ビルマ紀行 ~ 立派な古木に出会う国
目次
・短い前置き
・ビルマとミャンマー
・長すぎる前置き
ビルマ編
・中国人街とインド人街(ヤンゴン市内)
・ミャンマーの歴史
パガン編
・パガンのパゴタ群
*ローカティイッパン寺院
*マヌーハ寺院
*アーナンダ寺院
*ダヤマンヂー寺院(幽霊寺)
・ブッたまげ、パワースポット、ポッパ山
インレー湖編
・インレー湖のほとり
・ファウンドーウー・パヤー
・インディン遺跡
・カックー遺跡
ヤンゴン編
・シュエダゴオン・パヤーは仏陀パーク
・ヤンゴン川向こう
・仕舞いいに一言、三言
短い前置き
なんでかな?いつもは旅行記を書く作業は楽しいものなのに、今回に限っては苦痛だ。写真の整理は楽しかったが終わってしまった。文章は楽しくない。色彩の国からモノトーンの世界に戻ったからだろうか?
言ってみれば不思議の国から自宅に戻ったアリス、捕らわれて水族館のプールに入れられたイルカのようなものなのだろうか?不思議の国のことを話してもアリスは変な子扱いをされるだけ。水族館のイルカは危険に満ちた夢と冒険の大海に戻れるあてが無いのなら、無機質なプールの中で飢えの無い事だけを幸せに思って暮らしていくしかないものね。あと美味しいものは一人占め、の精神かな。
ビルマとミャンマー
同じ意味です。ビルマは口語、ミャンマーは文語(丁寧な言い方)と言われています。軍事政権下では、軍事政府側がミャンマー、民主勢力がビルマを使い、それぞれに政治的な意味を主張していましたが、一応民主化した現在、どちらでも良いのだ。
長すぎる前置き
日本の女の子はもっとおしゃれなのかと思っていた。正月2日の早朝にミャンマーから帰国して、朝の横浜駅をトランクをガラゴロ転がし下向き加減で歩いていたら、目に入るのはモノトーンの人の群れ。動きが早く無表情に見える。着ている物に色がない。あの行列は福袋だな。寒い。
思えばビルマは色にあふれていた。丘の上に立つ黄金色に輝く仏塔。草木の瑞々しい緑、女性達のカラフルな巻きスカート。露天や市場に山積みにされた野菜、果実、花々そして立派な古木。人々は街にあふれ出て買い物をし、パゴタに集まって祈り瞑想をし、またおしゃべりを楽しみ昼寝をする。パゴタの中でも市場の中でも、とにかく良く食べること。いつでもどこでもビルマ人がしゃがんで飯を食っている。旅の間中、飯を食うビルマ人、お祈りをするビルマ人に会ってきた。彼らは子供の時に家族でパゴタに行って過ごした時間が、とても愛おしくて楽しい思い出になっているそうだ。
実はビルマに行くチャンスは三十年以上前にあったんだ。当時タイとカンボジアの国境で井戸掘りのボランティアをしていた自分は、タイ国のVISA更新の為に一度出国しなければならず、手持ちの金が残り少なかったので、陸路マレーシアのペナンに行った。その時の旅がまた実に味わい深いものだったんだが、それは別のお話し。大ていの人は陸路で安く行けるペナンに行ってタイのVISAを新しく三ヶ月分取ってくるのだが、少数の人はビルマに行き、ビルマは本当に面白い、こんな事があった、と旅のエピソードを聞かせてくれたものでした。三十数年前のタイとカンボジアの国境の街で、民家を借りて貧乏労働者の暮らしを日々過ごしていた我々から見ても、ビルマはびっくりするような不思議な国だったんだ。
その後仕事で三十数カ国を廻ったが、自分にとって最も気になる所はアンコール・ワットでビルマは二番目以降だった。けれどもここ五年の間にカンボジアのクメール遺跡群には二回行き、まだまだカンボジアの遺跡は広くて行き足りないしその魅力は尽きないものの、一応の満足は得ることが出来た。次はビルマだ、頃もよし。一応の民主化を果たし内戦も沈静化している。近年観光客が行ける場所が大幅に増えてきたし、悪名高い空港での強制両替も無くなった。西側の資本は今は調査段階だが、近々なだれを打ってこの国に入り込むことだろう。
現在は圧倒的にシンガポールからの投資が多く、韓国、タイ、英国と続き日本は六番目で金額は知れたものだ。今はマクドナルドもセブンイレブンも無いが、出来るのは時間の問題だね。コカ・コーラの工場が出来るらしい。自分がバンコクや台北で見てきた、街が急激に変わっていく様子をまた一から見たくはないな。屋台がファストフードになり、雑貨屋がスーパーやコンビニになったって、自分にとっては面白くも何ともない。早く、今のうちに行かなくては。夢見る少女がすれっからしのおばさんになっちまう前に。
中国人街とインド人街(ヤンゴン市内)
今回ANAの直行便を使ったので、成田発が11:45、ヤンゴン着が現地時間の17:15でした。金ぴかにライトアップされたシュエダゴオン・パヤー(パゴタ)の巨大さにブッたまげている内にホテルに到着。チェックインしたら腹減った、まだ早いよね、でチャイナタウンへ食事に行きました。
地図で見ると歩いて行けない事もないかな、と思ったがヤンゴンは意外に大きな街でした。この国のTaxiは使いやすいです。運ちゃんはすれていないから、1,500チャット(約150円)のところをせいぜい2,500とか、かわいいものです。よその国では、大きな荷物を持つ外国人を見つけたら、平気で十倍位はふっかけてくるぜ。
夜の中華街は通りが全て屋台街になっていた。身長178cmの自分から見ると皆さん小柄な人が多くて、北朝鮮に行ったアントニオ猪木になったようだ。男性は(女性も)ほとんどの人が巻きスカートのようなロンジー(女性用はタメイ)を着けています。果実も色々売っていて、あ、イチゴもあるね。外国人だからといってジロジロ見られるようなことは無く、十二月の末でそれほど暑くはない。バーベキュー屋らしき店に入り、くしに刺した野菜や肉、魚貝類をたんまりカゴに取って店の小僧に渡し、通りに面した席のプラスチックのイスに座ってミャンマービールを飲んだ。ウマい。このビールはいいね。バーベQはなかなか来なかったので、南京豆の蒸したのとか、コーンのバターいため風とかのつまみを通りかかった売り子を呼び止めて買い、つまみとした。たれがからかったので、カミさんはあんまり食べられなかったようだが、自分はうまかった。ただビール代込みで全部で六百円ほどかかり、あれ?っと思った。果物も思ったほどは安くない。聞いても値段は分からないから、二千チャット(約二百円)を渡したくさん来すぎたらどうしよう、と思っていると二個だったりする。はぐらかされた。ぼられている訳ではなく、自分の予想ほどは都会の物価は安くはないのであった。もっとも雨季になると果実はずっと安くなるらしいよ。
インド人街は泊まっていたホテルから歩いて直ぐだったので何度も行きました。歩くのに困難なほど人がいて活気があって面白い。ここにはアラブ系の住民も多く、ダブダブの白衣を着たあごひげの親父さんが「サラマリコム」とか言っている。海産物が多く出ている市場通りもありました。メインの通りは車道を挟んで両側に洋服屋・靴屋・食堂・本屋・両替屋・薬屋・ビルマ風喫茶店等が立ち並ぶ。狭い歩道には屋台がびっしりと出ていて、カレンダー・骨董・雑貨、中には使い古しのリモコンを並べた店、焼鳥屋、焼きそば風屋が立ち並ぶ。人混みをかき分けて歩いていると暗くなってきてより一層人出が増えてきました。
