カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

マタイ福音書「山上の説教」について・その2(学びあいの会)

2017-06-26 21:13:37 | 神学

 2017年6月26日の「学びあいの会」は前月に続いてマタイ福音書「山上の説教」です。前回は第5章の真福八端が中心でしたので、今回は6章・7章に進みました。今回は勉強というよりはともに聖書を読み、味わい、祈るというもので、なにか聖書講座みたいでしたが、これはこれでたまには良い経験でした。
 S氏ははじめにマタイ福音書とルカ福音書の違いについて少し説明されました。Q資料など同じような資料に基づきながらも、マタイ福音書がルカ福音書に比べいかに良く構成・編集された福音書であるかを力説された。マタイ福音書は28章からなる長文の福音書である。全体としてイスラエルの歴史を語るが、イエスの登場によってイスラエルの歴史が未来に向かう人類全体の歴史と合流する様を描いていると言えようか。この福音書の編集の仕方は「交差配列」と呼ばれるらしく、各章がきれいな対照的な配列として置かれているのだという。念のために簡単に紹介しておこう。

【マタイ福音書の交差序列】

○出来事の話 誕生・避難・公現               1~4章
| ●第一の説教 八つの幸い・神の国の義   5~7章
| | ○出来事の話 奇跡・権威の話           8~9章
| | | ●第二の説教 神の国の宣教者      10章
| | | | ○出来事の話 この時代の不信  11~12章
| | | | |
| | | | | ●第三の説教 神の国の秘義 13章
| | | | |
| | | | ○出来事の話 弟子たちの信仰  14~17章
| | | |
| | | ●第四の説教 神の国の共同体       18章
| | ○出来事の話 問答ー権威についての論争  19~22章
| ●第五の説教 八つの不幸ー神の国の裁き      23~25章
○出来事の話 受難・死・復活                        26~28章

こうして並べてみると、マタイ福音書も格段に読みやすくなる。聖書研究者のおかげといえようか。
 イエスの生涯を時系列的に描くルカ福音書は、特にイエスの誕生や幼年時代の描き方はマタイ福音書と大きく異なっていることはいうまでもないが、9章51節から始まるエルサレムへの旅が延々と詳しく書かれており、これがルカ福音書の大きな特徴となっているという。これも念のためにこの福音書の構成を確認しておこう。

【ルカ福音書の構成】

1 序文                                       1:1~4
2 誕生・幼年期                            1:5~2:52
3 イエスの活動準備期とヨハネ        3:1~20および3:12~4:13
4 ガリラヤにおける活動                 4:14~9:50
5 エルサレムへの旅路                    9:51~19:27
6 エルサレムにおける活動              19:28~21:38
7 最後の晩餐と受難                       22:1~23:56
8 救いの歴史の計画による復活と天の旅空   24章

 さて、本論の山上の説教第6章である。ここでは、まず、施し・祈り・断食という3つの「信心行」が説明される。施し(6:1~4)では、他人に見てもらうための施しはしてはならない、祈り(6:5~15)では他人に見てもらうために祈ってはならない、断食(6:16~18)では偽善者のように断食してはならない、と警告される。信心は神と一つになるためで、偽善者になってはならないと繰り返し警告される。この時代よほど信心深さを装った行が横行していたのであろう。この施し・祈り・断食という信心行はアブラハムの神を持つ三大宗教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)に共通している。その行為の強弱には違いがあるにせよ、この三つは重要な信心行とされている。現在のカトリックでは断食の要請は弱まっている、または少なくなっているといえるだろうし、施しもその形が変わってきているが、無くなっているわけではない。ところが、プロテスタントではこういう信心行はない。行われない。義認論を採るプロテスタンティズムは基本的に「善行」を認めていないのだから同然と言えば当然である。S氏は、「でも、プロテスタンティズムは聖書のみと言うけれど、聖書には信心行は大事だと書いてあるのだがなーーー」とぶつぶつ言っていた。これはこれで予定説をいれればルターとカルヴィンたちとの比較という大問題になってしまうので、来月改めてこの問題を考えてみよう、ということのようだ。
 6章24節から7章12節までは態度論と呼ばれるようだ。6:19~21は「天に宝を積め」、6:24は「神と富(money)の両者に仕えることはできない」、所有欲は神の意志に従わせなさいと言う話で、「物」に対する態度の持ち方をいっている。そんなことを言われても、と凡人のわれわれは「マンモンの神」の誘惑に逆らうのは難しい。そこで、6:25~34は「思い悩むな」、神の摂理に信頼せよ、と言う話。「物」ではなく、「神」にたいする態度の持ち方を語っている。

