1月17日午前5時から神戸市中央区の東遊園地で、阪神・淡路大震災の犠牲者を悼む式典「阪神・淡路大震災1.17のつどい」が行われた。会場には、神戸市長や遺族、地域住民をはじめ、数百人近くの人が訪れた。献花台付近では「むすぶ」の文字をかたどった灯籠に火がともされ、詰めかけた人々は灯篭を囲み、震災が起こった時刻の5時46分に一斉に黙祷をささげた。当時神戸大生だった娘の志乃さんを震災で亡くした上野政志さんが遺族代表として挨拶を行った。<尾畑陽貴、本多真幸>
(写真:献花する上野政志さん 2023年1月17日午前6時ごろ)
娘の上野志乃さん(当時発達科学部2年)を震災で亡くした上野政志さんは被災者遺族の代表として追悼の言葉を述べ、献花した。
上野さんはスピーチの中で、娘・志乃さんを震災で亡くした時のことを鮮明に語り「目の前にいながら助け出せなかった無力さを感じました。」と振り返った。「忘れ去られたときに死が訪れると言いますが、取材などを通じて志乃の話を聞いてくれる人がいる限り、ふと志乃が生きていることを思うのです。震災の教訓は生きている人間で生かしていくことが大切で、そのために何か一つでも伝えることができたら幸いです。」と話した。
(写真:追悼の言葉を述べる上野志乃さんの父・政志さん。2023年1月17日午前5時47分ごろ 神戸市中央区の東遊園地)
上野さんの挨拶に聞き入る人たちの中には、神戸大学学生震災救援隊に所属する学生たちもいた。震災救援隊は、震災の復興祭として始まった灘チャレンジの主催や、震災を経験した住民との交流、震災に関する学生間での学習会などといった活動を行っている。
代表の植田丈嗣さん(法3年)は、上野さんの「人は忘れたときに死が訪れるが、話を聞いてくれる人がいるから志乃はまだ生きている」という話が「ぐさっときた」という。
植田さんは、「亡くなった方の身近な人から思いを聞いていくことが大事」としたうえで、「自分は福井出身で震災について知らなかったが、神戸に住み、生きて、震災なしに(神戸を)語ることはできないと感じている。経験していない身でも、経験した人から聞いたことを伝えていく必要があると思う。」と語った。
志乃さんと同い年で被災地に学ぶ会の藤室玲治さんは、「上野さんとは、2010年ごろに初めてお会いして、10年以上の付き合いになる。挨拶では、『亡くなった方の顔を覚えている人がどれだけいるでしょう』という言葉が印象に残っている。ひとりひとりのことを忘れずに伝えていったり、まだ僕も知らない死があると思うので、それを知っていって、次の世代につながないといけないと思った。」と語った。
久元喜造神戸市長は挨拶の中で「震災から得られた教訓を風化させてることなく、継承していかなければならない。昨年も自然災害は大きな被害をもたらし、予断を許さない。市民の力を合わせて防災、減災に取り組み、地域貢献を目指したい。」と話した。
(写真:午前5時46分、地震発生の時刻に黙とうをささげた多くの市民。2023年1月17日 中央区の東遊園地で)
上野さんは東遊園地を後にし、午前8時ごろに志乃さんが当時住んでいた下宿跡を訪れた。「当時から唯一変わらないのは、このフェンスだけ。」と話し、自作の資料をめくりながら命の尊さについての歌の紹介などをした。また「みんなの心で忘れなければ生きている。」と語り、娘・志乃さんとの思い出の花であるデンファレの花束を供えた。
その後に訪れた琵琶町公園の慰霊碑前では、「東遊園地での追悼の言葉を引き受けたのも、志乃を知ってもらうため。世間的には”もう”28年と言われがちだが、私にとっては”まだ“28年。この乖離が寂しく感じる。」と述べた。
(写真:志乃さんが描いたマンドリンクラブのポスターを紹介する上野さん。2023年1月17日午前8時ごろ、神戸市灘区琵琶町の志乃さんが当時住んでいた下宿跡で。)
(写真:琵琶町公園の献花台で手を合わせる、上野志乃さんの父・政志さん。2023年1月17日午前8時26分、神戸市灘区琵琶町の琵琶町公園で。)
《追悼のことば》(全文)
まだ28年前の出来事です。6434人、多くの死がありました。しかし、私たちの多くはそのうちの何人の顔を思い浮かべることができるでしょうか。
娘・志乃は、20歳と8カ月という若さで亡くなりました。
「一歩一歩を大切に生きていきたい」と成人式にその言葉を残していました。しかし、親に一言も言わないで、突然、一歩も歩まないで、遠くへ行ってしまいました。
1月17日の夜、意外と渋滞を気にせずに山麓バイパスから灘区琵琶町のニュー六甲ビラ 注1)のアパートに着き、現場は瓦礫の山だったのですが、近くの避難所を巡りをし、ラジオ関西の尋ね人報道に依頼をし、車中泊をしました。
18日6時40分ごろ、少し明るくなってきたので瓦礫の山をのけていると、お友達の頭を、その横に志乃の足を見つけました。
ホームこたつに差し向かいで寝ていたようで、2階の梁がその真ん中に落ちてきており、挟まれた状態でした。
目の前にいながら助け出せないでいる自分の無力さを味わいました。昼から垂水の兄が来てくれて、壁を崩し、屋根瓦を落としたりして、夕方の5時ごろに少し梁が動いて、引き出すことができました。
王子スポーツセンターの、丸一日以上かかった検視。200人近くが収容されて、1000人以上が黙って検視を待ち続けた武道場。全く寒さと静けさがそこにありました。
葬儀を終えてからは、毎日のようにアパートに遺品捜しに行きました。
1カ月ごとにビニール袋にくくられた新聞を見て、何でも丁寧にする性格だなあということを見つけたり、いま学校や図書館などに寄贈しているおもしろい発想の「空を泳ぎたかった魚の話」のパラパラ絵本などを持ち帰りました。
「陽子、志乃。ここに眠る」 注2)の新聞報道があって、以来多くの記者たちと出会うことになりました。初めは泣いてばかりいましたが、3、4人目ぐらいから、話終わってふと、気持ちが軽くなることがありました。
平成8年の5月のお誕生日に合わせて、娘が生きていた証しにと、「忘れないで」という記録本を作って、関係する人たちに配りました。その作成途中に、神戸大学の社会学の浅野慎一先生から、志乃が受講していた講座の小レポートを送っていただきました。その中に、「私にとって家族とは絶対的な存在である」と言い切っていました。
それが縁で、4回ほど社会学の講座でお話をさせていただき、のちには全学部対象の震災講座で、コロナが流行する前年までの何年間か、「行きてこそ」というテーマで、お話をさせていただきました。
その受講生の中に、「生と死は両極にあるのではない」「みんなの心から忘れ去られたときに本当の死が訪れる」という小レポートがありました。まさにその通りだと思いました。
だから時々、ふと「志乃は生きている」という思いになることがあります。
なぜなら、私の話を聞いてくださる方がいて、どんどん志乃を知ってもらえる人が増えているからです。
「生きてこそ」という題は、1976年アンデス山中に墜落した飛行機事故で、72日間救助もなく16名が生き抜いた記録で、映画化されたその題名『Alive 生きてこそ』からとったものです。
生への執着無くしては生ききられないこと。生きることの素晴らしさを伝えるために使っているものです。
娘・志乃の無念さ、将来の夢や思いを実現できないまま志半ばで逝ってしまったこの逆縁の体験を通して、生きることの意味について、伝えていきたいと思っています。
今も志乃の足に触れた時の氷より冷たかったという感触、助け出せないでいる情けない自分の存在を鮮明なまでに覚えています。
二度とこういう体験は味わいたくありません。そのために東北の大震災で、釜石市が行なったような事前の津波防災教育や、多くの災害から学ぶ教訓を、今生きている人間で生かしていく必要があると思います。
この追悼の言葉も、その機会と捉え、何か一つでも伝えることができたら幸いと思って、引き受けたものです。
言葉足らずの私の話を聞いてくださったみなさん。そして、こうして話す機会と場を用意してくださった関係者のみなさんに感謝します。
ありがとうございました。
2023年(令和5年)1月17日 上野政志
注1)「ニュー六甲ビラ」は志乃さんの住んでいたアパートの名前。
注2)志乃さんとともに亡くなった川村陽子さんのこと。
了
(写真:献花する上野政志さん 2023年1月17日午前6時ごろ)
娘の上野志乃さん(当時発達科学部2年)を震災で亡くした上野政志さんは被災者遺族の代表として追悼の言葉を述べ、献花した。
上野さんはスピーチの中で、娘・志乃さんを震災で亡くした時のことを鮮明に語り「目の前にいながら助け出せなかった無力さを感じました。」と振り返った。「忘れ去られたときに死が訪れると言いますが、取材などを通じて志乃の話を聞いてくれる人がいる限り、ふと志乃が生きていることを思うのです。震災の教訓は生きている人間で生かしていくことが大切で、そのために何か一つでも伝えることができたら幸いです。」と話した。
(写真:追悼の言葉を述べる上野志乃さんの父・政志さん。2023年1月17日午前5時47分ごろ 神戸市中央区の東遊園地)
上野さんの挨拶に聞き入る人たちの中には、神戸大学学生震災救援隊に所属する学生たちもいた。震災救援隊は、震災の復興祭として始まった灘チャレンジの主催や、震災を経験した住民との交流、震災に関する学生間での学習会などといった活動を行っている。
代表の植田丈嗣さん(法3年)は、上野さんの「人は忘れたときに死が訪れるが、話を聞いてくれる人がいるから志乃はまだ生きている」という話が「ぐさっときた」という。
植田さんは、「亡くなった方の身近な人から思いを聞いていくことが大事」としたうえで、「自分は福井出身で震災について知らなかったが、神戸に住み、生きて、震災なしに(神戸を)語ることはできないと感じている。経験していない身でも、経験した人から聞いたことを伝えていく必要があると思う。」と語った。
志乃さんと同い年で被災地に学ぶ会の藤室玲治さんは、「上野さんとは、2010年ごろに初めてお会いして、10年以上の付き合いになる。挨拶では、『亡くなった方の顔を覚えている人がどれだけいるでしょう』という言葉が印象に残っている。ひとりひとりのことを忘れずに伝えていったり、まだ僕も知らない死があると思うので、それを知っていって、次の世代につながないといけないと思った。」と語った。
久元喜造神戸市長は挨拶の中で「震災から得られた教訓を風化させてることなく、継承していかなければならない。昨年も自然災害は大きな被害をもたらし、予断を許さない。市民の力を合わせて防災、減災に取り組み、地域貢献を目指したい。」と話した。
(写真:午前5時46分、地震発生の時刻に黙とうをささげた多くの市民。2023年1月17日 中央区の東遊園地で)
上野さんは東遊園地を後にし、午前8時ごろに志乃さんが当時住んでいた下宿跡を訪れた。「当時から唯一変わらないのは、このフェンスだけ。」と話し、自作の資料をめくりながら命の尊さについての歌の紹介などをした。また「みんなの心で忘れなければ生きている。」と語り、娘・志乃さんとの思い出の花であるデンファレの花束を供えた。
その後に訪れた琵琶町公園の慰霊碑前では、「東遊園地での追悼の言葉を引き受けたのも、志乃を知ってもらうため。世間的には”もう”28年と言われがちだが、私にとっては”まだ“28年。この乖離が寂しく感じる。」と述べた。
(写真:志乃さんが描いたマンドリンクラブのポスターを紹介する上野さん。2023年1月17日午前8時ごろ、神戸市灘区琵琶町の志乃さんが当時住んでいた下宿跡で。)
(写真:琵琶町公園の献花台で手を合わせる、上野志乃さんの父・政志さん。2023年1月17日午前8時26分、神戸市灘区琵琶町の琵琶町公園で。)
《追悼のことば》(全文)
まだ28年前の出来事です。6434人、多くの死がありました。しかし、私たちの多くはそのうちの何人の顔を思い浮かべることができるでしょうか。
娘・志乃は、20歳と8カ月という若さで亡くなりました。
「一歩一歩を大切に生きていきたい」と成人式にその言葉を残していました。しかし、親に一言も言わないで、突然、一歩も歩まないで、遠くへ行ってしまいました。
1月17日の夜、意外と渋滞を気にせずに山麓バイパスから灘区琵琶町のニュー六甲ビラ 注1)のアパートに着き、現場は瓦礫の山だったのですが、近くの避難所を巡りをし、ラジオ関西の尋ね人報道に依頼をし、車中泊をしました。
18日6時40分ごろ、少し明るくなってきたので瓦礫の山をのけていると、お友達の頭を、その横に志乃の足を見つけました。
ホームこたつに差し向かいで寝ていたようで、2階の梁がその真ん中に落ちてきており、挟まれた状態でした。
目の前にいながら助け出せないでいる自分の無力さを味わいました。昼から垂水の兄が来てくれて、壁を崩し、屋根瓦を落としたりして、夕方の5時ごろに少し梁が動いて、引き出すことができました。
王子スポーツセンターの、丸一日以上かかった検視。200人近くが収容されて、1000人以上が黙って検視を待ち続けた武道場。全く寒さと静けさがそこにありました。
葬儀を終えてからは、毎日のようにアパートに遺品捜しに行きました。
1カ月ごとにビニール袋にくくられた新聞を見て、何でも丁寧にする性格だなあということを見つけたり、いま学校や図書館などに寄贈しているおもしろい発想の「空を泳ぎたかった魚の話」のパラパラ絵本などを持ち帰りました。
「陽子、志乃。ここに眠る」 注2)の新聞報道があって、以来多くの記者たちと出会うことになりました。初めは泣いてばかりいましたが、3、4人目ぐらいから、話終わってふと、気持ちが軽くなることがありました。
平成8年の5月のお誕生日に合わせて、娘が生きていた証しにと、「忘れないで」という記録本を作って、関係する人たちに配りました。その作成途中に、神戸大学の社会学の浅野慎一先生から、志乃が受講していた講座の小レポートを送っていただきました。その中に、「私にとって家族とは絶対的な存在である」と言い切っていました。
それが縁で、4回ほど社会学の講座でお話をさせていただき、のちには全学部対象の震災講座で、コロナが流行する前年までの何年間か、「行きてこそ」というテーマで、お話をさせていただきました。
その受講生の中に、「生と死は両極にあるのではない」「みんなの心から忘れ去られたときに本当の死が訪れる」という小レポートがありました。まさにその通りだと思いました。
だから時々、ふと「志乃は生きている」という思いになることがあります。
なぜなら、私の話を聞いてくださる方がいて、どんどん志乃を知ってもらえる人が増えているからです。
「生きてこそ」という題は、1976年アンデス山中に墜落した飛行機事故で、72日間救助もなく16名が生き抜いた記録で、映画化されたその題名『Alive 生きてこそ』からとったものです。
生への執着無くしては生ききられないこと。生きることの素晴らしさを伝えるために使っているものです。
娘・志乃の無念さ、将来の夢や思いを実現できないまま志半ばで逝ってしまったこの逆縁の体験を通して、生きることの意味について、伝えていきたいと思っています。
今も志乃の足に触れた時の氷より冷たかったという感触、助け出せないでいる情けない自分の存在を鮮明なまでに覚えています。
二度とこういう体験は味わいたくありません。そのために東北の大震災で、釜石市が行なったような事前の津波防災教育や、多くの災害から学ぶ教訓を、今生きている人間で生かしていく必要があると思います。
この追悼の言葉も、その機会と捉え、何か一つでも伝えることができたら幸いと思って、引き受けたものです。
言葉足らずの私の話を聞いてくださったみなさん。そして、こうして話す機会と場を用意してくださった関係者のみなさんに感謝します。
ありがとうございました。
2023年(令和5年)1月17日 上野政志
注1)「ニュー六甲ビラ」は志乃さんの住んでいたアパートの名前。
注2)志乃さんとともに亡くなった川村陽子さんのこと。
了
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