ここで買ったハンバーグは一個数十円でマクドナルトより遙かに遙かにうまかった。水のボトルは350mlで十円のと二十円のとがあります。かと思うと比較的静かな通りもあって、ここにはなかなかセンスの良いオリジナルのレターヘッドを注文出来る店や、ボードを切り抜いて看板や玄関の表札を制作する店が並んでいました。ちょうど年末だったのでミャンマーの景色を写したカレンダーを探したのですが、文字ばかりの物と、アウンサンスーチーさんのカレンダーばかりで見つけるのに苦労した。この国の人々はお釈迦様が一番好きで、その次が彼女らしい。ところで印度人街に小さなヒンドュー寺院があったのでちょっと入ってみました。入り口の印象よりずっと奥行きのある寺院でしたが、バラモンのサイケデリックな神々は刺激が強く、ちょうど何かの儀式をやっていたのか、顔に真っ赤な隈取りをした腰巻き一枚の男が火のついた皿を抱えて歩いてきて、こりゃ「インディー・ジョーンズか」と違和感を覚え退散しました。
ミャンマーの歴史
ミャンマーの歴史の本はたいてい英緬戦争以降の近代からが中心になっていますが、実はそれ以前が面白い。元駐ビルマ大使の山口洋一氏が「歴史物語ミャンマー」(上下巻、カナリア書房)を出していますが、英雄達の友情と裏切り、王妃の陰謀、繰り返される反乱と遠征、象に乗っての一騎打ちと、日本の戦国時代や中国の三国志を読むように面白い。絶版になっているようなのが惜しまれます。
まずは紀元前二世紀頃からイラワジ川(エーヤワディー川)の流域ぞいに謎の民、ピューが南下を始め、先住民のモン族を征服してその都市を次々に朝貢国とする。ピューの南下はやがて海にまで達し、彼らはその後の一千年間、海のシルクロードの中継貿易港として利を稼ぎ繁栄します。
この国の都は「恵まれた平野」を意味するスリケストラと呼ばれ、西暦二~四世紀にその最盛期を迎え、七世紀まで命脈を保ちました。スリケストラは煉瓦で築かれた分厚い城壁と二重の堀に囲まれた、田畑をもその内側に取り込む巨大な城塞都市でした。ピュー王国は古代ギリシャのような都市国家の連合体だったので、時には内紛が起こります。アテナイとスパルタの戦いのようなものだね。その際多くの場合、対立する双方から代表戦士を出して決闘をし、その結果で勝敗を決めました。その際も死に至るまでは戦わず、傷を負って優勢が決したところで止めた。或いは双方の軍隊が対峙したところで、パゴタの建立競争を始め、どちらが早く立派な仏塔を建てるかを争った。
それって理想郷じゃん。現代のミャンマーや日本よりよっぽど良い国だね。ピュー王国はモン族の文化を継承して熱心な仏教徒となり、子供達は七歳から二十歳までの十三年間、出家体験を積んだ。僧院では仏の教えだけでなく一般的な教育を受け、高い教養を身につけました。基本的には農業国家だが金の産出国でもあり、工芸の高い技術を持ち、硬貨を鋳造して流通させていた。海の貿易による利益も得ていた。人々はおしゃれで優雅な暮らしを営み、音楽と舞踏を愛好しました。法律制度は温情的で牢獄は無かった。通常の犯罪者は初犯で鞭打ち三回、再犯では五回だが殺人は死刑に処せられた。またピュー人は現在のミャンマーには無い、遺灰を壺に入れて保存する風習を持っていました。スリケストラの中心にある寺院には白い石で出来た高さ三十mの巨大な大仏が安置されていました。鎌倉の大仏が十一mの高さだから、今に残っていたら素晴らしかったのに。
ここまで書いてきて、ピュー王国の銀貨が欲しくなったな。旧日本軍の軍票ならたくさん売られていたけれど、ピューのコインはあったかな?ほら一枚のコインを握ってこれを使っていた人々の事に思いを馳せる。
ピュー後のビルマの歴史を見る際、三つの民族に注目しなければなりません。モン族、シャン族とビルマ族です。三民族とも熱心な仏教徒ですが、後にビルマ族の第二帝国、タウングー王朝は仏教に帰依していない北方の勇猛な蛮族、モー・シャンの侵略に度々苦しめられています。しかし多数派のシャンはシャム(タイ)族で仏教徒です。彼等は広範囲に住みタイにあるアユタヤやチェンマイはビルマ族と何度も争い、占領されたりもしています。なおビルマ族の勢力が強い時には東のクメール王朝まで一時征服したり、ラオスの王と戦ったりもしますが、その話は割愛。また時代が下り、雲霞の如く押し寄せる清朝の中国軍の侵略を四度に渡って撃退する国土防衛戦もエキサイトするが割愛。
モン族は古代よりミャンマーで最も文化的に進んだ人達で、スリランカに仏教使節団を送ったりしていますが、今では民族的にビルマ族との混血が進んで民族としてのアイデンティティーを失いつつあります。ラオスの山岳地帯に数多く住むあのモン族(すみません。自分には思い入れの深い人達なんです。)とは全く異なる民族なので、ご注意あれ。
さてパガン朝の開祖アノーラタ王は、配下の勇敢な四人の武将を率い、象部隊を起用して抵抗するモン族を海岸まで追いつめます。パガンの地を都に定めたのが西暦1,044年。(日本では1,016年、藤原道長が摂政となり、西洋では1,096年に第一回十字軍が遠征を始めますね。)ここから約二百年後、フビライハンによる蒙古軍の襲来によって滅びるまでパガン朝は十代続き、現存するより遙かに多くのパゴタが建設されました。かつては僧院もたくさん存在していましたが、その多くが木造であったため現存していません。
パガン朝最後の王は、二千頭の象部隊と六万の歩兵でモンゴル軍とシャン族傭兵隊を迎え打ちます。最初は見慣れない古代の戦車、象の大群にたじろいだが、戦慣れしたモンゴル軍は象軍を森林地帯に誘い込み、象に向かって無数の矢を打ち込みます。苦痛に耐えかねた象がパガン朝軍に向かって暴走することによって勝敗は決しました。
パガンのパゴタ群
写真で見るのと実際に行くのとでは大違い。パガンの乾燥した大平原一面に点在する大小様々なパゴタの数は二千を越える。建物はそれぞれが美しく、またたくさん在る様が美しくて中に入れば個性豊かな仏像の数々。モデルは全てお釈迦様なのにバラエティに富んでいる。
パゴタは「釈迦の住む家」であるとされる神聖な場所です。元々は仏塔(ストューパ)を意味し、仏舎利を安置するための施設で、パゴタを建てることはミャンマーでは「人生最大の功徳」とされ、そうすることにより幸福な輪廻転生が得られるとされています。平原に散らばるパゴタは選り取りみどりどこにでも自由に入れますが、お釈迦様の家なので、入り口で靴も靴下も脱いでハダシになってもらいます。最初からゴムゾウリになっていれば楽で、ゾウリが無くなる心配は無用。釈迦の家の玄関で物を盗むようなミャンマー人はいません。近日ミャンマーを訪問したオバマ大統領とクリントン国務長官もハダシでヤンゴンのパゴタを歩いています。間違えやすいのですが、パゴタはお寺ではありません。お坊さんは常駐していないしお墓はない。管理は在家の管財人によってなされています。英国植民地の時代に「帽子を取って敬意を表しているから良いのだ。」とハダシにならない英国人に対して、骨のある管財人が圧力に屈せずに入場を拒否したことが、独立運動の一つのきっかけになりました。
