旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

ソ芬戦争(冬戦争)

2016年04月08日 17時46分32秒 | エッセイ
ソ芬戦争(冬戦争)

 スターリンのソビエト赤軍がフィンランドを侵略し、フィンランドがそれに対して単独で防衛戦を行った。1939年11月30日~1940年3月13日の約3ヶ月間の戦いだったが、実に激しい戦争だった。最初に両軍の参戦規模と損害を記す。
◇戦力
フィンランド(一部スウェーデン義勇部隊)      ソビエト連邦
歩兵  25万                   歩兵  100万
戦車  30輌 戦車  6,541輌
航空機 130機(戦闘機・爆撃機・偵察機)      航空機 3,800機
◇ 損害
フィンランド(一部スウェーデン義勇部隊)      ソビエト連邦
戦死  26,662          戦死・行方不明 126,875
戦傷  39,886 戦傷      264,908
捕虜   1,000 捕虜       5,600
航空機   62 航空機      1,000以上
                          戦車       2,268輌

 スターリンは1939年にヒットラーと手を組み、ポーランドを挟撃してその東半分を占領した。また同年バルト三国を恫喝して属国化した。フィンランドのような小国など2週間で捻り潰せると思っていた。
 フィンランドは長らくスウェーデン王国の一部として統治されてきた。1809年にロシア帝国に征服されたが、ロシア革命に乗じて1917年に独立した。スターリンはフィンランドに、長距離砲の射程が延びレニングラード(サンクトペテルブルク)が射程内に入ったから国境線を30km下げろ(他に防衛戦の撤去、バルト海に面したハンコ半島とフィンランド湾の島嶼の30年の租借と基地の設置)という前代未聞のハレンチな要求を出した。交渉が決裂すると、ソ軍は自軍の兵士を砲撃し13名の死傷をフィンランド側の挑発として、即座に45万の将兵、火砲1,880門、戦車2,385輌、航空機670機を以って国境全域で侵攻を始めた。
 まともに考えてフィンランドの生き残る道は無かった。連合国側はこぞってフィンランドに同情したが、ドイツに加えて大国ソ連と事を起こしたくなかった。またノルウェーが中立を宣言して物資の通過を許さなかったことから、ソ連の国際連盟からの追放というスターリンを笑わせる措置しか取らなかった。スウェーデンは国と市民が全く違った対応を取る。市民は義勇兵を組織して戦場に向かった(約9千人、唯一の援軍)のに対し、スウェーデン政府はソ連とドイツ双方からの圧力に屈し、フィンランドを見殺しにした。ナチスドイツはこの冬戦争の1ヶ月後にノルウェーとデンマークに侵攻して占領している。スウェーデンが冬戦争に参戦していたら、スウェーデンもドイツに占領されていただろう。
 フィンランドに侵攻したソビエト赤軍は、開戦当日の夕方にフィンランド人の亡命共産党員を首班とする傀儡政府を、占領した国境の町テリヨキで樹立した。今回の侵攻はこのニセ政府からの要請(白色富農政権から人民の解放)によるものとして、現フィンランド政府との交渉を断った。しかしフィンランドの社会主義者、共産主義者のほとんどはこのソ連の侵略を支持せず、共産主義者の大半はフィンランド国軍の徴兵対象から外されていたにも関わらず、独立を守るために戦った。フィンランド軍の士気は、老将マンネルヘイム(70歳を超えていた)の指揮下、天を突く勢いだった。一方赤軍は、スターリンによる赤軍大粛清の影響でまともな将校がいず、兵士は最初から奴隷扱いでしかも何の為に戦うのか、戦いの意義を見いだせない状態だった。ここで二つの事を取り上げる。フィンランドの英雄マンネルヘイムとスターリンの大粛清だ。

