カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

贖罪は救済か ー 救済論(2)(学び合いの会)

2023-03-30 10:02:14 | 神学


Ⅱ 旧約聖書 ー 救済とは約束の成就のこと

 救済の歴史は旧約から始まる。出エジプトのシナイ山の「契約」がイスラエルの救済史の基本的出来事である。ここに、「約束を成就する」という意味での救済の構造がみられる。つまり、救済とは約束を実現する、という意味がこめられる。この構造は聖書の救済史的考え方の根本になる。神の業は現在も続いており、終末論的に完成すると考えられている。

Ⅲ 新約聖書 ー 受肉から贖罪へ

 新約聖書はナザレのイエスをキリストだと信じる初代教会の信徒たちの信仰告白である。全文書がイエスの救済の業(わざ)をテーマとする。受肉・公生活・受難と死・復活・再臨が救済の業として提示される。特に人類に罪の赦しをもたらす十字架上の死を中心におく。そして十字架上の死は贖いだと考える(1)。

 こういう贖罪論を示す聖書の該当箇所は枚挙にいとまが無い。

①マタイ26・28「多くの人のために流される私の血」(新共同訳・以下同じ)
②マルコ14・12「過越の食事」
③ルカ22・7~13「過越の食事」
④ヨハネ13・21~30「裏切りの予告」
⑤ロマ4・25「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」
⑥ガラティア3・13「キリストは、私たちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖いだしてくだいさいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」

 とはいえ、こういう説明には少し説明が必要だ(2)。
 この贖罪論、「死の神学」を新約聖書の救済観の中心テーマだという理解は古代から中世にかけて一貫して流れている。アウグスチヌスの原罪論をベースに、中世にはアンセルムスの贖罪論、具体的には「充足説」が主流となる。近代神学や現代神学はこの贖罪説が持つ「仲介者」の位置づけをめぐって様々な角度から批判的検討がなされ、現在は広い意味で「過越説」とも呼べる新しい救済観が登場してきているようだ。つまり、受肉から一足飛びに十字架上の死につなげて議論する贖罪説から、イエスの公生活の期間を含めて旧約と新約の世界全体を救済史としてみる過越説への変化がみられる(3)。

 S氏は救済=贖罪説の立場に立って以下のように述べる。
新約聖書は救済史的考えを旧約聖書から預言書、黙示文学の形態において継承している。イエスは自分の使命を、旧約聖書からの救済史の完成とし、預言者を通じた神の約束の完成と見なす。「神の国」という中心概念は極めて救済史的である。それは歴史において実現する究極的救いを意味する。
 パウロの救済史的発想は、イエスの死における「人を救う神の義」が「神の怒り」(ロマ1・18)に取って代わるとする。旧約は神の怒りの時代であり、新約は神の義の時代だとも言える。

 新約聖書の救済論の構造は以下のようにまとめられる。
①約束(契約)とその成就の構造
②旧約と新約のつながり
③旧約聖書の予型論的見方(4)
④全救済史のキリスト論的構造
⑤全救済史の終末論的方向付け(5)

 こういう整理はもっと説明が必要なのだろうが、これは新約聖書の救済論の特徴というだけではなく、キリスト教の救済論の特徴そのものと理解しても良いのかもしれない。

Ⅳ 古代

 古代教会はキリストのペルソナの探究に議論を集中した。古代教会の6つの公会議のメインテーマを見れば明らかである(6)。
 救済論に関する全教会規模の宣言はない。しかし各時代、各地方で、救済論に関する神学的営みはあった。救いは悪に対する善の勝利、悪魔に対するキリストの勝利、勝利者キリストによる全人類の奴隷状態からの解放、救いはキリストが言葉と行いによって神の道を示したことにある、などの考え方が生まれた。
 東方教会では「神化」論が発展する(7)。受肉が人間性の神化を実現したと考えた。エイレナイオス(2世紀後半の現リヨンの司教)は人間が神の子となるために、神のみ言葉が人となったと述べた。
 西方教会では、イエスの死が人間の罪の赦しをもたらす贖いであると主張した(十字架上の死の神学と呼ばれる)。アウグスチヌスは、キリストの受肉を人間の原罪の贖いのためであるとして、原罪を「幸いなる罪」と呼んだ(8)。原罪論が入ってくる。
 極論すれば、救済に関しては東方教会では「神化」論、西方教会では「贖罪」論が展開されていった。カトリック教会でいえば、このようなキリストの贖罪による救い、と言う考え方は今日まで続いている。

【贖いと償い:カトリック生活2021年6月号】

 

 