カンボジアのアンコール・ワットとクメール遺跡群、インドネシアのジャワ島にあるボロブドゥール遺跡と並んで仏教三大遺跡の一つであるここ、パガンのパゴタ群が、何故ユネスコの世界遺産になっていないの?以前は軍事政権が実質、鎖国政策を取っていました。一度申請してユネスコから色々な確認と要望を受け、へそを曲げたらしい。最近三ヶ所に分かれたピュー王国(紀元前二世紀~九世紀)の遺跡群がミャンマー初の世界遺産に登録されました。謎だらけのピューの遺跡、なかなかの規模で未だ発掘もほとんど手つかず。内二ヶ所は特に辺鄙な場所にあって魅力的ですね。しかしながら、規模も内容もそれを遙かに凌ぐパガンの仏塔群はどうなの?実はユネスコ自身も登録に大乗り気なのですが、ここは遺跡というよりは熱い信仰の場なんですね。大きなパゴタには引きも切らずに参拝者が訪れ座り込んで祈りを捧げます。花を飾り、ろうそくをともし線香をあげます。パゴタの修復は信者の寄進によって次々に行われ、金箔は日々惜しげもなく貼り足されていきます。仏像の光背にはギラギラの電飾を使っていたりもします。これでは原状保護をポリシーとするユネスコがGOを出しずらい。まあ世界遺産ともなれば観光客はぐんと増えて地元は潤うことでしょうが、民衆とお釈迦様を隔てるような事はいけませんね。お釈迦様には、お線香を焚いて祈りたいものね。
*ローカティイッパン寺院
小さなパゴタだが、内部にはフレスコ画が床から天井まで入り口を除いて三面、仏像を取り囲むようにしてびっしりと描かれている。内容は釈迦の前世物語(本生譚、ジャータカ物語)で、一こまが30x50cmほどの人物の多い、躍動的な図柄であったように思う。中は暗くて電気は点いていません。入り口からとわずかに二階から入る光が全てです。管理人らしいお婆さんがいて懐中電灯を貸してくれるが、撮影は禁止されています。ここは二階もあるから、そこにも画があるとしたら、数百のそれぞれ異なった絵物語があることになるね。明るくしてじっくり見られたらどんなに素晴らしいことだろう。一枚一枚撮影して本にしてくれないかな。他のパゴタ内部のフラスコ画は大てい剥がれていたり、色が薄まってしまっているが、ここのフレスコ画は昨日描かれたように鮮やかなんです。
*マヌーハ寺院
マヌーハはタトュン国(モン族の国)の王の名で、パガン王朝初代のアノーヤター王に攻め滅ぼされて捕虜となり、多数の経典と共に象に乗ってこの地に連行されました。金で作られた足かせをされていたといいます。モン族の方がビルマ族より遙かに文化が洗練されていたこともあってマヌーハの扱いは丁重だったようで、この寺院を建立している。とはいえ囚われの身。内部には三体の座像と一体の寝仏が安置されているが、どれも建物の空間ぎりぎりに作られている。ウソだろっていうくらいに狭苦しく息苦しく、異様な空間だ。生涯故郷に帰れずこの地で亡くなった王の鬱屈した思いをよく表している。ガイドのフクさん(仮名)は、ここに来ると王様の気持ちがしのばれて涙が出る、と言っていました。
*アーナンダ寺院
アーナンダはお釈迦様が入滅するまで付き添った一番弟子ですが、実は釈迦のいとこだってこと知っていました?釈迦はアーナンダに相談して女性の出家を認めました。第一号の尼僧は義理のお母さん(釈迦の生母マヤ夫人の妹)で、後に釈迦の奥さん、息子の一人も出家しています。釈迦はニヒルな夢想家タイプで、実は教団運営なんていう煩わしい事は好きではなかったのではないか、と思われます。教団が大きくなってから、よくフラッと旅に出ています。アーナンダはいつも一緒でした。釈迦が生まれた紀元前五世紀頃の北印度は、ジャイナ教の始祖マハーヴィーラを始め思想家が数多く出ました。時代は少々下るが中国で言えば春秋戦国時代、孔子、老子、韓非子等が一斉に現れた諸子百家のような時代でした。
仏教のサンガ(修行者の集団)の運営は、他の思想集団からの転向者が行っていたようです。育ちがよくて美男、ちょっとすねた所があるシャイな青年。ジェームス・ディーン?育ちはともかく。釈迦が数千年の時を越えてこれほどまでに愛されている理由なんだろうね。これが教団の拡張に邁進する熱血漢だったらどうなんだろう。
話しが最初っからずれてしまいました。アーナンダ寺院、便宜的に寺院と呼んでいますがこれもパゴタ(パヤー)です。女性的な美しい建物です。パゴタはお釈迦様の家、東西南北、四つの門がありそれぞれに仏像が安置されています。これは丘全体を覆うような巨大なパヤーでも高さ三mの極小パヤーでも同じです。ここアーナンダ寺院でも四体の姿形の違う仏像があります。立像で高さ9.5mもある黄金仏です。四体のうち二体は途中で火事と地震によって失われて後世に作られたもの、二体がオリジナルで寺院が建立された時のものです。この仏像は遠くから見ると微笑んでいるように見え、真下から見上げると怒っているように見えます。遠くで参拝する庶民にはやさしく、為政者である王達には厳しく、という事だそうです。門を入ると正面奥に仏像、その後ろに回廊があります。回廊の壁面には小さな仏像が安置されていたり掘られたりしていて、またよくフレスコ画が描かれていますが、残念なことに大ていは剥がれていたり色あせています。大きなパゴタでは二重の回廊があります。
アーナンダ寺院の門の直ぐ外にある菩提樹がまたいいんだな。この木を取り囲むようにお店が出ていて、枝葉が作り出す日影の下でにぎやかに商いをしています。これなら菩提樹も楽しいよね。
*ダヤマンヂー寺院(幽霊寺)
パガン朝は五代目の王の時に悲劇に見舞われます。その王の名はナラテュー。父王は名君の誉れ高く、信仰に厚くて自身マレー半島やスリランカにまで訪れました。その王が病に倒れたとき、長男の王子は父王との折り合いが悪く遠隔地にいました。次男のナラテューは都にいてその知らせを受け、父は危篤と思いこみ宮殿から死に備えてパゴタに移します。息をふき返したその父王から呼び出されたナラテューは、「何故ここに移したのか」と烈火の如く怒る父の剣幕に怖れをなし、布団で顔を覆って夢中で押さえつけ死に至らしめてします。やがて兄が軍勢を引き連れて都に戻ると、謹慎して次の王位を兄にと申し出ますが、あろうことか兄王の即位の式典で毒を盛って殺してしまい、自分が王位に就きます。こうして父と兄を殺したナラテュー王の治世が始まりました。暗い時代の幕開けです。
このダマヤンヂー寺院はピラミッド型をしていて、パガンでも最大級の規模のパゴタですが、その工事をめぐって重税を荷しパガン朝はほころびと衰えを見せ始めます。ナラテュー王は妃として印度の王国の王女を幼いうちから迎え入れ、この少女を深く愛したのですが、王女はナラテューを毛嫌いして言うことを聞きません。ことごとく逆らう王女をナラテューはついに殺してしまいます。
やがて王女を送り出した印度の王国から使節団がやってきます。そしてこの使節、実は剣士たちは王との会談中に隠し持った剣を取り出し、数人で取り囲んで王を斬殺します。復讐を遂げた剣士たちはその場で、王の血に染まった剣を自らに刺し自害します。全員が死んだことにより、両国は戦争にはなりませんでした。
ダマヤンヂー寺院は未完に終わり、この王の後には大規模なパゴタがこの地に作られることはなくなりました。二重の回廊も内側はがれきで埋まり、本当なら四面に安置されているはずの仏像が二面にしかありません。その一つは珍しく二体が並んでいるものですが、これは父と兄の霊を慰めようとしたのでしょうか?
