カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

日本とキリスト教の469年 ー 特別展キリシタン

2018-10-26 21:51:40 | 教会

 

 國學院大學博物館と西南大学博物館による共同特別展「キリシタン」に行ってきた。東京特別会場は28日までということなのでギリギリ間に合った。印象が鮮烈だったので簡単に感想をとどめておきたい。469年とはザビエル来日の1549年から2018年までという意味のようだ。
 國學院は神道系、西南はキリスト教系の大学なのに共同特別展とは何なのだろうと思ったが、両大学は2014年に「研究協力に関する協定」なるものを結んでいるそうだ。今回は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されたので、登録記念の共同特別展とのことだった。
 展示品は数えたわけではないが85点。これだけまとまって展示されるのは珍しいのではないかと思われるほどの展示品であった。シドッチーの遺骨(レプリカ)や禁教期の未発表資料も含まれており、印象深かった。わたしはキリシタンについては何の知識も無いが、わかりやすい展示だった。展示は次のようなストーリーに沿って展開されている。

序章 日本宗教の重層性
第1書 キリスト教の伝来と普及
第2章 禁教政策の展開
第3章 キリスト教解禁への道程
第4章 「かくれキリシタン」の伝統
終章

 細かい話は別として、わたしが特に強い印象を受けた展示品にちょっと触れてみたい。

第一はやはりシドッチーの遺骨だ。DNA鑑定ではイタリア人で、お棺も当時一般的な早桶ではなく、長方形のお棺に埋葬されていたという。キリシタンとして埋葬されていたのであろう。(写真許可 殆どの展示品は撮影は許されていない)

 

 

第二は聖フランシスコ・ザビエル像だ。H20.5xW8.5xD7.0 というサイズで、それなりの迫力がある。18世紀頃のゴア(ポルトガル領インド)出で、現在は西南学院大学博物館蔵だという。ちなみに、ザビエルの遺体はゴアにある教会に安置されているという。ザビエルは1549年に鹿児島に上陸してキリスト教を伝え、列聖(1622)後に日本人絵師によって描かれた絵はいろいろなところで見るが、この木彫りの像は珍しかった。(写真許可)

 

 

第三は、やはり踏み絵である。踏み絵には「板踏み絵」と「真鍮踏み絵」の二種類があるという。特に真鍮踏み絵は「エッケ・ホモ」と呼ばれ(ラテン語で「この人を見よ」という意味)、本体はすり減っていてリアルだった。踏み絵は持っていた藩もあるのだろうが、多くは奉行所が貸し出していたらしい。つまり貸し出し用に何枚も制作していたのであろう。


第四は隠れキリシタンの「信心用具」だ。「お掛け絵」、「お水壺」、「経消しの壺」、「オテンペシア」など、初めて目にするものであった。ちなみに、お水壺とは聖水である「お水」を入れる壺で「お授け」といわれる洗礼式に使われたという。経消しとは強制された仏式での葬式の読経で読まれたお経の力を消すためのお祈りらしい。オテンペシアとは麻の縄紐からなる「ご神体」で、「お祓い」にも遣われたという。「隠れ」と「潜伏」キリシタンはこういうところで別れてくるのかもしれない。

第五は、やはり「おらしょ」だ。上智大学キリシタン文庫蔵の「おらしょ断簡」は1590-91年版で、圧巻だ。出だしだけちょっと引用してみよう。日本語はそのままなので読みづらいがご勘弁を。

 はあてるのすてる
 天に御座ます我等が御をや御名をたつとまれた給へ・・・・・・
 あべまりあ
 がらさミちがらさミち給ふまりあに御れいをなし奉る御主ハ御身と共に御座ますに・・・・

ヴァリアーノ(1539-1606)が来日し、コレジオ(大神学校)に活版印刷術を導入した。この断簡には、はあてるのすてる(主の祈り)、あべまりあ(天使祝詞)、けれど(使徒信経)が含まれているという。眺めていたら、469年の時間差がふっと消えてしまったような感覚にとらわれた。

 キリスト教が解禁されてめでたしめでたしではない。なんと西南学院の中・高では第二次世界大戦中につかわれた英語の教科書の表紙は「古事記」であったという。西南はキリスト教主義の学校であったため、「敵国」だった英語の本をカモフラージュせざるを得なかったという。遠藤周作のいう「沼地」の日本は過去の話ではなさそうだ。本特別展のメッセージの射程距離は長いようだ。

 

 

 

 

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「神の国」の福音 ー 新約聖書とイエス(その9)

2018-10-24 17:39:02 | 神学


3・5 神の国の福音

 では、神の国の福音とは何か。福音とは、ギリシャ語でエウアンゲリオン euaggelion で、エウ は「よい」、アンゲリオン は「知らせ」で、「よい知らせ」のことだ。 英語では、gospel , good news などというらしい。日本語では「福音」と訳される。この訳語に好き嫌いはあるだろうが、現在は定着しているとみてよさそうだ(注1)。 

 神の国の福音はマルコ1・15に凝縮されている。
イエスがガリラヤで伝道を始められたときの言葉だ。

14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、そして言われた。
15 a  「時は満ち、
  b  神の国は近づいた。
  c  悔い改めて
  d 福音を信じなさい」

 このマルコ1・15を、川中師は大貫隆説を援用して二つの側面、①神の呼びかけ、②人間の応答 、に分けて説明される。

1)神の呼びかけ

 前半の「時は満ちた 神の国は近づいた」は神からの呼びかけだという。

(a  時は満ちた)

「時は満ちた」を大貫氏は「今この時は満ちている」と訳している。「時は満ちた」は「現在完了形」で「中動態」だからだという(注2)。これは、「時」(「時間」)の捉え方の変化を示しているようだ。つまり、「時間」には「クロノス」(直線的・水平的時間)だけではなく、「カイロス」(点的・垂直的時間)があり、イエスの登場によって時間がカイロスになった(注3)。

①クロノスとしての時間
これは我々が普通時間とよんでいるもので、直線的・水平的な時間のことだ。「時間が流れる」というときの時間だ。時計が連想される。

②カイロスとしての時間
点的・垂直的時間のことで、大貫隆氏は「全時的今」と訳しているという。イエスの登場がもたらした時間だ。
「この『今』は、過去から現在へ、現在から未来へと流れる線状的な時間(クロノス)の一コマではなく、それを垂直的に切断して現れている『今』である」(大貫隆『イエスという経験』88頁)。 

わたしの言葉で言えば、クロノスは「縦断的」時間で、カイロスは「横断的」時間のことのようだ。「主」が「歴史」に直接「介入する」瞬間を思い起こさせる。われわれはクロノスの時間を生きながら同時にカイロスの時間も生きていることになる。

(b 神の国は近づいた)

 これも現在完了形だという。このため、「神の国」の「現在性」を強調するか、「未来性」を強調するかで、考え方が分かれてくる。神の国の現在性を強調すれば、神の国は「もう(既に)」来ている、ことになる。その未来性を強調すれば、神の国は「まだ(未だ)」来ていない、待っている、ということになる。

 ・「現在性」(Gegenwart):現在における神の国の開始が強調される

「しかしわたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11・20)。
「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12・28)。

 つまり、イエス・キリストの出来事は「神の国」の開示であり、神の国とイエスの存在が密接不可分な関係にあることが主張される(注4)。

 ・「未来性」(Zukunft):終末における「神の国」の最終的実現が強調される

「御国が来ますように」(ルカ11・2)
「御国が来ますように」(マタイ6・10)

これは明らかに未来のいつの日かに終末が来て神の国が実現されるという祈りだ。終末思想を見て取ることができる。

 このように、神の国の実現を現在とみるか未来とみるかは大きな違いだろう。だが、専門家はこの違いを強調するよりは、むしろこの「神の国」概念の中にその両側面が含まれているという点を強調するようだ。川中師も、大貫隆氏にならって、「現在性と未来性の緊張関係」と説明している。「もうとまだの緊張 Spannung zwischen 'Schon' und 'Noch nicht'」と言われる(注5)。緊張関係といわれてもよくわからないが、イエスがどちらに比重を置いて理解し、説明していたかはわかりません、ということなのであろう。

2)人間の応答

 上記マルコ1・15の福音の後半、「悔い改めて 福音を信じなさい」は人間の側からの応答だという。

(c 悔い改めなさい)

 これを大貫隆氏は、「回心しなさい」と訳す。ギリシャ語のメタノイアを「悔い改め」ではなく「回心」と訳す。悔い改めも回心もともに自分の罪を認めて神に心を向け直すことを意味するが、回心の方がより行為の能動性が強調されるようだ(注6)。大貫氏は、回心は「イエス・キリストの出来事に対する人間の根本決断」と言っている。

 (d 福音を信じなさい)

福音とはエウアンゲリオン(エヴァンゲリオン)のことだ。
マルコ福音書は衝撃的な言葉で始まる(注7)。マタイにもルカにもない書き出しだ。

「神の子イエス・キリストの福音の初め」(マルコ1・1)

これは二つの意味を持つ。
①イエス・キリストの福音とは、「宣べ伝える者」であるイエスの福音を指し、
②他方、イエス・キリストについての福音であって、「宣べ伝えられる者」としてのイエスの福音をも指す。
 イエスは、宣べ伝える者であり、同時に、宣べ伝えられる者、でもある。福音はこの両方を語る。だから、福音とは結局イエス・キリストの出来事の全体を表す「総括概念」になるのだという。

 川中師は、結論的に、「神の国とは、イエス・キリストの出来事において開示される超越的次元」のことだとまとめておられる(注8)。ちょっと抽象的でピンとこないが、その例として、師は、病人の癒やしと悪霊の追放(ルカ7・21)、徴税人や罪人との会食(マタイ9・10)、イエスによる癒やしの体験(ルカ7・22)、の三カ所をあげて詳しく説明されている。個別にフォローする紙幅はないが、要は神の国とは神の愛のことですよと言われているようだ。


注1 エウアンゲリオンは本来「福音」のみを意味していたようだが、2世紀以降正典福音書が4つに限定されてくると、書物としての「福音書」も意味するようになったようだ。英語のgospelも両方を意味しうるのだろうが、日本語では「福音」と「福音書」は別の単語を使わざるを得ない。

注2 日本語は時制があまりはっきりしないのでうまく訳せないようだ。「時は満ちた」という日本語の表現は、現在も満ちているのか、満ちた出来事はもう終わっているのか、区別が難しい。現在完了形がどこまでの過去と未来を含むかは言語によって異なるのかもしれない。
 また、「中動態」(能動態でも受動態でもない態)もギリシャ語とともに滅びたようなのでわたしにはわからない。もちろん日本語にはない。再帰動詞がその名残という説もあるようだが、日本語には当てはまらないだろう。現在は主に哲学用語として用いられているらしい。

注3 クロノスという直線的な時間観念はキリスト教独特なのかもしれない。歴史とともに、時間とともに、世界は進歩発展する、という近代主義の思想はこういう時間観念がなければ出てこない。多くの日本人がもつ輪廻的世界観とは別の時間感覚である。他方、時間は空間の函数でしょと茶化されると困るが、時間をカイロスとして捉えるのもキリスト教独特の時間観念のようだ。

注4 イエスのおこなったかずかずの「奇跡」は、合理的・科学的な説明ができない荒唐無稽の出来事というより、既に神の国が始まったことの証しとして捉えることもできるのだろう。特にプロテスタント系聖書学者にはこういう説明をとる人が多いようだ。チャールズワースはこう断定している。「イエスは奇跡をおこなった」(『史的イエス』245頁)。

注5 わたしの素人考えで言えば、終末はいつまで待っても来なかった。2000年待っても来なかった。だが、イエスの言葉は重い。「その日、その時は、誰も知らない。天の使いたちも子も知らない。父だけが知っておられる。気をつけて目を覚ましていなさい」(マルコ13・32-33)。

注6 Metanoia。 英語ではconversion。ドイツ語でBekehrung。ただあまりに能動性を強調すると「悔改め」が神の恵みなのか、人間の意志なのかという大論争につながる。なお、発音だけを聞いていると、「回心」を「改心」と誤解する人もいるようだ。改心は悪い心がけを改めるだけで、別に神の存在を必要としない。日本語は難しい。

注7 「~の初め」は聖書によく出てくる。創世記の書き出しは 「初めに、神は天地を創造された」だ。初めは宇宙の初めでもあるし、聖書の初めのこともある。

注8 「超越」という言葉もよく聞くが実はわたしはよく分からない。 Transcenence と英語にされると、なにかものごとを「超えるもの」として人間の上にある、外にあるというニュアンスがつきまとい、例えば、神も仏も「超越者」だ、「絶対者」だと言われるとなんとなく分かった気分になる。でもこれは誤りだ。神学では、超越は、神が人間に恵みを与える内在的な働きをも同時に意味する。つまり、超越は「超越性」と「内在性」の両方を含んでいる。「存在」「善」「真」「一」などを超越概念というとき、この超越の内在性を忘れると意味がちんぷんかんぷんになる気がする。でも、神学ではなく、哲学の世界ではまた理解が異なるのかもしれない。

 

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マタイ福音書の「交差配列」 ー 新約聖書とイエス(その8)

2018-10-23 16:46:50 | 神学


3・4 マタイ福音書の「交差配列」

 前回、マタイ福音書における「天の国」概念の特徴について学んだ。 このマタイ福音書の修辞構造も特徴的なので、少し触れておきたい。
 カト研の皆様ならこの図に見覚えがおありだろう。このブログでも昨年6月の投稿記事で触れた記憶がある。マタイ福音書の「交差配列」である。

 

 


 カト研の皆様のなかにはお詳しい方もおられるが、交差配列とはあまり聞いたことがないという人もいるかもしれない。これは Chiasm キアスム または キアスマス の訳語で、聖書の修辞構造論の一つだ(注1)。

 聖書学によると聖書の修辞構造 Literary Structure には3種類あるという。①平行法 ②交差配列法 ③集中構造法。

 ①平行法とは、同型構造が反復される修辞のこと。例えば、ルカ11の31と32(ヨナの徴)がわかりやすい例だという。

11:31
A 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり彼らを罪に定めるであろう。
B この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。
C ここに、ソロモンにまさるものがある。

11・32
A また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであ  ろう。
B ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。
C ここに、ヨナにまさるものがある。

 31節と32節が反復・対応していることが分かる。こういう書き方は聖書では一般的な方法だという。

 ②交差配列法とは、中心になる章や節を挟んで対応構造が見られる修辞で、中心部分を強調する手法だという。ギリシャ語のX(カイ)からとって交差配列と言うらしい。上図のマタイ福音書で言えば、第13章が中心とされていることになる。ここでは、「出来事の話」と「説教」が交互に繰り返され、真ん中の第13章が中心に据えられていることになる。きれいな交差配列になっていることに驚かされる。ここは「第三の説教」で、「神の国の秘義」の部分である。「種蒔きの譬え話」が語られる(注2)。この交差配列法は聖書のさまざまなところで使われているらしい。例えば、詩篇や箴言はこの視点から読むとわかりやすいという。

 ③集中構造法とは章や節が一つの中心をもつ修辞で、例えば、マタイ6:9-13などがあげられるらしい。

     天におられるわたしたちの父よ、御名が聖とされますように。
          御国が来ますように。
               み旨が天におこなわれるとおり、地にもおこなわれますように。
                    今日の糧を今日お与えください。
               わたしたちの負い目をお赦しください。
               同じように私たちに負い目のある人を私たちも赦します。
          わたしたちを誘惑に陥らないよう導き、
     悪からお救いください。
                                 (フランシスコ会訳)