命のために何を食べ、何を飲もうか、また体のために何を着ようかと思い煩って はならない(6:25 新共同訳)

Do not be anxious about your life, what you will eat or what you will
drink, nor about your body, what you will put on. (ESV)

 マタイ福音書では有名な箇所で、美しい文章である。詩的ですらある。この言葉に励まされた人は多いことだろう。衣・食・住のことを心配するのは当たり前だが、最後は神の摂理に信頼しなさいということであろう。タテマエ論と一笑に付すのは簡単だが、ルカ12章にもこの話があるのを見ると、この時代この言葉が持っていた重みを感じざるをえない。
 6:33には「まず、神の国とその義を求めなさい」とある。「天」という言葉を好むマタイがここでは珍しく「神の国」という言葉を使う。衣食住を心配するなといわれても、なかなかすんなりとは受け入れてもらえない教えだったからだろうか。

 第7章からは「人」にたいする態度が示され、最後に有名な「黄金律」が登場する。7:1~5は「人を裁くな」、7:6は「豚に真珠」で、聖なるものを汚すな、7:7~11は「求めなさい」で、ひたすら祈り、扉をたたき続けるならば必ず与えられる、と神に対する姿勢が求められる。そして 7:12「黄金律」だ。

だから人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい

So whatever you wish that others would do to you, do also to them,
for this is the Law and the Prophets.

 きれいな言葉だ。だが無理だ。山上の説教の教えは立派だが、そんなことはできない。これが現在ここを読む人の多くの人の印象だろう。でも、イエスの言葉を聞いた当時の人々は 多くの人が文字通りその通りに聞いたようだ。それにはいろいろな説明のしかたがあるようだが、結局は「終末」思想のとりかたにあるようだ。当時の人々は、「その日」(7:22)は、最後の日は、審判の日は、もうすぐ目の前に来ている、と思っていたのだろう。だから受け入れらた。「もうすぐ」はいつだかは判らないが、それほど遠くとは思っていなかったのだろう。それは無理だ、と言う人は、「その日」はいつか来るだろうけど、でも先のことだ、自分が生きている間にはないだろう、と思っている人々だ。この人たちはそう思って、2000年過ぎた。2000年も、なのか、たった2000年、なのかはわからないが、こういう終末論的説明は繰り返しなされてきた。さて、「その日」とはいつなのだろう。
 7:13~28は最後の部分で「注意事項」と呼ばれるらしい。7:13~14は「狭い門から入れ」。7:15~20「実によって木を知る」は偽物・偽預言者に警戒せよとの話だが、「羊の皮をかぶった狼」のコピーでよく売れた車の宣伝に使われ、よく知られることになったのは記憶に新しい。7:21~23「あなたのことは知らない」。I never knew you  もよく知られた言葉のようだ。そして7:24~28の結びは「家と土台」の話で、家は砂の上ではなく、岩の上に建てなさい、となる。ここで、7章は、山上の教えの話は、終わる。
 報告者は今回はラッチンガーの山上の説教論にはふれませんでした。今日の部分は『ナザレのイエス』では第4章第2節「メシアのトーラー」のなかで論じられています。ラッチンガーはユダヤ人学者ヤーコブ・ノイスナー『一人のラビによるイエスとの対話』を好意的に紹介しながら自分のトーラー解釈、律法解釈を述べていく。具体的には安息日論争、共同体論、を展開する。「イエスは革命家として行動したのでも、自由思想家として現れたのでもありません。彼はトーラーの預言者的な解釈者としての彼の務めを果たしました」(171頁)と述べて、自分の山上の説教論を終える。つづいて第5章「主の祈り」の説明に入っていきますが、この部分の検討はまた別の機会になりそうです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「カロル ー 教皇になった男」を観る

