カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

ご受難(3)ー ゲッセマネと裁判 新約聖書とイエス(16)

2019-02-28 08:34:27 | 神学

 2月の学びあいの会は、インフルエンザと花粉症が同時に襲ってきて、出席者は少なかった。内容は、ご受難の最後の場面に近づいていく。


 最後の晩餐の後、イエスは次のステップに進まれる。①ゲッセマネの園での祈り ②イエスの裁判 ③十字架刑 と続く。十字架につけられた死刑という、斬首よりも残酷な極刑。このままで終わってしまっては残酷な話のひとつで終わってしまう。この話は「復活」という光の中に位置づけなければ理解できない。

Ⅰ ゲッセマネのイエス

 ゲッセマネの園でのイエスの最後の祈りの話は、マルコ14:32ー,マタイ26:36ー,ルカ22:39ー にみられるが、やはり中心はマルコだ。ゲッセマネとは油を絞るという意味らしく、今でもあるらしい。巨大なオリーブの樹が茂っていて、岩の上に教会が建っているという。イエスはここでよく祈っていたようだ。
 ここでのイエスの言葉はマタイとマルコは同じような文言だ。「私が祈っている間、ここに座っていなさい」。ルカにはこういう文言は記されていない。大貫隆氏によるとここはイエスの「苦悶」を描いているという(1)。
 つぎのイエスの祈りで使われる「アッバ」(abba アマライ語)は興味深い言葉だ。本来、幼児語でパパに近い語感だったらしいが、この時代にはすでに大人にも使われていたらしいと言う。主の祈り・主祷文でも使われていたらしい。とはいえ聖書では3回しかでてこないで、福音書ではここだけだと言うからやはり珍しい言葉使いなのであろう。
 「しかし、私の望みではなく、御心のままに」(聖書協会共同訳)は、主への信頼と従順だけではなく、弟子たちの無能ぶりへの落胆とイエスの孤独をも表しているという。こういう読み方もあるようだ。

Ⅱ イエスの裁判

 イエスの裁判は、ユダヤ法廷とローマ法廷の二場面でおこなわれる。ユダヤ法廷の最高法院(サンヘドリン)には死刑の執行権限はなく、それはローマ法廷のみが行えるからだ。

①ユダヤ法廷の最高法院(最高議会 サンヘドリン)とは最高裁判所みたいなものだろう(2)。構成員は70人くらいで、大祭司・祭司長・長老・律法学者からなる。サドカイ派とファリサイ派が多数(3)。大祭司と祭司長は同じという説明もあるが、マルコ14章、15章では別者ともみえる。長老とは各部族の長のこと、律法学者は律法の細則を作り、解釈権を持っていたから権限は大きかったのであろう。マルコ14:53-65がこのユダヤ法廷を描く。大祭司はイエスがメシアを僭称していると責める。

②ローマ法廷:ローマ総督ピラトによる裁判はマルコ15:1-15だ。ここでは、「罪状書き」と「ピラトの尋問・イエスの回答回避」という二つのテーマが描かれる。
 まず、「罪状書き」の話だ。これは I・N・R・I (Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum ナザレのイエス、ユダヤ人の王)と書かれた「板」として知られる。現在でもご聖堂で見ることができる。IはJだから(IとJの区別がないから)覚えやすい。罪状書きは罪人を処刑するときその罪名を書いておく板のことで、当時のパレスチナにはアラム語(ヘブライ語)・ギリシャ語・ラテン語の三カ国語が話されていたから、罪状書きにも三カ国語で書かれていたという。この「板」は単に「札」と記される(訳される)こともあるようだ。ユダヤ人の王とは、イエスが「政治的な」王位を僭称しているからローマ帝国に対する反逆罪になるという意味のようだ。イエスに政治的反逆の意図があったとは思えないが、かれらにはそう受け止められていたのであろう。
 ついで、「お前はユダヤ人の王なのか」とピラトが尋問すると、イエスは「それは、あなたが言っていることだ」と、直接的な回答を拒否する(マルコ15:2)。拒否というよりは回避する。聖書学者たちはここに、ローマ帝国にたいする反逆の意図はないことを示す原始教会の護教的姿勢を読み取っているようだ。こうして、「イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」(マルコ15:15)。ここでも「引き渡す」という言葉が重要だという。イエスには死罪に相当するような法的責任はないと言う意味がこめられているのだという(4)。
 十字架刑の話は次回にまわしたい。

