北極海の戦い
1941年8月というから独ソ戦が始まって2ヶ月後、英米はソ連と協定を結びソ連に莫大な物資を援助することにした。このままソ連がドイツに負けると、ドイツはヨーロッパの後方に穀倉地帯と油田を得て大戦は長期化する。連合軍、特にチャーチルにとってはコミュニストのソ連を援助することは苦渋の選択だったろう。しかしイタリア、ノルマンディーに上陸して西部戦線を築くまでは、北アフリカは別にしてドイツ第三帝国の軍勢を一手に引き受けて消耗戦を行っているのはソビエトなのだ。
この援ソ物資は、大半はアメリカからだったが尋常な量ではない。特に車輛と航空機はソ連にとって重要だったはずだ。だがスターリンは当然だろう、と思っていたようだ。補給が滞ると独との単独講和をチラつかせて連合軍を恫喝した。援ソルートは主に3つあり、半分は太平洋ルート(アメリカ→ウラジオストックorナホトカ)、1/4はイラン経由で1/4は北極海を通るルートだ。この北極海を通るルートは最も戦場に近いので、ソ連にとっては一番有難い。しかしあくまで1/4の量だ。
英国本国かアイスランドに商船を集結させて、船団を作りソ連のムルマンスクかアルハンゲリスクに向かう。英国からソ連に向かう船団をPQ、空荷で帰る船団をQPと呼んだ。船団はアメリカ製の車輛、戦車、分解した航空機、無線機などを運んだ。弾薬・砲弾を積み込んだ船は、一弾を浴びれば木端微塵に吹き飛ぶ。それでなくてもこの海域で海に投げ出されれば、低体温で5分ともたない。
命がけでロシアの港にたどり着いた英国の船乗りを出迎えるロシア側の応対は横柄で素っ気ない。ロシアの駆逐艦も港近くで輸送船が攻撃を受けていても援護に出迎えることは少なく、英国の船員を憤慨させた。しかしロシア人が英国等の船乗りに冷淡な態度を取ったのも仕方がない。親しくしたら「外国のスパイ」として銃殺かシベリア送りにされかねない。冗談ではない。
ヨーロッパの戦争が終わろうという頃、東からドイツを攻めるソビエト軍と西から来た米軍がエルベ川で歴史的な出会いをした。エルベの(平和への)誓いとか言って映画にもなっている。米軍兵士(パットンの戦車部隊先遣隊)は本国に凱旋し熱烈な歓迎を受けた。しかし米兵と抱き合ったウクライナ部隊の将校は処刑され、兵士は強制労働に廻されていた。堕落した資本主義に染まったからだという。
さてこのPQ船団、占領したノルウェーから飛来する航空機とUボートに襲いかかられる。時には艦船による攻撃も行われた。輸送船は速力が遅い。潜行したUボートにも追い付かれてしまうから、狙われたらたまらない。そのため30~50隻の輸送船を集めて集団で護衛する方式を取った。しかしこの護送船団方式は航空機とUボートの攻撃には有効だが、水上艦船には逆効果だ。
イギリス人は服装などにはえらく保守的な所があるが、戦争に於いては自由奔放、奇抜な発想をする。実用化はしなかったが、氷山を利用する氷の空母を考えたり、Uボートの魚雷がすり抜けるように中央部を凹字型にした輸送船を考えたりした。またノルマンディー上陸作戦を欺瞞するため、偽の英国将校にしたてた死体に別の上陸地を記した書類をつけて海に流したりもした。口を開かないドイツの高級将校の捕虜を一堂に集めて優遇し、彼等同士の内輪の会話を盗聴して情報を得たりもした。一方のドイツも情報戦では負けてはいないが、話しが脇道に逸れるので元に戻す。
PQ船団には護衛として駆潜艇や潜水艦が数隻つくが、空からの攻撃には弱い。途中まで戦艦や空母が護衛する場合があるが、ある地点まで行くと引き返した。英軍としては貴重な空母を失う危険を冒したくはない。窮余の策として、大型輸送船にカタパルトを設置して、いよいよの時に戦闘機を打ち出した。回収は出来ないから、燃料が切れたら海上に不時着してパイロットだけを救出する。こんな苦肉の策でも、うまくいくとドイツ軍の爆撃機の攻撃を一回は逸らすことが出来る、かもしれない。反撃の手段をほとんど持たない輸送船の船乗りにとっては心強いものだ。
元々ドイツ空軍は対艦攻撃が苦手だ。海上飛行も得意ではない。空軍であって、海軍の航空隊ではないのだ。また戦闘機も爆撃機も英独のものは航続距離が短い。もし日本軍のゼロ戦と陸攻隊がノルウェーに駐留していたら、このルートは使えなかっただろう。ただ日本軍は頭が古いから、輸送船相手の戦闘に価値を置かないが。