2017-06-18 22:37:23 | 神学

 J.バッティアート監督のイタリア・ポーランド合作映画 A Man who became Pope を観てきました。DVD版でしたが、場所が鎌倉生涯学習センターのホールですのでそれなりの迫力がありました。2005年作の古い映画ですが、今回観たのは日本語字幕版でした。上智大学の卒業生など制作委員会が随分と苦労なさって字幕化が完成した映画とのことです。この辺の事情はカト研の皆様の中にはお詳しい方が多いのではないでしょうか。英語版を日本語訳されたようで、言葉は全編英語でした。音楽はエンニオ・モリコーネとのことで、3時間余の大作であるにもかかわらず飽きさせませんでした。と言っても観客はお年寄りばかりですから、一息に三時間はもちません。前編・後編の二つに分かれ、途中休憩が挟まれていたのは助かりました。
 この映画はポーランドのカロル・ヴォイティワが教皇に選出され、ヨハネ・パウロ二世になるまでの半生を描いている。前編はナチ支配下のポーランドで召命を受けるまで、後編はソビエト支配下の教会を司教として守っていく姿を描いている。全編、戦争とレジスタンスのシーンである。登場人物もおそらく実在した人もいるのだろうが、なにぶんわたしはポーランドの歴史については疎いのでフォローしきれない人物もいた。教皇になるまでを描いているので、その後の「連帯」の形成や民主化運動は触れられず、ましてや「空飛ぶ教皇」として世界中を駆け巡ったカロルは描かれてはいない。また、かれは教皇としての在籍期間が26年余と長かっただけではなく、神学者としても影響力は大きかったが、その面はこの映画では全く描かれていない。2013年にヨハネ23世とともに列聖されているのだから、そろそろこの映画の続編も、つまり教皇としての後半生の映画も期待したいところである。 

 カロル・ヴォイティワは1920生まれで、1939年19歳の学生の時ナチがポーランドを「侵攻」する時から話が始まる。演劇家志望だったが1943年に地下神学校に入り、1946年26歳で叙階。1958年38歳で補佐司教となり、1978年58歳で教皇に選出される。本映画はここまでの人生をえがく。印象的だったのが、ナチやソ連の支配に服従すべきか抵抗すべきか悩む時、ポーランドの守護聖人「黒いマリア」(ヤスナ・グラの聖母」に祈り、決して武力レジスタンスの途を選ぼうとはしなかった姿であった(念のため写真を載せておきます)。こういう忍耐力というか我慢強さがどこから生まれてきたのかとこの映画は繰り返し問うていたようだった。

 この映画からは離れるが、第二バチカン公会議以後の教皇の中でヨハネ・パウロ二世は最もエキュメニズムに力を入れた教皇として記憶されるだろう。ユダヤ教、東方教会、仏教などとの対話は記憶に新しい。1981年の日本訪問は広島・長崎だったが、日本政府の受け入れは大歓迎と言えるものではなかった。かれが亡くなった時の日本政府代表はなんと総理補佐官でしかなかったと聞く。他国はほとんど元首クラスが出席したにもかかわらずである。暗殺未遂事件もあったし、湾岸戦争後のイラク戦争への反対もあった。ポーランドからのソ連の撤退もヨハネ・パウロ二世の存在抜きには起こらなかったであろう。歴史に残る教皇だったといえるのではないか。
 神学者としてのかれの貢献も忘れてはならないようだ。ラッチンガー(名誉教皇ベネディクト16世)を抜擢したのもかれだし、回勅「信仰と理性」や「キリスト者の一致」は良く読まれたという。カロルはラグランジュの弟子だったのでトマス主義者だという評価と、映画でも描かれたように「十字架の聖ヨハネ」を良く読み学位論文のテーマにしたという意味で神秘主義者、または現象主義者と評価する者もいるらしい。どちらに比重がかかっていたのかわたしにはわからないが、教義面では保守的であったようだ。社会面・政治面であれだけ活発だったのに比べると、この保守性は際立っている。たとえば妊娠中絶は決して許そうとはしなかった。教会論で言えば、第一バチカン公会議以来のウルトラモンタニスムを排除しようとはしなかったようだ。つまり、バチカン第二公会議で決まった「司教の団体性」を認めながらも教皇制の特別な役割を肯定していたようだ(簡単に言えば、公会議至上主義よりは教皇至上主義に傾いていた、と言ったら言いすぎかな)。といって「聖ピオ十世会」のような反動的な主張は認めなかったようだ。
 先日「ローマ法王になる日まで」という教皇フランシスコの映画を観た。アルゼンチンの軍事政権下の教会を描いたとは言え、抑圧の悲惨さは比べるべくもない。また、第二バチカン公会議閉幕50周年記念ということで「聖ヨハネ23世 平和の教皇」の日本語字幕化も完成したという。ストーリーもさることながら、教皇の描き方の違いという視点から比較してみたいものである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『ローマ教皇(法王)になる日まで』を観る