注1 大貫隆 『イエスという経験』 岩波現代文庫 2003 2014
注2 いうまでもなく三権分立などないのだから、議会か法院かとか区別してもあまり意味は無いのかもしれない。
注3 サドカイ派とファリサイ派の違いはよくわからないが、ここでは、サドカイ派は成文化された律法のみを重視し、ファリサイ派と違って口伝律法を否定していたことを示すらしい。ファリサイ派の方が多数派だったのだろうが、律法遵守の形式主義に陥っていたので、イエスはその偽善性を厳しく批判攻撃していた。
注4 このローマの第5代ユダヤ総督(26-36)ポンティオ・ピラトの評価は未だ微妙だ。われわれは使徒信条でかれの名前を常に口にするのだが、不思議なことだ。最後はローマに送還されて自殺した(させられた)といわれるが、本当なのだろうか。

 

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おひとり様時代の教会奉仕について

2019-02-27 10:20:17 | 教会


 この記事は主にカト研の皆さんへのご報告です。カト研の皆さんも少しずつお年をとってこられているのでおわかりいただけると思っての投稿です。
 私の所属教会で動いているある高齢者の集まりで話をする機会を与えられました。これと言った話題も思いつかなかったので、最近考えている教会の奉仕活動について何か話してみようと思いました。奉仕活動と言っても教会のお茶当番すらおぼつかないのにおこがましいと言われるのを承知でお引き受けしました。と言っても、どういう角度から議論するか迷いましたが、この会はご高齢の方が多いので、「おひとり様」という視点から論じてみたいと思いました。
 おひとり様論も色々あるようですが、自分なりに最近考えていることをまとめたものを話してみました。配付した資料を添付しましたので、ご覧ください。内容はくどくと説明しなくともおわかりいただけると思います。いろいろご異論があろうかと思いますが、話の種としてお読みください。次回のカト研お集まりでの話題の一つにでもなれば幸いです。
 今日の集まりというか会はご婦人が多く、また、お一人だけど元気に教会活動をなさっている方が中心でしたので、わたしの話の後の感想のやりとりはとても興味深いものでした。学ぶことが多かった。おひとり様にも色々あるし、教会奉仕にもいろいろなカタチがあることを教えられました。
 カト研の皆さんもご自分の教会でご活躍のこととおもいます。このレジュメが少しでも皆さんを励ますことができたら、これほどうれしいことはありません。

 

 

 

 

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集会祭儀かみことばの祭儀かー典礼研修会に出て(3)

2019-02-14 09:23:22 | 教会


 午後の講演はまず、O師による「ことばの典礼ーみことばを受ける、応える-」というタイトルでおこなわれた。午前中の師の講演とは異なり、よく準備され、テーマが絞られたよい講演であった。

 師はまず、ことばの典礼はユーカリスチア(聖餐、共食、聖体、イエスのパン割き)の前半部分なのではなく、独立した「場面」であると強調された。聖変化前の単なる導入、準備ではないということなのであろう。
 続いて、「第一朗読・答唱詩編・第二朗読・アレルヤ唱・福音朗読・説教・信仰宣言・共同祈願」と、式次第の流れに沿って個別に詳しく説明された。

 特に強調されたのは、ことばの典礼は「神と人とのやりとりー応答」だという点だった。応答とは信者の「参加」が不可欠であり、具体的には神からの呼びかけに信者が応える「態勢」をとることだという。典礼憲章がいう信徒の行動的参加の話である。
 例として、多くの信者はミサの最中に、「神ではなく、紙に心を向けている」と言って皆さんの笑いをとっていた。つまり、信者はミサの最中に「聖書と典礼」に印刷されている第一朗読・第二朗読・福音朗読の部分を眼で読んでいて、顔を下に向けている。それはよくない。顔を上げて、朗読を「聴いて」、神に心を向けなければならない、という。よくわかる話であった(1)。

