カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

黙想会「イエスはフーテンの寅さんだった」

2015-09-13 20:56:58 | 神学
今晩は。台風の被害地域は広いようですが、皆様は大丈夫でしたでしょうか。黙想会に行ってきました。鎌倉十二所にあるイエズス会黙想の家です。ここは大昔カト研の仲間達と行ったことのある懐かしい場所で、覚えておられる方も多いことでしょう。当時は鎌倉駅からみんなそろって歩いたものでした。バスなんて無かったのかもしれません。
指導司祭はドミニコ会の米田彰男師で、テーマは「寅さんとイエス」です。寅さんとは、映画やテレビで話題となった例のフーテンの寅さん(渥美清)です。エッ、というテーマですね。
米田師は現役の聖書学者で、清泉女子大でギリシャ語・ラテン語を教え、フランス語と英語で論文を書くという逸材ですから、なんで寅さんなの、と誰しも思うと思います。結論的に言えば、最近の聖書学の知的成果を生かしながら、寅さんを使って新しいイエス論を展開する、ということになりますが、こう表現してしまうとなにか面白みが無くなってしまいます。イエスは、「キリスト論」が描く厳父ではなく、怒ったり、笑ったり(注1)する、人間味あふれる人で、しかもフーテン(風天)だった、ということのようです。
フーテンという言葉も多義的ですが、米田師は①常識をはみだした者②故郷を捨てた者、という二つの意味で使い、寅さんの場合と、イエスの場合を比較していきます。
 「男はつらいよ」という映画のシリーズは、27年間にわたって48作作られ、観客動員数は8000万人を超えるという。文字通り国民映画ということになる。黙想会に一緒に参加された方々もみな寅さんファンで、黙想会後の分かちあいの時間では話が大いに盛り上がりました。
 実は私は「男はつらいよ」シリーズの映画は殆ど見たことが無い。したがって、寅さんのお相手のマドンナ比較論もほとんどちんぷんかんぷんでしたが、話としては裏話も豊富でおもしろかった。私もビデオでも借りて少し見てみたい気になってきました。
 黙想会初日は、師の著書『寅さんとイエス』(筑摩書房、2012・改訂2014)が全員に配られ、講話はこの本に沿って2時間づつ二回おこなわれた。黙想会として言えば、聖書論ということになる。二日目は、師の著書『神と人との記憶』(新教出版)を使って、本格的な「ミサ」論が紹介された。カトリックの教義は結局聖書とミサに集約されるという視点から現代のミサの特徴が教示された。結論的には、福音書のなかでも「マルコ福音書」でこそ人間イエスの姿が見えるというお話であった。
 私はドミニコ会の神父様による黙想会は初めてだったので、学ぶところが多かった。米田師はドミニコ会といっても、自分はご本尊のスペイン管区ではなくカナダ管区ということで肌合いが異なるとおっしゃっていましたが、知的誠実さと人格的穏やかさはピカイチで、しかも寅さんバリのユーモアあふれるご指導で、充実した黙想会でした。

最後に、今回の黙想会で私が考えさせられた、つまりわたしの黙想のテーマとなった、米田師の言葉をいくつか記しておきたい。
1 「イエスの人間としての幅の広さが、聖書学の進歩と共に明らかになってきている」2 「聖書学はイエスを分析・分解し尽くしてしまい、何も残らなくなった。イエスはラッキョウと同じで一枚一枚剥いでいくのでは無く、全体として丸ごと掴まなければならない」
3 聖書に「神の国はあなたたちのなかにある」と書かれているが、<なかにある>とはギリシャ語でユントスといい、その元々の意味は、<あなたたちの手の届くところにある>ということだ。
4 「寅さんはフーテンの姿をとって人々を回心に導いた。イエスもおそらくそうだったのではないか」
5 聖書は<順説>で読まれることが多いが、<逆説>で読むことも大事だ。
6 「イエスの<生の言葉>が大事で、教会がイエスに乗せて語らせた言葉だけに引きづられてはならない」
7 「イエスの全体像が理解できれば、聖書のなかのおかしい点もおのずから見えてくる」
8 「ごミサでは何に感謝しているのか。父なる神に感謝していることを忘れてはいけない」
9 マルコ1-41に「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べて・・・・」とあるが、<憐れんで>は<怒って>がふさわしい。マタイとルカはここを削除してしまっている。イエスの人間味が、<人間の色気>(米田師の表現)が消えてしまう。

