日本に漢字が伝来したことを示す最古の物的証拠は、福岡県の志賀島(しかのしま)から出土した「漢委奴国王」と書かれた金印だと思われます。
これは、西暦57年に後漢の光武帝が倭奴国の使者に与えたとされるもので、古代の日本語と直接関係はありませんが、日本に関する非常に古い情報なので、このブログで取り上げてみることにしました。
まず、『大日本全史 上巻』(大森金五郎:著、冨山房:1921年刊)という本に掲載されている金印の図をご覧ください。
【志賀島の金印】(大森金五郎:著『大日本全史 上巻』より)
この図の上部は、金印を横から見た図で、下部が印影になります。これを見ると、最後の「国王」は読めますが、残りの部分は判読が困難です。
この書体は「篆書」(てんしょ)とよばれるそうですが、『新撰篆書字典』(安本春湖:著、春湖書屋:1924刊)という本に、「漢、委、奴」の篆書が載っていたので、両者を見比べてみると、細部は若干異なるものの、確かに「漢委奴国王」と書かれているようです。
【漢、委、奴の篆書】(安本春湖:著『新撰篆書字典』より)
次に、「漢委奴国王」の読み方ですが、私が学校で習ったのは「漢(かん)の倭(わ)の奴(な)の国王(こくおう)」であり、本ブログの「壱岐から奴国へ」でご紹介した奴国がこの金印を受領したという考え方でした。
しかし、私はこのとき、漢が北方の異民族を匈奴とよんだことから類推して、委奴は匈奴に対する呼称ではないかと思った記憶があります。
今回、金印のことを書くにあたって、私と同じ考えを持っている人がいないか調べたところ、『旬刊国税解説速報 第1090号』(国税解説協会:1987年9月28日刊)という雑誌に、ジャーナリストの庵原清氏が次のようなことを書いていました。
1.金印は、奴国といった一小国に与えられる品ではなく、当然倭の地を統轄する大王に与えられたものと理解しなければならない。
2.中国漢代において夷蛮として対照的に採り上げられているのが「匈奴」と「委奴」であり、誰も「匈奴」を「匈の奴国」といった変な読み方はしない。
3.匈が猛々しいの意であるのに対し、委は穏やかに従うの意であり、対照的かつ同様の実力を持つ外部集団として認識されていることは間違いない。
4.「委奴」の「奴」は卑称として付されたもので、「委」は日本語で読めば「い」又は「ゐ」。当時「委」と「倭」が共用されていたことからすると「倭」も「い」と読む必要がある。
さすがにジャーナリストだけあって、主張が理路整然としていて、とても理解しやすいですね。
私はこの説に大賛成なのですが、歴史学者の先生方は、庵原氏の主張に対してどのように反論するつもりなのでしょうか?
最後に、委奴の発音ですが、匈奴については、『匈奴研究史』(イノストランツェフ:著、蒙古研究所:訳、生活社:1942年刊)という本に次の様な説が紹介されています。
・白鳥庫吉氏の説:クンヌー
・B.A.パノフ氏の説:シュン=ヌー
すると、委は「ゐ」すなわち「ウィ」ですから、これらの説から類推して、委奴は「ウィ=ヌー」と発音されていたのかもしれません。
つまり、約2000年前の日本には、日本語を話す大集団がいて、近隣諸国から「ウィ」あるいは「ウィ=ヌー」とよばれていたということなのでしょう。
また、本ブログの「邪馬台国の正体」でご紹介したように、神武天皇が日本を統一したのは二世紀の初めだと思われますから、それまでは日本に国王はいなかったことになります。
そのため、金印が日本に到着した際に、当時もっとも外交的に便利な位置にあった奴国がこの金印を保管し、後漢に使節を派遣する度にこれを使用したのではないかと考えられます。
そして、西暦220年に後漢が滅んでからは、金印が使用できなくなったため、盗難や紛失を恐れた関係者がこれを志賀島に隠したということなのかもしれません。
来年は、金印が発見されて240年目に当たるそうです。この金印は、福岡市博物館に常設展示されているそうですから、福岡市に立ち寄る機会があれば、ぜひ見学したいものですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます