「魏志倭人伝」を地理学的観点から論じている『上代日支交通史の研究』の内容をご紹介しています。
今回は、壱岐を出港してからの記述です。
原文
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訳
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又渡一海千餘里至末盧國 | また一海を渡ること100kmあまり、末盧国に至る |
(中略)
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東南陸行五百里到伊都國 | 東南に陸行すること50km、伊都国に到着する |
(中略)
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東南至奴國百里 | 東南、奴国に至る、10km |
(中略)
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東行至不彌國百里 | 東に行き、不彌国に至る、10km |
藤田氏は、「末盧国」を佐賀県の松浦(現在の唐津市周辺)としていますが、『帝国地名辞典』(太田為三郎:編、三省堂:1912年刊)という本によると、松浦は古事記には「末羅」(まつら)と記されているそうなので、うまく符合するようです。
ただし、仮に唐津港に到着したとすると、壱岐からの距離は約50kmとなるので、この区間の距離は不正確なもの(実測値の約2倍)となります。
さて、ここで、古代の地名が掲載されている『大日本読史地図』の「上代の西国」という地図の一部をご覧ください。
【上代の西国(一部)】(吉田東伍:著『大日本読史地図』より)
この地図を参考にすると、末盧国は松浦縣(まつらのあがた)に、伊都国は伊覩縣(いとのあがた=現在の糸島市周辺)に、奴国は儺縣(なのあがた=現在の博多周辺)にそれぞれ対応するようです。
ただし、地図を見ると、博多周辺は海岸線が現在よりも南にあったようなので、奴国の位置も博多駅から少し南(春日市北部か?)にずれることになります。
なお、春日市北部には、奴国の中心地とされる須玖岡本遺跡があります。
唐津からは陸上を移動したのですが、古代の経路は不明なので、JR西唐津駅から、春日市北部の最寄り駅であるJR南福岡駅までの営業距離を算出すると、約61kmとなります。
したがって、末盧国-奴国間が60kmとする魏志倭人伝の記述は、とても正確なように思われるのです。
一方、方角に関しては、末盧国から伊都国、奴国へと東南に移動したことになっているので、実際の進行方向(東)とは少し異なっています。
最後の不彌国は、地図右端中央の宇瀰に相当すると思われますが、これは現在の糟屋郡宇美町で、この町の宇美八幡宮は応神天皇の生誕地とされているそうです。
次回も「魏志倭人伝」の続きです。
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