2017-06-07 09:50:17 | 神学

 D・ルケッティ監督の映画「ローマ教皇になる日まで」を観てきました。ジャックアンドベティでしたが、客席はお客でほとんど埋まっていました。観客の多さからみてお客さんは必ずしも信者さんばかりではないようでした。もう少し宗教性のある映画かと思っていましたが、監督はクリスチャンではないらしく、宗教映画ではありませんでした。やがて教皇に選出される一人のイエズス会司祭が1970年代のアルゼンチンの軍事独裁政権下をどのように生き延びたかをサスペンス風に描いているといってよいでしょうか。かといって偉人伝とか成功物語というものでもなく、フランシスコ教皇の人間的親しみやすさと質素な生活態度がどのように作られてきたかを描いているように思われました。映画として上出来かどうかはわたしには判断できませんが、あぁこの人にならカトリック教会を任せて良いな、と思わせてくれたという意味で良い映画でした。全編バックグランドにタンゴが流れていたのが印象的でした。映画のタイトルで言えば、映画の配給会社は法王で行くか、教皇で行くか随分と迷ったようですが、教皇を選んでくれたらと思わなくもありませんでした。監督はイタリア人で、ベルゴリオ神父(フランシスコ教皇)もイタリア移民の子ということでイタリア映画なのかもしれませんが、言葉は若干ドイツ語とイタリア語が入っていたきりですべてスペイン語のように聞こえました(アルゼンチンではスペイン語とは言わないようですが)。そういう意味ではアルゼンチン映画と呼んでも良いのかもしれません。映画はアルゼンチンの時代背景は既知のものとしてベルゴリオの半生を描いているようで、軍事独裁政権そのものの説明はなされていません。
 70年代のアルゼンチンを描いた映画と言われても、わたしなどはアルゼンチンについて何も知らない。アルゼンチンと言われて思い浮かぶのは、わたしの世代で言えば、「母をたずねて三千里」、タンゴ、ペロン、フォークランド紛争くらい。この映画を観る前に少しは予備知識を仕入れていくべきだったと後悔した。アルゼンチンは人口4千万弱、面積も広く、南米ではブラジルに次ぐ2~3位の大国らしい。だが第二次世界大戦以降は政治的にも経済的にも混乱と混迷を極め、今日ですら将来の展望が開けていないようだ。そのわりに自尊心と愛国心は強いらしく、フォークランド諸島を巡ってイギリスと戦うくらいだから、個性的な国民性をもっているようだ。ブラジルとは何につけても対立しているという。格差と貧困に苦しむ移民大国といってもよさそうだ。
 ビデラ率いる軍事クーデターが1976年に起こり、1983年まで軍事独裁政権が続く。「汚い戦争」と呼ばれた白色テロが横行し、3万人もの「失踪者」が生まれたという。思想的には「解放の神学」が貧しい人々のために働く司祭たちをささえ、社会理論ではまだ「従属理論」が説明力を持っていた。ベルゴリオは1973-1979年にアルゼンチンのイエズス会の管区長であり、文字通り軍事独裁政権と対峙していたわけだ。映画はこの時期のベルゴリオを緊張感をもって描いていく。軍事独裁に抵抗したり、妥協したりの変化が興味深い。解放の神学がベルゴリオにどのような思想的影響を与えたかは知るよしもない。とにかくかれはこの時代を生き抜いていく。ベルゴリオは保守と改革の二面性をもっているというルケッティ監督の言葉は示唆的であった。
 この映画の最大の見せ場は、軍事政権が終わった後ドイツに留学し、アウグスブルクの教会で「結び目をほどく聖母マリア」と出会い、劇的な回心を経験するシーンだろう。ベルゴリオはここから教皇への途を歩み始めたのかもしれない。穏やかなベルゴリオが生まれた瞬間なのであろう。末尾に「結び目をほどく聖母マリア」の御絵の写真を載せておきました。
 この映画はフランシスコ教皇の何を描こうとしたのだろうか。どうしても名誉教皇ベネディクト16世と比較してしまう。そのキャラクターはあまりにも対照的だからだ。ベネディクト16世は学者だが、フランシスコ教皇は学者とは呼べない。教皇としてみれば、ベネディクト16世は教義面では改革派だが社会面では保守派だった。フランシスコ教皇はいまのところ社会面では改革派に見えるが、教義面では保守派のようだ。環境問題や貧困・格差問題に強い関心を見せるとともに、同性婚の否定など頑固なところもある。わたしがこの映画から受けたフランシスコ教皇の印象は、貧しさへの理解と人間的親しみある人、というものであった。ベルゴリオは叙階後日本行きを希望したという。この希望はかなわなかったが、一度日本に来たことがあるという。そして今教皇としての日本訪問を望んでいるという。なんとか日本に来ていただいて、RockStar Pope (ロックスター教皇)として日本人の心をつかんでほしいものである。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「聖霊」(神学講座『イエス・キリストの神』その8)