1.救国の英雄、マンネルヘイム(1867~1951):
 マンネルヘイムは、父方の祖先がフィンランド貴族で、スコットランド人の血も混ざるドイツ系の父と、祖先はスウェーデン出身の母の第3子としてフィンランドで生まれた。子供の時家ではスウェーデン語を使っていた。リベラルで急進的な思想をもつ劇作家である一方、製紙会社を起業していた父は、経営が悪化する会社を立て直そうとして賭け事に手を出し破産した。そして土地や美術品を手放し、妻を置いて愛人とパリへ去った。母はそのショックで翌年世を去る。マンネルハイム家の7人の子供は親類に引き取られ、別れて暮らすことになった。
 引き取られた叔父の家も家計が悪化し、マンネルハイムは13歳で軍人の幼年学校へ入れられるが、素行が悪くて退学させられた。フィンランド軍での栄達は望めなくなり、彼はロシア帝国陸軍の騎兵見習学校へ行く。卒業後騎兵少尉として、皇后の近衛騎兵になる。中佐の時、日露戦争が勃発すると志願して前線に行き、旅順要塞を落とした後行方をくらませていた乃木希典の第三軍の行動を捉える功績を挙げ、終戦後大佐に昇進。
 その後ロシア帝国の命で、フランスのペリオが行う中央アジア探検に参加する。ペリオと意見が合わずに別れた後は、天山山脈の地形を調査し、イギリスによって国を追われたダライ・ラマ13世と謁見している。マンネルヘイムは2年かけて、ほとんどが馬による単独行(地元民のガイドのみ)の14,000kmに渡る旅を終え1,200点の蒐集品、1,370枚の写真、2,000点の古文書を集め後に論文を発表した。スウェーデンの地理学者スヴェン・ヘディンはマンネルヘイムの調査を評価している。この二人は友人だった。北京、日本を経てサンクトペテルブルクに戻った彼は、諜報活動の報告書を公開と非公開に分けてロシア皇帝に提出した。そこには清国の現状分析と新疆省への兵力展開の可能性について詳細に書かれていた。この旅を終えたマンネルヘイムは少将となり、ニコライ2世の信任を得て近衛騎兵旅団の司令官となった。
 第一次世界大戦が始まると、マンネルヘイムの指揮する騎兵師団はルーマニアを支援して、後に〝砂漠の狐〟と呼ばれるエルヴィン・ロンメル率いる山岳猟兵大隊と戦っている。この戦いで彼は有利な地形を活かした拠点防衛を学んだ。しかしロシア革命が勃発すると中将になっていたマンネルヘイムは、休暇中に革命後の臨時政府によって予備役に入れられ、ヘルシンキに戻った。
 フィンランドはロシア革命中に独立するが、フィンランドの社会主義革命を目指す赤衛軍(ロシア軍4万が参加)と、マンネルヘイムが指揮する白衛軍(ドイツ軍が協力)が内戦を繰り広げ、不利な状況を覆して白衛軍が勝利する。しかし戦後フィンランド政府は親ドイツ勢力が強まり、スカンディナヴィア諸国と協調する武装中立を訴えるマンネルヘイムはスウェーデンに亡命する。
 第一次大戦がドイツの敗北に終わると、フィンランドに戻ったマンネルヘイムは大統領選に立候補するが敗れ、公職から身を引く。ロシア内戦は赤軍の勝利で終わり、ロシアとフィンランドは条約を結び国境が確定した。マンネルヘイムは赤十字の会長となり、またアジアや中東を旅する。旅行中ネパール国王と虎狩りをしたり、日本で刀を贈られたりしている。
 その後フィンランド政府の要請を受け、フィンランド国防委員会の議長となり、また陸軍元帥になって軍の近代化と軍組織の刷新に取り組んだ。予算の不足と閣僚の無理解の中、防衛線の作成、空軍の導入、動員の仕組み作り等を行った。
