カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

無粋な自分にあきれる ー 映画「ドライブ・マイ・カー」を観た

2022-10-29 17:52:26 | 映画


 映画「ドライブ・マイ・カー」を観てきた。3時間の長編だった。中休みがあったが、年寄りにはつらい。観客はほとんど高齢者、しかも女性。村上春樹原作だからだろうか。わたしは村上春樹はほとんど読んだことがないので予備知識ゼロだった。2021年のカンヌ国際映画祭の作品賞など賞をたくさんもらった映画らしいという程度の知識だった。

 映画が終わった直後の印象はこれは宗教映画なのではないか、というものであった。なにか宗教的なシーンが出てくるわけではないが、映像の余韻は宗教的だった。ストーリーとしては、妻に死なれた主人公の苦しみと立ち直りを描いているのだが、無神論者の宗教性みたいなものを描いているような印象を受けた。チェーホフの「ワーニャ伯父さん」が劇中劇だからかもしれない。この映画の評価は日本国内より海外で高いのはそのせいではないだろうか。登場人物3人とも殺人者(主人公・運転手・主役俳優)であり、3人とも苦しみから逃れようとしている。
 映画の冒頭からセックスシーンが出てきて年寄りだらけの会場は一瞬シーンとなり、さてこれからどうなることやらと思わせたが、全体は二重・三重の劇中劇みたいで、シリアスなものだった。芸術映画と呼んでよいだろう。
 ストーリーはよくはわからなかった。SNSにはいろいろあらすじの紹介があるようだが、原作を本で読んでから観る、という映画ではなさそうだった。短い発話と美しい映像を楽しむ、という映画のようだった。対話ではなく発話と言いたいくらい、言葉が断片的だ。発話と言えば、言語は日本語・英語・中国語、韓国語そして韓国式手話が入り乱れる。手話はきれいだった。説得力があった。だが、字幕だけではストーリーは追いきれない。
 車が主役みたいで、赤色のSAAB サーブ900、ターボ車だ。車好きは楽しめるのではないか。ターボエンジンの音は良かった。広島から北海道まで一気に走り抜けるのだ。ほとんど広島での撮影だというが映像はきれいだ。瀬戸内海のようだ。

 

【SAAB】

 

 よくわからない点もあった。映画の前半はだれもマスクをしていないが、終わり頃は登場人物はマスクをしている。撮影はコロナ禍にかかったのかもしれない。また、主人公をはじめ煙草を吸う人が多く登場し、違和感があった。今の時代にクルマの中でたばこを吸う人はいないだろう。煙草の煙がなければ絵にならないのだろうか。それに、ラストシーンは突然韓国のコンビニだ。主役の女性もなにか吹っ切れたように明るい。何を暗示させたいのかわからなかった。原作の短編集「女のいない男たち」を読んでくださいということなのだろうか。
 ということで、男女の感情の機微、その変化に私はついていけなかったようだ。無粋と言われればそれまでで、村上春樹がノーベル賞をもらう前に少しは読んでおかねばと思った。

 

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映画「ベルファスト」(アカデミー賞脚本賞)を観た

2022-06-25 11:16:23 | 映画


 やっと映画 Belfast を観ることができました。アカデミー賞受賞作品だからと言うより、カト研のジョンストン師を思い起こすためでした。師は2010年に帰天しているので今年は仏教的に言えば13回忌になります。カト研の皆さんはもうすでにご覧になられたでしょうか。
 白黒映画でした。少年バディが主人公だが、過酷な時代の変化に抗いながら家族が一緒に未来へ踏み出していく姿を描いているように思えました。故郷ベルファストを讃えるご当地映画ともいえそうです。
 この映画は、1969年頃のいわゆる「北アイルランド紛争」(1)を直接正面から取り上げているわけではない。むしろ、それを背景としたファミリー・ドラマでした。監督・脚本はケネス・ブラナーで、著名な映画監督のようです。この映画は監督ご本人の自伝的な物語のようです。ローヤリスト、ユニオニスト、アルスター長老派を含むプロテスタント側からの描き方で、ジョンちゃんのような差別される(攻撃される)カトリック側からの描写ではありませんでした(2)。だが、宗教映画ではありません。対立を乗り越える力を家族愛と郷土愛に求めているとでも言えましょうか。EUを離脱したイギリス(北アイルランド)と残留したアイルランド、ロシアのウクライナ攻撃などカレントな問題にも問いを発しているようにも思えました。
 われわれカト研としては、ジョンちゃんがどういう世界で生まれ育ってきたのかを知ることができます。映画としての質の高さや、出演俳優の出来不出来は私にはよくわからなかった。言葉もよく聞き取れなかった。それでも鑑賞後の気持ちはすがすがしかった。
 久しぶりにカト研の皆で集まってジョンちゃんと矢崎さんと堀越さんを偲びたいものです。

