マンサ・ムーサ王の巡礼
マンサ・ムーサは中央アフリカ、マリ王国の9代目の王で、1324年にど派手なメッカ巡礼を行い、周辺国のどきもを抜いた。どうもアフリカ、特にサハラ以南のアフリカは、19世紀にヨーロッパ列強の植民地となり文明の遅れた未開の地、暗黒大陸などという負のイメージが残っている。しかし歴史を見ると全然そんな事はなかった。
最古の黒人国家(クシュ王国)は、B.C.10世紀にナイル上流の東スーダンで誕生し、エジプトから製鉄技術を導入してB.C.8世紀には一時期エジプトを支配下に置いた。クシュ王国に代わって紀元前後より勢力を伸ばしたアクスム王国は、3~6世紀に黄金期を迎え、インド洋の交易によって栄えた。4世紀前半にキリスト教を受容し、その後衰退したがエチオピア帝国として、今日近くまで存続していた。
中スーダンでは8世紀ごろからチャド湖周辺でカネム王国が、サハラを縦断する奴隷貿易で栄え、11世紀にはイスラム化が促進した。14世紀の内紛で興ったボルヌー王国と共に16世紀後半に最盛期を迎えた。
西スーダンでは7世紀頃、セナガル川の上流域とニジェール川の上流域に跨る黒人王国が誕生した。ガーナ王国である。この王国は、〝ニンジンのように生えている〟と例えられた金を、ムスリム商人がもたらすサハナ砂漠産の岩塩と交換することによって繁栄し、イスラム化が促進した。しかしモロッコのベルベル人の侵入を受け、ガーナ王国は衰退していった。
ガーナ王国の都を陥落させたのは、ソソ族のスマングルという暴君だが、支配下のマンディンゴ族からスンジャータという人物が現れ、ついにスマングルを倒し、ニジェール川上流のニアナ(ニアニ)に都を定めた。このスンジャータがマリ王国初代の王である。マリ王国はガーナ王国の富の源である金の産出・交易を継承し、ニジュール川近くの交易都市トンブクトゥやジェンネは商業が活発になった。
ちなみに〝スーダン〟とはサハラ砂漠以南の地域名で、またスーダンは〝黒色の人〟という意味も持つ。現代の国名、スーダン共和国、ガーナ、マリ共和国は、過去の栄光にあやかろうとして命名したもので、過去の王国とは直接の関連はない。マリ王国はムスリム商人との交易を通じて、イスラム教を受容し14世紀に全盛期を迎えた。中でもマンサ・ムーサ王(カンカン・ムーサ)の時代に王国の版図が最も拡大し、黄金期を現出した。
なおムーサ王の死後、衰退し始めたマリ王国を滅ぼすのがソンガイ王国である。ソンガイ王国の時代、トンブクトゥはスーダンのイスラム文化の中心都市となり、大学が創設され稲作が試みられた。もっとも大学を最初に創設したのはマンサ・ムーサである。そのマンサ・ムーサの黄金ずくめのメッカ巡礼に出発する前に、マリ王国の先代王の旅について話しをしよう。
マンサ・ムーサの先代の王は、ムーサの従兄弟又は叔父さんに当たる人物で、旅に出て帰らなかった。その不在の間、摂政をしていたムーサが自動的に王位に就いた。マンサ・ムーサ自身が巡礼に行った際は、彼の息子が摂政となった。さて先代の王だが、大地の周りを取り囲む大洋の果てを見てみたいと思い、実際に旅だった。まずは200艘の舟いっぱいに人を乗り込ませ、それとは別に黄金と水と物資を数年分は保つほどどっさりと積み込んだ船団を用意した。船団の提督には、大洋の果てにたどり着くか水と食糧が尽きるまで戻ってくるなと命じた。そうして先遣隊は出発したが、いつまで経っても戻ってこない。
数か月が過ぎて、やっと一艘だけ戻ってきた。その舟の頭はこう答えた。「陛下、私どもはずっと航海を続けた末に、大海の中ほどを巨大な川が流れているところに出くわしました。私どもに舟はしんがりにいましたが、前にいた舟は全て大渦巻に飲み込まれてしまい、二度と浮かび上がってはきませんでした。私はこの流れから逃れて引き返したのでございます。」
しかし王はこの船頭の言葉に信を置かず、或いは自らその光景を見たかったのか、今度は2,000艘の舟いっぱいに人を乗せ、自身も乗り込んだ。水と物資、黄金は1,000艘の舟に積み、不在の間の統治をマンサ・ムーサに託して旅だった。その後何年も経つが、一艘の舟も戻ってはこない。