 そしてドイツと協定を結んだソ連がフィンランドに侵攻する。最高司令官になったマンネルヘイムは国防軍に開戦日、最初の命令を出す。
  大統領は1939年11月30日をもって私をフィンランド軍の最高司令官に任命した。勇敢なるフィンランドの兵士諸君!我々の不倶戴天の敵
  が再びわが国を侵している。まずは自らの司令官を信頼せよ。諸君は私を知っているし私も諸君を知っている。また階級を問わず皆がその本分
  の達成のためであれば死を厭わないことも知っている。この戦争は我々の独立の継続のため以外の何物でもない。我々は我々の家を、信念を、
  国を守るために戦うのだ。
 ソビエトは彼にとって、旧主ニコライ2世を処刑した敵(かたき)でもあった。
 冬戦争でかろうじて独立を守ったフィンランド軍だが、矢玉尽き前線では敵の兵器を奪いながら戦っていた。幸い銃弾は赤軍の銃と口径が一致していた。講和条件は人口の12%が住むカレリア半島、サッラ地区、バレンツ海の半島、フィンランド湾内の4つの島を割譲し、ハンコ半島とその周辺の島々をソ連の軍事基地として30年間租借されるという屈辱的なものだった。
 冬戦争の後もマンネルヘイムは大統領の要請により最高司令官の座に留まった。独ソ関係が険悪化する中、ドイツの圧力が強まり、ドイツはデンマークとノルウェーに侵攻し、ソ連はバルト三国を併合した。フィンランドはドイツ軍の国内への駐留を認めざるを得なかった。マンネルヘイムはスウェーデンと共同した中立化を画策したが、ドイツがそれを認めなかった。しかし独軍8万の指揮権の譲渡の提案を蹴り、後にレニングラード包囲戦への参加を堅く拒否した。
 6月22日ドイツがソ連に対してバルバロッサ作戦を開始すると、フィンランド領からドイツ軍が攻撃を始め、これに対してソ軍はフィンランドに空爆を行った。こうしてフィンランドとソ連の間でもまた戦争が始まった。マンネルヘイムの提案で継続戦争と呼ばれた。フィンランド軍は瞬く間に占領されていた失地を取り戻し、レニングラードに迫ったがマンネルヘイムはそれ以上積極的な攻勢に出なかった。
 継続戦争2年目、マンネルヘイムの75歳の誕生日を祝うとして急にヒットラーが訪れた。迷惑な客だ。マンネルヘイムは私的な建物で応対し、嫌煙家で有名なヒットラーの前でゆっくりと葉巻を取り出して火を点けた。周りはハっとしたが、ヒットラーは煙に巻かれたのか何ら具体的な要求を出さず、5時間で出国した。
 マンネルヘイムの短気や移り気を批判する人もいるが、独ソ戦の行く末が見えてきた頃、重大な問題はいつソ連と講和するかであった。早過ぎればドイツの報復的な予防占領を招き、遅過ぎれば飛躍的に強くなったソ連に占領される。この重要な時期に軍事と政治の両方を見据えて大胆細心に事を行うのは、マンネンヘイムの他に人がいない。国の主権を守って平和に導くためにマンネルヘイムは軍事力を蓄えた。戦う大国の狭間にいる小国はつらい。漢の武帝に漢と匈奴の狭間にいる苦衷を訴えた楼蘭国王を思い起こす。「小国は大国の間にあり、両属せねば安んずることが出来ない。」しかしフィンランドはもっと毅然としている。終戦が近付き敗色が濃くなってきた日本軍を見限り、反旗を翻して連合国側についたビルマのアウンサン将軍の方が近い。舵とりを誤ったら、国が一瞬で吹き飛んでしまうのだ。
