旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

ダライ・ラマの転生

2016年04月22日 18時14分52秒 | エッセイ
ダライ・ラマの転生

 ダライ・ラマ14世、お顔は知っているでしょう。TVに出て頭の上に左右の人差し指を立てて、「私が悪魔に見えますか?」
ダライ・ラマはチベット仏教ゲルク派の高位のラマで、最上位クラスに位置する化身ラマ。「ダライ」は大海を意味するモンゴル語で、「ラマ」は師を意味するチベット語だ。800年に渡ってチベットの元首の地位を保有し、宗教指導者であるだけでなく君主の立場を兼ね備えたダライ・ラマは、観音菩薩の生まれ変わりとされている。
 観音様が妻帯する訳にはいかねえ。んじゃあ亡くなられたら、次のダライ・ラマはどうするの?まあ知っている人は多いと思うけれどおさらいしよう。トュルク(化身ラマ)はダライ・ラマ一人ではない。チベット語にはリンボチェという言葉がある。傑出した仏教僧に与えられる尊称だが、全てのリンボチェがトュルクという訳ではない。
 化身ラマは、全ての衆生を涅槃に導き救い終わるまで、何度でもこの世に化身として生まれて来るとされる。チベットでは多くの高僧が化身ラマとみなされて尊崇されている。化身ラマが遷下(死亡)すると、その弟子が夢告げに基づいて転生者を捜索する。候補者の童子を見つけると何度もテストを行う。持ち物を4つ5つ並べて、その中に一つだけ入れておいた先代ラマの遺品を選ばせたり、前世の記憶を確認したり、癖や仕草を観察する。
 間違いないと認定したら、童子は化身ラマ名称を継承する。その後は成人するまで、僧として厳しい英才教育を受ける。先代ラマが亡くなってから、候補の童子が生まれる迄に、数カ月や一年のタイムラグがあってもかまわないが、亡くなる以前に生まれた子は候補にはならない。
 転生継承はチベット仏教に特有なものだが、生身の人間を仏陀・菩薩・過去の偉大な修行者などの化身として尊崇することは、大乗仏教においては特異なことではないそうだ。尊崇する対象を仏陀ただ一人とする上座部仏教においては考えられない。日本仏教において明治以前には、聖徳太子や親鸞は観音菩薩の化身、空海は大日如来、法然は勢至菩薩の化身とされていたそうだ。へー、そうなの。
 繰り返しになるがダライ・ラマが没すると、その遺言や遺体の状況、神降ろしによる託宣、聖なる湖ラモイ・ラツォの観察、夢占いや何らかの奇跡などを元に次のダライ・ラマが生まれる地方やいくつかの特徴が予言される。その場所に行って子供を探し、誕生時の特徴や幼少時の癖などを元にして、予言に合致する子供を候補者に選ぶ。その後候補者に様々な試験をするのは、他の化身ラマと同様だ。最終的に認定された転生者は、幼児期にして直ちに法王継承の儀式を受けるが、成人に達して(通例は18歳)「チベット王」として改めて即位を執り行い、そこで初めて政治的地位を持つ。その間は摂政が国家元首の地位と政務を代行する。
 長いチベットの歴史の中では、継承者の認定をめぐって対立が起き、複数の勢力が候補を擁立した事があった(ダライ・ラマ6世)。また9世から12世までのダライ・ラマはいずれも夭折し、親政を行うことはほとんど無かった。清朝はチベットに間接的に干渉したが、清皇族をはじめとする満州族にはチベット仏教に篤く帰依する者も多く、宗教的活動自体は保護を受ける面が強かった。
 チベットでは7~14世紀にかけてインドから直接、仏教を取り入れた。その後発祥地のインドで、イスラムの進攻に伴い絶えてしまった密教等がチベットに保存されることになった。サンスクリット語の原典からチベット語へ、原文を出来るだけ意訳せずにそのままチベット語に置き換える形で経典を翻訳したため、チベット語の経典は仏教研究において非常に重要な位置を占める。日本人禅僧の河口慧海や、多田等観、青木文教、寺本婉雅らの僧侶や仏教学者が危険を冒してもチベットに赴く価値はそこにある。忿怒尊(明王)や歓喜仏、忿怒形吉祥天等の奇抜な仏像がクローズアップされがちだが、インドで失われ、中国への伝播が途絶えてしまった古い大乗仏教の諸哲学が生きたまま残っているのがチベットなのだ。
 またモンゴルの諸ハーンは元朝の後継者として、チベット仏教の保護者となることで権威付けを図ったため現在でもダライ・ラマの影響力はモンゴルにおいて大きい。リチャード・ギアはチベット仏教に造詣が深いそうだ。キアヌ・リーブスは映画『リトル・ブッダ』にシッダールタ役で出演したが、本人も仏教徒だそうだ。この映画は見たことがあるが、主人公の少年が『スピード』の刑事だとは知らなかった。
 最後にパンチェン・ラマとの関係を記しておこう。パンチェン・ラマはダライ・ラマに次いで重要な化身ラマである。この二人の化身ラマの密接な関係を、チベットの人々は太陽と月になぞらえた。パンチェン・ラマは阿弥陀如来の化身とされ、ダライ・ラマに比肩する智慧を持つと考えられている。しかしパンチェン・ラマはダライ・ラマとは異なって、世俗的な政治権力は有していない。「パンチェン」とはサンスクリット語のパンディタ(学匠)とチベット語のチェンポ(偉大)の合成語である。
 1949年10月、青海省が中国共産党によって占領され1959年のチベット動乱、ラサ市民の蜂起を経てダライ・ラマ14世と政府は、チベットを脱出しインドに亡命するが、パンチェン・ラマ10世はチベット自治区に留まり、中共との協調を模索した。しかし1962年にチベット動乱に対する中共の過酷な措置を批判し、1964年から14年間投獄された。そして1989年に再度中国のチベット統治策の誤りを告発する演説を行い、その直後に急死した。随分骨のあるお人だ。
 パンチェン・ラマ10世の入寂を受けてダライ・ラマ14世と亡命政府は、転生者の探索を始めた。その際ダライ・ラマ14世は中国の協力を求めたが、中国はそれを拒否し後に探索関係者の高僧達を厳しく処罰した。ダライ・ラマ14世は密かにもたらされた報告に基づき、ニマという6歳の少年をパンチェン・ラマとして認定した。しかし中国は自分達で転生者を探索したとして、6歳のノルブ少年を11世として即位させた。2人のパンチェン・ラマが出来た訳だ。そしてダライ・ラマの承認を受けた方は拘束されて生きているのか分からない。
 ニマ少年とその両親は行方不明となった。当初中国は関わりを否定したが、何故か後に連行を認めた。少年は強制的な共産主義の洗脳教育を受けている、とも伝わるが現在に至るも生死不明である。代々パンチェン・ラマとダライ・ラマはお互いの転生者を認定する役割に大きな影響力を持つ。ダライ・ラマの転生者の認定についてパンチェン・ラマの存在が絶対不可欠ではないが、逆は不可欠な条件である。
 ダライ・ラマ14世もお年だ。自らの死後の転生について、更なる悲劇を避けるために800年の伝統を破って転生制度を止める事を検討されている。つらい結末になってしまった。


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