旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

紀州雑賀党と根来衆

2015年11月21日 12時29分28秒 | エッセイ
紀州雑賀党と根来衆

 雑賀=サイカ、根来=ネゴロ。ハイ、読めた人は手を上げて。横須賀にはサイカヤデパートがあるよね。馬喰町の糸編問屋街に行くと、根来という店があるよ。昔から紀州商人といって商業の盛んな地域だったんだ。あと銚子の方で漁の方法を教えたのも、この人達だったな。移民として海外移住をした人達もたくさんいたらしい。
 コセコセチラチラと上の人間ばかり見ている連中とは、スケールが違うんだな、この人たちは。何しろ自分達を従わせ、年貢を取り立てる領主がいない。海賊、交易、傭兵、戦国の世に荒稼ぎして高笑い。特殊技能、鉄砲を売り込む先は、織田でも三好でも木下でも構わない。敵も味方もあるものか。競わせて鉄砲衆を雇う金を釣り上げよう。戦場で雑賀の八咫烏(ヤタ烏,三本脚の太陽の使い)の旗が攻め口に上がるのを見た武将は、げんなりとした。手足や顔を打ち砕かれた味方の姿はいやというほど見てきた。おまけにあの凄まじい銃撃音と硝煙の臭いで足軽共が怖気づく。
 銃撃を避ける為に竹を二重に編んだ竹束を構えて近づくと、バラ玉を込めた散弾を、竹を結えたひもに向かって打つため竹束はバラバラになる。姿を現した兵は一人また一人と狙撃され倒れる。頑丈な大楯を持って近づくと、大筒を頭上に打ち込む。炸裂した砲弾は一発で多数の武者を殺傷する。ヤタ烏の旗に近づくにつれ、火縄のついた手榴弾、焙烙火矢を放り込まれ、一矢も打ち込めずに死体と手負いの山となる。雑賀衆は豊富な火薬と弾丸を祭りのように使う。
 鉄砲衆には鉄砲衆、傭兵には傭兵と根来衆を雑賀党にぶち当てる。双方凄まじい音をたてて大銃撃戦を展開し、立ち上がる硝煙で空も霞む。しかし一人の負傷も出ない。味方ではないが、隣り同士の同業者でお互いに親戚も多い。バカバカしい、殺し合っても金にはならない。派手に空砲を打ち合うんだ。雑賀衆が実用一点張りの雑賀鉢をかぶり、黒ずくめの地味な具足をつけているのに対し、根来衆の装束はど派手だ。具足の上に僧兵の装束をまとい、髪は腰まで伸ばし結って後ろに垂らす。火縄を腰にぶら下げて太刀を差し、鉄砲を担いてのし歩く。
 鉄砲を最初に種子島から紀州に持ち込んだ男は、根来衆の津田監物だ。直ぐに隣の雑賀党にも広まった。監物は根来寺門前の坂本に住んでいた堺の鍛冶、芝辻清右衛門に鉄砲の製作を命じた。雑賀党が鉄砲を自分達で製造していたのかは分からない。しかし雑賀党は金属加工に優れた技術を持っていた。一説では渡来系の技術が伝わっていたともいう。
 黒色火薬は6-7世紀に中国で発明された。原料は木炭、硫黄と硝石だ。硫黄は日本では珍しく豊富に取れる。輸出するほとんど唯一の地下資源ではないかな。国産しないのは硝石で、鉄砲の弾の原料、鉛と共に海外より輸入するのだが、海外交易を得意とする雑賀党はその点でとても有利だ。銃器の命中率を上げるには、兵器の改良と訓練が重要だが、彼らは豊富な弾丸と火薬を使って惜しげもなく訓練を重ね、十発十中の域にまで達した。
 火薬の扱いにも熟達し、湿気の多い日、乾燥した日、気温の変化に応じた調合を行う。火縄銃は先に弾を入れ、上から火薬を注ぎカルカで突き固める。火皿にも少量の火薬を入れ、引き金を下して火縄を火皿につけて発射する。一連の動作に30秒ちょっとかかる。騎馬武者なら300mは駆け進んでいる。雑賀党は弾と適量の火薬を紙でこよりのように包んだ早合を発明し、一気に突き固めるから装てんが早い。雨に日でも鉄砲に水よけの覆いをつけて使えるようにする。独立自尊の連中だから、前例に捕われず次々に創意工夫を加えていく。
 雑賀党の本領を発揮した会心の戦を紹介しよう。石山合戦に呼応して蜂起した伊勢、長島一向一揆は、最初の蜂起で信長の弟、織田信興の居城を取り囲んで、信興を自刃させている。二度目の戦でも一揆方が勝ち、殿軍の柴田勝家を負傷させた。柴田に代わって殿となって退却する氏家卜全は田の畔道に追い詰められた。退却する織田軍は泥田に足が埋まって前へ進めない。すると左右から喫水の浅い田舟が次々とこぎ寄せ、鉄砲の射程圏内を割って身動きの取れない大軍団にスルスルと近づき、舟の先頭に伏せた鉄砲放ちが落ち着いて一人また一人と打ち倒す。指揮官から先に撃ち殺してゆく。舟の後ろに伏せた雑賀衆が撃ち終わった銃を受け取り、弾込めをして戻すから間断なく発射される。織田の兵士は何の反撃も出来ずに、泥案山子のように次々と倒れてゆく。この戦で織田方の武将である氏家卜全は討ち死にした。そもそも金でしか動かないはずの雑賀衆が、石山に拠を構えた本願寺の門跡顕如の求めに応じて、金は持ち出し命をかけて信長と戦ったのだから面白い。