 マンネルヘイムは時の大統領リュティと芝居の筋書きを組み、リュティが議会の承認を得ずにドイツと共に戦うことを誓う協定を結び、ドイツから大量の支援物資を得た。一方秘密裏にソ連と交渉を進め、降伏を含まない和平の打診を得た。そこでリュティが辞任しマンネルヘイムが大統領に就任する。ソ連の条件は、カレリア全土とベッツァモ、3億ドル相当の賠償物資という厳しいものだった。戦後の軍備も厳しく制限された。またここまで共に戦ってきたドイツ軍を追い払うためにラップランドで彼らと戦わなければならなかった。退却するドイツ軍が焦土作戦を取ったため、ラップランドは荒廃した。
 しかし他の東欧諸国のように衛星国にはならず、主権も議会制民主主義も経済の自由も維持した。ベルリンの壁が崩壊するまでの44年間を暗い時代にしなくて済んだ。そこには不思議なことにスターリンのマンネルヘイムへの好意と尊敬があったという。味方は信頼出来ないが、あからさまな敵なら出来るというのか。
 1951年、マンネルヘイムは回想録の完成を見ることなく、スイスの病院で永眠しその葬儀は国葬になった。存命中、第一次第二次の両大戦で敵味方双方から軍事勲章を受け取った唯一の人物で、第二次世界大戦に参加した全ての司令官の中でマンネルヘイムは第一次大戦時に最高位(大将)の階級を持っていた。第一次大戦で伍長のヒットラーなど格が違う。次で取り上げるスターリンとも比較して、人間の愚かさ醜さ、気高さ勇敢さを考えさせられる。どう、ちょっとはフィンランドが身近になったでしょ。

2.大粛清
 グルジア人のヨシフ・スターリンが、1930年代にソ連邦および衛星国モンゴルで行った大規模な政治弾圧のこと。粛清と粛正は違うそうだが、どちらも碌なものじゃあない。
 粛清は「党員を党から除名する。」ことを意味するというが、そんな生易しいものじゃあない。最盛期の1937~38年までに134万4,923人が即決裁判で有罪となり、68万1,692人が死刑、68万4,820人が強制収容所や刑務所に送られた。ただこの人数は反革命罪で裁かれた者に限る。ソ連共産党は大きな打撃を受け、旧指導者層はごく一部を除いて絶滅した。大粛清以前のソ連と以後では全く別の国になった。
 理想主義的な世界同時革命を目標とし、各国の共産主義運動を支援してきたコミンテルンは解体され、ロシア人であろうが外国人であろうが、ほぼ全員が1939年夏までに粛清された。ソビエト国内にいた外国人の共産党員はほぼ全員銃殺され、ドイツ人はゲシュタポに引き渡された。ポーランド人は5万人殺され、日本の共産党員も10-20人が粛清された。
 メキシコに亡命していたトロッキーには暗殺者が送られ撲殺された。旧指導者はごく一部を除き絶滅させられた。地区委員会、州委員会、共和国委員会は丸ごと消滅した。大粛清以前の最後の党大会(1934年)の代議士中、わずかに3%が次の大会(1939年)に出席した。レーニン時代の高級指導部で生き残ったのは、スターリンを除けばカリーニンだけ。
 赤軍も5人の元帥の内3人、国防担当の人民委員代理11人全員、最高軍事会議のメンバー80人の内75人、軍管区司令官全員、陸軍司令官15人の内13人、軍団司令官85人の内75人、師団司令部195人の内110人、准将クラスの将校の半数、全将校の1/4ないし1/2が「粛清」された。大佐クラス以上の将校に対する「粛清」は十中八九が銃殺である。
 「赤い至宝」「赤いナポレオン」と謳われるトュハチェフスキー元帥も処刑され、世界に衝撃を与えた。元帥の妻も銃殺、娘は自殺した。赤軍軍人で共産党員だった者は30万人いたが、1938年の終わりに残っていたのは15万人である。元帥の処刑理由は「ドイツのスパイ」で、スターリンは元帥に個人的な恨みを持っていた。このでっちあげの容疑の証拠固めにナチスドイツが密かに協力している。こうなると三国志の世界だ。ドイツはしてやったり。