何とも気宇壮大な話だ。だがマンサ・ムーサの巡礼もただ事ではない。マリ王国やマンサ・ムーサの事績を伝えるのは、アラビア人やベルベル人の著述家が記録した文献による。中にはマリ王国に35年も住んだ人物もいるし、中国・元朝を訪問した有名な旅行者イブン・バトューダもマリ王国を訪れた。彼の著作、『三大陸周遊記』の中にマリのことが詳しく記されている。そこにはこう書かれている。「彼らの国は全く安全である。---住民たちはもてなしが良く、正義感が強い。」
他に「グリオ」と呼ばれる、民族の歴史や過去の王たちの事績を相伝で伝える、吟遊詩人による口頭伝承も残っている。しかし口頭伝承がマンサ・ムーサに言及することはまれで、詳細な事績はここからは良く分からない。マンサ・ムーサが王国の富を浪費し、マンデの伝統から逸脱した人物だと、否定的に捉えられていたためだ。
アル・マクリーズィーは、マンサ・ムーサの外見について次のように書き残している。「彼は褐色の肌をした青年で、好感の持てる顔立ちをし、(中略)体格も立派であった。」
さあ1324年、マンサ・ムーサはメッカ巡礼の旅に出る。マンサ・ムーサは全ての交易都市と地方から特別な寄付を徴収し、家臣6万人と奴隷1万2千人以上を引き連れて首都ニアニを出発した。隊列の先頭がトンブクトゥに着いた時、王はまだ宮廷にいた。この巡礼は、マリ王国の威信をかけた国家事業だ。マンサ・ムーサは偉大な大王であったが、周辺部族や北の遊牧民は虎視眈々とマリの金鉱山を狙っていた。マンサ・ムーサも帰路に交易都市ガオで起きた反乱を鎮圧している。さて12,000人の奴隷にはそれぞれ4ポンド(約1.8キロ)の重さの金の延べ棒を持ち、家臣たちは絹の服を着て黄金の杖を持ち、無数の馬や駱駝に旅荷を乗せた隊商を連れていた。100頭の駱駝に300ポンド(約136キロ)の金塊が積まれていたと云う。
ざっとみて35.6トンの金を持参したことになる。当時のマリ王国では年間11トンの金を採掘していた。日本最大の佐渡金山では、最盛期に400kgs/年の採掘量だから、マリの金山は破格の採掘量であることが分かる。35.6トンの金、1g4,700円(現在のレート)として約17兆円か。ビル・ゲイツの総資産9兆円(これも凄い)の二倍、国家予算でいうと17位の韓国(歳入約22兆、歳出約21兆)より若干少なく、スイス、オーストリア、トルコ、デンマーク辺りに相当する。これが旅の予算だ。
黄金づくめの隊商は9ヶ月かかってサハラ砂漠を横切り、エジプトのカイロに到着した。日中は50℃、夜は0℃前後にまで下がる厳しい砂漠の旅だ。何人もの従者や馬が途中で倒れ、砂に埋もれていった。マンサ・ムーサは旅路で立ち寄ったオアシス都市では、貧者に金を惜しげも無く喜捨し、モスクを建造する資金を長に渡した。そしてメッカ巡礼を終え、帰路カイロに3ヶ月滞在している。このカイロでの買い物はとてつもない金額にのぼり、ムーサ王がショッピングで落とした10トンもの金の為、エジプトの金の価格が2割下落し、その後10年を超えるインフレを引き起こした。
当時のマリの都市群では都市文明の萌芽が見られ、人口密度が高まった。マリ王国全体で4-5千万人、首都ニアニには10万人の住人がいた。特に交易都市トンブクトゥは、交易・文化・イスラームの中心となった。巡礼からの帰国後、ムーサはトンブクトゥに大学を創設し(サンコーレ大学)、イスラーム法学者、天文学者、占星術師等を招き、一大文化都市に発展させた。サンコーレ大学では最盛期25,000人の学生を抱えていた。
またカイロやメッカに、西アフリカからの巡礼者や旅人が泊まれる宿泊所や、外交使節が滞在できる大使館を建設した。またエジプトから著名な建築家を招き、数多くのモスクやマドラサを建設した。世界遺産、トンブクトゥのジンガレー・ベルやサンコーレ・マドラサはムーサが建設させたものである。また首都ニアニの王宮は、漆喰で塗装され石のタイルで覆われた建物で、色とりどりのアラベスクで装飾されたドームがあり、上の階の窓は銀、下の窓は金で装飾された広大な建築物だったという。しかし練り土に藁を混ぜた材料のため、王宮は長年の雨の作用で元の土塊に戻り、19世紀にヨーロッパ人が来た時には跡形もなく消滅していた。