写真

 


1 北アイルランド紛争はいろいろな呼称があるようで、日本のwikipediaでは北アイルランド問題と呼んでいるようだ。ジョンストン師は自伝では"Conflict in Northern Ireland" と呼んでいる(NorthernであってNorthではない 単語の使い分けが立場性を表すようだ)。"the troubles" とも表現している。
 北アイルランド紛争は、宗教紛争か、領土紛争か、地域紛争か、捉え方はいろいろあるようだ。紛争は1960年代後半に始まり、1998年の「聖金曜日の和平合意」(Good Friday Agreement ベルファスト合意)まで続いたと言われるが、2000年代に入って対立は再び深まっているといわれる。北アイルランドが第2のウクライナにならないことを祈りたい。
2 北アイルランド紛争は実は戦前まで、さらにはアイルランドの独立までさかのぼるようだ。ジョンストン師は1925年生まれで、かれの自伝『Mystical Journey』(2006)は次のような衝撃的な文章から始まっている。
"I was born in the midst of terror・・・the old IRA was in my blood". 
 この自伝の中で師は北アイルランド紛争については詳しくは述べていないが、数少ない言及箇所はカトリック・マイノリティの苦痛を綴っている。師は1968年前に、学位論文を執筆中に、一度ベルファストを訪ねている。そのときの家や町の雰囲気を"a bit rowdy"と表現している(56頁)。せめてもの表現だったのであろう。
 他方、私の畏友松井清さんはプロテスタントの側からこの紛争を描いている。深く議論したことはないが、かれはこの紛争を宗教対立とだけとは見ていなかったようだ(『北アイルランドのプロテスタントー歴史・紛争・アイデンティティ』2008、『アルスター長老教会の歴史ースコットランドからアイルランドへ』2015)。実際北アイルランドの長老派は歴史的には非国教徒として差別されてきた(いわゆるスコッチ・アイリッシュ)。対立の根はカトリック対プロテスタントという単純なものではないようだ。どちらの視点に立つにせよ、エキュメニズムの深化を求めたい。

 

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映画 「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」を観た

2020-07-21 10:06:51 | 映画

 映画 「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」を観てきました。カト研の皆さんのなかにももうご覧になられた方もおられるかもしれません。どういう印象をもたれたでしょうか。

 私の印象は一言で言うと「後味の悪い映画」で、映画鑑賞後の解放感はない。だが、映画としては見ごたえのあるものだった。良い映画だという印象が強く残りました。

 この映画は(フランスの)現代教会の病巣を感情的にではなく静かに描いている。こういう教会のあり方に疑問の声を上げ始めた人々がいることを描いている。こういう映画が作られ、公開され、しかも観客もいるという事実に、単純に驚かされる。
 監督はフランソワ・オゾンという人で、映画通には知られている人らしい。この映画は2019年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞しているという。

(グレース・オブ・ゴッド)

 


 映画の原題は GRACE A DIEU、 英訳は BY THE GRACE OF GOD、 日本語訳は「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」。
 映画の中では grace は「恩恵」と訳されていたが、私はフランス語は解さないのでよくわからないが、「猶予」という意味の法律用語として訳されていたのかもしれない。われわれとしては「恩寵」と言いたいところ。「神の恩寵」は直訳すぎるので、「主の恵み」くらいの意味か。実際の意味は、犯罪が時効になるという意味での「時効」のことらしい(1)。

 ストーリーとしては、小児性愛者であるプレナ神父(2)が子供たちへ性的虐待を行った事実と、プレナ神父を庇い、事件を隠蔽し続けたバルバラン枢機卿を、糾弾し、告発し、告訴する過程を描いている(3)。
 具体的には、被害者である成人した男性3人(または4人)のそれぞれの状況と生活が描かれている。みな重いトラウマを抱えて大人になってきたが、それぞれの現在の人生の姿は異なる。ある人は銀行員して豊かな生活を享受しており、別の人は工事現場の作業員として
その日暮らしをしている。そんな被害者たちが声をあげ、被害者の会を結成し告訴にいたるまでの過程が描写される。
 被害者たちの親子関係(自分と自分の親たち、自分と自分の子どもたちとの関係)、夫婦関係が描かれる。被害者たちを支え・励ます母親や妻、家庭を破壊されていく親や配偶者の姿が、対比的に描かれる。