 この狂気の大粛清は、スターリンの台頭を危惧する党幹部が暗殺された(スターリンがやったのだろうが証拠はない。)ことから始まった。「反革命勢力の低劣な攻撃が始まった。暗殺はトロッキー一派の仕業である。」としてNKVD(後のKGB)を使って大規模殺戮に乗り出した。粛清の理由は「反革命」「右翼」「トロッキスト」「スパイ」何でもよかったが、スターリンの失政を隠すために、「産業破壊活動」が加えられた。NKVDの長官は粛清が手ぬるいとして2人が銃殺され、NKVDの地方の幹部も粛清されほとんどが入れ替えられた。
 スターリンの猜疑心は留まる所を知らず、スターリンに忠実な者も支持者も次々に粛清された。そして大量殺りくによって国家機能や経済運営が支障を来たすようになり、最後にNKVDの長官とその部下をやり過ぎとして根こそぎ処刑した。上の命によりリストラを率先して進めてきた部長が最後にリストラされるのは世の常。政府や党の幹部だけではない。作家、詩人、学者も粛清の対象となり、社会は相互監視と密告に支配された。いつドアが叩かれるか、国民は恐怖と猜疑心に脅える悪夢のような日々を送ることになった。自分と家族を守るために友人や仲間を売って生き残った人は心に思い傷を負った。モンゴルでも反体制派やラマ僧が大規模に迫害された。
 大物を除き、家族には処刑されたという事実は伝えられず、「通信の権利のない10年の懲役刑」「獄中で病死」と通達されたため、いつどこで死亡したのか現在も明らかになっていないケースが多い。またスターリンの時代には国替えのように簡単に民族を移動させたため、それまで保っていた民族のアイデンティティーが失われた。寺院や教会は破壊された。
 大粛清による死者の総数は、50万人説から700万人説に至るまで諸説ある。ゴルバチョフの時代にKGBが、スターリンが支配した1930年から1953年に786,098人が反革命罪で処刑されたことを公式に認めた。しかしこれが粛清の犠牲者の全てではない。過酷な取り調べ・尋問の過程で死亡した者、劣悪な環境下で服役中に死亡した者、農業集団化に伴う「富農」追放や飢饉によって死亡した人数を含めると、推定700万人に達するという。スターリンはポルポトの大先輩か、金ジョンイルの先生か。ここまで書いてきて気分が悪くなった。ヒットラーが殺したユダヤ人(ロマ人や同性愛者、身障者を含む)は少なくとも600人、独ソ戦の捕虜・住民虐殺を含めれば1,000万人強、スターリンが殺した自国民は700万人。どっちがより悪魔か悪党か。

 赤軍大粛清の影響でまともな将校がいない赤軍には、きちんとした情報・補給・作戦はなく、第一次大戦のように横一列の銃剣突撃、密集しての前進を繰り返す。一方は1/10の劣勢とはいえ猛将マンネルヘイム率いる国土防衛の意気上がるフィンランド軍だ。自らの意志で戦い、不足した兵器は創意工夫で調達する。その年がまれにみる寒い冬で、マイナス40℃の日が続いたこともフィンランド軍に利した。寒さに耐える競争なら負けるはずがない。もっとも滅多に無いことだが海が結氷したため、最短距離を取って赤軍が海側から攻めてきたのにはマイった。
 フィンランド軍は正面切っての戦闘を避けゲリラ戦、焦土戦、遅延戦に徹した。神出鬼没のフィンランド兵は、雪にカモフラージュされる白い服を身につけスキーを履いて素早く移動し、昼夜を問わずソビエト兵を狙撃する。銃は最初から足らず、自前の猟銃を持って参加した若者は直ぐに赤軍兵の銃を拾って戦った。マンネルヘイムは大軍を無傷で通過させ最後尾を攻撃して、袋のねずみにする作戦を得意とした。孤立した赤軍兵は補給を断たれ、戦死者の8割は凍死だ。フィンランド軍にとっては知り尽くした土地、地の利を十二分に生かした。