マンサ・ムーサがいつ亡くなったのかは、よく分かっていないが、その子の代には繁栄に陰りが見えている。王国の富の源泉である、無尽蔵に思えた金の産出が枯渇してきたのだ。ついに莫大な産出量を誇った金鉱脈も、採り尽くしてしまった。凡庸な王が続いたこともあり、マリ王国は衰退していった。
しかし実態とは反対に、マリ王国の繁栄の噂は地中海を越えて南ヨーロッパに伝わって行った。ヴェネティア、グラナダ、ジェノバの商人は黄金都市トンブクトゥを地図に書き入れた。後の大航海時代の契機となった。香辛料と黄金、海の向こう大陸の大砂漠の彼方には、途方も無い黄金を産出する国がある。話はここで終わらない。
トレジャー・ハンター、マーク・ネイサンソンは、偶然図書館で300年前の古地図を目にした。そこにはマリ王国の失われた都ニアニの位置が示されている。ネイサンソンはアフリカに渡り、何年もかけてニアニとその近郊にあるはずの金鉱山を探した。そしてついに或る日、貧しい村の郊外に入り口を塞がれた洞窟を発見する。村の古老の話によると、確かに何百年か前には先祖が金を掘っていたそうだ。しかし大規模な落盤事故があり、大勢が犠牲になった。その後は立ち入りを禁じた。
ネイサンソンはさらに何年もかけて、その地域の土地と採掘の権利を取得し、洞窟の周辺を柵で囲った。彼は自身の行っている事を他人に一切話さなかった。そして苦労してスポンサーを見つけた。古代マリ王国の黄金廃鉱、こんな話は百に一つ、千に一つも当たらない。こう思うのが普通だが、スポンサーになった人物(会社?)も偉いものだ。
現代の技術は古より格段に進歩している。佐渡金山でも昭和になってから、昔の工夫が海岸に大量に捨てた石の山から金を採取し、石が無くなるまでの一年ちょっとの間、採掘量が飛躍的に伸びたことがある。随分と時間はかかったが、ネイサンソンの思惑は見事に当たり、彼とスポンサーは大金を手にして大富豪になった。
マンサ・ムーサは中央アフリカ、マリ王国の9代目の王で、1324年にど派手なメッカ巡礼を行い、周辺国のどきもを抜いた。どうもアフリカ、特にサハラ以南のアフリカは、19世紀にヨーロッパ列強の植民地となり文明の遅れた未開の地、暗黒大陸などという負のイメージが残っている。しかし歴史を見ると全然そんな事はなかった。
最古の黒人国家(クシュ王国)は、B.C.10世紀にナイル上流の東スーダンで誕生し、エジプトから製鉄技術を導入してB.C.8世紀には一時期エジプトを支配下に置いた。クシュ王国に代わって紀元前後より勢力を伸ばしたアクスム王国は、3~6世紀に黄金期を迎え、インド洋の交易によって栄えた。4世紀前半にキリスト教を受容し、その後衰退したがエチオピア帝国として、今日近くまで存続していた。
中スーダンでは8世紀ごろからチャド湖周辺でカネム王国が、サハラを縦断する奴隷貿易で栄え、11世紀にはイスラム化が促進した。14世紀の内紛で興ったボルヌー王国と共に16世紀後半に最盛期を迎えた。
西スーダンでは7世紀頃、セナガル川の上流域とニジェール川の上流域に跨る黒人王国が誕生した。ガーナ王国である。この王国は、〝ニンジンのように生えている〟と例えられた金を、ムスリム商人がもたらすサハナ砂漠産の岩塩と交換することによって繁栄し、イスラム化が促進した。しかしモロッコのベルベル人の侵入を受け、ガーナ王国は衰退していった。
ガーナ王国の都を陥落させたのは、ソソ族のスマングルという暴君だが、支配下のマンディンゴ族からスンジャータという人物が現れ、ついにスマングルを倒し、ニジェール川上流のニアナ(ニアニ)に都を定めた。このスンジャータがマリ王国初代の王である。マリ王国はガーナ王国の富の源である金の産出・交易を継承し、ニジュール川近くの交易都市トンブクトゥやジェンネは商業が活発になった。
ちなみに〝スーダン〟とはサハラ砂漠以南の地域名で、またスーダンは〝黒色の人〟という意味も持つ。現代の国名、スーダン共和国、ガーナ、マリ共和国は、過去の栄光にあやかろうとして命名したもので、過去の王国とは直接の関連はない。マリ王国はムスリム商人との交易を通じて、イスラム教を受容し14世紀に全盛期を迎えた。中でもマンサ・ムーサ王(カンカン・ムーサ)の時代に王国の版図が最も拡大し、黄金期を現出した。