 告訴自体は2016年に「時効」直前になされる。被害者の会の結成と告訴に至るまでの時間が描かれるが、驚くことに、2020年現在、裁判はまだ続いていて世俗法的な決着はついていないという。性的小児虐待にたいするフランシスコ教皇の厳しい姿勢は一貫しているが、この件に関する教会法上の処置は描かれていない。

 一見すると教会批判、カトリック批判の映画のように見えるが、監督は教会と信仰を注意深く区別しているようだ。運動の過程で教会から離れるケースも描かれる。教会の組織防衛の姿勢が批判される(4)。他方、映画の最後のシーンで、子どもたちが運動のリーダーの父親に問う。「お父さんはまだ神様を信じていますか」。父親は、子供二人の顔をじっと見つめながら、
イエスともノーとも答えない。ここで映画は終わる。これをどう理解してよいのかわたしにはわからない。わたしが「後味が悪い」と感じた理由はこういうことです(5)。


1 「時効」というのは日本の法律用語らしい。日本では時効は民法の規定で、「その開始時にさかのぼって権利の取得や消滅を認める制度」だという(『法律用語辞典』自由国民社)。日本の法律は大陸法の影響下にあるので、これは大陸法的な用語のようだ。英米法には時効という
概念はあっても用語はないようなので訳しづらいようだ。英語には statute of limitations という用語があるが、これは「提訴期限に関する法」という意味の法律用語で時効と同じではないらしい。いずれにせよ、時効を神の恩寵と呼ぶとは皮肉である。
2 「小児性愛」 は『広辞苑』には項目としてない。ペドフィリア pedophilia のこと。「小児性愛障害は、小児(通常13歳以下)を対象とする、反復的で性的興奮を引き起こす強い空想、衝動、行動」のことらしい(Wikipedia)。加害者は圧倒的に男性、被害者は女性小児が多いという。
 映画では9〜13歳の男の子が被害者。女の子の例が一回言及される。これが、倒錯した性的指向(精神疾患)を指すのか、性嗜好上の障害をさすのか、つまり、病気なのか障害なのかは、議論があるらしい。映画ではボーイスカートの9~13歳の男の子供への性的虐待のことを指している。性的虐待とは具体的にどのような行為をさせることなのかも描写されている。映画では被害者の数は80人前後としている。認めた人の数だから、実際はもっと多いのであろう。
 日本では近年小児性犯罪は認知されたものだけで900件を超えると言われるので、実際はもっと多いだろう。日本では犯罪になると強制わいせつ罪が適用されるが、この罰則が罪の重さに比べあまりに軽すぎる(せいぜい数ヶ月から数年)という批判があるが、法律改正は難しいらしい。性犯罪の厳罰化を求める世論は強いと思うが、小児性犯罪については現代日本はまだまだ甘いようだ。
この映画が、日本では、教会批判の映画としてではなく、小児性犯罪批判の映画としても、受け観られてほしいものだ。
3 これは「プレナ神父事件」として知られた実話に基づいているようだ。ただ、単なるノンフィクション映画というわけではなく、ストーリー性をもたせた話としてまとめられている。3人の人生や生活を順番に描き、かつ、時間の中でかれらが変わっていく(運動から抜ける、教会から離れるなど)姿も描かれる。だから映画は観ていて飽きない。監督の手腕なのであろう。
他方、プレナ神父、バルバラン枢機卿についてはほとんど描かれていない。
4 教会から離れるということの具体的意味はいろいろなようだ。ただミサに行かなくなるとかだけではなく、映画では「洗礼証明の取消」を認定してもらうという意味で使っている。誰がどういう権限でどういうふうにそれを行いうるのか、私には見当もつかない。
5 同じような、司祭による性的小児虐待を描いたアメリカ映画があるようだ。2016年のアカデミー賞で作品賞と脚本賞を受賞したというトム・マッカーシー監督の「スポットライト 世紀のスクープ」。これはスクープのように独自に報道したボストン・グローブ紙の記者らの活躍に焦点を当てた作品のようだが、私はまだ観ていません。

 

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流す涙はうれし涙がよい ー 「二人のローマ教皇」を観る

2019-12-19 22:08:06 | 映画


 映画「二人のローマ教皇」(The Two Popes) をみてきた。とにかく楽しい映画だった。カトリック映画らしくないほど笑わせてくれた。もちろん内容は深刻な話もあるが、監督がよいのか、俳優がよいのか、脚本がよいのか、楽しめる映画だった。