数千輌の敵戦車に対抗する対戦車兵器はわずかしか無かったが、モロトフカクテルで迎えうった。ソ連の外相の名を取ったモロトフカクテルとはただの火焔瓶である。赤軍の主力BT戦車は溶接に難があり、隙間から火の点いたガソリンが車内にこぼれて容易にエンジンや砲弾に火が点いた。こんな戦車には乗りたくない。
フィンランド軍の戦闘機は、わずか30機しか無かったが驚異的な活躍をした。自前の飛行機で援軍にきたスウェーデン貴族がいた。ほとんど役には立たなかったが、こういう援軍はうれしいじゃないか。オランダ製のフォッカーD21という、当時としてもかなり古くさい機種がフィンランド空軍の装備機だった。胴体の後ろ半分は羽布、木製主翼に固定脚。それでもソ連の戦闘機YakやI-16(寸詰まりのこれほど醜い飛行機は見たこともない)は歯がたたない。フォッカーD21は何より頑丈だった。フィンランドの深い森に多数点在する結氷した湖を臨時の飛行場にした。それも頻繁に移動したので、赤軍はフォッカーがどこから飛び立ってくるのか最後まで分からなかった。フィンランド人は手先が器用だ。なけなしのフォッカーは夜を徹して整備し、不足した部品は工夫して手作りした。冬戦争の三カ月間でフィンランド空軍は赤軍の戦闘機・偵察機・爆撃機併せて521機を撃墜し、自軍の損害は10機に満たなかった。
赤軍が結氷した海を渡って進軍してきた日が、冬戦争のハイライトだった。ここを大軍に渡られたら、この戦争は負ける。海の上を一直線に進んでくる大軍の上を、フォッカーD21はバンク(味方の合図)して通過し、後方より取って返して一直線に機銃掃射する。列に沿って砲弾が誘爆し車両が吹き飛ぶ。さっき手を振っていた兵士がバタバタと倒れる。機銃弾をくらったら人間など千切れ飛ぶ。しかし驚いたことに赤軍は、壊滅した軍列の真横を通って次の部隊が一直線で進んでくる。フォッカーは同じ攻撃を繰り返した。交替で燃料と弾薬を補給し、焼き切れんばかりに機銃を撃ちまくった。何故か赤軍には空軍の支援がなく、遂に海からの進撃を断念した。
フィンランド空軍は約1年後の継続戦争においても大活躍した。今度はアメリカ製のバッファロー戦闘機が主力だ。バッファローはずんぐりむっくりした機で、この戦場以外では全く活躍していない二流機だ。マルタ島の戦いで配備されたバッファローはメッサーシュミットに全く歯が立たず、直ぐにハリケーンとスピットファイヤーに取り換えられた。回収したバッファローはアジアに送られたが、機もパイロットも二線級と思われた日本軍の隼とゼロ戦に出会い全滅した。このようにある戦場でだけで活躍する機は珍しいが、極寒の地で頑丈な機体がマッチしたのと、やはり赤軍の戦闘機とパイロットの質の悪さが原因なのだろう。後にドイツ軍と共同して戦うようになると、メッサーシュミットBf109Gの支給を受け、フィンランド人パイロットの撃墜率は更に上がった。継続戦争中のフィンランド空軍の喪失は21機(事故機を含む)で、撃墜は456機、撃墜率は21:1で35人のエースパイロット(5機以上を撃墜した者に与えられる称号)が生まれた。バッファロー戦闘機はフィンランドでタイバーンヘルミ「空の真珠」と呼ばれ愛された。
フィンランド機のマークは青い鍵十字(左卍)だが、ナチスドイツのハーケンクロイツ(右卍)とは無関係だ。青いハカリスティ(卍)はフィンランドの内戦中、白軍に最初の飛行機を寄贈したスウェーデンの伯爵によって、幸運のシンボルとしてデザインされたものだ。ついでにエースパイロットのスコアを見てみよう。フィンランド空軍のトップ3は94機、75機、56機だ。一人にこれだけ落とされてはたまらない。