 この主祷文(主の祈り)をみると、「今日の糧を今日お与えください」が中心に位置していることが分かる。

 集中構造法と交差配列法を区別しない考え方もあるようなので、「主の祈り」は「交差配列」ですと考えると、なにかわかりやすくなったような気がしてくる。


注1 修辞とはレトリックのことで、文章を美しく表現する技法のひとつ。
注2 麦の種とか、辛子種とかパン種とか、イエスは「種」(たね)を使った譬えをよく使う。旧訳聖書では異なった種類の種を混ぜてまくことは禁止されているらしい(申命記22・9など)。旧約では「子孫」という意味で使われることが多いらしいが、イエスは「種」を、福音、神の言葉、神の国などの象徴として使っているようだ。

 

 

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「神の国」の使信 ー 新約聖書とイエス(その7)

2018-10-22 21:28:05 | 神学


 川中師の「新約聖書とイエス」の講話は、学びあいの会の話題が彼方此方に飛んでしまい、フォロー仕切れなかったが、やっと元に戻ることになった。今回のテーマは「神の国の使信」である。
 ポイントは、「神の国」とは何のことか、「神の国」はいつ実現されるのか、という問いである。師は、百瀬文晃『イエス・キリストを学ぶ』、大貫隆『イエスという経験』などを参考文献としてあげながら、ご自身の整理と説明を展開される。

 まず、旧約聖書と新約聖書における「神の国」という概念を比較される。新約聖書は共観福音書が中心となる。基本的には「神の国」には、「神の王国」という意味と、「神の支配」という意味がある。王国と支配、この区別が神の国論の中心になる。Reich とHerrshchaft, Kingdom とRule, とでもいえようか。

3・1 旧約聖書における「神の国」

 旧約聖書では、神の国とは マルクート・アドナイ というらしいが、二つの意味というか使い分けがあるという。

 第一は 「神は王である」。王である神という言い方は、「わたしは主、あなたたちの聖なる神、イスラエルの創造主、あなたたちの王」(イザヤ書43・15)とか、「神は諸国の上に王として君臨される」(詩篇47・9)などにみられる。王とは何者かは歴史学ではいろいろ議論があるだろうだ、旧約聖書でいえば、当時の族長たちを統一して上に立った者というイメージだったのであろう。

 第二は、「神は支配する」。神による支配が現存することを神の国と呼んだ。「主は天に御座を固く据え、主権を持ってすべてを統治される」(詩篇103・19)、「あなたの主権はとこしえの主権、あなたの統治は代々に」(詩篇145・13)などは、神の国を神の支配として理解しているようだ。

3・2 新約聖書における「神の国」

 では、新約聖書ではどうだろうか。新約聖書では、「神の国」は、バシレイア basileia tou theou とよばれ、この表現は162回登場するという。「王国または支配」というこの概念の二重性は旧約聖書から引き継がれるが、王国とはつきつめれば、神が支配する領域(Herrschaftsbereich)という含意をもつが、支配といえば神が支配するという行為または遂行(Herrshcaftsvollzug)を含意するといえようか。やがて、「神の国」とは「神の支配」 Herrshcaft Gottes を指すという理解の仕方が優先されてくると言う。

 だが、細かく見ると、共観福音書でも違いがある。マタイ福音書では、「天の国」という概念・用語が登場するのだ。神の国 と 天の国 は違うのか。
 洗礼者ヨハネはこう言ったという。「その頃、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(マタイ福音書の3・1)。またイエスもこう言った。「そのときから、イエスは、(と言って宣べ伝え始められた。)「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4・17)。マタイ福音書によれば、洗礼者ヨハネも、イエスも、天の国という言葉を使ったというのだ。