 映画は英・米・伊・アルゼンチン合作。ラテン語を含めいろいろな言語がでてくるようだが、二人の教皇ーベネディクト16世名誉教皇とベルゴリオ枢機卿(フランシスコ教皇))ーは原則英語で話していた。監督はフェルナンド・メイレレス、脚本はアンソニー・マッカーテンというらしいが、どういう人だか知らない。 ベネディクト16世役はアンソニー・ホプキンス、ベルゴリオ役はジョナサン・プライス。顔はどこか映画で見た覚えがある。特にフランシスコ役のブライスは実物そっくりなので驚いた。先日の東京ドームでの教皇ミサでフランシスコ教皇さまのしぐさを身近で拝見したので、よく似ているので感慨深かった。
 
 内容は、2012年に当時のローマ教皇だったベネディクト16世と、翌年に教皇の座を受け継ぐことになるホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿の間で行われた対話だ。二人の会話が中心となる。

「二人の教皇」

 


 司祭の性的虐待問題やヴァチカン銀行問題で信頼を失っていくベネディクト16世、ヴァチカンに不満を抱き枢機卿辞任の許可を求めるベルゴリオ。育ちも思想も全く異なる、または対立する二人が、対話を通してお互いに理解し合っていく過程を丁寧に描いている。二人のこの対談は実際にあったことらしいが、内容は公表されていないようだ。従って脚本は二人の著作などからすべて組み立てられたらしい。

 保守派 vs. 改革派 と言ってしまうと紋切り型になってしまう。ベネディクト16世の「苦悩」とベルゴリオ枢機卿の「悔恨」。特にベルゴリオの回想は、フランシスコ教皇の思想と行動の深さと幅広さの源を描いてくれて、この映画を重厚なものにしているようだ。昔の「ローマ法王になる日まで」より印象深い(1)。人生を生きるとはどういうことか、人生をふり返るとはどういうことか、自分が犯した罪をどう向き合ったらよいのか、赦されるとはどういうことなのか、ふたりの「人生」そのものが問いかけてくる。

 「妥協」か「変化」かで論争する二人。けんか別れかと思うと、ビートルズの話、ピザの話でもりあがる。サッカーワールドカップでのドイツとアルゼンチンの決勝戦をテレビビで鑑賞するふたり。映画の展開は緩急自在で、2時間はあっという間に過ぎた。

 二人の和解と友情を描いていると言ったら、あまりにも現実離れしていよう。小児性愛、トランスジェンダー、司祭独身制、女性の叙階、近代主義的思想や相対主義的価値観、などなど教会が直面している問題は共通でも、ふたりが見つめている教皇の姿は違うようだ。システィーナ礼拝堂が繰り返し出てくる。ミケランジェロが描いた神と人間の物語は、教皇という存在が何なのか、改めて問うてくる(2)。ベルゴリオが言う。「流す涙はうれし涙がよい」 (Make them tears of joy !)。

 もう一つ、この映画の話題の一つは Netflix が配給していることらしい。ロードショーは12月13日から始まったようだが、わたしは横浜でみてきた。netflixの配信は20日からだという(3)。わたしももう一度見てみようと思う。


1 この映画の原題 The Two Popes の邦訳は「二人のローマ教皇」だ。教皇という言葉が使われている。日本政府が「法王」から「教皇」に呼称を変える前からこの訳語を採用していたことになる。映画配給会社の先見の明を称えたい。
2 映画館の隣に座っていたご婦人方が映画終了後、「教皇ってこんなに人間くさいのかしら」と話し合っていた。この映画は信者向けだけではなさそうだ。映画へのカトリック中央協議会の推薦などもまだないようだ。
3 netflix と言われてもカト研の人にはよくわからない方もおられよう。これはどうも最近はやりの動画ストリーミングの配信サービルらしい。映画やテレビドラマがスマホ・テレビ・パソコンなどでどこでもいつでも見られるということらしい。Amazon prime などのユーザーならテレビでFire TVなどでなじみがあるだろう。または、飛行機の座席に着いている映画サービスといえばピントくるでしょうか。VOD (video on demand) というらしいが、DVDを借りて映画を見るとか、ビデオレコーダーにせっせと映画やドラマを録画して後から見るなんて言うのは、どうも遠い昔の話らしい。

