旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

ギョベグリ・テペ  

2016年08月25日 18時03分47秒 | エッセイ
ギョベグリ・テペ   

 ギョベグリ・テペ遺跡、トルコのアナトリア南東部、丘の上に在る神殿跡?ギョベグリ・テペはトルコ語で「太鼓腹の丘」を意味する。遺丘の高さは15m、直径は300m、標高は760mで、残された構造物は巨大なT字型の石柱が円を描いて並んでいる。今までに8以上の石柱を備えた溝が4つ彫り出され、さらに16埋まっていて発掘が待たれる。石柱の高さは6m以上あり、重さは約20トンだ。
 1996年からドイツチームが発掘を始めたが、まだ初期段階で掘り出したのは、現在までに分かっている遺構の10%以下だ。周辺に200本以上の石柱が埋まっていることは、地中レーダーによる調査で分かっている。驚くのはその年代の古さだ。新石器時代、紀元前1万年から紀元前8,000年に建てられたことが、木炭や石柱の付着物の炭素測定によって分かった。
 ギザの3大ピラミッドを遡ること7千年、ストーン・ヘンジより8千年も古い。しかも今後発掘調査が予定されている遺丘隣の構造物に至っては、1万4千年から1万5千年前の古さだ。えっ石器時代じゃん。これでは歴史の教科書は、最初のページから挿絵と共に書き直さなくては。新石器時代は少人数の集団に分かれて暮らし、石の槍で獣を獲り、植物を採集していたというイメージは根底から崩れる。
 20トンもある石柱の運搬には、500人が力を合わせる必要があった。丘の周辺には水場が無く、一番近い川は5km離れている。もっとも古代の遺跡周辺は緑野が広がっていた。遺跡の近くには住居も農耕の跡も墓も、今のところ見つかっていない。100~500m離れた岩盤では石を切り出した痕跡が残っている。金属利用の無い時代なので、鋭利な固い石を根気よくぶつけて石灰岩を掘りだしたのだ。加工途中の石の一つは長さ7m、頭の部分は幅3m、重さは50トンと推定される。途中でヒビが入ったのか、或いは大き過ぎて放置されたのか。この石切り場の近くでは、ギリシャ・ローマ時代にも採石を行っていた。
  石柱には浮き彫りが描かれている。図案ははっきりいって稚拙だが、実に鮮明に残っている。レリーフはライオン、ヒョウ、ウシ、イノシシ、キツネ、ガゼル、ロバといった哺乳類、ヘビ等の爬虫類、昆虫やクモ、サソリ、鳥は特にハゲワシがモチーフになっている。鳥葬が行われていたのか?また石柱の下半分に人の腕が彫られていたり、ふんどしの施されたものも小数ある。石柱は神を模したのか、トーテムなのか?
神殿は、紀元前8千年以降のいずれかの時点で意図的に埋められている。埋め戻しには瓦礫、石器片や動物の骨などが用いられている。このように埋められたことによって、これほど鮮やかに保存されたのだ。1万年の風雨に晒されたら浮彫はすっかり剥がれ落ち、石柱は倒されて再利用されていただろう。上層にはギリシャ・ローマ時代の建造物跡があり、また丘が農耕地であったため、一部の石造物は邪魔者として破損された。しかし全体的に実によく保存されている。
考古学者は言う。「ギョベリク・テペは全てを変えてしまう。」「神殿より始まり、街が興った。」農耕よりも宗教が早かったんだ。文字の無い時代だから何を言っても仮説になってしまうが、この遺跡が長い時間、千年、二千年をかけて築かれたらしいことは忘れてはならない。ピラミッドのように一代の王、数十年間で作られたわけではない。
では何の為に、どうやって、神の概念?祖先哀悼、崇拝?回答は永遠に出ないだろう。そして発掘が進めば色々な事が明らかになるとともに、山ほどの新しい〝どうして〟が出てくるに違いない。ただ古代人が考えられてきたよりも、遥かに文化的、文明的、更に精神的な生活を送っていたことが伺える。
またギョベリク・テペから32km離れたカラジャ山付近は、麦(ヒトツブムギ)の原産地である。神殿造りに伴って人が集まり、食糧確保の為に大規模な 農耕がここから始まったのかもしれない。
今後の発掘、発見が楽しみだ。ワクワクするね、ギョベクリ・テペ。

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