なおムーサ王の死後、衰退し始めたマリ王国を滅ぼすのがソンガイ王国である。ソンガイ王国の時代、トンブクトゥはスーダンのイスラム文化の中心都市となり、大学が創設され稲作が試みられた。もっとも大学を最初に創設したのはマンサ・ムーサである。そのマンサ・ムーサの黄金ずくめのメッカ巡礼に出発する前に、マリ王国の先代王の旅について話しをしよう。
マンサ・ムーサの先代の王は、ムーサの従兄弟又は叔父さんに当たる人物で、旅に出て帰らなかった。その不在の間、摂政をしていたムーサが自動的に王位に就いた。マンサ・ムーサ自身が巡礼に行った際は、彼の息子が摂政となった。さて先代の王だが、大地の周りを取り囲む大洋の果てを見てみたいと思い、実際に旅だった。まずは200艘の舟いっぱいに人を乗り込ませ、それとは別に黄金と水と物資を数年分は保つほどどっさりと積み込んだ船団を用意した。船団の提督には、大洋の果てにたどり着くか水と食糧が尽きるまで戻ってくるなと命じた。そうして先遣隊は出発したが、いつまで経っても戻ってこない。
数か月が過ぎて、やっと一艘だけ戻ってきた。その舟の頭はこう答えた。「陛下、私どもはずっと航海を続けた末に、大海の中ほどを巨大な川が流れているところに出くわしました。私どもに舟はしんがりにいましたが、前にいた舟は全て大渦巻に飲み込まれてしまい、二度と浮かび上がってはきませんでした。私はこの流れから逃れて引き返したのでございます。」
しかし王はこの船頭の言葉に信を置かず、或いは自らその光景を見たかったのか、今度は2,000艘の舟いっぱいに人を乗せ、自身も乗り込んだ。水と物資、黄金は1,000艘の舟に積み、不在の間の統治をマンサ・ムーサに託して旅だった。その後何年も経つが、一艘の舟も戻ってはこない。
何とも気宇壮大な話だ。だがマンサ・ムーサの巡礼もただ事ではない。マリ王国やマンサ・ムーサの事績を伝えるのは、アラビア人やベルベル人の著述家が記録した文献による。中にはマリ王国に35年も住んだ人物もいるし、中国・元朝を訪問した有名な旅行者イブン・バトューダもマリ王国を訪れた。彼の著作、『三大陸周遊記』の中にマリのことが詳しく記されている。そこにはこう書かれている。「彼らの国は全く安全である。---住民たちはもてなしが良く、正義感が強い。」
他に「グリオ」と呼ばれる、民族の歴史や過去の王たちの事績を相伝で伝える、吟遊詩人による口頭伝承も残っている。しかし口頭伝承がマンサ・ムーサに言及することはまれで、詳細な事績はここからは良く分からない。マンサ・ムーサが王国の富を浪費し、マンデの伝統から逸脱した人物だと、否定的に捉えられていたためだ。
アル・マクリーズィーは、マンサ・ムーサの外見について次のように書き残している。「彼は褐色の肌をした青年で、好感の持てる顔立ちをし、(中略)体格も立派であった。」
さあ1324年、マンサ・ムーサはメッカ巡礼の旅に出る。マンサ・ムーサは全ての交易都市と地方から特別な寄付を徴収し、家臣6万人と奴隷1万2千人以上を引き連れて首都ニアニを出発した。隊列の先頭がトンブクトゥに着いた時、王はまだ宮廷にいた。この巡礼は、マリ王国の威信をかけた国家事業だ。マンサ・ムーサは偉大な大王であったが、周辺部族や北の遊牧民は虎視眈々とマリの金鉱山を狙っていた。マンサ・ムーサも帰路に交易都市ガオで起きた反乱を鎮圧している。さて12,000人の奴隷にはそれぞれ4ポンド(約1.8キロ)の重さの金の延べ棒を持ち、家臣たちは絹の服を着て黄金の杖を持ち、無数の馬や駱駝に旅荷を乗せた隊商を連れていた。100頭の駱駝に300ポンド(約136キロ)の金塊が積まれていたと云う。
