カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

『カトリック神学への招き』(その15)ー 第16章「現代神学の課題」(その2)

2016-02-22 23:11:01 | 神学
 「学び合いの会」は2月22日、増田祐志師編『カトリック神学への招き』の第6部「現代の神学」の第16章「現代神学の課題」(増田祐志)の二回目に入りました。
 現代神学の課題として取り上げられたのは、Ⅰ諸宗教の神学 Ⅱ解放の神学 Ⅲフェミニズム神学 Ⅳ倫理神学 の四項目です。前回はⅠの宗教の神学が取り上げられました。今日は残りの三項目が紹介されました。
 解放の神学はおもに中南米において被圧迫者の政治的・社会的解放を目指して1960年代に生まれた現代神学の一つの思潮とされる。背景としては当然第二バチカン公会議があり、1968年のメディリン司教会議(コロンビア)で正式に認められた。中南米の司教会議は貧しい人々の側に立つことを宣言したわけである。フランシスコ教皇様もこういう動きの中で司教への途を歩んでこられたのであろう。
 著者によれば、解放の神学は中南米から南アフリカ、インド、フィリッピン、台湾、韓国へと普及してゆき、米国ではフェミニズム神学や黒人神学を生み出していったという。神学として体系化されているわけでは無いが、イエスをキリストして信仰する教会は「救い」を「解放」として理解し、救いは霊的次元だけではなく、政治・経済・社会を含む全体的次元で理解されるべきであるという神学思想を生み出したという。
 この解放の神学は、多くの論争を招き、批判も多かった。教理聖省は次々と教書を発表し、特にラッチンガーの時に出た「解放の神学のある側面に関する教書」(1984)、「キリスト教的な自由と解放に関する教書」(1986)などでは、「疑いの目で」(著者)この神学を評価したという。
 著者は解放の神学は「抑圧された人々の声を聞く神に倣うという原点を人々に示したという点で・・・・多いに評価されるべきであろう」(302頁)と述べている。私見では日本では解放の神学が大きな影響力を持ったとは思えないが、1960年代・70年代に召命を受けた神学生にはそれなりの影響を与えていたのかもしれない。
 本論文を読んで不思議に思ったのは、解放の神学を生み出した社会的背景や社会理論への言及が全くない点と、解放の神学に対置するものとして出てきた神学思潮の紹介がない点であった。社会理論で言えば、現代では乗り越えられて説明力を失ったとはいえ、従属理論や世界システム論への言及なしに解放の神学の特徴は説明できないと思う。解放の神学は無神論だとか、亜流マルクス主義だとかいうだけでは、解放の神学が持っていた思想としての射程距離の長さと限界を示せないのではないか。また、解放の神学に対置するものとしてラッチンガーたち「改革保守派」(非トマス主義という意味で改革派だし、現状維持という意味で保守派)や、アメリカ司教団に代表される「リベラル・レフト」の思想を比較対象として紹介しないで、解放の神学万歳だけでは説明不十分だと思う。ラッチンガーでさえ、ハーバーマスとの対話で、解放の神学とは「目標」は一致するが、「手続き」が異なると言っている。「この世での解放や、歴史の完成よりも、神の前での、<回心>こそ重要である」と言っている。解放の神学と闘い続けたベネディクト16世のこの言葉はあまりにも挑戦的ではあるが、時代は変わってしまったのだから、「社会の変革」か「個人の回心」か、「闘い」か「癒やし」か、はもはや二者択一の選択肢ではないということをフランシスコ教皇様は言おうとしているのではないだろうか。教皇様は今年を「いつくしみの特別聖年」と定められた。そのためにくだされた「祈り」のなかにその思いを読み取りたいと思う。
 フェミニズム神学は、解放の神学の方法論を用いて北米で展開された神学であると著者は述べている。これはとても興味深い整理の仕方で、フェミニズム論でいえば、性別役割分業論を中心とした1960年代以降の第二期フェミニズム論のことを指しているのであろう。聖書や教会の中に「男尊女卑思想」がみられるというだけでは、フェミニズム神学への解放の神学の影響を指摘したことにはならないのではないか。資本主義や家父長制への言及がみられないのは無い物ねだりなのだろうか。
 著者は具体的には「女性叙階」問題を取り上げる。著者は当然批判的な論調で女性叙階を認めないバチカンを批判するが、とはいえ、「差別論に還元するだけでは問題の全体像は見えてこない」とはっきりした姿勢を示さない。かって、ヨハネ・パウロ二世は「女性司祭問題は、司祭は論じても良いが、司教が論じることは許さない」と強い姿勢を示した。女性司祭論は、司祭の独身制とならんで、「神学の課題」というより、「教会の課題」のように思える。
 課題としての倫理神学としては、伝統的にいわれてきた避妊・同性愛・離婚再婚問題から、遺伝子工学による生命倫理への挑戦が浮上してきているという。性倫理から生命倫理へと焦点の移行が起こっているのかもしれない。解放の神学やフェミニズム神学のような社会倫理とともに、教会は「心理学や他の学問分野との協働のうちに福音的生き方を示す使命がある」と著者は本論文を結んでいる。
 以上で、本書をほぼ二年をかけて読み終わったことになる。各論文は力の入ったものもあるし、概論に終始したものもあった。とはいえ、神学部における教育がどういうものであるか、垣間見ることができ、本当に有益であった。特に、「日本の教会」という視点からカトリック神学を紹介してくれたのは編者の力量の表れであろう。これからも読み継がれていく良書である。
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神学講座(その13) カロル・ヴォイティワ Karol Wojtyla (1920-2005)