2017-06-06 10:23:15 | 神学

 2017年6月5日の神学講座は晴天に恵まれ、H神父様のご機嫌も良く、参加者は講義を楽しんでいました。今回はベネディクト16世著 里野泰昭訳『イエス・キリストの神』(2011)の第3章「聖霊」が説明されました。本書の最終章ですが、翻訳でわずか13頁の短い文章です。昨日は聖霊降臨の主日(A年)でしたので、偶然とは言え聖霊論を深く考える良い機会でした。講義は昨日の「聖書と典礼」も使って行われました。この教会のごミサではまだメロディーのついた「ニケア・コンスタンチノープル信条」を歌うには至っていませんが、もう始まっている教会があるのかもしれません。
 昨日の主日で、復活節の50日間が締めくくられたわけですが、聖霊降臨は教会の「誕生」の時を記念するので、キリスト教の「教会」が「生まれた日」ということになります。特に、第二バチカン公会議以降さまざまな形のペンテコステ刷新運動、聖霊復興運動が盛んになり、今日でもさまざまな運動が存在する中、それらの試みをきちんと評価するためにも、ラッチンガーが、そしてH神父様が、これらの運動体をどのように説明されるか興味がありました。なぜなら、それらの試みはどれも教会の現状を批判し、「誕生日」に戻りたい、聖霊降臨時の「教会」に戻りたい、と考えている点では共通しているように思えるからです。
 H神父様は本章の説明に入る前に、三位一体のエンブレムについて蘊蓄をかたむけられました。伝統的には三角形を使って三位一体を表すのが通例で、いくつかの例を示されました。ネットで検索すればたくさんのエンブレムを見ることができますが、最も標準的なものをひとつ本文末尾に例示しておきます(右側の図)。そして本書の訳者里野氏は「解説 三位一体について」のなかで新しいエンブレムを紹介しており、これについても説明を付け加えていました。左側の絵になります。念のためにこれもここに例示しておきたいと思います。H神父様も自分が子供の頃見た三位一体の絵は、三角形のなかに神の大きな目が描かれ、悪いことをするなとばかりこちらをにらみつけているもので怖かった、と昔話をしておられました。参加者もそうでしたねとうなずいている方が多かった。これらエンブレムの話はなにか昔の子供向け公教要理みたいでしたが、講義への導入としてはこれはこれで面白いものでした。