窓際の奥まった所に二階に登る階段がひっそりとありました。上の階は窓が穿っていないのか、階段の上部は真っ暗で小柄な人が身を屈めてやっと通れるほどに狭く、ここを登れと言われたらゾっとします。ここでは幽霊が出るそうです。ナラテュー王の魂がさまよっているのでしょうか?
ブッたまげ、パワースポット、ポッパ山
パガンの南東五十キロ、楽しいドライブを続け車が山道に入った。ちょっと夏の箱根路のような案配に車は標高を稼いでいく。「休憩しましょうか。」ガイドさんの提案で山裾に車を停め、僧院のような建物の横を歩くこと一、二分、突然目に飛び込んできたのは、天空の城ラピュタ!一面緑に覆われた深い谷を挟んで唐突に現れたナッ信仰の聖なる丘タウン・カラッ。その頂上には黄金色の塔を何本か持つ城のような建物。屋根付きの登山道が山肌に巻きついでいる。「うわっすごい、ウソだろ、ウソだろ」を繰り返していたらカミさんから「うるさい、しつこい。実際に見ているんだからウソじゃない。」と怒られた。そりゃそーだ、カアちゃん。ポッパ山の写真はネットで何度も見ていたのに、深い谷のずっと向こうにあるにも関わらず、この圧倒的な迫力は何んなんだ。
タウン・カラッの登山口付近は車が混雑していて大変でした。まずは登る前に薄暗い講堂のような所に入ると、ヒエー、ここは蝋人形館か?数十体妙にリアルな等身大の人物像が派手な衣装をまとってずらりと並んでいる。この人達はナッ神です。ナッは古くからあるミャンマーの土着信仰で、ナッ神は伝説の人物と実在の人物が混在していますが、そのほとんどが非業の死を遂げています。仏教とのつじつまを取る為か、インドラ(帝釈天)をリーダーに加え主なナッ神が三十七人います。まあナッの代表選手ですな。その内インドラと死因不明の一人を除く三十五人の死因を調べてみました。
①処刑(またはそれに準ずる):十人、準ずるとは火あぶりにされた兄弟の火の中に身を投げ出した妃、王の強制レスリングで死んだ兄弟もここに。
②病死(普通死):九人、ハンセン病、マラリア、アヘンの吸いすぎ等。
③苦悩死・ショック死:六人、息子が殺され、母が死に、竜の夫に捨てられ、王位継承権を剥奪され無理矢理坊さんにされ等。
④殺人・暗殺:五人、殺された人のお化けに殺されたウ・ミンチョウもここに入れました。
⑤事故死・戦死:五人、虎にかまれ、蛇にかまれ、鹿と間違われて矢で撃たれ等が入っています。
この三十五人の中に、息子のナラトュー王に殺された、パガン朝第四代のアラウンシトュー王が含まれています。またインワのミンカウン王の息子、ミンイェ・チョイワールは敵味方双方からその勇気を讃えられたビルマ随一の英雄ですが、若くして戦場に散りました。彼とその母の王妃もこの三十五人に入ります。ナッ神は無念を残して死んだ人物の魂を慰める、いわば敗者復活戦なのだ。ここでは神となり厚く敬われ逆転劇を果たす訳です。
さてこの天空回廊、頂上まで737m、777段もあるんだ。途中でへばったら、マラソンと登山で鍛えているカミさんに何を言われるか分からん。大丈夫かいな、と思ったがガイドのフクさんが早々にへたばり、休憩また休憩で助かった。登り道の始めのころは階段沿いにお土産やさんが一杯、途中に門のような所があってそこからはハダシになります。中腹にも色々なナッ神が置かれ拝まれています。我々も当然拝みます。ナッ神だろうがお釈迦様だろうが出てきた順に全て拝んじゃいました。カミさんがブツブツ言っています。『ご利益、ご利益。パワースポット、パワースポット。』
日本猿の半分位の小型の猿軍団がいて、盗みが得意だそうだが、当日は人の方がずっと多いのであまり近寄ってこなかった。途中の階段のあちらこちらで弁当や屋台の麺を食っている家族、グループがいるけれど、こういうのが狙われるんだよね。階段に沿って送水のパイプが通っていて、ポンプで水を頂上へ送っています。してみると感違いをしていた。中世の時、このポッパ山に数回軍隊が立てこもっているが、これはこのタウン・カラッの丘に陣を張ったのでは無く、ポッパ山系(標高1,518m)に駐軍した訳だ。タウン・カラッでは包囲されたら水を断たれるものね。
頂上についた。相変わらずナッ神、お釈迦様もいるが一番人気があって多く祭られているのはボー・ミン・グアンです。この人、なんと実在の人物で写真も残っています。ナッ神ではありません。強面の寅さんみたいな風貌で、酒好きタバコ好き。1938~1952年までポッパ山で瞑想修行をしました。大僧正とかいうけど、何でオールバックの有髪なの?空を飛んだ、とか今でも生きている、とか得体の知れない現代版「役の行者」のような人物で、登山口の脇に三mくらいあるボー・ミン・グアンが座っていて、頂上の建物の中にもお土産やさんの店頭でも、無数のボー・ミン・グアンに会えますよ。タバコを供えるので、すかさず一服二服、これは助かります。
目次
・短い前置き
・ビルマとミャンマー
・長すぎる前置き
ビルマ編
・中国人街とインド人街(ヤンゴン市内)
・ミャンマーの歴史
パガン編
・パガンのパゴタ群
*ローカティイッパン寺院
*マヌーハ寺院
*アーナンダ寺院
*ダヤマンヂー寺院(幽霊寺)
・ブッたまげ、パワースポット、ポッパ山
インレー湖編
・インレー湖のほとり
・ファウンドーウー・パヤー
・インディン遺跡
・カックー遺跡
ヤンゴン編
・シュエダゴオン・パヤーは仏陀パーク
・ヤンゴン川向こう
・仕舞いいに一言、三言
短い前置き
なんでかな?いつもは旅行記を書く作業は楽しいものなのに、今回に限っては苦痛だ。写真の整理は楽しかったが終わってしまった。文章は楽しくない。色彩の国からモノトーンの世界に戻ったからだろうか?