PQ17の時、ノルウェーのフィヨルドにひそむドイツの戦艦ティルピッツが出航するという情報が入った。戦艦が来たら輸送船団は一溜まりもない。情報によればあと数時間でティルピッツと重巡洋艦2隻、付随する駆逐艦が船団を襲うという時、英国の護衛の空母と戦艦は予定の海域に達して引き返して行った。取り残された商船群はあっけに取られた。PQ17は船団を解除してバラバラになってソ連の港を目指すことになった。バラバラになれば、見落とされてたどり着けるものも出てくるかもしれない。ティルピッツは引き返した。分散した輸送船を追うのに戦艦はもったいない。数隻を沈めても、リスクに合わない。
PQ17は33隻の商船、給油艦2隻、救難艦3隻、特設防空艦2隻で積み荷は297機の航空機、594輌の戦車、4,246輌のトラックや装甲車、および約16万トンの貨物を積んでいた。解散前からUボートにつきまとわられ、連日航空機とUボートによる攻撃を受けた。商船は次々に撃沈される。見つかったらお仕舞いだ。しかし英国の船乗りは不屈の闘志を見せた。流氷に紛れるようにペンキを取り出して船体を白く塗ったり、貨物の戦車の機関銃を外して航空機を狙い撃ったりした。
船団はいくつかの小グループに分かれてアルハンゲリスクを目指した。単艦になってずっと北寄りの航路を取り、2週間も余分にかかってソ連の港にたどりついた商船もあった。結局Uボートと航空機によるなぶり殺しを遁れてアルハンゲリスクやムルマンスクにたどり着いた商船はそれでも11隻いた。 PQ17船団は総計で22隻の商船と153名の船員を失い、積み荷では430輌の戦車、210機の航空機、3,350輌の車輛、そしておよそ10万トンの物資を失った。ドイツ側の損害は航空機5機のみであった。
スターリンは、受け取る援助物資が激減したことに強硬な抗議を行い、引き続き船団のを送るように要求した。しかしPQ17の直前に運行したPQ16では7隻の商船が沈められている。スターリンの猛抗議に屈して強行したPQ18では、護衛空母を含む50隻を超える艦船によるハリネズミのような護衛にも係わらず、多数のドイツ機の撃墜と3隻のUボートの撃沈と引き換えに、12隻の商船と1隻の給油艦を失い、しばらく船団の派遣を延期せざるを得なくなった。
1941年8月というから独ソ戦が始まって2ヶ月後、英米はソ連と協定を結びソ連に莫大な物資を援助することにした。このままソ連がドイツに負けると、ドイツはヨーロッパの後方に穀倉地帯と油田を得て大戦は長期化する。連合軍、特にチャーチルにとってはコミュニストのソ連を援助することは苦渋の選択だったろう。しかしイタリア、ノルマンディーに上陸して西部戦線を築くまでは、北アフリカは別にしてドイツ第三帝国の軍勢を一手に引き受けて消耗戦を行っているのはソビエトなのだ。
この援ソ物資は、大半はアメリカからだったが尋常な量ではない。特に車輛と航空機はソ連にとって重要だったはずだ。だがスターリンは当然だろう、と思っていたようだ。補給が滞ると独との単独講和をチラつかせて連合軍を恫喝した。援ソルートは主に3つあり、半分は太平洋ルート(アメリカ→ウラジオストックorナホトカ)、1/4はイラン経由で1/4は北極海を通るルートだ。この北極海を通るルートは最も戦場に近いので、ソ連にとっては一番有難い。しかしあくまで1/4の量だ。
英国本国かアイスランドに商船を集結させて、船団を作りソ連のムルマンスクかアルハンゲリスクに向かう。英国からソ連に向かう船団をPQ、空荷で帰る船団をQPと呼んだ。船団はアメリカ製の車輛、戦車、分解した航空機、無線機などを運んだ。弾薬・砲弾を積み込んだ船は、一弾を浴びれば木端微塵に吹き飛ぶ。それでなくてもこの海域で海に投げ出されれば、低体温で5分ともたない。
命がけでロシアの港にたどり着いた英国の船乗りを出迎えるロシア側の応対は横柄で素っ気ない。ロシアの駆逐艦も港近くで輸送船が攻撃を受けていても援護に出迎えることは少なく、英国の船員を憤慨させた。しかしロシア人が英国等の船乗りに冷淡な態度を取ったのも仕方がない。親しくしたら「外国のスパイ」として銃殺かシベリア送りにされかねない。冗談ではない。
ヨーロッパの戦争が終わろうという頃、東からドイツを攻めるソビエト軍と西から来た米軍がエルベ川で歴史的な出会いをした。エルベの(平和への)誓いとか言って映画にもなっている。米軍兵士(パットンの戦車部隊先遣隊)は本国に凱旋し熱烈な歓迎を受けた。しかし米兵と抱き合ったウクライナ部隊の将校は処刑され、兵士は強制労働に廻されていた。堕落した資本主義に染まったからだという。
