今晩は。台風の被害地域は広いようですが、皆様は大丈夫でしたでしょうか。黙想会に行ってきました。鎌倉十二所にあるイエズス会黙想の家です。ここは大昔カト研の仲間達と行ったことのある懐かしい場所で、覚えておられる方も多いことでしょう。当時は鎌倉駅からみんなそろって歩いたものでした。バスなんて無かったのかもしれません。
指導司祭はドミニコ会の米田彰男師で、テーマは「寅さんとイエス」です。寅さんとは、映画やテレビで話題となった例のフーテンの寅さん(渥美清)です。エッ、というテーマですね。
米田師は現役の聖書学者で、清泉女子大でギリシャ語・ラテン語を教え、フランス語と英語で論文を書くという逸材ですから、なんで寅さんなの、と誰しも思うと思います。結論的に言えば、最近の聖書学の知的成果を生かしながら、寅さんを使って新しいイエス論を展開する、ということになりますが、こう表現してしまうとなにか面白みが無くなってしまいます。イエスは、「キリスト論」が描く厳父ではなく、怒ったり、笑ったり(注1)する、人間味あふれる人で、しかもフーテン(風天)だった、ということのようです。
フーテンという言葉も多義的ですが、米田師は①常識をはみだした者②故郷を捨てた者、という二つの意味で使い、寅さんの場合と、イエスの場合を比較していきます。
「男はつらいよ」という映画のシリーズは、27年間にわたって48作作られ、観客動員数は8000万人を超えるという。文字通り国民映画ということになる。黙想会に一緒に参加された方々もみな寅さんファンで、黙想会後の分かちあいの時間では話が大いに盛り上がりました。
実は私は「男はつらいよ」シリーズの映画は殆ど見たことが無い。したがって、寅さんのお相手のマドンナ比較論もほとんどちんぷんかんぷんでしたが、話としては裏話も豊富でおもしろかった。私もビデオでも借りて少し見てみたい気になってきました。
黙想会初日は、師の著書『寅さんとイエス』(筑摩書房、2012・改訂2014)が全員に配られ、講話はこの本に沿って2時間づつ二回おこなわれた。黙想会として言えば、聖書論ということになる。二日目は、師の著書『神と人との記憶』(新教出版)を使って、本格的な「ミサ」論が紹介された。カトリックの教義は結局聖書とミサに集約されるという視点から現代のミサの特徴が教示された。結論的には、福音書のなかでも「マルコ福音書」でこそ人間イエスの姿が見えるというお話であった。
私はドミニコ会の神父様による黙想会は初めてだったので、学ぶところが多かった。米田師はドミニコ会といっても、自分はご本尊のスペイン管区ではなくカナダ管区ということで肌合いが異なるとおっしゃっていましたが、知的誠実さと人格的穏やかさはピカイチで、しかも寅さんバリのユーモアあふれるご指導で、充実した黙想会でした。
最後に、今回の黙想会で私が考えさせられた、つまりわたしの黙想のテーマとなった、米田師の言葉をいくつか記しておきたい。
1 「イエスの人間としての幅の広さが、聖書学の進歩と共に明らかになってきている」2 「聖書学はイエスを分析・分解し尽くしてしまい、何も残らなくなった。イエスはラッキョウと同じで一枚一枚剥いでいくのでは無く、全体として丸ごと掴まなければならない」
3 聖書に「神の国はあなたたちのなかにある」と書かれているが、<なかにある>とはギリシャ語でユントスといい、その元々の意味は、<あなたたちの手の届くところにある>ということだ。
4 「寅さんはフーテンの姿をとって人々を回心に導いた。イエスもおそらくそうだったのではないか」
5 聖書は<順説>で読まれることが多いが、<逆説>で読むことも大事だ。
6 「イエスの<生の言葉>が大事で、教会がイエスに乗せて語らせた言葉だけに引きづられてはならない」
7 「イエスの全体像が理解できれば、聖書のなかのおかしい点もおのずから見えてくる」
8 「ごミサでは何に感謝しているのか。父なる神に感謝していることを忘れてはいけない」
9 マルコ1-41に「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べて・・・・」とあるが、<憐れんで>は<怒って>がふさわしい。マタイとルカはここを削除してしまっている。イエスの人間味が、<人間の色気>(米田師の表現)が消えてしまう。
注1 聖書には「笑うイエス」は出てこないという。しかし当然笑ったことがあるだろうというのが現代の聖書学の知見だという。聖書学を持ち出さなくとも人間なのだから当然笑っただろう。しかしこれはイエスにおける「神性と人性」の関係という大問題にかかわるので、そう簡単な話でもなさそうだ。笑うイエスは、最近発見された「ユダ福音書」には数場面出てくるそうだが、これは偽作だという説もあり、議論が続いているようだ。