言ってみれば不思議の国から自宅に戻ったアリス、捕らわれて水族館のプールに入れられたイルカのようなものなのだろうか?不思議の国のことを話してもアリスは変な子扱いをされるだけ。水族館のイルカは危険に満ちた夢と冒険の大海に戻れるあてが無いのなら、無機質なプールの中で飢えの無い事だけを幸せに思って暮らしていくしかないものね。あと美味しいものは一人占め、の精神かな。
ビルマとミャンマー
同じ意味です。ビルマは口語、ミャンマーは文語(丁寧な言い方)と言われています。軍事政権下では、軍事政府側がミャンマー、民主勢力がビルマを使い、それぞれに政治的な意味を主張していましたが、一応民主化した現在、どちらでも良いのだ。
長すぎる前置き
日本の女の子はもっとおしゃれなのかと思っていた。正月2日の早朝にミャンマーから帰国して、朝の横浜駅をトランクをガラゴロ転がし下向き加減で歩いていたら、目に入るのはモノトーンの人の群れ。動きが早く無表情に見える。着ている物に色がない。あの行列は福袋だな。寒い。
思えばビルマは色にあふれていた。丘の上に立つ黄金色に輝く仏塔。草木の瑞々しい緑、女性達のカラフルな巻きスカート。露天や市場に山積みにされた野菜、果実、花々そして立派な古木。人々は街にあふれ出て買い物をし、パゴタに集まって祈り瞑想をし、またおしゃべりを楽しみ昼寝をする。パゴタの中でも市場の中でも、とにかく良く食べること。いつでもどこでもビルマ人がしゃがんで飯を食っている。旅の間中、飯を食うビルマ人、お祈りをするビルマ人に会ってきた。彼らは子供の時に家族でパゴタに行って過ごした時間が、とても愛おしくて楽しい思い出になっているそうだ。
実はビルマに行くチャンスは三十年以上前にあったんだ。当時タイとカンボジアの国境で井戸掘りのボランティアをしていた自分は、タイ国のVISA更新の為に一度出国しなければならず、手持ちの金が残り少なかったので、陸路マレーシアのペナンに行った。その時の旅がまた実に味わい深いものだったんだが、それは別のお話し。大ていの人は陸路で安く行けるペナンに行ってタイのVISAを新しく三ヶ月分取ってくるのだが、少数の人はビルマに行き、ビルマは本当に面白い、こんな事があった、と旅のエピソードを聞かせてくれたものでした。三十数年前のタイとカンボジアの国境の街で、民家を借りて貧乏労働者の暮らしを日々過ごしていた我々から見ても、ビルマはびっくりするような不思議な国だったんだ。
その後仕事で三十数カ国を廻ったが、自分にとって最も気になる所はアンコール・ワットでビルマは二番目以降だった。けれどもここ五年の間にカンボジアのクメール遺跡群には二回行き、まだまだカンボジアの遺跡は広くて行き足りないしその魅力は尽きないものの、一応の満足は得ることが出来た。次はビルマだ、頃もよし。一応の民主化を果たし内戦も沈静化している。近年観光客が行ける場所が大幅に増えてきたし、悪名高い空港での強制両替も無くなった。西側の資本は今は調査段階だが、近々なだれを打ってこの国に入り込むことだろう。
現在は圧倒的にシンガポールからの投資が多く、韓国、タイ、英国と続き日本は六番目で金額は知れたものだ。今はマクドナルドもセブンイレブンも無いが、出来るのは時間の問題だね。コカ・コーラの工場が出来るらしい。自分がバンコクや台北で見てきた、街が急激に変わっていく様子をまた一から見たくはないな。屋台がファストフードになり、雑貨屋がスーパーやコンビニになったって、自分にとっては面白くも何ともない。早く、今のうちに行かなくては。夢見る少女がすれっからしのおばさんになっちまう前に。
中国人街とインド人街(ヤンゴン市内)
今回ANAの直行便を使ったので、成田発が11:45、ヤンゴン着が現地時間の17:15でした。金ぴかにライトアップされたシュエダゴオン・パヤー(パゴタ)の巨大さにブッたまげている内にホテルに到着。チェックインしたら腹減った、まだ早いよね、でチャイナタウンへ食事に行きました。
地図で見ると歩いて行けない事もないかな、と思ったがヤンゴンは意外に大きな街でした。この国のTaxiは使いやすいです。運ちゃんはすれていないから、1,500チャット(約150円)のところをせいぜい2,500とか、かわいいものです。よその国では、大きな荷物を持つ外国人を見つけたら、平気で十倍位はふっかけてくるぜ。
夜の中華街は通りが全て屋台街になっていた。身長178cmの自分から見ると皆さん小柄な人が多くて、北朝鮮に行ったアントニオ猪木になったようだ。男性は(女性も)ほとんどの人が巻きスカートのようなロンジー(女性用はタメイ)を着けています。果実も色々売っていて、あ、イチゴもあるね。外国人だからといってジロジロ見られるようなことは無く、十二月の末でそれほど暑くはない。バーベキュー屋らしき店に入り、くしに刺した野菜や肉、魚貝類をたんまりカゴに取って店の小僧に渡し、通りに面した席のプラスチックのイスに座ってミャンマービールを飲んだ。ウマい。このビールはいいね。バーベQはなかなか来なかったので、南京豆の蒸したのとか、コーンのバターいため風とかのつまみを通りかかった売り子を呼び止めて買い、つまみとした。たれがからかったので、カミさんはあんまり食べられなかったようだが、自分はうまかった。ただビール代込みで全部で六百円ほどかかり、あれ?っと思った。果物も思ったほどは安くない。聞いても値段は分からないから、二千チャット(約二百円)を渡したくさん来すぎたらどうしよう、と思っていると二個だったりする。はぐらかされた。ぼられている訳ではなく、自分の予想ほどは都会の物価は安くはないのであった。もっとも雨季になると果実はずっと安くなるらしいよ。
インド人街は泊まっていたホテルから歩いて直ぐだったので何度も行きました。歩くのに困難なほど人がいて活気があって面白い。ここにはアラブ系の住民も多く、ダブダブの白衣を着たあごひげの親父さんが「サラマリコム」とか言っている。海産物が多く出ている市場通りもありました。メインの通りは車道を挟んで両側に洋服屋・靴屋・食堂・本屋・両替屋・薬屋・ビルマ風喫茶店等が立ち並ぶ。狭い歩道には屋台がびっしりと出ていて、カレンダー・骨董・雑貨、中には使い古しのリモコンを並べた店、焼鳥屋、焼きそば風屋が立ち並ぶ。人混みをかき分けて歩いていると暗くなってきてより一層人出が増えてきました。
ここで買ったハンバーグは一個数十円でマクドナルトより遙かに遙かにうまかった。水のボトルは350mlで十円のと二十円のとがあります。かと思うと比較的静かな通りもあって、ここにはなかなかセンスの良いオリジナルのレターヘッドを注文出来る店や、ボードを切り抜いて看板や玄関の表札を制作する店が並んでいました。ちょうど年末だったのでミャンマーの景色を写したカレンダーを探したのですが、文字ばかりの物と、アウンサンスーチーさんのカレンダーばかりで見つけるのに苦労した。この国の人々はお釈迦様が一番好きで、その次が彼女らしい。ところで印度人街に小さなヒンドュー寺院があったのでちょっと入ってみました。入り口の印象よりずっと奥行きのある寺院でしたが、バラモンのサイケデリックな神々は刺激が強く、ちょうど何かの儀式をやっていたのか、顔に真っ赤な隈取りをした腰巻き一枚の男が火のついた皿を抱えて歩いてきて、こりゃ「インディー・ジョーンズか」と違和感を覚え退散しました。