1 贖い  redemption(英) Erloesung(独) 英訳も独訳もともに「救済」という日本語訳があてられることもある。救済には贖いという意味がこめられているようだ。だが日本語の贖罪や贖いという言葉からこういうコノテーションを読み取ることは出来ない。贖いの意味はどこでも調べることが出来るので改めて説明する必要はないだろう。日本語では「身代金」とでも訳しておけばわかりやすい。
 贖いとは日本語ではなかなかピンと来ない言葉であり、実際日常語として使われることは希だろう。使われたとしても、贖いと償いはしばしば混同されるようだ。だが区別が必要だ。贖いと償いは別物なのだ。贖いは原義は買い戻すことであり、償いは他人に与えた損失を補うことである。いわば、贖いは「上から目線」であり、償いは「下から目線」のことばだ。
 キリスト教ではこのユダヤ教的な贖いの思想を用いて、イエス・キリストを神の贖いの業の仲介者(神の僕、屠られた羊)と理解した。仲介者は弁護者、扶助者、援助者と訳されることもある。なお、仲介者とはイエス・キリストのことだが、聖母マリアも「すべての恵みの仲介者」と呼ばれる。聖母マリアがなぜ仲介者と呼ばれるかは議論があり、現在のところ教義にはなっていないようだ(光延一郎『主の母マリア』2021)。聖母マリアの場合、取り次ぎ手、媒介者、代願者と呼ばれる(訳される)ことが多いようだ。
2 ここは私の個人的見解である。なお、聖書学的には、これら共観福音書のイエスのことばは本当にイエス自身が語った言葉なのか、予型論ではないか、事後予言ではないかなど議論があるようだ。またパウロには贖罪論的な議論は多くは無いともいわれているようだ。この辺は専門家の議論の世界だろう。ただ、救済を原罪や贖罪に引きつけて説明する仕方は強調しすぎると説得力を欠くように思える。
3 中世の贖罪論はアンセルムスの充足説をベースとしている。アンセルムスはスコラ神学の父とも呼ばれ、「理解するために信ずる」と述べるほどの理性的探究を重視した神学者だ。かれによれば、原罪は神に対する人間の侮辱であり、人間が贖ったり、償ったりすることは不可能だ。神は人間を赦したいが、正統な償いなしに赦すことは神の義と人間の尊厳に反する。これを解決する唯一の方法は神自身が人となって人間の立場で神に償うことだと主張した。充足とは罪の償いを十分になすことを意味する。
 過越とは原義は出エジプトで災いが「過ぎ越す」 passover という意味だが、現在は十字架の死と復活を指すことが多い。だが、過越の意味は拡大され、救済は全人類的・包括的な救済を意味するようになってきているという。
4 予型論 typology  とは、簡単に言えば、新約聖書におけるイエスの行為や摂理はみな旧約聖書のなかであらかじめ象徴されていたり、予告されていたとする考え方。たとえば、出エジプトでイスラエル民族が紅海を渡ったことを洗礼の予型と見なしたりする(Ⅰコリ10:1-6)。キリスト教にとっては都合の良い説明の仕方だが、予型論的説明を好まない神学者や司祭は多いようだ。なお、予型論という用語は聖書学ではアレゴリー(寓喩)と呼ばれる聖書解釈の手法の対概念のようだ。タイポロジー対アレゴリーと言われるが、寓喩は比喩(たとえ)と同じではない。
5 終末論 eschatology(英) とは、歴史の終末から歴史全体を一つの有意味な統一体として理解しようとする歴史的自覚のことをいう。いわば歴史を直線的に理解する。現在を終末の視点から見るという歴史観は捕囚期に確立したようだ。仏教などにみられる循環的・宿命的な時間感覚・歴史意識(輪廻転生など)とは異なる。現在はシュバイツァーの徹底的終末論や、ブルトマンの実存的終末論が主流のようだが、終末を遠い未来に見るのではなく、現在に実現されていると見ようとする点では共通しているようだ。
6 ペルソナとは原義は演劇用の仮面を意味したのだろうが、現在は人格とか神の位格とか法人とかさまざまな訳語があてられる。キリスト教では教父時代に三位一体の位格をあらわすものとされた(父・子・聖霊)。この三位が相互にどういう関係にあるのか議論された。
 古代教会の諸公会議におけるキリスト論の展開を整理してみる。
①第一回ニケア公会議(325):キリストを被造物とするアレイオスの説を退け、キリストは父なる神と同一本質ホモウーシオス)と宣言した。キリストの神性が確認された。キリスト教では救済論は教義では無いとは言え、ニケア信条が事実上、キリスト教の救済論の信仰箇条である。ちなみにニケア信条は事実上も歴史上も東方教会の信仰箇条に近いという。
②第一回コンスタンチノープル公会議(381):聖霊の神性が確認された。三位一体の教義が確立された。
③エフェゾ公会議(431):ネストリウスの説を退け、マリアの神の母の称号(テオトコス)を承認した。
④カルケドン公会議(451):キリストは真の神であり、真の人であり、その本性は一つのペルソナによって一致しているとおいう神人両性説が確立した。
⑤第二回コンスタンチノープル公会議(553):従来の説の確認
⑥第三回コンスタンチノープル公会議(680):キリストは神の意志と人間の意志の両方を有するというキリスト両意説が承認された。
 以上の6回の公会議で古代教会のキリスト論は完成し、その後今日に至るまでキリスト論についての新たな教義は制定されていない。
7 神化論 deification(英)とは、「人間の神化」を意味する。人間が神になる、というよりは、人間は神のであり、神の養子だから神の恵みによって神になろうとする、神に近づく、という意味のようだ。西方教会(ローマ・カトリック)は、行い、善行を重視するので、神化という考え方はとらなかったという。

8 原罪論である。アダムとイヴが罪を犯したからイエスが来られたという逆説的な主張につながる。アウグスチヌスの原罪論の影響力はあまりにも大きすぎたとしか言えない。

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救済は教義にあらず ー 救済論(1)(学び合いの会)

2023-03-28 11:34:45 | 神学


 2023年3月の学び合いの会は桜が満開の27日に開かれた。学び合いの会は今回で一応ピリオドが打たれるということで参加者は13名を数えた。

 テーマは「救済論」である。このテーマの報告は実はこの学び合いの会では2019年6月になされた「キリスト論の展開 ーその3」と同じものである。この2019年のテーマ「キリスト論の展開」については同年4月から6月にかけて7回ほどこのブログに書いている。ご参照いただけると嬉しいが、実は報告の視点は前回と今回とではかなり変化している。コロナ禍のせいか、ロシアのウクライナ侵略のせいかはわからない。フランシスコ教皇の日本訪問以降の日本のカトリック教会の姿勢の変化のせいかもしれない。いずれにせよ救済を論じる視点は変化してきているので、ここで改めて報告し直しておきたい(1)。