指導司祭はドミニコ会の米田彰男師で、テーマは「寅さんとイエス」です。寅さんとは、映画やテレビで話題となった例のフーテンの寅さん(渥美清)です。エッ、というテーマですね。
米田師は現役の聖書学者で、清泉女子大でギリシャ語・ラテン語を教え、フランス語と英語で論文を書くという逸材ですから、なんで寅さんなの、と誰しも思うと思います。結論的に言えば、最近の聖書学の知的成果を生かしながら、寅さんを使って新しいイエス論を展開する、ということになりますが、こう表現してしまうとなにか面白みが無くなってしまいます。イエスは、「キリスト論」が描く厳父ではなく、怒ったり、笑ったり(注1)する、人間味あふれる人で、しかもフーテン(風天)だった、ということのようです。
フーテンという言葉も多義的ですが、米田師は①常識をはみだした者②故郷を捨てた者、という二つの意味で使い、寅さんの場合と、イエスの場合を比較していきます。
「男はつらいよ」という映画のシリーズは、27年間にわたって48作作られ、観客動員数は8000万人を超えるという。文字通り国民映画ということになる。黙想会に一緒に参加された方々もみな寅さんファンで、黙想会後の分かちあいの時間では話が大いに盛り上がりました。
実は私は「男はつらいよ」シリーズの映画は殆ど見たことが無い。したがって、寅さんのお相手のマドンナ比較論もほとんどちんぷんかんぷんでしたが、話としては裏話も豊富でおもしろかった。私もビデオでも借りて少し見てみたい気になってきました。
黙想会初日は、師の著書『寅さんとイエス』(筑摩書房、2012・改訂2014)が全員に配られ、講話はこの本に沿って2時間づつ二回おこなわれた。黙想会として言えば、聖書論ということになる。二日目は、師の著書『神と人との記憶』(新教出版)を使って、本格的な「ミサ」論が紹介された。カトリックの教義は結局聖書とミサに集約されるという視点から現代のミサの特徴が教示された。結論的には、福音書のなかでも「マルコ福音書」でこそ人間イエスの姿が見えるというお話であった。
私はドミニコ会の神父様による黙想会は初めてだったので、学ぶところが多かった。米田師はドミニコ会といっても、自分はご本尊のスペイン管区ではなくカナダ管区ということで肌合いが異なるとおっしゃっていましたが、知的誠実さと人格的穏やかさはピカイチで、しかも寅さんバリのユーモアあふれるご指導で、充実した黙想会でした。
最後に、今回の黙想会で私が考えさせられた、つまりわたしの黙想のテーマとなった、米田師の言葉をいくつか記しておきたい。
1 「イエスの人間としての幅の広さが、聖書学の進歩と共に明らかになってきている」2 「聖書学はイエスを分析・分解し尽くしてしまい、何も残らなくなった。イエスはラッキョウと同じで一枚一枚剥いでいくのでは無く、全体として丸ごと掴まなければならない」
3 聖書に「神の国はあなたたちのなかにある」と書かれているが、<なかにある>とはギリシャ語でユントスといい、その元々の意味は、<あなたたちの手の届くところにある>ということだ。
4 「寅さんはフーテンの姿をとって人々を回心に導いた。イエスもおそらくそうだったのではないか」
5 聖書は<順説>で読まれることが多いが、<逆説>で読むことも大事だ。
6 「イエスの<生の言葉>が大事で、教会がイエスに乗せて語らせた言葉だけに引きづられてはならない」
7 「イエスの全体像が理解できれば、聖書のなかのおかしい点もおのずから見えてくる」
8 「ごミサでは何に感謝しているのか。父なる神に感謝していることを忘れてはいけない」
9 マルコ1-41に「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べて・・・・」とあるが、<憐れんで>は<怒って>がふさわしい。マタイとルカはここを削除してしまっている。イエスの人間味が、<人間の色気>(米田師の表現)が消えてしまう。
注1 聖書には「笑うイエス」は出てこないという。しかし当然笑ったことがあるだろうというのが現代の聖書学の知見だという。聖書学を持ち出さなくとも人間なのだから当然笑っただろう。しかしこれはイエスにおける「神性と人性」の関係という大問題にかかわるので、そう簡単な話でもなさそうだ。笑うイエスは、最近発見された「ユダ福音書」には数場面出てくるそうだが、これは偽作だという説もあり、議論が続いているようだ。