 さて、本論です。ラッチンガーは本章をつぎのような書き出しで始める。「私たちは三位一体の神を信じます。ところで、・・・・聖霊は知られざる神なのです。」確かに、父と子についてはいろいろ語られるが、聖霊についてはほとんど語られない。我々もこれと言った確定的なイメージが湧かない。なぜなのか。なぜ教会は聖霊について語ることが少ないのか。
 ラッチンガーはその理由として、第一にマニ教の影響、第二にモンタニスムの聖霊運動を指摘する。これはこれで重要で、あれこれ論じたいところだが、ラッチンガーは軽く触れるだけで済ましている。ラッチンガーが最も大きな理由としてあげるのはヨアヒム・フォン・フィオーレ(1130-1202)という中世イタリアの神学者、神秘主義者である。
 日本ではフィオーレのヨアキムと言った方が通りが良いかもしれない。例えば、ナチズムの「第三帝国」とか「総統」という概念はヨアヒムに淵源がある。西洋哲学史ではヨアヒム→ヘーゲル→マルクス→ヒットラーは一つの流れとして理解・説明されることが多いという。ヨアヒムは「危険な」神秘主義者であった。教会から異端にこそされなかったようだが、その思想をどう理解し、位置づけるかは、神学者・哲学者の間でも共通理解はなさそうだ。このヨハヒムをラッチンガーは聖霊論衰退の第三の理由としてあげる。しかも、ヨハヒムを批判するどころか、ヨハヒムの神秘主義思想をそれなりに肯定的に評価し、しかも、それを極端な形で曲げて理解・発展させたフランシスコ会聖霊派にその源を求めていく。聖フランシスコその人の思想ではない。フランシスコ会全体ではない。その中のある特定の人々がヨアンヒムの思想を極端化し、やがてフランシスコ会聖霊派(ベガンと呼ばれたフランシスコ会第三会)は異端として排除されていく。(異端は背教、離教とは異なる。異端とは、受洗した者が、真理を執拗に否定または疑問視した者のことと定義されている。異端heresyは謬説heterodoxyと同じではなく、それを「選択する」hairesisという意味が込められているという)。
 では、ヨアヒムの思想とはどういうものだったのか。ラッチンガーは言う。「ヨアヒムについては詳しく扱うだけの価値があります・彼においては、聖霊について語ることの可能性とその危険について非常にはっきりと示すことができます。」ヨアヒムの思想的貢献のなかで最大のものは、歴史の進展を「発展段階」としてとらえたことだった。歴史とは単に時間が過ぎていく、物事が繰り返される時間の流れなのではなく、ある目標に向かって段階的に進んでいくものだという考え方に到達したことだった。現在では歴史の中に進歩・進化・発展(progress/evolution/development)を見いだし、そこには段階がある、という考え方はそれほど異例ではない。むしろ普通の考え方といってよいだろう。しかしヨーロッパ中世においてはそういう思考は見られなかっただろうし、ましてや使徒の時代、教父の時代には考えられなかったのではないか。ヨアキムはこういう考え方を、三位一体論から導き出した。「旧約における「父」の国、その時代までの教階制的なカトリック教会に代表される「子」の国の後に、1200年頃から第三の国として、「聖霊」の国、自由と世界平和の国が現れるであろうというのでした」(131頁)つまり、真に「霊的な」キリスト教を今ここにおいて生きるという方向性を示したわけだ。聖フランシスコはヨアキムの指し示した生き方を実践した。だが、聖フランシスコの後継者たち、フランシスコ会の修道者たちの一部はあまりにも厳格にその教えを具体化し、実践した。それは「誤ったヨアヒム理解」であった。かれらは、「子への信仰はそっちのけで、理想社会の建設を求めて、高く昇ろうとする教会の中の一派であり、理想社会への期待自身非合理的なものであるのに、それを現実的で合理的なプログラムであると詐称する者たち」であった。