 今回の目次は以下の通りである。2019年の「キリスト論の展開」の縮小版のような目次の配列である。

1 概念
2 旧約聖書
3 新約聖書
4 古代
5 中世以降
6 現代神学

Ⅰ 概念

 救済とは英語でsoteriology。ラテン語では Soteriologia で、soter(救い主)、soteria (救い)に由来するという。キリストによる全人類の救済を論じる神学のことを指すようだ。

1 救済は教義にあらず

 救いとはなにか、はキリスト教的な問いであり、すべての宗教が救いを信仰の中心においているわけではなさそうだ(2)。キリスト教は救済宗教と呼ばれている。だが、キリスト教でも、人間の救済は教義としては確認されていない。受肉説や三位一体論は教義として確立しているが、救済論は教義にはなっていない。これはあまり言及されることのない論点だが、とても大事な論点だ。救済はなぜ教義ではないのか。あまりにも当然だからとも言えるが、その理由は歴史的経緯を見ないとわからないようだ。

2 救済論はキリスト論と恩恵論からなる

 救済論は、教義神学の中では、神論・創造論・原罪論・恩恵論をふくむ「神学的人間論」の一つとして位置づけられており、史的イエス論と信仰のキリスト論からなる「キリスト論」とは区別されて論じられることが多い。実践神学(典礼や霊性・司牧・宣教など)からみれば、キリスト論は三位一体論を含むし、神学的人間論は終末論を含む。聖書学や教会史は別として、こういう神学の体系は神学校での神学教育では重要らしい。こういう体系論は煩雑といえば煩雑だが、自分は一体何を議論しているのかという疑問を整理するのには役立つ。

 岩島忠彦師は救済論を、キリストによる救いの業を論じる救済論と、救済への人間の参与を論じる救済論とに大別している(3)。前者はキリスト論であり、後者は恩恵論(義認論)・秘跡論からなるという(4)。岩島師は救済論は今日では単なる神学の1教科ではなく,「キリスト教的観点からの全現実理解の鍵である」と述べ、その重要性を力説している。

 結論を先取りしていえば、前者のキリスト論はまず、受肉論として定式化され、やがて贖罪論に取って代わられ、現在は過越論として発展しているようだ。受肉論→贖罪論→過越論 とでも言えようか。それは救いという概念の理解が、罪・悪からの解放(from sin・evil)から自由への解放(to freedom)へと、定義の力点が変わってきているからだという。救いという概念・観念がキリスト教に限定されるものではなくなってきているという意味なのであろう。

3 キリスト論から見た救済論

 さて、今回はこのテーマの救済論はキリスト論として論じられている。神学的人間論の一つとして論じられているのではない。とは言ってもそう明確に区別できるわけではないだろうが、救済論をキリスト論として論じる意味はどこにあるのか。それは、キリスト教の特徴は、イエス・キリストの受肉によって、神が人となり、神が人間の歴史に介入してきた、と信ずることにあるからだという。つまり接点は受肉説にあるようだ。

4 キリスト論の2方向

 いくつかの書籍や辞書を見ると、キリスト論は狭義・広義の二つに大別されて論じられていることがわかる。または二つの方向から論じることが定説のようだ。

 狭義のキリスト論とは、「イエス・キリストとは誰か」と問うものだ。イエスは神なのか、人間なのか。つまり、イエスの神性と人性を論じる。カルケドン公会議(451年)で、イエス・キリストは神であり人であるという神人両性説が確立し、これ以降様々な議論が続くも、新たな教義は出されていない。神人両性説は教義ではないが確定した信仰箇条として現在まで続いている。

 広義のキリスト論は、イエス・キリストの救いの働きについての考察も含むという。岩島師は、「成就した救いへの人間の参与」を含むと表現している。岩島師によれば、救いとは全人類にかかわる普遍的次元のものである。他方、個人の救いの問題は恩恵論で取り扱われる。全人類の救済(終末論)個々人の救済(恩恵論)を区別している指摘が興味深い。

【立石公園】

 

 


1 S氏は救済に関する最近の日本の神学者たちの二つの大きな視点の違いになにか考えるところがあるらしく、今回の報告はどこかとまどいを感じながらの報告という印象を与えるものであった。一方は、氏が「社会派」と呼ぶ救済論で、貧しい人々・苦しむ人々に眼を向ける救済論で、聖書学者に多いという。他方、氏が「伝統派」とよぶ人々の救済論があり、伝統的な受肉論、終末論にもどづく救済論だ。氏によると教義神学者に多いという。この違いは氏にとっては大きいものらしく、何人かの日本の司祭の名前を挙げて比較しておられた。私には教会が正平協をめぐる司教団内部における葛藤・軋轢を整理し切れていないことへの不安の反映のように聞こえた。
2 仏教、神道、道教に救いの観念があるのかどうかはわからない。あえて極論すれば上座部仏教では「覚り」が修行と人生の目標であり、「極楽往生」は生まれることであって、救われることではない。大乗仏教にも、浄土真宗は別として、キリスト教的な救いの観念はないように思える。浄土真宗は救いという言葉を頻繁につかうようだ。
3 「岩波キリスト教辞典」 270頁
4 歴史的にいえば、恩恵論は現行的恩恵と成聖的恩恵に区別されて論じられてきたが、唯名論からの批判を受けてプロテスタント的な義認論と比較的に論じられるようになったという。なお、秘跡論がいう秘跡(サクラメント)とは、神秘(目には見えない神の恵み)を目に見える形で示すしるし・儀式のことで、カトリック教会では7秘跡(洗礼・堅信・聖体・ゆるし・病者の塗油・叙階・結婚)が第2リヨン公会議(1274)で宣言されて以来今日まで守られている(なお、ゆるしとは告解のこと。病者の塗油 Unctio infirmorum とはかっては終油の秘跡と呼ばれていたが、現在は闘病と治癒のためということで名称(訳語)が変わった)。

