「魏志倭人伝」を地理学的観点から論じている『上代日支交通史の研究』の内容をご紹介しています。
今回は、奴国を出発してからの記述です。(魏の使者は陸を移動して不彌国まで行きましたが、使者の船は奴国の港で待機していたと考えました。)
原文
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訳
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南至投馬國水行二十日 | 南、投馬国に至る、水行二十日 |
(中略)
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南至邪馬壹國女王之所都 | 南、邪馬台国に至る、女王の都とする所 |
水行十日陸行一月 | 水行十日、陸行一月 |
ここで、藤田氏は、「邪馬壹」は「邪馬臺」の誤りであるとしていて、「臺」は「台」の旧字体なので、「邪馬壹」を「邪馬台」と表記しました。
さて、奴国からは再び船で移動したわけですが、ここで問題になるのが、「水行二十日」がどの程度の距離に相当するのかということです。
この議論は、里数の換算と同様に複雑なので結論だけ申し上げると、藤田氏は「水行二十日=約360km」と算出しています。
これを信じるなら、一日に18kmしか移動しなかったということですから、古代の旅は非常にのんびりしていたようです。
また、里数を書いていない理由は、九州北岸までの里数は古くから知られていたため、古代の尺度で記述されていて、奴国から邪馬台国までの距離は魏の時代の新しい尺度となってしまうので、混乱を避けるためにあえて日数だけを記述したと考えられるそうです。
そして、「投馬国」は「鞆」(とも=広島県福山市鞆の浦)であろうと推測していますが、博多から鞆の浦までの距離を実測すると確かに約360kmとなります。
続いて、「水行十日」(約180km)で到着する地点は大輪田の泊(現在の神戸港西側)であろうと推測し、そこから一か月かけて大和に到着したと論じています。
つまり、藤田氏は、「邪馬台」を「やまと」と読み、「邪馬台国九州説」を否定しています。
なお、神戸から大和まで一か月というのは長すぎるような気もしますが、藤田氏によると、遣隋使の小野妹子が隋の使者「裴世清」一行を伴って帰国した際には、難波に新館を建てて四月から六月までそこに留まり、入京したのは八月だったそうですから、おもてなしに時間をかけたと考えれば不思議はないようです。
それよりも問題なのは、奴国から投馬国、邪馬台国へは南に移動したと書かれているのに、藤田氏の解釈では進路が東になってしまう点です。
もっとも、『読史叢録』(内藤虎次郎:著、弘文堂:1929年刊)という本の「卑彌呼考」には、「邪馬台国九州説」に対する反論として、
「然れども支那の古書は方向を言う時東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは常例ともいふべく、・・・」
と述べて、東を南と書くことがあるとしており、さらに、方向の記述に混乱が見られる例として、『後魏書』の「勿吉伝」には、「東南行」と書くべき部分に「東北行」と書かれていることを指摘しています。
確かに、前回ご紹介したように、末盧国から伊都国、奴国へと東南に移動したと書かれているのに、実際には東に進んでいるので、方角に関する記述はあまり正確ではなかったのかもしれません。
次回も「魏志倭人伝」の続きです。
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