注1 聖書には「笑うイエス」は出てこないという。しかし当然笑ったことがあるだろうというのが現代の聖書学の知見だという。聖書学を持ち出さなくとも人間なのだから当然笑っただろう。しかしこれはイエスにおける「神性と人性」の関係という大問題にかかわるので、そう簡単な話でもなさそうだ。笑うイエスは、最近発見された「ユダ福音書」には数場面出てくるそうだが、これは偽作だという説もあり、議論が続いているようだ。
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神学講座(その10) ハンス・フォン・バルタザール(上)

2015-09-07 22:02:44 | 神学
 こんばんは。神学講座は夏休みを挟んで再開されました。今日9月7日は、F・カー著『二十世紀のカトリック神学』の第8章「ハンス・ウルス・フォン・バルタザール(1905-1988)に進みました。大雨の後の月曜日ということで、参加者は15名ほどでした。
 バルタザールという神学者のことはわたしはよく知りません。本を読んだこともないし、あちこちの文献では「保守的」とか「反動的」とか評されていることもあり、あまり興味を持ちませんでした。今回少し勉強してみて、これは大事な神学者だと思い至りました。それは、今年度末にも始まる御ミサ(典礼)の変更など、カトリック教会が大きく変わろうとしている今、一つの方向性をだしたバルタザールが再評価され始めていることを知ったからです。今度の典礼の変更(修正?発展? 注1)が、どの方向を向いているのかを知るためにもバルタザールを知る必要があるようです。
 細井神父様は学生時代にバルタザールをちょっと読んだことがあるそうです。何を言っているのかよくはわからなかったが、ハッとするような表現がちりばめられていて、印象に残っているとおっしゃっていました。
 いってみれば、神学者としては難解・多芸多才(ピアニストとして著名という)・カールラーナーと同じ時期に友人として司祭の道を歩み始めるが、やがて袂を分かっていく・プロテスタントの今世紀最大の神学者カール・バルトとも親交があった(第二次大戦中、二人で一日中モーツアルトを聴いていたという)・仕事はシュパイルという女性との共同作業が中心で(やがてイエズス会を離れる)、この点でもバルトと共通点がある・第二バチカン公会議には顧問神学者としては呼ばれなかったが、その神学的影響力は巨大だったという。
 教会を世界に向けて開かれたものにしていく(現代化)というかれの主張は広く受け入れられたが、第二公会議は「カトリックの伝統」を十分には回復していないとして、ラーナー・スキレベークス・キュンクなど当時の「リベラルな」または「進歩的な」神学者たちを次から次へと批判していったようだ。
 バルタザールの神学は難解だという。細井神父様の今日の講義はいやに熱がはいって時間を大幅に超過し、しかも予定の半分にも至らなかったが、その理由は、バルタザールを理解するための予備知識が必要ということで、準備の講義に時間が割かれたためであった。前提となる知識として今日紹介され、資料が配られたのは、①イエズス会とベネディクト会の違い②存在論特に神の存在証明論(4種類の存在証明論の理解)③恩恵論(特にプロテスタントの義認論とカトリックの義化論の対比)④シニフィアンとシニフィエの区別。これら4つのテーマはどれもバルタザールに限らず神学一般の理解に不可欠なテーマだし、理解や強調点の仕方が司祭や神学者により異なるので、細井神父様の説明の仕方の特徴を詳しく紹介したいところだが、それは別の機会を待ちたい。
 これだけの大テーマが並ぶとバルタザールどころではないので、講義は途中で終わりとなった。残りは、または本論は次回に、ということになった。
 わたしは今日の話で一番印象に残ったのは、バルタザールが新スコラ主義をスアレス主義と呼び、「存在の一義性」をとなえるあまり、イエズス会の霊性(精神、spirituality)に適合しないと批判した点だ。どうも「霊性論」がバルタザールを理解するキー概念らしい。バルタザールを今までみたいに「反動的神学者」と呼んで無視するわけにはいかないようだ。次回を楽しみにしたい。
注1 各教会で説明が始まっていると思うが、「ミサの式次第」の変更箇所がこの11月29日から実施される。日本の「ミサの式次」全体は典礼秘蹟省の認証が得られていないので、「ミサ総則」の改訂訳はまだ公表されていない。お祈りから御ミサでの動作などかなりの変更があるようだが、当面は司祭にのみ関わる変更で、われわれ一般信者にすぐに影響があるというものでもなさそうだ。そうとはいえ、この変更が全体として「昔に戻る」という傾向を持っているようだし、また、日本の習慣や文化にあわせたローカライゼーションの傾向も強いようだ。つまり、ローマが、そして日本の司教団が、どの方向に向かおうとしているのか、その思想性はなにか、など注目していきたいと思う。
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