ミャンマーの歴史
ミャンマーの歴史の本はたいてい英緬戦争以降の近代からが中心になっていますが、実はそれ以前が面白い。元駐ビルマ大使の山口洋一氏が「歴史物語ミャンマー」(上下巻、カナリア書房)を出していますが、英雄達の友情と裏切り、王妃の陰謀、繰り返される反乱と遠征、象に乗っての一騎打ちと、日本の戦国時代や中国の三国志を読むように面白い。絶版になっているようなのが惜しまれます。
まずは紀元前二世紀頃からイラワジ川(エーヤワディー川)の流域ぞいに謎の民、ピューが南下を始め、先住民のモン族を征服してその都市を次々に朝貢国とする。ピューの南下はやがて海にまで達し、彼らはその後の一千年間、海のシルクロードの中継貿易港として利を稼ぎ繁栄します。
この国の都は「恵まれた平野」を意味するスリケストラと呼ばれ、西暦二~四世紀にその最盛期を迎え、七世紀まで命脈を保ちました。スリケストラは煉瓦で築かれた分厚い城壁と二重の堀に囲まれた、田畑をもその内側に取り込む巨大な城塞都市でした。ピュー王国は古代ギリシャのような都市国家の連合体だったので、時には内紛が起こります。アテナイとスパルタの戦いのようなものだね。その際多くの場合、対立する双方から代表戦士を出して決闘をし、その結果で勝敗を決めました。その際も死に至るまでは戦わず、傷を負って優勢が決したところで止めた。或いは双方の軍隊が対峙したところで、パゴタの建立競争を始め、どちらが早く立派な仏塔を建てるかを争った。
それって理想郷じゃん。現代のミャンマーや日本よりよっぽど良い国だね。ピュー王国はモン族の文化を継承して熱心な仏教徒となり、子供達は七歳から二十歳までの十三年間、出家体験を積んだ。僧院では仏の教えだけでなく一般的な教育を受け、高い教養を身につけました。基本的には農業国家だが金の産出国でもあり、工芸の高い技術を持ち、硬貨を鋳造して流通させていた。海の貿易による利益も得ていた。人々はおしゃれで優雅な暮らしを営み、音楽と舞踏を愛好しました。法律制度は温情的で牢獄は無かった。通常の犯罪者は初犯で鞭打ち三回、再犯では五回だが殺人は死刑に処せられた。またピュー人は現在のミャンマーには無い、遺灰を壺に入れて保存する風習を持っていました。スリケストラの中心にある寺院には白い石で出来た高さ三十mの巨大な大仏が安置されていました。鎌倉の大仏が十一mの高さだから、今に残っていたら素晴らしかったのに。
ここまで書いてきて、ピュー王国の銀貨が欲しくなったな。旧日本軍の軍票ならたくさん売られていたけれど、ピューのコインはあったかな?ほら一枚のコインを握ってこれを使っていた人々の事に思いを馳せる。
ピュー後のビルマの歴史を見る際、三つの民族に注目しなければなりません。モン族、シャン族とビルマ族です。三民族とも熱心な仏教徒ですが、後にビルマ族の第二帝国、タウングー王朝は仏教に帰依していない北方の勇猛な蛮族、モー・シャンの侵略に度々苦しめられています。しかし多数派のシャンはシャム(タイ)族で仏教徒です。彼等は広範囲に住みタイにあるアユタヤやチェンマイはビルマ族と何度も争い、占領されたりもしています。なおビルマ族の勢力が強い時には東のクメール王朝まで一時征服したり、ラオスの王と戦ったりもしますが、その話は割愛。また時代が下り、雲霞の如く押し寄せる清朝の中国軍の侵略を四度に渡って撃退する国土防衛戦もエキサイトするが割愛。
モン族は古代よりミャンマーで最も文化的に進んだ人達で、スリランカに仏教使節団を送ったりしていますが、今では民族的にビルマ族との混血が進んで民族としてのアイデンティティーを失いつつあります。ラオスの山岳地帯に数多く住むあのモン族(すみません。自分には思い入れの深い人達なんです。)とは全く異なる民族なので、ご注意あれ。
さてパガン朝の開祖アノーラタ王は、配下の勇敢な四人の武将を率い、象部隊を起用して抵抗するモン族を海岸まで追いつめます。パガンの地を都に定めたのが西暦1,044年。(日本では1,016年、藤原道長が摂政となり、西洋では1,096年に第一回十字軍が遠征を始めますね。)ここから約二百年後、フビライハンによる蒙古軍の襲来によって滅びるまでパガン朝は十代続き、現存するより遙かに多くのパゴタが建設されました。かつては僧院もたくさん存在していましたが、その多くが木造であったため現存していません。
パガン朝最後の王は、二千頭の象部隊と六万の歩兵でモンゴル軍とシャン族傭兵隊を迎え打ちます。最初は見慣れない古代の戦車、象の大群にたじろいだが、戦慣れしたモンゴル軍は象軍を森林地帯に誘い込み、象に向かって無数の矢を打ち込みます。苦痛に耐えかねた象がパガン朝軍に向かって暴走することによって勝敗は決しました。
パガンのパゴタ群
写真で見るのと実際に行くのとでは大違い。パガンの乾燥した大平原一面に点在する大小様々なパゴタの数は二千を越える。建物はそれぞれが美しく、またたくさん在る様が美しくて中に入れば個性豊かな仏像の数々。モデルは全てお釈迦様なのにバラエティに富んでいる。
パゴタは「釈迦の住む家」であるとされる神聖な場所です。元々は仏塔(ストューパ)を意味し、仏舎利を安置するための施設で、パゴタを建てることはミャンマーでは「人生最大の功徳」とされ、そうすることにより幸福な輪廻転生が得られるとされています。平原に散らばるパゴタは選り取りみどりどこにでも自由に入れますが、お釈迦様の家なので、入り口で靴も靴下も脱いでハダシになってもらいます。最初からゴムゾウリになっていれば楽で、ゾウリが無くなる心配は無用。釈迦の家の玄関で物を盗むようなミャンマー人はいません。近日ミャンマーを訪問したオバマ大統領とクリントン国務長官もハダシでヤンゴンのパゴタを歩いています。間違えやすいのですが、パゴタはお寺ではありません。お坊さんは常駐していないしお墓はない。管理は在家の管財人によってなされています。英国植民地の時代に「帽子を取って敬意を表しているから良いのだ。」とハダシにならない英国人に対して、骨のある管財人が圧力に屈せずに入場を拒否したことが、独立運動の一つのきっかけになりました。