ざっとみて35.6トンの金を持参したことになる。当時のマリ王国では年間11トンの金を採掘していた。日本最大の佐渡金山では、最盛期に400kgs/年の採掘量だから、マリの金山は破格の採掘量であることが分かる。35.6トンの金、1g4,700円(現在のレート)として約17兆円か。ビル・ゲイツの総資産9兆円(これも凄い)の二倍、国家予算でいうと17位の韓国(歳入約22兆、歳出約21兆)より若干少なく、スイス、オーストリア、トルコ、デンマーク辺りに相当する。これが旅の予算だ。
黄金づくめの隊商は9ヶ月かかってサハラ砂漠を横切り、エジプトのカイロに到着した。日中は50℃、夜は0℃前後にまで下がる厳しい砂漠の旅だ。何人もの従者や馬が途中で倒れ、砂に埋もれていった。マンサ・ムーサは旅路で立ち寄ったオアシス都市では、貧者に金を惜しげも無く喜捨し、モスクを建造する資金を長に渡した。そしてメッカ巡礼を終え、帰路カイロに3ヶ月滞在している。このカイロでの買い物はとてつもない金額にのぼり、ムーサ王がショッピングで落とした10トンもの金の為、エジプトの金の価格が2割下落し、その後10年を超えるインフレを引き起こした。
当時のマリの都市群では都市文明の萌芽が見られ、人口密度が高まった。マリ王国全体で4-5千万人、首都ニアニには10万人の住人がいた。特に交易都市トンブクトゥは、交易・文化・イスラームの中心となった。巡礼からの帰国後、ムーサはトンブクトゥに大学を創設し(サンコーレ大学)、イスラーム法学者、天文学者、占星術師等を招き、一大文化都市に発展させた。サンコーレ大学では最盛期25,000人の学生を抱えていた。
またカイロやメッカに、西アフリカからの巡礼者や旅人が泊まれる宿泊所や、外交使節が滞在できる大使館を建設した。またエジプトから著名な建築家を招き、数多くのモスクやマドラサを建設した。世界遺産、トンブクトゥのジンガレー・ベルやサンコーレ・マドラサはムーサが建設させたものである。また首都ニアニの王宮は、漆喰で塗装され石のタイルで覆われた建物で、色とりどりのアラベスクで装飾されたドームがあり、上の階の窓は銀、下の窓は金で装飾された広大な建築物だったという。しかし練り土に藁を混ぜた材料のため、王宮は長年の雨の作用で元の土塊に戻り、19世紀にヨーロッパ人が来た時には跡形もなく消滅していた。
マンサ・ムーサがいつ亡くなったのかは、よく分かっていないが、その子の代には繁栄に陰りが見えている。王国の富の源泉である、無尽蔵に思えた金の産出が枯渇してきたのだ。ついに莫大な産出量を誇った金鉱脈も、採り尽くしてしまった。凡庸な王が続いたこともあり、マリ王国は衰退していった。
しかし実態とは反対に、マリ王国の繁栄の噂は地中海を越えて南ヨーロッパに伝わって行った。ヴェネティア、グラナダ、ジェノバの商人は黄金都市トンブクトゥを地図に書き入れた。後の大航海時代の契機となった。香辛料と黄金、海の向こう大陸の大砂漠の彼方には、途方も無い黄金を産出する国がある。話はここで終わらない。
トレジャー・ハンター、マーク・ネイサンソンは、偶然図書館で300年前の古地図を目にした。そこにはマリ王国の失われた都ニアニの位置が示されている。ネイサンソンはアフリカに渡り、何年もかけてニアニとその近郊にあるはずの金鉱山を探した。そしてついに或る日、貧しい村の郊外に入り口を塞がれた洞窟を発見する。村の古老の話によると、確かに何百年か前には先祖が金を掘っていたそうだ。しかし大規模な落盤事故があり、大勢が犠牲になった。その後は立ち入りを禁じた。
ネイサンソンはさらに何年もかけて、その地域の土地と採掘の権利を取得し、洞窟の周辺を柵で囲った。彼は自身の行っている事を他人に一切話さなかった。そして苦労してスポンサーを見つけた。古代マリ王国の黄金廃鉱、こんな話は百に一つ、千に一つも当たらない。こう思うのが普通だが、スポンサーになった人物(会社?)も偉いものだ。
現代の技術は古より格段に進歩している。佐渡金山でも昭和になってから、昔の工夫が海岸に大量に捨てた石の山から金を採取し、石が無くなるまでの一年ちょっとの間、採掘量が飛躍的に伸びたことがある。随分と時間はかかったが、ネイサンソンの思惑は見事に当たり、彼とスポンサーは大金を手にして大富豪になった。
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