 

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ルター派神学は保守的か ー ルターの宗教改革(4)(学び合いの会)

2023-03-03 12:35:18 | 神学


Ⅳ 教会改革運動の分裂

1 霊的熱狂主義の出現

 ルターには両側に敵がいた。右側にはローマに従う伝統主義者たち、そして左側には霊的熱狂主義者たちである。特に左側の敵は危険な存在であった。すでに1522年にヴィッテンベルクで熱狂主義的な混乱、騒乱、画像破壊運動がルターの名前を引き合いに出して広がり始めていた。熱狂的な宗教的主観主義、個人的啓示、聖霊体験(内的な声・内的な光)などの過激な運動が起こった。それらはルターにとって危険な存在であった。やがてルターのライバルとなっていく司祭トマス・ミュンツアー(1489−1525)(1)は教会改革が社会改革の理念と結合し、必要とあれば暴力で改革を貫徹すべきだと主張した。

2 上からの改革

 政治的にはルターは「上からの改革」という展望に囚われていた。ミュンツアーにかぎらずエンゲルスもブロッホもこの点でルターを批判している。キュンクによれば、ルターには農民が貴族や領主に対して突きつけた要求を正当なものとして支持する「心の準備がなかった」(229頁)。貴族たちの搾取による農民たちの経済的困窮から、農民たちはルターの「キリスト者の自由」の考えに励まされて各地で一揆を起こし、革命の実現に走り始めた。ルターは農民戦争の勃発をみて農民たちの要求の正当性を理解できなかった。ルターは権力者の側に身を置き、農民たちを残忍に弾圧することを正当化してしまった。ルターは1525年に、「盗み殺す農民暴徒に対して」という悪名高き文書を出し、領主たちに農民の徹底的弾圧を呼びかけた。

3 30年戦争という悲劇

 30年戦争はドイツにおける最大かつ最後の宗教戦争(1618−48)であった。30年戦争とは、バイエルン公らのカトリック諸侯がボヘミアおよびファルツに侵攻し、これに対抗するプロテスタント側には、イングランド・オランダ・デンマーク・スウェーデン、さらにはフランスが加勢し、国際的紛争になったものである。
 戦場となったドイツでは人口の3分の1(600万から700万人)が犠牲となり、悲惨な結果を招来した。1648年にウエストファリア条約で終結した。これによりオランダとスイスが独立した。スウェーデンとフランスは領土を拡大した。神聖ローマ皇帝の力は有名無実となり、ドイツの領邦国家体制が強化された。


Ⅴ ルターの「自由な教会」の行方

1 司教・修道院長からの民衆の解放

 宗教改革は、世俗化した宗教勢力(貴族による司教や修道院長の独占)の支配から民衆を開放した。世俗の領主たちは司教・修道院長から資産を奪う。ルターは理想を実現するために世俗権力をあてにした。

2 国家と宗教:二王国論

 ルターは国家と宗教を2つの異なる王国とみなし、両者にまたがる統率者を求めた(2)。その理想像は自分を保護・支持してくれたザクセン選帝候フリードリッヒ三世であった。しかし相ふさわしい統率者は見当たらず、ルターが目指した人民による教会改革ではなく、権力者による上からの教会改革となった。さらに、君主による絶対主義と専制政治の道を開いてしまった。結局、ルターの目指した「自由なキリスト教会」は実現せず、むしろ領主による教会支配をもたらした。これはドイツにおいては、第一次大戦後のワイマール憲法(1919)によってようやく終焉を迎える。

3 ルターのユダヤ人憎悪

 ルターは自分の教会にいるユダヤ人のキリスト教への改宗(転会ではない)を期待したが、30年経っても実現しなかった。ルターは一変してユダヤ人を憎悪するようになる。冊子「ユダヤ人とその虚偽について」(1543)においてユダヤ人を罵倒した。1543年のザクセンからのユダヤ人追放はルターの著書によるものである。ルターのユダヤ人に対する態度は、カトリック教会の見解より遥かに厳しく、これが後にヒットラーに利用されてしまう。

Ⅵ ルター派神学の確立(3)

1 メランヒトンによる体系化

 ルターは聖書注解者であったため、体系的な教義学は書かず、代わってメランヒトンが「義認論」を体系化した(4)。しかし両者にはズレがある。救いの問題についてはメランヒトンは「人間の意志が神の恵みと共働する」ことを唱え、善い行いの必要性を強調した。両者の相違は正統ルター派とフィリップ派の対立となる(5)。1577年に「和協信条」により妥協が図られた(6)。「善い行い」については中間的な立場を取る。
 1580年に「一致信条」が作成される。それは、古代の信条および「アウグスブルク信仰告白」から「和協信条」に至るまでの信条や教理問答を編纂したもので、ルター派信仰の正統性の主張を意図したものである。しかしルターの「聖書のみ」の主張に反する教義学的主張であるとして、17世紀には敬虔主義者(7)から批判され、ルター派内部の深刻な対立となる。