 典礼憲章(2)は信徒の「行動的参加」論が中心だが、この本には「啓示」に関する教義憲章も含まれている。O師もパウロの回心の例を取り上げながら、啓示の「突然」性について興味深い説明をされた。キリスト教は啓示宗教だが、その啓示は常に「突然」の出来事なのだという。キリストとの出会いというのは、徐々に準備されて到達するというものではなく、「突然」起こることなのだという。幼児洗礼だが叙階は2016年だったという今年48歳だというご自身の例を挙げながらの説明は説得力のあるものであった。

 続いて、昨日の主日の第二朗読部分、コリントⅠの151~11が朗読され、また、手話による通訳もおこなわれた。ここでも、「耳で聴く」「眼で聴く」ことの重要性が強調された(3)。 教会での「奉仕」とは神への奉仕のことであり、それは信者の側からの神への「応答」なのだという。教会での奉仕活動をこのように性格づける話は私は初めて聞いたので、なにか目が開かれる思いであった。O師が巨体を震わせながら説かれるとよくわかった気がした。これといった教会奉仕はなにもしていないわたしだが、教会での奉仕活動をなにか義務みたいに思っていたことを大いに反省させられた。

 この後、しばしの休憩をはさんで、「みことばの祭儀」が実際に試行された。わたしは初めての経験だったが、あまりとまどうことはなかった。某教会の典礼委員の方(女性)が「司会」役を務められた(4)。流れとしては通常のミサと変わらず、入祭の歌から共同祈願まで普通に続いた。
 感謝の典礼には入らないのだから、奉納の歌もないし、献金もない。もちろん聖体拝領はない。終わった後なにかもの足らなさを感じたが、これがみことばの祭儀だといわれればそうかなと思った(5)。

 この後の質疑応答は熱のこもったものであった。予定時間を大幅に超えた。個々の質問は典礼委員としてのかなり個別的・具体的質問が多かった。それほど普段判断に困っていることが多いということなのであろう。わたしにはフォローしきれない質問が多かったのでここでは紹介できないが、みことばの祭儀はまだ試行の段階であるように思えた(6)。


注1 とはいっても、聖書が発音しやすい、聴いてわかりやすい日本語に翻訳されているか、という問題や、耳が遠い高齢者はいつもワイヤレスイアフォンをつけてきかなければならないのか、とか、いろいろ難点も指摘された。
注2 2014年に日本語で翻訳出版された『典礼憲章』は全7章からなる。第1章では「行動的参加」と「典礼の刷新」が述べられている。この本には『神の啓示に関する教義憲章』も含まれている。この教義憲章は6章からなるが、ページ数としては短いものである。
注3 「聴」という漢字は、耳と目と心、からできているという比喩を使って、聴くことの重要性を強調しておられた。
注4 奉仕者がおこなうこの奉仕が「司会」なのか「司式」なのか、という質問が質疑応答の時に出された。また、そのときの「服装」のありかたとか、実際にはいろいろと判断を迫られることあるらしい。ことばの祭儀の細部はまだ煮詰まっていないようだ。
注5 聖体拝領がないと信徒は教会に来ないのではないかと思わなくもないが、近隣の教会の典礼委員の方の話によれば、実際には集会祭儀の参列者の数は大きくは減ったりはしていないという。教会に来る、行く、ことの意味を考えさせる事例だ。
注6 ミサのない主日としての集会祭儀は式次第が確定して司教様の認可も出ているらしい。そこでは、集会司式者と司会者がきちんと区別され、奉仕者の服装や司式者の別の席の用意など定まっているらしい。わたしは集会祭儀式次第の確定版は持っていないので確認はできていない。また、みことばの祭儀では、感謝の典礼の部分に相当するところがどうなるのか、特に交わりの儀はどうなるのか、興味深い。少し調べてみたい。

 

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集会祭儀かみことばの祭儀かー典礼研修会に出て(2)

2019-02-13 09:19:35 | 教会


「ミサはどうやってできているの? ーミサのそれぞれの部分についてー」

 K師の第一講は興味深い手順で進められた。まず話のテーマをクイズ形式で会衆に問われ、その答えに解説を加えていくという形式だった。師の講演は親切丁寧で印象深かった。講演中、師の周辺を小さな子供が声を上げながら数人遊び回っていたが、師は気にする様子でもなかった。師は典礼委員会の委員長とのことだが、温厚な人柄のゆえに典礼を巡る難しい争点をまとめ上げていけるのであろう。

