四旬節に入ったので教会で黙想会がもたれた。土曜日と日曜日の二日にわたる。初日は講話と告解とミサ、二日目は講話の続き。指導司祭は阿部仲麻呂神父様。阿部師の黙想指導は昨年の待降節中にももたれたので当教会としては二度目となる。
第一日目の今日土曜日は30人ほど参加されたように見えた。M主任司祭の紹介の後1時間弱の講話があった。短い休憩の後お二人の神父様による告解があった。ほとんどの方が残って告解されたようだ。
今日の講話のテーマはフィリピの信徒への手紙の第2章6~11節。古代教会で実際にうたわれていた賛歌だという。この手紙はパウロが54年ごろフィリピという名前の町(1)の信徒に送った複数の書簡を一つにまとめたものだという。パウロが偶然にも手紙の中に、当時実際にうたわれていた賛歌を書き記していてくれたので、現在まで残っている貴重な賛歌だという。
この賛歌は、6~8節の部分と、9~11節の部分の二つに分けられるという。前半部分はキリストをへりくだる者、謙遜な者として称え、後半部分はキリストを昇る者、挙げられる者として称えるているのだという。前回の待降節の黙想会では前者のへりくだる者、謙遜な者としてのキリストが講話の主題であったが、今回は後半部分の昇る者、挙げられる者としてキリストが講話の主題であった。
講話は多岐にわたったが、次の2点が印象に残った。一つは師の自分論だ。世間を震撼させている児童虐待のニュースに言及しながら、自分とは、努力する者・頑張る者であるよりは、他人の心遣いに気づく者、自分の十字架を背負う者として考えよ、と言われた。努力より気づきを、気遣いを、と言われた。イエスがすべてを背負ってくれていることに気づきなさい、ということのようだった。師はどうも独特なセルフ論をお持ちのようだ。
二点めは黙想とは何かについての師の説明だ。師は、黙想には3段階があって、①聖書を読む、②心に留める、③実行する、の3段階があるという(2)。
①聖書を読むのはよいが、たんなる読書になってしまっていないか。小説を読むのと聖書を読むのは同じではない(3)。
②聖書のことばは、心にふかく留めなければならない。心によく浸みこませねばならない。
③実際に身体で、動作で、行動で示さなければならない。言葉にとどまってはならない。
この説明はとても興味深かった。通常の黙想会では祈りが強調されるのだが、師はそれだけでは足らないと言っておられたようだ。皆さん熱心にうなずいておられた。
師は、最後にまとめとして、人生はV字型だ、と強調された。謙虚さは「下り」」であり、力強さは「昇り」だという。昇ることは、相手を高めることであり、栄光にたどり着く途だという。いくつのも例を挙げてV字型の人生を説明されていた。人前にさらされる、信仰を証しする、人生を完成させる、などはみな「上に上る」ことの例だという。フィリポ2章の9~11節はそこを歌っているのだという。イエスの生涯がそうであったというお話であった。こういうたとえ方、理解の仕方もあるのだと思った。
短い時間の講話であったが、師のお考えがよく伝わった。黙想会の良き出だしであった。
【阿部仲麻呂師 四旬節黙想会】
注
1 フィリピとはギリシャ、北マケドニアにあるらしい。街の名前はフィリポす2世にちなんでつけられたという。フィリポ2世はアレキサンダー大王の父親という。
2 興味深い黙想の説明だった。師のお話を聞いていて今回も思ったのは、師がいう黙想は、なにか大きな、突然の変化が、心に起こることを想定しているようだ。回心が黙想の目標のようだ。他方、回心とは、もっとなだらかな、静かな、時間のかかるプロセスのようにも思える。禅が強調する「行」とか、日本文化が持っている「修行」の観念が想定する心の変化とは異なる印象を受けた。回心とはそれほど突発的なものなのだろうか。「十字架の道行の祈り」や「巡礼」はもっとなだらかな変化を想定しているように思える。
3 教会では「読書」には特別な意味があって「祈り」のことなのだが、ここでは通常の本を読む、reading という意味で使われているようだ。