2 宗教改革以降のルターの神学

 ルター派はカトリック教会と他の改革派教会とのあいだに神学論争を引き起こす。ルター派内部では、スコラ学を用いて自分たちの教義を弁護しようとする「正統主義神学」が生まれる。ルターの言葉を教義学的命題の典拠とするルターの言葉の絶対化がおこる。この「正統主義」を敬虔主義者が批判し、個人的な清い生活を強調する。ルターの信仰体験を前面に出してルターの信仰を継承しようとした。その後ルターはカトリック教会からの自由を獲得した英雄とされた。聖書重視や生活重視の立場は歓迎されたが、その教理の保守性や人間の自由意志の否定は嫌われた。
 19世紀に始まった「ルター・ルネッサンス」はルターの神学をそれ自体として検討する道を開いた。それは単に教派的神学としてだけではなく、エキュメニカルな視野のもとに研究され、プロテスタント圏ばかりではなく、ローマ・カトリック教会においても再検討されるようになった。

 

【日本キリスト教団滝野川教会】(8)

 


1 ミュンツアー Thomas Muentzer 1489頃-1525 急進的な宗教改革者。ドイツ農民戦争の指導者。ドイツ神秘主義の強い影響を受けルターの推薦を受けるがやがて離反する。フスの影響もあり、同盟(ブント)による急進的社会変革を目指す。結局フランケンハウゼンの戦いで諸侯連合軍に破れ、斬首刑に処せられる。
2 二王国論では、ルターは教会を国家の権威の下に位置づけ、世俗的事柄については市民は国家に従順であるべきだと強調していた。二王国論は結局ルター派を保守的な権力追従を可能にする教義だとして批判する論者も多いようだ。
3 ここからはキュンクのルター論の紹介ではない。
4 メランヒトンPhilipp Melanchthon 1497−1560 ルターの影響を受けたドイツの宗教改革者。「アウグスブルク信仰告白」を執筆した。義認論を中心にロマ書(ローマの信徒への手紙)に即してプロテスタントの神学を初めて体系化した。宗教改革と人文主義、カトリックとプロテスタント、ルター派と改革派など対立者の調停に努めるが、晩年はルター死後の神学論争に翻弄されたという。メランヒトンはルター派の正統主義の出発点で、弟子の中から生まれた「クリプト・カルヴィニズム(隠れカルヴィニズム)」のフィリップ派と対立した。「厳格ルター派」ではない。
5 1546年のルターの死後、ルター派ないで激しい神学論争が起きる。厳格な正統派と、メランヒトン的傾向のフィリップ派(クリプト・カルヴィニズム)との対立である。善き業、聖餐におけるキリストの現臨、回心における神人共働など様々な論点で対立した。この論争は結局1577年の「和協信条」によって終わり、1580年の「一致信条」によってルター派教会は確立する。17世紀には敬虔主義運動から、18世紀には啓蒙思想からの批判と挑戦を受ける。20世紀にはK・ホルらの「ルター・ルネッサンス」が起こる。ルター派は16世紀以降は北欧で国教会(領邦教会)として広がり、北米ではより保守的な自由教会として発展し、現在はアジア・アフリカでも拡大しているという。
6 和協信条 Konkordienformal とはルターの信条の一つである。フィリップ派と厳格ルター派の間で激化した神学論争が1577年に決着がついた。1580年には「一致信条書」(和協信条書)」が出版され、ルター派の基本的教理が集大成された。
7 敬虔主義 Pietismus とは17世紀後半のドイツで起こった信仰覚醒運動をさす。ルター派教会が領邦教会として制度化されると堕落していく。人々の関心は制度から個人の信仰に移っていく。原始キリスト教的な愛に基づく道徳的な完成ー「再生」ーをめざす。ドイツ敬虔主義は近代思想史のなかで重要な位置を占めているようだ。
8 ルター派はルーテル教会、福音教会とも言うようだ。世界的には信者数ではプロテスタント最大の宗派といわれる。繰り返しになるが、教義では、カトリックとは異なり、聖書のみで、伝承(聖伝)を認めない。信仰義認・万人祭司をとる。秘跡では7つのうち洗礼と聖餐のみ認める。組織では使徒継承を認めず、長老制・会衆制・会議制など様々なようだ。国家との関係では法定教会・領邦教会のみではなく、独立教会もある。歴史的にはカトリックおよび改革派(カルヴィン派)と対立してきた。1999年にはルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会は「義認の教義に関する共同宣言」に調印して、歴史的な和解をはたした。
 日本では日本ルーテル教団と日本福音ルーテル教会があるようだが違いはよくわからない。日本には日本基督教団という合同教会があり、長く複雑な歴史を持つ。この写真は昨年亡くなった、学校法人聖学院の元理事長で東京神学大学元学長だった大木英夫師(ディサイプル派)の母教会である日本基督教団滝野川教会である。わたしが知っているのはこの教会ではなく、建て替え前の教会である。

 

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ルター・ルネッサンスとルターの評価 ー ルターの宗教改革(3)(学び合いの会)

2023-03-03 12:35:18 | 神学


B ルターをどう評価すべきか

 かなり大仰な表題だ。ルター・ルネッサンスというので、きっと1917年の宗教改革400周年事業と、2017年の宗教改革500周年事業の比較の話かと思った(1)。ところがそうではなかった。ここは先だって亡くなったハンス・キュンクの『キリスト教思想の形成者たちーパウロからカール・バルトまで』(1994 邦訳2014)の第5章「マルチン・ルター」の要約的な紹介であった。この章は12節からなるが、ここでは第9節から第12節までが取り上げられている。小笠原師のキュンク理解の特徴がわかるものである(2)。

