旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

かてもの

2017年01月10日 18時36分35秒 | エッセイ
かてもの

 主食である穀物と共に、炊き合わせを行う食物。転じて、飢饉などで食糧不足に陥った際に、主食を節約するための代用食となる食物のこと。『かてもの』は寛政12年(1800年)、米沢藩重臣・莅戸義政(のぞきよしまさ)が執筆した飢餓救済の手引書。2年後に前藩主・上杉治憲(鷹山)の命によって刊行され、1,575冊が頒布された。
 飢饉の時の死者は実際に餓死する者より、栄養失調により普段は食用にしないものを食して中毒死する方が多かった。そこで安全に食することが可能なものと、その調理法の普及が必要であった。莅戸は藩の3名の医師に食用になる動植物の研究を行わせ、併せて本草学者の意見を聴取した。
天明の大飢饉(1783年)で米沢藩は義倉のみならず全ての蔵を開いて、領民に米や穀物4万8千俵を放出して配給した。また他国から米を買い入れ、借り入れた。すでに天候不順の前年から白米を食べることを禁じ、米を原料とする酒や菓子の製造を中止して主食の食い延ばしを図っていた。その結果領民を救うことは出来たが、藩の財政は破綻し鷹山が半生を掛けて進めてきた藩制改革の成果は水泡に帰した。鷹山は失意のうちに養子の治広に家督を譲った。
飢饉対策は『かてもの』の刊行だけではない。天明の飢饉で底をついた義倉に20年計画で、全ての藩士・領民に対して収入に応じて一定額の穀物や金銭の積立を課し、23年かけて目標量に達した。義倉制度は明治維新まで続いた。そして天保の大飢饉(1832年)がやってくる。既に莅戸も鷹山も没していたが、時の藩主・上杉斉定は『かてもの』を取り出して、藩主自ら白米の食事を絶って粥をすすった。結果的に米沢藩内からは、一人の餓死者を出すことはなかった。今の為政者は見習ってほしい。
明治の世になり北海道の屯田兵の部隊が食糧の不足で苦しんだ時、偶々所属していた旧米沢藩出身の兵士が『かてもの』の知識を出して飢えを凌いだ。『かてもの』のような書は、救荒録と呼ばれ各地で作られた。
一関藩の藩医・建部清庵(1716-1782)は、飢餓対策に『民間備荒録』続編『備荒草木図』をまとめた。飢饉への備え、草木の調理法、中毒した場合の解毒法などを記した。また飢饉の時には疫病が併発して多くの人命が失われた。栄養失調で病気に対する抵抗力が衰えるのだ。疫病に効く処方を記したお触書が出され、村の組頭や名主に配布された。
享保の大飢饉(1732年、西日本中心)では、甘藷(かんしょ、サツマイモ)が栽培されていた薩摩・長崎・対馬では餓死者が出なかった。そこで八代将軍・吉宗は甘藷の栽培を全国に奨励した。青木昆陽(甘藷先生)が吉宗の命を受け、甘藷の有用性を説き研究した。やせた土地でも育ちやすい甘藷は関東でも広がり、やがて全国で栽培されるようになった。
他にも各藩で数々の医師や学者、重臣たちが救荒録を絵入りで発行している。馬鈴薯は甲府代官の中井清太夫によって、甲府で普及が図られた。粟・稗・麦・蕎麦・黍等の雑穀、大根の葉・根菜類・海藻類の採取も奨励された。その中でも甘藷はスーパースターだった。気象の変化や土質を問わず、雑草や病原虫に強く、生育・成熟が早くて料理が簡単、主食に替わるエネルギー量を持っている。
ドングリやソテツのデンプンは毒消し・灰汁抜きの手順が煩雑だが、山里では普段からドングリを収穫して食している。しかしインターネットの無い時代、知識の共有が容易ではなく里の人々はドングリが食べられるとは知らない。アシタバやスベリヒユなどは地域や風習によっては、日常的に食べられている食材だ。また一部分は可食だが、全部の部位を食すと毒だったり不快だという植物もある。絵入りで調理法が書いてある救荒録は役に立つ。さて救荒録に挙げられた植物を極く一部記載してみよう。余り腹に溜らない草が多いな。

(可食部分別)
・全草 --- ノビル、タネツケバナ、キクノリ、スギノリ
・茎 --- イタドリ、ウワバミソウ、ソテツ(デンプン)
・葉 --- ナズナ、ヒユ、ヤマアザミ、アカザ
・若草 --- オオバコ、タラノキ、ウコギ、マツムシソウ
・根 --- オケラ、クズ(デンプン)、ヒガンバナ
・茎・葉 --- タビラコ、ダイコンソウ、スカンポ、スベリヒユ
・地下茎・塊根 --- キクイモ、チョロギ、アマナ、コヒルガオ
・果実 --- クサボケ、カリン、イヌビワ、カラスウリ、イワナシ、マタタビ
・種子 --- ドングリ類、カラスムギ、ハトムギ、イチイ、マコモ
・花 --- ユウスゲ、ニッコウキスゲ
・鱗茎からデンプンを得る --- アマドコロ、マンジュシャゲ、ウバユリ

救荒録を記した医師や学者は、人々を飢えから救いたい一心で研究に没頭した。野山を歩き、自ら野草を調理して食した。誇らしい人生だっただろう。北と南、東と西では植生が違うだろうが、実に様々な藩で数々の人が同じような研究を並列して行っている。江戸の社会の閉鎖性と非効率が垣間見える。飢饉の後で疫病が流行る話で思い出した。

敗戦後間もなくのこと、中国やビルマで戦っていた日本軍が武装解除し、中国南東部の港に集結した。戦争末期に条約を破って火事場泥棒的に参戦し、数十日の戦闘で得た捕虜を何年もシベリアに抑留したソ連に対し、蒋介石は8年間戦い続けた敵を赦し早期に送還してくれた。中国戦線の日本軍はともかく、ビルマ方面の部隊は重火器も弾丸も欠乏し食うや食わずで十数倍の英印軍・中国軍と戦っていたため、栄養失調でやせ細っていた。日本への船便を待つ港は低湿地で雨が降ると沼地のようになった。
日本軍敗残部隊は続々と到着して、仮設テントは益々過密になるが、復員船はなかなかやってこない。まともな貨物船はことごとくアメリカの潜水艦に沈められていたのだ。こんな不潔な衛生状態の中で、もし伝染病が発生したら大変なことになる。手持ちの薬は底を尽き、中国軍もろくに持っていない。そんな中、怖れていた事が起きた。数日前に奥地から到着した傷病兵が死に、コレラ菌が検出されたのだ。軍医らによる緊急会議が開かれ、末席の中尉が発言した。「この状況でコレラの発生、このままでは数日の内に大惨事となるでしょう。私に兵の前で話しをさせて下さい。」
中尉は兵を集合させて話をした。「コレラが発生した。何もしなければ、数日中に蔓延する。死者が数千人は出るだろう。戦争は終わった。ここまで生き延びてきて、日本は目の先だ。生きて日本の土を踏みたい者は、私の言う事をよく聞いて欲しい。食事はよく噛んでゆっくりととり、食事中と食事の後2時間は一切水分をとるな。よいか、煮沸した水は2時間たってから飲め。2時間あれば胃の中の酸がコレラ菌を殺す。食べたら2時間は水を飲んではイカン。」
敗戦で上の命令も以前ほど聞かなくなっていた兵隊だが、日本に帰りたい一心で中尉の命令を真剣に守り、コレラによる死者は数名に抑えられた。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