今夜の瑞月会の帰りに城一水師範と車中で話す。
古流は師と弟子がシンクロすることから伝承が可能だということを言った。
親鸞さんが、師に「すかしまいらせても結構」と言った、その決意が畏れながら、私も大事だと思う。
このエピソードは こちらの法話がわかりやすい
http://koun18.com/houwa-pascal/
阿弥陀仏を唱えて、地獄に落ちても、それでも師を信じるという態度だ。
私ごときがいうのも恥ずかしい限りだが親鸞さんはすごい!
善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや で17歳の田舎の高校生であった私は、はやりの共産主義者をきっぱりやめた。
師伝というのはそれを守るのが弟子のつとめで、やがてそれを乗り越えようとする態度も賞賛される美風だ。
しかしながら人には器量というモノがあり、師を超えられない弟子が多数だ。
その場合、開高健文豪の名コピー「何も足さない、何も引かない」のがいいだろうと考えている。
たとえば師伝の業前を変更しない、誤解、勘違いすることはあっても、故意には変更してはならない。
また、師伝でもないモノを加えてはならない。
それは「添加物」となり有害だ。
私の受け取った業前は 表では英信流 初伝、中伝、奥伝、暇乞 居合形 大日本抜刀流 刀法
人に見せない 卍一刀流試刀術(菊の御紋)
補助線としての 裏 無端流 (完全口伝)
太刀打ちも詰め合いも、受け取っていないから次に渡しようがない。
ビデオや本で師でもない人がやっていることを真似ても、どうかしら?
ビデオを研究してうまくなるというレベルという武術があるのかしら?
この刀で居合をする限り、何も足さない 何も引かないという、私の規範は揺るがない
この全体像がすべてだろう。
私は、師伝を遵守するが故に、二十二代池田宗家の講習会に一度も出なかった。
池田宗家の人柄は存じ上げていて、実に誠心誠意のご人徳を感じていた。
ただ、師伝を変更せざるを得ない状況を回避するためにあえて講習を受けなかった。
そのために白眼視されても仕方ないと腹をくくった。
真実、これくらいで「武道」を標榜するなら当たり前だと考えている。
あの世では、先師「村上基助」先生 「齋藤正」両先生が にっこりしてくれているだろう。
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