 師の問いは三問。

問1 主日のミサのおこなわれる「場」を4個あげよ
問2 主日のミサを4つの「場面」で表せ
問3 「開祭」に含まれるのはなにか
問4 主日の「言葉の典礼」に含まれるのはなにか

 私は「場」とか「場面」という問の意味というか言葉が理解できなかったのでなにもできなかった。問3,問4は信者なら誰でもわかってはいるのだろうが、わたしは文字で書き出せと言われると困ってしまった。典礼委員にとっては書けて当たり前のことなのかもしれない。

 さて問1である。ミサを共にあげる上で特に意識しておかなければいけない「場」とは何か。答えは、①祭壇 ②朗読台 ③司式者の席 ④会衆の席、なのだという。わたしは内陣とか聖櫃を思い浮かべたが、どうも違うようだ(1)。K師は、今回は特に④の会衆の席を大切にしたいと言っておられた。

 問2の答えは、開祭・言葉の典礼・感謝の典礼・閉祭(派遣)とのことだった。どうもミサの柱を「場面」と表現するらしい。典礼の言葉は難しい(2)。

 K師によると、第二バチカン公会議が典礼の改訂に当たって大切したポイントは三点あるという(3)。①新しい奉献文 ②式次第の簡素化 ③新しい聖書朗読配分。

 この方針の下に生まれた「総則」(第二版)第8項によると、ミサでは「二つの食卓」が用意され、信者はそこで教えられ、養われるとある。つまり、「神のことばの食卓」と「キリストのからだの食卓」であり、それが「ことばの典礼」と「感謝の典礼」なのだという。ミサが食卓である、つまり食事をするテーブルである、という理解は日本文化の中にも徐々に浸透しつつあるようだ。
 k師は、今回は、つまり今年は、「開祭」と「ことばの典礼」をとりあげ、来年は「感謝の典礼」と「閉祭」をとりあげるという。つまりこの研修会は二年連続ということらしい。

 ここから本題で、師はまず「開祭」の各項目を詳しく説明された。ここで、念のために前回ふれたミサの4つの柱、または「場面」を復習しておこう。

 ①開祭: 入祭の歌・挨拶・回心・あわれみの賛歌・栄光の賛歌・集会祈願
 ②ことばの典礼: 第一朗読・答唱詩編・第二朗読・アレルヤ唱・福音朗読・説教・信仰宣言・共同祈願
 ③感謝の典礼: 供え物の準備・奉納祈願・感謝の祈り・叙唱・感謝の賛歌・奉献文・記念唱・交わりの儀・主の祈り・平和を願う祈り・平和のあいさつ・平和の賛歌・拝領
 ④閉祭: 派遣の祝福

 ここでは、開催前の「沈黙」の重要性、入堂と入祭の歌の目的、などなど各式次第を説明された。わかりやすい説明であった。

 問4の「ことばの典礼」も流れに沿って詳しく説明された。特に、第一朗読は福音朗読に合わせて選ばれること、答唱詩編は第一朗読に合わせて選ばれること、福音朗読は「耳で聴く」ことの重要性を強調しておられた。信仰宣言も最近は、ニケア・コンスタンチノーブル信条ではなく使徒信条が唱えられるようになった背景の説明も興味深かった(4)。

 午前の部の第二講はO師による「開祭ー私たちのミサがはじまるー」であった。特に資料が配られなかったので要約しづらいが、師の午前の部の講演は午後の部に比べるとよくわからなかった。午後の部は言葉の典礼についての詳しい説明でとてもわかりやすかったが、午前の部の話はまとまりがなかった。なにかその場の思いつきで話しておられるようで、話題があちこちに飛び、まとめようがなかった。要は開祭は信徒の参加という意味で重要ですということだったようだ。「存在の重み」という言葉を多用しておられたが、その具体的中身ははっきりとはつかめなかった。また、第三形式のミサをあげる司祭がいるがあわれみの賛歌は重要だと強調しておられた(5)。どれも典礼委員には通じる話題なのだろうが、残念ながらわたしにはついていけなかった。