 聖霊の神学、聖霊論は子への信仰を離れてはありえない。聖霊は子の息(いき・息吹・風)なのであり、「聖霊が私たちを子に導き、子は父に導くのです。」とラッチンガーは言う。ここで、ニケア・コンスタンチノープル信条のなかの一節を思い起こしてみよう。われわれはごミサごとにいつも唱えているお祈りであり、あまり深く考えたことはないが、少し思い起こしてみよう。「聖霊は、父と子から出て」とある。聖霊は「父」からのみでるのではない。「子」からも出る。これが長く苦しい論争の末にローマ・カトリック教会がたどり着いた三位一体論である。現在でも聖霊は父からのみ出るという考えや思想は生きている。カトリックにとり、聖霊は子の息だ、という考えがいかに重要か、ラッチンガーは繰り返し説明していく。
 ここでH神父様は面白い話を紹介された。教理の勉強会で三位一体の話をしているとき、時々出る質問は、「父と子と聖霊は三位一体だと言うけれど、では母はどこにいるの?聖霊は母ですか?」というものという。聖霊は母ではない、ということを説明するのに苦労するという。神に性別(sex,gender)はない。「父」が「白髪のおじいさん」というイメージは旧約聖書に根拠がないわけではないが、神が男か女かは誰も問わないのではないか。
 つぎにラッチンガーは聖霊降臨について話し始める。ヨハネ14・22-31だ。聖書は聖霊をそれ自身としては描写しない。「わたしたちが聖霊を認識できるのは、その働きの中においてのみです」(135頁)こういう表現だと、社会学から見れば、聖霊は実体ではなく機能だ、と言っているように聞こえる。むしろ、「聖霊を見ることができるのは、自らのうちに聖霊をもっている人だけです」(136頁)の方がわかりがいい。つまり、聖霊はイエスの言葉のなかに住んでいる。聖霊は言(ことば)だ、といってもよいのかもしれない。日本語には「言霊」(ことだま)という言葉があるのだから、こういう説明の方がなじみやすい気がする。
 聖霊の「働き」とは「思い出す」ことのうちにあるという。わたしにはあまり良く理解できなかったが、ラッチンガーによれば、「聖霊は自分から語ることはなく、イエスの「わたし」から語る」(138頁)のだという。父・子からわかれて、独立して聖霊論を展開することはできないということなのであろう。
 このあと、ラッチンガーは、聖霊とは「パラクレート」のことだというヨハネの説明を紹介していく。新共同訳の聖書では、「弁護人」と訳されている(ヨハネ15:20)、聖霊は弁護人だ、といわれても日本語としてはピントこない。ラッチンガーは代弁者、助け手、慰め主という言葉を用いて聖霊を説明する。なぜなら、聖霊降臨を図式的に説明する普通のやり方をヨハネは批判するからだ。聖霊降臨は、普通は、イエスはご復活後40日間地上を歩み、やがて昇天し、さらに10日後に、つまり50日目に、(五旬節 ペンテコステ)に聖霊が天から与えられた、これが教会の成立の始まりである、というものだ。だがこのルカ的な説明はあまりにも図式的だ。ヨハネ的に言えば、聖霊は「ディアボロス」(告発者、中傷者)に対立するから、聖霊の賜としての「カリスマ」が生まれてくる。「異言」はカリスマの典型例だ。といっても、異言には単なる外国語という意味の場合と、理解不可能な音声の羅列を意味する場合がある。こういうカリスマ概念はやがてM.ウエーバーのカリスマ概念に引き継がれていくが、それはラッチンガーは別の本で論じているので、ここでは詳しくは説明されていない。
 最後に神父様は興味深いことを言われた。ラッチンガーは、三位一体説を使った歴史の発展段階説を唱えたヨアキムを肯定的に評価しているが、これは勇気ある試みのように見える。歴史の発展の終局がわからないまま進歩・発展していく現代社会を批判できる視点として、「神に回帰する」という発展の方向を強調しているのがヨアキムである、と言われた。「神に回帰する方向での歴史の発展」という整理の仕方はわたしにはすごくグノーシス主義的な響きがある説明に聞こえた。歴史の終局は、キリスト教では最後の審判であり、救済である、というのがオーソドックスな公教要理レベルの説明だとわたしは思っているのだが、今日の暑さに頭がやられて、とんでもない思い違いをしてしまっていたのかもしれない。
 わたしが一番興味があった聖霊復興運動については、ラッチンガーはほとんど語らずで、また、H神父様もあまりはっきりした言及はされませんでした。聖霊の神学はまだまだ発展途上なのかもしれません。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする