしたのが使徒ヨハネだという。だが黙示録の著者が使徒ヨハネかどうかは現代でも賛否が分かれているという。
87 黙示文学という文学類型は、歴史の終末を預言し、不正と悪に支配される現代は、正義が支配する未来に席を譲らねばならない、と説くのが特徴だ。そしてヨハネの黙示録は神の国の再臨を「すぐにも起きるはずのこと」(黙1:1)として描く。終末は今すぐ来てもおかしくはない、とヨハネは説いている。黙示思想の域を脱しているとはこういう意味であろう。