 午後の部の話は次稿にまわしたい。

注1 最近のお聖堂では聖櫃が目には見えないところに置かれている教会もあるという。小聖堂とか壁の裏とかに置かれるらしい。藤沢教会でもどこに聖櫃があるのかわからなかった。赤いランプもみつからなかった。十字架も天井からぶらさがっているだけで、目のやり場がなかった。カトリック教会のプロテスタント化は思いのほか急速に進んでいるのかもしれない。
注2 典礼論は聞くところによれば神学校でもあまり人気のない科目らしい。実際、司祭の中でも典礼論に興味を示す人は少ないらしい。教会の2000年の歴史の中で典礼はあまりにも複雑になりすぎてしまったからであろう。
注3 どれも興味深いテーマだが、K師は詳しくは説明されなかった。「キリストと我らのミサ」には、奉献文は4つ載っている。通常は第三奉献文が使われるようだが、司祭はどのようにして使い分けているのだろうか。やっとでた『第二バチカン公会議公文書改訂公式訳』または『典礼憲章』をみてもよくわからない。
注4 第一朗読・第二朗読のあとの「神に感謝」という文言は、集会祭儀やことばの祭儀の場合、「奉仕者」も唱えるのか、唱えてはいけないのか、という質問が質疑応答の時に、出た。細かい話ではあるが、総則第三版はまだ承認されていないということで明確な答えはなかった。通常のミサ式文では奉仕者と書かれている。また、福音朗読の後の、「主は皆さんとともに」「また司祭とともに」の部分は、英語ミサでは、"The Lord be with you" "And with your spirit" となっているが、日本語では「あなたの聖霊とともに」は日本語としてはなじまないという説明は興味深かった。「うまく訳せない」とおっしゃっていた。
注5 ミサ典礼書にはミサの形式として第一・第二・第三形式が載っている。どういう違いがあるのかわたしには詳しいことはわからないが、O師がこれほど言及するのだからなにか議論がなされているのかもしれない。

 研修会会場

 

                     

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集会祭儀かことばの典礼かー典礼研修会に出て

2019-02-12 11:27:48 | 教会

 2月11日の国民の祝日に開かれた典礼研修会なるものに出てきた。主催は横浜教区典礼委員会で、場所は藤沢教会。いろいろ学ぶことが多かったので忘れないうちに書き留めておきたい。

 日曜日のごミサにただ出ているだけで典礼なんてあまり考えたこともないが、少しはミサのことを勉強してみたいと出てみた。当初は典礼憲章の解説かミサ式文の神学的説明を期待していたが、全く別物だった。ところがこれが予想以上にとても有益な研修会だった。

 第39回目の研修会というのだから歴史は古いようだ。今年のタイトルは、「ミサは、あずかるもの? ささげるもの? 参加するもの?ーその1 開祭とみことばー」というもの。何か意味がよく推測できないタイトルだったが、中身はカレントな話だった。要は、司祭が急にミサをあげられなくなった場合に信徒だけで「ことばの典礼」をおこなう。その具体的式次第の試行・練習というものだった。司祭不在が事前にわかっている場合の「集会祭儀」ではない。何かの事情で司祭が突然ミサをあげられなくなった場合、しかも信徒が教会にすでに集まってしまっている場合、どうするか、という問題への対処策のようだ。実際の運用では「ことばの典礼」と「集会祭儀」はなかなか区別できないとの話だが、典礼としては異なる性格を与えられているらしい。司祭不足のなかですでに集会祭儀が定期的におこなわれている教会も多いらしい。私は知らないことばかりでただただ驚くばかりで、勉強不足を思い知らされた。

 この研修会は横浜教区の各小教区の典礼委員の方々向けらしく、わたしのような日曜信者は少ないようだった。藤沢教会は大きな教会でお聖堂は500人は収容するという。それが満席なのだから、参加が予約制であったのはもっともだと思った。横浜教区は信徒数が55000人くらい、小教区が77,巡回教会は11もあり、大きな教区だ。神奈川県、山梨県、長野県、静岡県をカバーする。