カンボジアのアンコール・ワットとクメール遺跡群、インドネシアのジャワ島にあるボロブドゥール遺跡と並んで仏教三大遺跡の一つであるここ、パガンのパゴタ群が、何故ユネスコの世界遺産になっていないの?以前は軍事政権が実質、鎖国政策を取っていました。一度申請してユネスコから色々な確認と要望を受け、へそを曲げたらしい。最近三ヶ所に分かれたピュー王国(紀元前二世紀~九世紀)の遺跡群がミャンマー初の世界遺産に登録されました。謎だらけのピューの遺跡、なかなかの規模で未だ発掘もほとんど手つかず。内二ヶ所は特に辺鄙な場所にあって魅力的ですね。しかしながら、規模も内容もそれを遙かに凌ぐパガンの仏塔群はどうなの?実はユネスコ自身も登録に大乗り気なのですが、ここは遺跡というよりは熱い信仰の場なんですね。大きなパゴタには引きも切らずに参拝者が訪れ座り込んで祈りを捧げます。花を飾り、ろうそくをともし線香をあげます。パゴタの修復は信者の寄進によって次々に行われ、金箔は日々惜しげもなく貼り足されていきます。仏像の光背にはギラギラの電飾を使っていたりもします。これでは原状保護をポリシーとするユネスコがGOを出しずらい。まあ世界遺産ともなれば観光客はぐんと増えて地元は潤うことでしょうが、民衆とお釈迦様を隔てるような事はいけませんね。お釈迦様には、お線香を焚いて祈りたいものね。
*ローカティイッパン寺院
小さなパゴタだが、内部にはフレスコ画が床から天井まで入り口を除いて三面、仏像を取り囲むようにしてびっしりと描かれている。内容は釈迦の前世物語(本生譚、ジャータカ物語)で、一こまが30x50cmほどの人物の多い、躍動的な図柄であったように思う。中は暗くて電気は点いていません。入り口からとわずかに二階から入る光が全てです。管理人らしいお婆さんがいて懐中電灯を貸してくれるが、撮影は禁止されています。ここは二階もあるから、そこにも画があるとしたら、数百のそれぞれ異なった絵物語があることになるね。明るくしてじっくり見られたらどんなに素晴らしいことだろう。一枚一枚撮影して本にしてくれないかな。他のパゴタ内部のフラスコ画は大てい剥がれていたり、色が薄まってしまっているが、ここのフレスコ画は昨日描かれたように鮮やかなんです。
*マヌーハ寺院
マヌーハはタトュン国(モン族の国)の王の名で、パガン王朝初代のアノーヤター王に攻め滅ぼされて捕虜となり、多数の経典と共に象に乗ってこの地に連行されました。金で作られた足かせをされていたといいます。モン族の方がビルマ族より遙かに文化が洗練されていたこともあってマヌーハの扱いは丁重だったようで、この寺院を建立している。とはいえ囚われの身。内部には三体の座像と一体の寝仏が安置されているが、どれも建物の空間ぎりぎりに作られている。ウソだろっていうくらいに狭苦しく息苦しく、異様な空間だ。生涯故郷に帰れずこの地で亡くなった王の鬱屈した思いをよく表している。ガイドのフクさん(仮名)は、ここに来ると王様の気持ちがしのばれて涙が出る、と言っていました。
*アーナンダ寺院
アーナンダはお釈迦様が入滅するまで付き添った一番弟子ですが、実は釈迦のいとこだってこと知っていました?釈迦はアーナンダに相談して女性の出家を認めました。第一号の尼僧は義理のお母さん(釈迦の生母マヤ夫人の妹)で、後に釈迦の奥さん、息子の一人も出家しています。釈迦はニヒルな夢想家タイプで、実は教団運営なんていう煩わしい事は好きではなかったのではないか、と思われます。教団が大きくなってから、よくフラッと旅に出ています。アーナンダはいつも一緒でした。釈迦が生まれた紀元前五世紀頃の北印度は、ジャイナ教の始祖マハーヴィーラを始め思想家が数多く出ました。時代は少々下るが中国で言えば春秋戦国時代、孔子、老子、韓非子等が一斉に現れた諸子百家のような時代でした。
仏教のサンガ(修行者の集団)の運営は、他の思想集団からの転向者が行っていたようです。育ちがよくて美男、ちょっとすねた所があるシャイな青年。ジェームス・ディーン?育ちはともかく。釈迦が数千年の時を越えてこれほどまでに愛されている理由なんだろうね。これが教団の拡張に邁進する熱血漢だったらどうなんだろう。
話しが最初っからずれてしまいました。アーナンダ寺院、便宜的に寺院と呼んでいますがこれもパゴタ(パヤー)です。女性的な美しい建物です。パゴタはお釈迦様の家、東西南北、四つの門がありそれぞれに仏像が安置されています。これは丘全体を覆うような巨大なパヤーでも高さ三mの極小パヤーでも同じです。ここアーナンダ寺院でも四体の姿形の違う仏像があります。立像で高さ9.5mもある黄金仏です。四体のうち二体は途中で火事と地震によって失われて後世に作られたもの、二体がオリジナルで寺院が建立された時のものです。この仏像は遠くから見ると微笑んでいるように見え、真下から見上げると怒っているように見えます。遠くで参拝する庶民にはやさしく、為政者である王達には厳しく、という事だそうです。門を入ると正面奥に仏像、その後ろに回廊があります。回廊の壁面には小さな仏像が安置されていたり掘られたりしていて、またよくフレスコ画が描かれていますが、残念なことに大ていは剥がれていたり色あせています。大きなパゴタでは二重の回廊があります。
アーナンダ寺院の門の直ぐ外にある菩提樹がまたいいんだな。この木を取り囲むようにお店が出ていて、枝葉が作り出す日影の下でにぎやかに商いをしています。これなら菩提樹も楽しいよね。
*ダヤマンヂー寺院(幽霊寺)
パガン朝は五代目の王の時に悲劇に見舞われます。その王の名はナラテュー。父王は名君の誉れ高く、信仰に厚くて自身マレー半島やスリランカにまで訪れました。その王が病に倒れたとき、長男の王子は父王との折り合いが悪く遠隔地にいました。次男のナラテューは都にいてその知らせを受け、父は危篤と思いこみ宮殿から死に備えてパゴタに移します。息をふき返したその父王から呼び出されたナラテューは、「何故ここに移したのか」と烈火の如く怒る父の剣幕に怖れをなし、布団で顔を覆って夢中で押さえつけ死に至らしめてします。やがて兄が軍勢を引き連れて都に戻ると、謹慎して次の王位を兄にと申し出ますが、あろうことか兄王の即位の式典で毒を盛って殺してしまい、自分が王位に就きます。こうして父と兄を殺したナラテュー王の治世が始まりました。暗い時代の幕開けです。
このダマヤンヂー寺院はピラミッド型をしていて、パガンでも最大級の規模のパゴタですが、その工事をめぐって重税を荷しパガン朝はほころびと衰えを見せ始めます。ナラテュー王は妃として印度の王国の王女を幼いうちから迎え入れ、この少女を深く愛したのですが、王女はナラテューを毛嫌いして言うことを聞きません。ことごとく逆らう王女をナラテューはついに殺してしまいます。
やがて王女を送り出した印度の王国から使節団がやってきます。そしてこの使節、実は剣士たちは王との会談中に隠し持った剣を取り出し、数人で取り囲んで王を斬殺します。復讐を遂げた剣士たちはその場で、王の血に染まった剣を自らに刺し自害します。全員が死んだことにより、両国は戦争にはなりませんでした。
ダマヤンヂー寺院は未完に終わり、この王の後には大規模なパゴタがこの地に作られることはなくなりました。二重の回廊も内側はがれきで埋まり、本当なら四面に安置されているはずの仏像が二面にしかありません。その一つは珍しく二体が並んでいるものですが、これは父と兄の霊を慰めようとしたのでしょうか?