Ⅰ ルターの正しかった点

 1 ルターの出発点は新約聖書の文書である。
ルターの神学ー「ただ恩寵によってのみ・ただ信仰によってのみ・同時に義人であり罪人ーは「新約聖書をその背景に持っている」。
義認論はパウロの影響による。義認とはただ神からの決定である。すなわち神は人間の罪を勘定に入れずにキリストにおいて義と宣言する。
恩寵とは神の一方的な愛と慈しみであり、イエス・キリストにおいて明らかになった。人間を変化させる神の業である。
信仰とは心理を捉える知的な行為ではなく、人間が全人格的に神に信頼しつつ身を賭けることである。神は人間の道徳的な功徳の故ではなく、ただ信仰によって恩寵をもって義としてくださる。

 2 ルターの恩恵における回心と救いへの成長というテーマは、実はカトリック教会の従来からの確信であって、今日、カトリック教会はルターに促されて、教会が保持してきた確信を聖書的裏付けによって深く把握し、ルターの教えをも受け止めることができる。

  3 カトリック教会の姿勢の変化の要因として次の5点があげられる。

①カトリックの聖書解釈が著しく進歩した
②トリエント公会議の時代的制約が第2バチカン公会議によって明らかにされた
③かっての反エキュメニカル的新スコラ神学が第2バチカン公会議によって否定された
④第2バチカン公会議のエキュメニカル的雰囲気が様々な可能性を開いた
⑤最近の「義認についての議論」で両教会の義認論の解釈に相違はあるものの、教会分裂をもたらすような決定的相違はないということが、対話により確認された
 
Ⅱ ルターの問題点

 「・・・のみ」という定式化は宗教改革の3大原理(信仰のみ・聖書のみ・万人祭司)として一人歩きを始め、キリスト教信仰の根幹であるかのようにみなされてしまった(3)。

1 信仰のみ

 人間の救いに関して、信仰とともに善行などの行為が必要であることを否定し、ただイエス・キリストにおいて示された神の恵みへの信仰のみによって救われるという主張である(信仰義認)。だがルターの義認論には彼自身の主観が深く浸透している。パウロの義認論とルターの義認論との間には出発点の違いに基づく相違があることは、プロテスタントの研究者たちも指摘している。特にルターは著しい個人主義的傾向があることが指摘される。ルターの誇張や過激な表現が誤解を引き起こしてきた。

2 聖書のみ

 カトリック教会の権威や伝承を一切認めず、「聖書のみ、聖書に記された文言のみ」がキリストの唯一の権威であるとする主張である。ルターは伝承の意義を全く考慮しなかった。しかし聖書は初代教会の信徒の信仰告白であり、初代教会の伝承に基づく一形態である。教会を認めなければ聖書は存在しない。

3 万人祭司制

 カトリックのように司祭と信徒を区別することを否定し、すべてのキリスト者は神の前に祭司であるという主張である。ルターは当時の身分社会の現実から身分という点を司祭職に当てはめたが、司祭は教会のための奉仕職であることを見逃していた。

 以上これらの形式は極めて粗雑で、1500年にわたる教会の信仰の豊かな伝統とは程遠いものである(4)。

Ⅲ ルターの教会改革がキリスト教圏に残した種々の問題

1 ルターの運動はドイツのみならず、スイス・スウェーデン・フィンランド・デンマーク・ノルウェイにも拡大した。スイスではツヴィングリとカルヴァンによってよりラディカルな運動が展開された。ルターの改革は1520年代のドイツにおいて一応成功した。とはいえ、ドイツではカトリックとプロテスタントという「2つの教派の陣営に分裂」してしまった。

2 ルターの晩年のペシミズムの要因
 ルターのペシミズムの原因は心理的・医学的なものだけではない。事実的根拠のあるものだった。

①最初の教会改革の感激は10年ほどで燃え尽きてしまった。ルターが「キリスト者の自由」のために当てにしていた貴族や権力者たちははじめから存在しなかった。ルターの陣営においても、多くの人々が教会改革によって幸せになるかどうか疑問を持つ始末であった。音楽を別にして芸術の世界の貧困化を招いた。
②ルターの教会改革による政治勢力の強大化と混乱
 1530年のアウグルブルク帝国議会での和解調停が失敗する。メランヒトン起草の「アウグスブルク信仰告白」は皇帝カールによって拒否された。ルターはトリエント公会議への参加を拒絶した。プロテスタントはシュマルカルデン戦争(1546−47 シュマルカルデン同盟と皇帝カール5世との戦争)で敗北した。1555年のアウグスブルク宗教講和(または宗教和議)により、ドイツではカトリックとプロテスタントに分裂が固定した。そのため、宗教の自由はなくなり、領民は領主の宗教に従わねばならないという原理が固定した(Cuius regio, eius religio)。さらにプロテスタントの陣営自体が宗教改革の「右派」と「左派」に分裂していく。

 

【キリスト者の自由】(『キリスト者の自由』を読む 宗教改革500年記念 / ルター研究所/編著)

 

 

 