 横浜教区のすべての、すべての小教区の教会から参加者があり、しかもシスターや神父様もおいでだったから会場は熱気にあふれていた。これだけ人が集まると連帯感というか仲間意識が生まれるらしく、普段、世間のなかで感じるカトリック信者の疎外感やマイノリティ意識は消え去っていた(1)。
 手話による説明もあったし、なによりも大画面を利用した同時翻訳には驚いた。発言がそのまますぐに画面に文字で表示されるのだ。見たところどうも機械翻訳ではないらしく、直接手入力しておられたらしい。準備をされた方々のご苦労は察して余りある。今日の講話では、ミサの最中に「聖書と典礼」の文字を読まないで、顔を上げて声を「聴け」と繰り返し強調されていたので、この大画面は不思議と言えば不思議だった。ワイヤレス イアフォンのサービスもあったし、今日風の機器の活用はよかった。

 参加者は圧倒的に女性が多かったが、年齢層で見れば若い方も多かった。信徒の高齢化が言われる割には典礼委員には若い人で熱心な方が多いと言うことであろうか。それとも、これほど若い人の参加が多いのはミサや典礼が変化してきている、揺れてきていることへの危機感の表れなのだろうか。今日の参加者の方々は実際に各教会を支えておられる方たちだろうから、その熱意と信仰の強さにただただ敬服するのみであった。

 プログラムとしては一日がかりの内容の濃いものであった。講演の司祭は横浜教区典礼委員会のK師とO師。お二人とも教区の典礼を事実上ブラッシュアップされておられる方のようである。

 午前中の第一講はK師による「ミサはどうやってできているの?」というテーマで、ミサの各部分の解説があった。第二講はO師による「開祭ー私たちのミサが始まるー」で、おもに開祭の説明があった。午後は昼食をはさんで、O師の「ことばの典礼ーみ言葉を受ける・応える-」というテーマで、言葉の典礼の解説があった。そのあと、実際の「みことばの祭儀」がおこなわれた。聖書朗読から「教話」(2)までまで含んでいた。その後質疑応答があり、これは質問が多すぎて時間切れになるほどであった。盛況というか参加者の熱意あふれる質問に司会者は戸惑っていたようだ。最近強調されるようになった「信徒の行動的参加」もうたい文句ではないことがよくわかった。

 これから講話の内容を簡単に要約してみたいが、ひとつだけ前もって確認しておこう(3)。それはミサの式次第は「構造」を持っていることだ。ミサは、①開祭 ②ことばの典礼 ③感謝の典礼 ④閉祭(派遣) の4本の柱を持っている。

 ①開祭: 入祭の歌・挨拶・回心・あわれみの賛歌・栄光の賛歌・集会祈願
 ②ことばの典礼: 第一朗読・答唱詩編・第二朗読・アレルヤ唱・福音朗読・説教・信仰宣言・共同祈願
 ③感謝の典礼: 供え物の準備・奉納祈願・感謝の祈り・叙唱・感謝の賛歌・奉献文・記念唱・交わりの儀・主の祈り・平和を願う祈り・平和のあいさつ・平和の賛歌・拝領
 ④閉祭: 派遣の祝福

 わかりきったことではあるが、この構造がわからないと今日の講演の理解は難しくなる。とはいっても、わたしも、開祭と閉祭はごミサの付け足しで、言葉の典礼と感謝の典礼が大事で、特に感謝の典礼が中心だと思っていた。今日の講演では、これは間違った理解で、開祭と閉祭の重要性が力説されていた。これがわかっただけでも今日の研修会に出た甲斐があったというものである。

 講演の内容は次稿にまわしたい。


注1 こういう集団意識は、どの宗教団体の集まりに限らず大規模集団の集まりではどこでもみららるのだろうが、キリスト教の場合は、「沈黙」がこの集団意識の構成要素の一つになっていることが興味深い。
注2 「教話」とは不勉強の私には聞き慣れない言葉であった。どうも神父様がされる「説教」の変わりに奉仕者がおこなうミサの福音朗読の解説のことのようだ。典礼式文の中でどう位置づけられているのか、わたしにはわからなかった。
注3 この表現・表記は 吉池好高『ミサの鑑賞』オリエンス宗教研究所、2018 による。『キリストと我らのミサ(改訂版)』そのものではない。

 

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