窓際の奥まった所に二階に登る階段がひっそりとありました。上の階は窓が穿っていないのか、階段の上部は真っ暗で小柄な人が身を屈めてやっと通れるほどに狭く、ここを登れと言われたらゾっとします。ここでは幽霊が出るそうです。ナラテュー王の魂がさまよっているのでしょうか?
ブッたまげ、パワースポット、ポッパ山
パガンの南東五十キロ、楽しいドライブを続け車が山道に入った。ちょっと夏の箱根路のような案配に車は標高を稼いでいく。「休憩しましょうか。」ガイドさんの提案で山裾に車を停め、僧院のような建物の横を歩くこと一、二分、突然目に飛び込んできたのは、天空の城ラピュタ!一面緑に覆われた深い谷を挟んで唐突に現れたナッ信仰の聖なる丘タウン・カラッ。その頂上には黄金色の塔を何本か持つ城のような建物。屋根付きの登山道が山肌に巻きついでいる。「うわっすごい、ウソだろ、ウソだろ」を繰り返していたらカミさんから「うるさい、しつこい。実際に見ているんだからウソじゃない。」と怒られた。そりゃそーだ、カアちゃん。ポッパ山の写真はネットで何度も見ていたのに、深い谷のずっと向こうにあるにも関わらず、この圧倒的な迫力は何んなんだ。
タウン・カラッの登山口付近は車が混雑していて大変でした。まずは登る前に薄暗い講堂のような所に入ると、ヒエー、ここは蝋人形館か?数十体妙にリアルな等身大の人物像が派手な衣装をまとってずらりと並んでいる。この人達はナッ神です。ナッは古くからあるミャンマーの土着信仰で、ナッ神は伝説の人物と実在の人物が混在していますが、そのほとんどが非業の死を遂げています。仏教とのつじつまを取る為か、インドラ(帝釈天)をリーダーに加え主なナッ神が三十七人います。まあナッの代表選手ですな。その内インドラと死因不明の一人を除く三十五人の死因を調べてみました。
①処刑(またはそれに準ずる):十人、準ずるとは火あぶりにされた兄弟の火の中に身を投げ出した妃、王の強制レスリングで死んだ兄弟もここに。
②病死(普通死):九人、ハンセン病、マラリア、アヘンの吸いすぎ等。
③苦悩死・ショック死:六人、息子が殺され、母が死に、竜の夫に捨てられ、王位継承権を剥奪され無理矢理坊さんにされ等。
④殺人・暗殺:五人、殺された人のお化けに殺されたウ・ミンチョウもここに入れました。
⑤事故死・戦死:五人、虎にかまれ、蛇にかまれ、鹿と間違われて矢で撃たれ等が入っています。
この三十五人の中に、息子のナラトュー王に殺された、パガン朝第四代のアラウンシトュー王が含まれています。またインワのミンカウン王の息子、ミンイェ・チョイワールは敵味方双方からその勇気を讃えられたビルマ随一の英雄ですが、若くして戦場に散りました。彼とその母の王妃もこの三十五人に入ります。ナッ神は無念を残して死んだ人物の魂を慰める、いわば敗者復活戦なのだ。ここでは神となり厚く敬われ逆転劇を果たす訳です。
さてこの天空回廊、頂上まで737m、777段もあるんだ。途中でへばったら、マラソンと登山で鍛えているカミさんに何を言われるか分からん。大丈夫かいな、と思ったがガイドのフクさんが早々にへたばり、休憩また休憩で助かった。登り道の始めのころは階段沿いにお土産やさんが一杯、途中に門のような所があってそこからはハダシになります。中腹にも色々なナッ神が置かれ拝まれています。我々も当然拝みます。ナッ神だろうがお釈迦様だろうが出てきた順に全て拝んじゃいました。カミさんがブツブツ言っています。『ご利益、ご利益。パワースポット、パワースポット。』
日本猿の半分位の小型の猿軍団がいて、盗みが得意だそうだが、当日は人の方がずっと多いのであまり近寄ってこなかった。途中の階段のあちらこちらで弁当や屋台の麺を食っている家族、グループがいるけれど、こういうのが狙われるんだよね。階段に沿って送水のパイプが通っていて、ポンプで水を頂上へ送っています。してみると感違いをしていた。中世の時、このポッパ山に数回軍隊が立てこもっているが、これはこのタウン・カラッの丘に陣を張ったのでは無く、ポッパ山系(標高1,518m)に駐軍した訳だ。タウン・カラッでは包囲されたら水を断たれるものね。
頂上についた。相変わらずナッ神、お釈迦様もいるが一番人気があって多く祭られているのはボー・ミン・グアンです。この人、なんと実在の人物で写真も残っています。ナッ神ではありません。強面の寅さんみたいな風貌で、酒好きタバコ好き。1938~1952年までポッパ山で瞑想修行をしました。大僧正とかいうけど、何でオールバックの有髪なの?空を飛んだ、とか今でも生きている、とか得体の知れない現代版「役の行者」のような人物で、登山口の脇に三mくらいあるボー・ミン・グアンが座っていて、頂上の建物の中にもお土産やさんの店頭でも、無数のボー・ミン・グアンに会えますよ。タバコを供えるので、すかさず一服二服、これは助かります。
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