1 ルター・ルネッサンスとは普通、宗教改革400年記念の1917年からやく20年にわたってドイツを中心になされたルター研究の運動を指すようだ。結局はルターを英雄視するあまりルター派はドイツの国家社会主義を肯定することになってしまう。当時のカトリック教会はルターを中世の異端の最終形態とみなす傾向があり、これに反発するあまりルターを宗教改革の完成者として英雄視しすぎたようだ。2017年の宗教改革500周年記念事業はエキュメニズムの環境の中で行われた。2013年にはルーテル=ローマ・カトリック委員会による報告書「争いから交わりへ」が報告され、2015年には邦訳も出た。日本ではカトリック教会(カトリック中央協議会)は「ローマ・カトリックと宗教改革500年」という文書(リーフレット)を2017年に出している。
2 ハンス・キュンク 片山寛訳 『キリスト教思想の形成者たちーパウロからカール・バルトまで』(1994 邦訳2014 新教出版)。この本では、パウロ、オリゲネス、アウグスチヌス、トマス・アクイナス、マルチン・ルター、シュライエルマッハー、カール・バルトの7人の神学者が紹介・検討されている。
キュンクに傾倒するのは信徒だけではなく、カトリック司祭にも多いようだ。特に第2バチカン公会議前後に叙階された司祭に多いような気がする。たとえば、H・キュンク 福田誠二訳『キリスト教ー本質と歴史』(教文館 2020)。
3 これは小笠原師による要約である。だがこれはこの第9節の前半部分だけで、義認論については教会分列をもたらすものではなくなったということを述べているにすぎない。だが、後半では、キュンクは「教会構造的な諸帰結をローマが採用しなかったことについては、責任をごまかすのが難しくなっている」と述べている。教会論でのルターの批判が十分には紹介されていないのは残念だ。
4この表現にはキュンクの説明と小笠原師の解釈が混ざっている。

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ルターは悪魔の存在を信じていた ー ルターの宗教改革(2)(学び合いの会)

2023-03-02 10:07:46 | 神学

Ⅱ ルター思想の基礎となった種々の要因

3 ルターの個人的苦悩の問題と悪魔の存在

 ①ルター思想の原点は極めて個人的なものであった。つまり自分の救いの問題であった。ルターは極端な個人主義者で、救いを実感しないと満足しない完璧主義者でもあった(1)。
 ②ルターは当時の悪魔信仰を持っていた。悪魔の存在を信じる世界観の中に生きていた(2)。
 ルターは生涯に渡って様々な病気に苦しみ(痛風・不眠症・カタル・痔・便秘・結石・目まい)、それを悪魔の仕業とみなした。ルターは悪魔の存在を当然のこととみなし、その現実性を強調した。実際、かれは自分の悪魔体験を書き記している。ヴァルトブルク城で深夜に悪魔がクルミを落とす音を聞いた。そして部屋の隅にいる悪魔にインク壺を投げつけたという。かれほど生涯に渡って悪魔を意識し続けた神学者はいない。だがルターは神を信じた。悪魔がどんな猛威を振るうとも、神は唯一全能であり、悪魔さえ神の道具であると考えていた。ルターはキリストの勝利を信じて疑わなかった。
 ③ルターが自分の罪について深く苦悩したのは、父親に対する反抗心と恨み、母親に甘えられなかった幼児体験が背景にあると言われる。ルターが修道院に入ったのはこういう深い罪意識が動機であったという。修道院では、すでに持っていた病的苦悩が深刻さを増し、精神的破局に陥った。そこからの解放を求めて改悛の秘跡に依存した。この常軌を逸した罪悪感と悪魔はルターにとっては一体のものだった(3)。

4 神秘主義の影響

 ①ルターは霊的指導者シュタウビッツ(1368−1524)を通してドイツ神秘主義を学んだ。ドイツ神秘主義とは神と人との直接的な結合によって信仰の純粋化をはかる思想と実践のことである(4)。ルターは、神秘主義のいう「すべてを包み込むような感覚」を共有しており、救いは世俗の中にもあるという確信を抱くようになった。これがのちの「万民司祭主義」を導くことになる(5)。ルターはシュタウビッツから、キリストの十字架の苦しみを追体験することによってキリストと一体となるという道を学び、これがのちに「十字架の神学」となる(6)。
 ②ルターにおいては、神秘主義と聖書研究が結びついていた。聖書の言葉、とくにパウロの言葉によって自分の精神的破局から脱した。この体験によって「神の言葉」に対する極端な偏重に陥っていく。「聖書のみ」というスローガンが生まれた背景である。「聖書に記された神の言葉」への絶対的信仰はほとんど「呪術的信仰」に近い。ルターの神秘主義は、神との直接的な、無媒介の合一を目指す神秘主義ではなく、いわば「キリスト神秘主義」である。彼にとって、キリストは「神秘的合一」をもって自分のうちにリアルに存在する現実である。これは「信仰神秘主義」または「義認神秘主義」と言い換えることができる(7)。
 ③信仰における信仰者とキリストの人格的融合が実現されるとルターは主張する。しかしこれはカトリック教会が教えてきた「秘跡的コミュニオ」の焼き直しに過ぎない(8)。ルターはこの「神秘的一致」を「信仰による一致」と言い換えたに過ぎない。ルターはまた「キリスト神秘主義」を「十字架の神秘主義」と説く。しかしこれもまた伝統的カトリック教会の教えであった。

 

 【荒野の誘惑】

 

Ⅲ ルターの覚醒と神学思想

1 「福音の再発見」と「新たな義の理解」

 ルターは、自力によってではなく、キリストによって罪と死と悪魔からの解放をもたらした神の恵みを体験したという。ルターは、パウロの「人が義とされるのは律法によってではなく、信仰によるのである」という言葉を、「福音の再発見」、「新たな義の理解」と悟った。この確信は、外的な社会的・政治的制度とは無関係な、個人的なものであった。この個人的確信は、カトリックの伝統である「祈り・黙想・試練」を基盤とした神学的作業の中でなされたものであり、全く新しいものというわけではない。しかしルターにとっては、この確信から当時の教会の現実を見ると正すべきものが数多くあると見えた。したがって、ルターの覚醒は「教会改革 Reformation」運動を引き起こす起爆剤となったのである。