 しかし一筋縄ではゆかない雑賀党、一致団結して石山本願寺に合力した訳ではない。根来衆が終始一貫してその滅亡の時まで行動を共にしたのに対し、雑賀党は分裂、抗争、敵対、複雑な動きを見せる。そも雑賀をひとくくりにするのが間違っているのかもしれない。鉄砲ではなく槍で名を成した一団もいたそうだ。雑賀五搦といって雑賀は5つに分かれる。中郷(中川郷)南郷(三上郷)宮郷(社家郷)、そして主力として石山本願寺に味方する土橋氏の雑賀荘と鈴木氏の十ヶ郷だ。ところが土橋と鈴木がまた仲が悪い。
 そして根来衆は一向宗ではない。寺領50万石とも70万石とも言われる、根来寺を中心とした新義真言宗の僧徒らの集団である。雑賀と根来は活発に交流していたから、いわば親戚のようなもので、雑賀党の一部は一向宗ではなく真言宗の信者であったようだ。結局石山合戦で信長をキリキリ舞いさせるのは、鈴木孫市(別名、雑賀孫市)をリーダーとする雑賀党の一部に過ぎない。しかし彼らの活躍は目覚ましく、門跡の顕如は石山での戦さが激しくなると、孫市へ書状を送り援軍を依頼する。「さいか者十人二十人なりと、急ぎ送ってたもれ。」
 天下統一を目指す信長にとって最大の敵は一向宗で、何度も煮え湯を飲まされている。そして一向宗の顕如と、信長が最も恐れた敵、武田信玄の奥方は姉妹であった。阿弥陀如来の慈悲によって悪人であっても救われ、極楽往生をとげるという一向一揆の理念は、修行や功徳によって輪廻の世界からの解脱を目指す仏教(ブッダの教え)とは真逆な思想だ。いいとか悪いとかは関係ない。楽でいいじゃん、と思うが仏教では無いな。もっとも一向衆徒はカテゴリーが何とか気にしないだろうよ。これはどちらかと言えば、聖母マリアを慕うキリスト教徒に近い。例えていえばフィリピンやメキシコの信者、日本のキリシタンもマリア崇拝が強い。だが教会と世俗の権力支配に屈して農奴と化したヨーロッパ中世のキリスト教徒とは違い、一向衆徒は守護、大名を自力で追い出し国を自分達の合議制にした。百姓の持ちたる国の誕生だ。世界史を見ても珍しい。
 中央集権の統一国家を目指す信長に取って、こうなると一向宗は覇権と領土を争い、攻撃したり交渉したりする相手ではない。根絶やしにするしかない最も危険で決して和睦する事のない相手だ。石山合戦は思想闘争なのだ。
 天正4年(1576年)春、石山勢は1万を超える軍勢をもって木津の織田軍を蹴散らし天王寺砦を包囲した。織田の将、塙直政が戦死し明智光秀が包囲された砦から救援を要請した。信長は馬を駆って前線に行き、軍勢が整わず三千の幹部、武将ばかりが多い騎馬隊を群がる門徒勢1万5千に乗り入れた。ここが正念場だと知っているのだ。こういう果断な行動が信長の魅力だ。門徒勢に混じった雑賀鉄砲衆は、最大の敵信長が戦場に現れたのを見て、千載一遇のチャンスと色めき立つ。距離は遠いが、鍛えぬいた鉄砲衆の放つ銃弾は騎馬で移動する信長に集中し始めた。信長の廻りを囲む馬廻り衆が楯となって次々に撃ち抜かれて落馬する。そしてついに一弾、信長の太ももに食い込んだ。あと一弾。しかし運の強い信長は走り去って天王寺砦に入り、砦の内外呼応して門徒の包囲を撃退した。門徒は劣勢の守備軍が反撃してくるとは思わず、虚をつかれて崩れた。
 一向宗の門徒の大半は農民である。武士と農民の区別が後世ほど明確ではない時代だが、生活に追われ武芸の稽古などしてきた訳ではない。しかし彼らには強みがあった。死を恐れないのだ。門徒の旗印は『欣求浄土。厭離穢土。』(この世はクソだ。未練は無いぜ。サッサと死んで極楽往生。)このムシロ旗は、武田信玄の『風林火山』や上杉謙信の『毘』などより覚悟のほどが伺える。彼らは死を恐れない。門徒の指導者の坊主共が持つ旗にはこう書かれている。『進む者は極楽往生。退く者は無間地獄。』石山合戦で顕如が信長に勝っていたら、日本は一向宗の国になり一体どんな歴史になっていたのだろう。坊主の思い上がりと腐敗が少なければ、面白い共和国家が生まれていたかも。
 しかし現実には一向宗にも問題があった。指導者の坊主たちが贅沢をして腐敗したり、重税を課したりしたので一揆内一揆も起こっている。せっかく命がけで世俗の権力を倒したのに、本部から来た坊主が威張って税金を取り立てたら、何の為に蜂起したのか分からない。こんなことは現代の会社社会でもありそうだ。また毛利氏は国内に多数の門徒を抱え、石山方に味方をしているが毛利の治める国内では一揆は一度も起こらなかった。支配者の毛利と門徒が時に協力し、時に個別に石山方に兵糧を入れている。毛利の統治のうまさが光る。信長も見習うべきだ。

to be contined, 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