第一次大戦ではドイツのレッド・バロン(赤い戦闘機に乗った男爵)ことリヒトホーフェンの80機(他に未公認2機)が最高で、第2位がフランス人パイロットの75機(他に未公認52機)、3位がイギリス(カナダ)人で72機だ。第2次大戦ではドイツ人パイロットの中に200機以上の撃墜王が15人もいる。1位はエーリヒ・ハルトマンのなんと352機、2位は301機でこの記録が今後破られるとしたら、宇宙戦争くらいしか考えられない。全て東部戦線(独ソ戦)でのスコアだ。「アフリカの星」と謳われたハンス・ヨアヒム・マルセイユは、バトル・オブ・ブリテンと北アフリカ戦線で、主に英軍機を158機撃墜した。連合国機とソビエト機では飛行機の性能とパイロットの腕に格段の差があるので、このスコアは貴重だ。彼は自身も旋回中に相手の未来位置を予測して撃つ特殊な能力を持っていたが、最後は疲労でフラフラになって出撃し戻らなかった。
なおドイツ空軍の異常なスコアを聞いて連合軍は、これは機の撃墜数ではなく、撃墜したエンジン数(2発の爆撃機なら2)だろうと言ったがそうではない。一回の出撃で7機とか落としている。他の国を見てみるとソ連62機、アメリカ40機、イギリス38機、中国13機が最高だ。日本では撃墜王と呼ばれたゼロ戦乗り、板井三郎が64機、西沢広義は87機、最高は岩本徹三の202機だ。陸軍パイロットでは上坊良太郎が最初は一式戦隼、後に四式戦疾風に乗って76機落とした。
話を戻す。ロシアに攻め込んで勝った軍隊は、東から攻め込んだモンゴルだけだ。日露戦争の戦場は中国である。旅順も奉天も中国だ。ナポレオンはロシア遠征で負け没落した。しかし冬戦争に於ける赤軍のあまりの弱体振りを見たヒットラーは、チャンスと見てソビエト侵攻に踏み切った。冬戦争の約1年後のことだ。それが結局ドイツ第三帝国を滅ぼすことに繋がる。日本は中国で負け、ドイツはロシアで負けた。
しかしドイツが東部戦線で勝利し、スターリンをウラル山脈の東に追いやるチャンスはあったのだ。ドイツがウクライナに進撃した時、一瞬民衆は悪魔スターリンからの解放者として一瞬歓迎したのだ。しかし狼を追い払ったのはブチハイエナだった。1941年の段階で捕虜(初期の段階で500万人、ほぼ全員死んだ。)や、住民から反ソビエト軍を募って組織していたら勝てたと思う。後に実際にロシア人反ソビエト軍を組織し、それらの部隊は期待以上に活躍した(彼らには後がない。)のだが、ドイツ軍は1941と2年の捕虜を強制労働によって全滅させた。住民から食糧を掠奪して餓死させた。ヒットラーの栄光のゲルマン民族、劣等のスラヴ民族という意識が勝利を追いやった。なお独ソ戦におけるドイツ軍の捕虜は300万人で、およそ100万人が強制労働によって死んだ。
おっと、話は継続戦争だ、独ソ戦ではない。マンネルヘイムと芝居をうってドイツを騙した大統領リッティを覚えていますか?彼は戦後ナチスに与した戦争犯罪人として裁かれ、禁固10年の判決を受け下獄した。その後釈放され隠遁生活を送り1956年に死去した。その葬儀はソ連の非難があったのにも係わらず、国葬でおくられた。国民は分かっていたのだ。リッティが敢えて悪役になったことを。
なおドイツはユダヤ人の引き渡しをフィンランドに強く要求したが、フィンランドは断固拒否して彼らを保護した。この事はドイツとの関係を悪くし、自らの立場を追い込んだ。しかしそのため国内外から多くのユダヤ人がフィンランド軍に加わり、ソ連とドイツを相手に戦った。