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映画「修道士は沈黙する」を観る

2018-05-23 22:02:13 | 映画

 「修道士は沈黙する」を観てきた。原題は Le confessioni で、 2016年のイタリア=フランス合作映画。いろいろな国際的な映画の賞をもらったようだ。
 映画はイタリア語・フランス語・英語が入り交じる。本映画でのG8の開催地はバルト海に面したドイツのリゾート地らしいが、ドイツ語は出てこない。タイトルはイタリア語か。「告解」という意味であろう。邦題「修道士は沈黙する」は意訳だろう。悪い訳では無いが、「修道士」とか「沈黙」の意味がどこまで伝わるか。意味が正反対だから、面白い訳と言えば言えなくも無い。
 これは宗教映画では無い。が、メッセージは宗教的だ。痛烈な資本主義批判だ。社会派のスリラー、ミステリー映画と呼べそうだが、観たあとの第一印象は「要領が得ない」だ。良くわからなかったと言っても良い。宗教映画に関心のあるカト研の皆さんにはちょっとお勧めしたいとは思わない。わざわざ見に行くほどのものではないと思う。
 ストーリーはネットでも紹介されているので繰り返す必要はあるまい。主人公はイタリア人修道士ロベルト・サルス。舞台は高級リゾートホテルで開かれたG8(Group of Eight)、先進8カ国首脳会議(サミット)。出席者は、日本も含む8ヵ国の蔵相、中央銀行総裁など。ならびに、誕生日祝いに特別に招かれた3人の民間人。サルス修道士もその一人だ。
 議題はある決議を下すこと。主催者のダニエル・ロシェ(国際通貨基金IMFの専務理事)に呼び出されたサルスは、彼の告解を聴く。しかし、サルスが部屋に戻った翌朝、ロシェがビニール袋をかぶって死んでいるのが発見される。映画はここから展開し始める。
 自殺か他殺か? 疑心暗鬼のG8メンバーの結束は乱れ、結局決議は見送られる。修道士サルスは叙階以前は数学者であり、世界経済を混乱に陥れる、経済格差を拡大させる「数式」の意味を理解できたからだ。
 映画の中では、サルス修道士は最後まで自分の口からロシェの告解の内容を語ることはない。だが、サルスはロシュに、告解しても悪を行うならば神は罪の赦しを与えないと言ったようだ。ロシェの死はサルスによる他殺ではなく、絶望したロシェが自殺したらしいことが暗示される。
 サルスがロシュの葬儀ミサで行う説教がこの映画の主題だろう。非人間的な合理主義、拝金主義、資本主義、まやかしの民主主義、そして恐らくは「近代主義」の呪縛から逃れられない現代社会への厳粛な問いかけが心に響いた。ドイツ経済相が飼う猛犬が悪魔のように牙を剥くのに、最後にはおとなしくサルスのあとをついて行く。サルスがロベルトという自分の名前を犬に新たに与えるのはおかしかった。クリスチャンには、サルスは、ライオンのとげを抜いてあげたという聖ヒエロニムス(347-420 ヴルガータ訳聖書の翻訳者)を連想させるそうだが、エンディングは悪くない。

 この映画を評した谷口幸紀神父様(注1)は、ご自分のブログで、「自由主義的・民主主義的資本主義」の世界が巨悪に満ちた世界であると断罪したあと、

「自由で平等で平和で幸せな共産主義社会」が、「神を信じる共産主義」「神の国」という「シンテーゼ」として、弁証法的に、発展的に、形成されることの可能性を、私は信じるようになった。それが「新しい福音宣教」というものだ。

と述べておられる(注2)。これが「新求道の道共同体」の理念とつらなるのかどうかはわからないが、興味深い評論である。映画評論というよりは社会評論といった方が良いかもしれない。

注1 谷口神父様はカト研の先輩だという人もいるが、名簿には名はない。ホイヴェル師のミサ答えをしておられたというからカト研最盛期の頃を知っておられるかもしれない。日本から追い出された「新求道の道共同体」は日本に帰ってくるという話も聞く。岡田大司教様が引退され、菊池功司教様が東京大司教になられた。また、前田万葉大司教様が枢機卿におなりになるという。日本司教団も変わるのだろうか。新求道共同体は日本に戻れるのだろうか。菊池大司教様は以前は新求道の道共同体の受け入れには否定的であったという
(http://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/diary/2011/02/post-7ea6.html)。司教協議会が今後どのような対応をするか見守りたい。バチカンとの関係が変われば、教皇様の日本訪問も夢ではなくなる。
注2 https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/038dfe601750bb114a4611632b2665f4

 

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