2 改革運動の展開

 個人的な覚醒から始まった改革運動は時流に乗って当時のドイツ社会に大きな影響を与えることになる。ルターは教会の権威ではなく聖書の権威を訴え、カトリック教会の伝統的諸分野を再構成した。なかでも、説教運動へ、文書運動へ、そして改革運動へと進んでいった。説教を通じての聖書の福音の浸透、説教を聞く機会のない人々のための文書の普及である。ルターによるドイツ語翻訳聖書の流布である。しかし、聖書のドイツ語訳において多くの箇所を自分の説教に都合がいいように改ざんした。ミサをラテン語からドイツ語に訳した際にも改ざんを行い、さらにミサの構造を変えた。ルターの著作と行動は、当時のドイツ社会に強大な反響を呼び起こし、社会改革となり、大衆運動として展開していった。

 


1 ルターというとすぐに「信仰義認論」と言われるほどかれの神学的主張が強調されるが、彼の主張を性格や来歴、生活史から眺めるのも興味深い。とはいえ、心理的・精神的背景を過度に強調してそこから彼の議論を解釈するのは行き過ぎると危険でもあろう。ここはバランスを持った視点から読む必要がありそうだ。一言で言えば、「世界と人間に関するペシミズム」こそルター神学の特徴と言えそうだ。
2 悪魔論は難しい。すぐに悪魔はいるかいないかという議論に陥ってしまうからだ(現在でも祓魔式(悪魔祓い)はあると聞く)。問題は、悪魔がいるかいないかではなく、われわれが「」の問題をどう考えたら良いのか、という問いである。悪の問題に置き換えて考えてみる必要がある。
 悪魔論はマタイの第4章に代表される。今はちょうど四旬節の真っ最中だが、マタイ4では40日の断食の行を終えたイエスを「誘惑するもの」として「悪魔」が登場する。悪魔は普通は「堕落した天使」と説明されることが多いがこれは説明にはならない(*)。マタイ4やルカ4では悪魔は「誘惑する者」として説明される。誘惑とはなにか。それは、神を拒み、権力を望み、自己を絶対視する志向だ。「主の祈り」(主祷文)の最後には、「私達を誘惑に陥らせず、悪からお救いください」とある(**)。つまり悪魔とは人間を「神から引き離そうとするもの」を意味すると考えたい(***)。

*天使とは天国にいる霊的存在で、神と人間の中間にいるとされる。だから使者とか御使いを訳されることが多い。トマス・アクイナスの定式(質量を持たない純粋形相としての知性・意思)が普通使われるようだ。天使が「翼」を持つようになった話は図像論のなかでは格好の話題のようだ。ちなみに翼を持つ悪魔もいるようだ。
**各国で訳語が再検討されているようだが、問題は「おちいらせず」の部分で、誘惑や悪という言葉だけではなさそうだ。日本では今回の新しいミサの式次第でもこの部分の訳語の変更はなかった、。ちなみに英語では(カトリック教会では) Do not bring us to the test but deliver us from evil  が使われるようだ。
***言うまでもなく、伝統的な日本語の悪魔と言う言葉にはこういう意味も含意もない。むしろ「鬼」という言葉の方にそういうニュアンスがふくまれていそうだ。鬼は元来は神だからだ(悪神)。日本語の悪魔や鬼という言葉の意味が拡大していくことを期待したい。この辺の議論は小笠原師の説教や本でもなされている。
3 こういうフロイト風の説明は私の好みではないが、ルターの罪悪感を精神疾患のあらわれとみなす論者は多いようだ。
4 ドイツ神秘主義はすでにふれたように、エックハルトを中心としてその弟子であるタウラー、ゾイゼらの思想を指す。エックハルトの「離脱論」がルターに影響を与えていたのかもしれない。
5 「万人祭司主義 万民祭司主義 allgemeines Priestertum とは、ルターが「ドイツ国民のキリスト教貴族に与う」で当時のドイツ領邦君主に呼びかけた主張とされる。独身制をはじめ聖職者の特権を否定した。「宗教改革の三大原理」とよばれるルターの「3大のみ論」にこの万人祭司主義も含まれているという(信仰のみ・聖書のみ・万人祭司)。
6 「十字架の神学」とはルターの神学の別称でもあるが、本来はスコラ神学の「栄光の神学」との対比で用いられる。キリストの十字架をどうみなすかという点で異なった理解がなされる。スコラの栄光の神学では神は理性と善行により神の認識が可能だとされるが、十字架の神学では罪人としての自分の挫折と絶望の中に救いがあるとされた。信仰者は苦難を通してキリストと結ばれるという思想のようだ。十字架を贖罪の印と見るか、弱さと強さという逆説の印と見るかとの違いとも言えようか。アウグスティヌスとは異なるパウロ流の十字架の逆説的解釈と説明されることが多いようだ。
7 この辺はかなり極端な言い方だが、こういう視点もあるということである。「ルターは敵か味方か」という問いについて言えば、カトリック教会とルター派では、義認論をふくめて教義面ではかなり接近してきている。仲間と言ってよいであろう。他方、教会論ではほとんど相容れないようだ。使徒継承や位階制で歩み寄りは見られない。エキュメニズムはまだ道半ばなのであろう。

8 コムニオ communio  とは語源的に「共有」という意味らしいが、カトリックでは現在は「一致」とか「交わり」という意味で使われるようだ。具体的にはミサのことをさしたり、さらには聖体拝領のことを指すことが多いようだ。

 

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