さてこのPQ船団、占領したノルウェーから飛来する航空機とUボートに襲いかかられる。時には艦船による攻撃も行われた。輸送船は速力が遅い。潜行したUボートにも追い付かれてしまうから、狙われたらたまらない。そのため30~50隻の輸送船を集めて集団で護衛する方式を取った。しかしこの護送船団方式は航空機とUボートの攻撃には有効だが、水上艦船には逆効果だ。
イギリス人は服装などにはえらく保守的な所があるが、戦争に於いては自由奔放、奇抜な発想をする。実用化はしなかったが、氷山を利用する氷の空母を考えたり、Uボートの魚雷がすり抜けるように中央部を凹字型にした輸送船を考えたりした。またノルマンディー上陸作戦を欺瞞するため、偽の英国将校にしたてた死体に別の上陸地を記した書類をつけて海に流したりもした。口を開かないドイツの高級将校の捕虜を一堂に集めて優遇し、彼等同士の内輪の会話を盗聴して情報を得たりもした。一方のドイツも情報戦では負けてはいないが、話しが脇道に逸れるので元に戻す。
PQ船団には護衛として駆潜艇や潜水艦が数隻つくが、空からの攻撃には弱い。途中まで戦艦や空母が護衛する場合があるが、ある地点まで行くと引き返した。英軍としては貴重な空母を失う危険を冒したくはない。窮余の策として、大型輸送船にカタパルトを設置して、いよいよの時に戦闘機を打ち出した。回収は出来ないから、燃料が切れたら海上に不時着してパイロットだけを救出する。こんな苦肉の策でも、うまくいくとドイツ軍の爆撃機の攻撃を一回は逸らすことが出来る、かもしれない。反撃の手段をほとんど持たない輸送船の船乗りにとっては心強いものだ。
元々ドイツ空軍は対艦攻撃が苦手だ。海上飛行も得意ではない。空軍であって、海軍の航空隊ではないのだ。また戦闘機も爆撃機も英独のものは航続距離が短い。もし日本軍のゼロ戦と陸攻隊がノルウェーに駐留していたら、このルートは使えなかっただろう。ただ日本軍は頭が古いから、輸送船相手の戦闘に価値を置かないが。
PQ17の時、ノルウェーのフィヨルドにひそむドイツの戦艦ティルピッツが出航するという情報が入った。戦艦が来たら輸送船団は一溜まりもない。情報によればあと数時間でティルピッツと重巡洋艦2隻、付随する駆逐艦が船団を襲うという時、英国の護衛の空母と戦艦は予定の海域に達して引き返して行った。取り残された商船群はあっけに取られた。PQ17は船団を解除してバラバラになってソ連の港を目指すことになった。バラバラになれば、見落とされてたどり着けるものも出てくるかもしれない。ティルピッツは引き返した。分散した輸送船を追うのに戦艦はもったいない。数隻を沈めても、リスクに合わない。
PQ17は33隻の商船、給油艦2隻、救難艦3隻、特設防空艦2隻で積み荷は297機の航空機、594輌の戦車、4,246輌のトラックや装甲車、および約16万トンの貨物を積んでいた。解散前からUボートにつきまとわられ、連日航空機とUボートによる攻撃を受けた。商船は次々に撃沈される。見つかったらお仕舞いだ。しかし英国の船乗りは不屈の闘志を見せた。流氷に紛れるようにペンキを取り出して船体を白く塗ったり、貨物の戦車の機関銃を外して航空機を狙い撃ったりした。
船団はいくつかの小グループに分かれてアルハンゲリスクを目指した。単艦になってずっと北寄りの航路を取り、2週間も余分にかかってソ連の港にたどりついた商船もあった。結局Uボートと航空機によるなぶり殺しを遁れてアルハンゲリスクやムルマンスクにたどり着いた商船はそれでも11隻いた。 PQ17船団は総計で22隻の商船と153名の船員を失い、積み荷では430輌の戦車、210機の航空機、3,350輌の車輛、そしておよそ10万トンの物資を失った。ドイツ側の損害は航空機5機のみであった。
スターリンは、受け取る援助物資が激減したことに強硬な抗議を行い、引き続き船団のを送るように要求した。しかしPQ17の直前に運行したPQ16では7隻の商船が沈められている。スターリンの猛抗議に屈して強行したPQ18では、護衛空母を含む50隻を超える艦船によるハリネズミのような護衛にも係わらず、多数のドイツ機の撃墜と3隻のUボートの撃沈と引き換えに、12隻の商船と1隻の給油艦を失い、しばらく船団の派遣を延期せざるを得なくなった。