2016-02-01 22:03:23 | 神学
 神学講座は、今日2月1日は、F・カー著『二十世紀のカトリック神学』の第10章「カロル・ヴォイティワ」に入りました。極寒の月曜日にもかかわらず参加者は20名を軽く超えていました。だが男性は4名のみで、講演会はまるで婦人会の例会みたいな雰囲気でした。なぜ、高齢女性は神学に興味を持つのだろう。どなたか教えてください。
 さて、ヴォイティワです。一般的には、在位27年、初のポーランド生まれの教皇、ヨハネ・パウロ二世として知られている。「空飛ぶ教皇」と言われたヨハネ・パウロ二世はエキュメニズム運動の旗手として知られている。多くの国を訪ね、多くの宗教指導者と交わった。そのため、かれがヴィオティワとして優れた神学者・哲学者であったことはあまり知られていないようだ。次のベネディクト16世が教皇としてよりは神学者として名を馳せていたのに比べればその神学的影響力は少しは劣るのかもしれないが、かれは個性的な神学者であったようだ。従って本書の著者F.カーは、教皇としてのヨハネ・パウロ二世の活躍が、かれの神学者としての基板の上にあったことを明らかにしようとする。つまり、教皇としてのヨハネ・パウロ二世はヴィオティワの神学の特徴の理解なしに全貌を把握できないと考えているようだ。
 教皇としてのかれの活動は結局はエキュメニズムにつきるといえそうだ。日本に来られたのもついこの間の出来事のように思える。あの激しいほどの教会一致運動への思い入れは、かれの終生の課題であった「教皇庁改革」のためであったという。他宗教の理解と協力を使って教皇庁を改革しようとした。これが数度のわたる暗殺の危機を招いた一因であろう。神学的に言えば、「教皇制」と「司教制」の対立の解決なしに、プロテスタント・正教会などとの教会一致は難しいということは誰の目にも明らかだからだ。結局は俺たちカトリックが一番数が多くて、強くて、偉いのだから、おまえ達は俺たちのところへ来い、つまり教皇が一番偉いのだ、という考え方が消えない限り、教会一致など夢のまた夢であることを、ヴォイティワは知っていたのだと思う。
 さて、ヴォイティワの神学である。かれの神学は結局はトマス主義ではない点に最大の特徴があるようだ。十字架の聖ヨハネに関する学位論文のメンターはシェニュと同様にラグランジュだったという。反動的神学者と名の通っていたラグランジュのもとで勉強したのだからトマス主義の影響が無いとは思えないが、非トマス主義こそヴィイティワの神学の特徴のようだ。著者カーはかれの神学を「現象学・主体性論」に基づいていると特徴付けている。J・マリタンやM・シェーラーの強い影響を読み取れるという。かれの主著『行為するペルソナ』(1978)では、神を「対象」として語ることを拒否しているという。回勅『信仰と理性』もポスト・デカルト的な主体性論が強いという。
 かれのペルソナ論はとても興味深い。「ペルソナとは、環境に反応し、他者と相互に影響し合い、常に既に<世界の中>にある存在である」(279頁)と言っている。つまり、ペルソナは「唯我独尊的なものではなく、決して内部に孤立させられ得ない社会的な存在である。」これは社会学でいえば社会的行為論である。ただ、「行動主義的な」ペルソナ概念は無神論的だからとらないという。行動主義は無神論だからだめだというのはちょっと論理が飛躍しているが、ペルソナが社会的存在であることを強調するのはヴォイティワの特徴なのであろう。また、このような主張は厳格なトマス主義者には受け入れがたいものであったろう。
 かれの現象学への傾斜は、かれの神学的人間論と呼ばれる神学の分野にもみられるという。具体的には「身体の神学」とよばれる。具体的には、婚姻や性差についての神学である。婚姻性論とは、男女間の婚姻と、キリストと教会との婚姻、とをパラレルに論じることを意味する。離婚や堕胎・中絶に関する教会の教えはこの文脈におかないと正しく理解できないという。H神父様は「神の自己譲与」説がこの二つを結びつけていると説明された。例えば、「教会はキリストの花嫁」だから、「異性間の」結婚は教会とキリストの一致を示す秘跡のしるしとなるという説明である。こういう議論はカトリック信者にはなるほどとうなずける説明だが、信者以外の者には、キリストと教会との婚姻、なんてなんのこと、と理解できないのではないだろうか。H神父様もいまだ残存する婚姻神秘主義論には「参った」という感じであった。
 著者カーは、本論文を不思議な文章で結んでいる。「教皇の逝去と共に、その教えはまもなく忘れ去られるものである。」これは、ヴィオティワのエキュメニズム論、教皇制論、神学的人間論などは長続きしないという意味なのであろうか。具体的には、フェミニズム運動、解放の神学、宗教的多元主義、などの新しい神学的課題にヴォイティワの神学では応えられない、ということなのであろうか。
 H神父様は、ヨハネ・パウロ二世の神学の特徴は「神の自己譲与]論にあるという。ごの言葉の神学的意味および理解は、次章「ヨゼフ・ラッツィンガー(ベネディクト16世)」や、現フランシスコ教皇様の考え方の特徴を知る重要な論点なので、次回改めて考察してみたい。
 また、社会学を学んだことのある者としての印象で言うと、ヴォイティワのペルソナ論は、まるで晩年のT・パーソンスの「社会的行為論」を彷彿させるものだった。これはこれで、パーソンスに「超越性」への視点があったのか、実証主義にとどまっていたのか、という難問につながるのでここでは深入りできない論点だが、近代社会科学の認識論がこれほどまでにトマス主義的な存在論から遠く離れてヴォイティワの神学に影響を与えていたことに、ただただ驚くのみである。
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