 では天の国と神の国はどう違うのか。

「イエスは弟子たちに言われた。「はっきりいっておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マタイ19・23f)。
 このように、マタイは神の国という表現も使うことがあるが、それはまったく例外的な使い方である。マタイはユダヤ人に向かって話しているのだから、天の国という言葉を使う方が自然なのだろう。中川師はこれを「マタイによる対ユダヤ教的改変」と言っている。イエスは神の国と表現していたが、マタイはイエスの教えをユダヤ教に引きつけて、ユダヤ人にわかりやすいように、天の国という言葉をあえて使っていると考えられる。または、キリスト教(まだ生まれてはいないが)をユダヤ教のなかで説明しようとしていたのかもしれない。これは単に言葉の選択というより、ユダヤ教のもっている終末思想がキリスト教にどのように入り込んでいるかという大問題につながる。従って、マタイの「天の国」概念と比較すると、マルコの「神の国」概念は際だって重要に見えてくる。

3・3 共観福音書以外における「神の国」概念

 ヨハネ福音書(3・3・5)、使徒言行録(1・3・8,14・22,19・8)、パウロの書簡(ロマ書4・20,Ⅰコリント4・20)などに神の国という用語が用いられる。だが、この用法は徐々に廃れ、やがて「キリストの国」という新しい用法が登場してくる。だがこれは先の話である。(続く)

 

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堅信を祝う

2018-10-14 20:53:58 | 教会


 小6の孫娘の堅信式に出てきた。印象が強かったので早速記録を残しておきたい。
百合ヶ丘教会で梅村司教様から堅信を受けたのはなんと24名で、そのうち小中学生は16名だという。先週わたしの所属教会で堅信を受けたのは6名だったからこの数の違いに驚いた。百合ヶ丘教会の名簿上の信者数は1300前後らしいから、教会の規模から言ったらわたしの所属教会の方がずっと大きい。
 しかもごミサに出ている信者さんの年齢層が違う。若い人が、おそらく30代、40代の人が多いのだ。わたしの所属教会がいかに高齢化が進んでいるかを思い知らされた(注1)。
 梅村司教さまのお説教も熱が入っていた。数週間前の教区懇談会(教区司祭の集まり)の話を紹介され、横浜教区の小教区がいかに多様であるかを説明された。そして、百合ヶ丘教会が他の小教区と違っていかに、活発で、豊かで、若さに溢れる教会であるかを強調しておられた。ミラノ会の管区長もされた主任司祭のマリオ神父様は司祭の定年年齢を過ぎておられ、しかも赴任されてまだ半年ということなので、教会そのものが元気なのであろう。
 教会委員長さんにご挨拶ついでに活発さの秘密を尋ねたら、教会建物の建て直しに向かって努力しているからではないかと言われていたが、どうもそれだけではないのではという印象を持った。わたしの教会でも建て直しは何十年来の懸案事項で状況がそれほど異なるわけではないからだ。新百合ヶ丘周辺の地域特性、信徒の階層上の特性が反映しているのかもしれない。自分の所属教会と比較したときその違いに驚き、しばらく考え込んでしまった。小教区の多様性と言ってしまえばそれまでだが、教会を少子・高齢化の視点からのみ論じてはいけないことを学んだ。
 ごミサの後の懇親会(パーティー)も大盛況で、司教さま、神父様はお茶を飲む時間も無いほどの忙しさとお見受けした。特に司教さまはこの季節はあちこちの教会で毎週堅信式をあげておられるのだろうが、すこぶるご機嫌のご様子が印象的であった。
 孫娘がこういう元気な教会で信仰を深めていけることを神に感謝し、なにかすがすがしい気持ちで教会を後にした。

注1 高齢者があまりにも多く、例えば、敬老の日のお祝いは80歳以上でないとお祝いされる資格がない。人数的にお祝いしきれないのだ。わたしの所属教会は80歳代の信徒でもっていると言っても過言ではない。

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