日本・スイス国交樹立150周年記念 フェルディナント・ホドラー展
12月2日に国立西洋美術館にて鑑賞しました。
フェルディナント・ホドラーは初めて知る画家でした。
スイスを代表する国民的画家だそうです。
最初に展覧会場の前でホドラーを案内する映像が上映されていたので、見てみると、スイスの鑑賞者が「ホドラーの色がきれいで好きです。」と言われていたのが印象に残り、その映像を見た後、会場に入り、なるほど、と感じました。
フェルディナント・ホドラー(1853~1918年)はスイスのベルンで貧しい家庭に生まれ、小屋のような小さな家に家族が暮し、やがて結核の流行で父と弟二人を亡くし、生活のため母は画家と再婚。その母も14歳のとき亡くし貧窮院から手押し車で亡骸を運んだそうです。やがて31歳までに肉親をすべて結核で失ったそうです。特効薬はまだ開発されてない時代でしたから、また狭い家に家族が寄り添って生活しているから、どうしても防げないし伝染してしまうのでしょう。
生き残ったフェルディナント・ホドラー氏は、だから強い生命力を持った方で、死を身近に感じ人一倍恐れを感じていたでしょうが、その分生きることへの渇望もあったのではないか。
絵を見てそう思いました。
色彩が明るく美しいのです。厭世的な人の色じゃなく、美しい色彩のハーモニーは生きる喜びを感じるのです。
そして、強さを感じる輪郭線。存在感が際立ち生命力を感じました。
ホドラーの画業の始まりは最初の師匠で風景画家フェルディナント・ゾンマーの模写で、いわゆる風景を描くお約束の描きかたを仕込まれたそうですが、それが実はとても実践的な絵の勉強になったのでは。自然に自分の作品を描きたいという欲求をもつようになります。
「インターラーケンの朝」1875年
これから上ってくる朝日が自分の絵を確立していこうという目覚めに感じます。
もともと描く才能もあったホドラーは形をとり表現する技法を見につけ、ジュネーブに行き美術館で模写をしているところを認められ美術学校に通います。そしてスペインに行き、帰国して明るい色調に変化。
「マロニエの木々」1889年
すでにホドラーらしい明るい色調とくっきりとした輪郭、そして実像と水に映った虚像が同時に存在するパラレリズムが現れています。
並行して同時に存在しながらも決して交わらない世界。
水面のマロニエは最初はもっとくっきりと描かれていたそうですが、後年油性クレヨンで水面を一部霞ませたそうです。
下積み時代、彼は自分と同じく貧しい暮らしの人を描き、そして死を見つめてました。
死体を描いた小さな作品がありましたが、痩せ衰えた男性の顔は何故か安らいだ表情でした。死によって苦しみから解放されたのか・・・。
また、死と生の境界線にいる人も描きました
「傷ついた若者」1886年
これは旧約聖書のなかのエピソードを絵にしたそうですが、ほかに殆ど同じ絵で青年の横に助けようとする「善きサマリア人」が描かれているのに、この絵では途中からサマリア人を塗りつぶしたそうです。
強盗に襲われ身ぐるみはがされ頭から血を流しているユダヤの旅人。彼を救うべく現れるサマリア人(キリスト教を象徴してるそうです)が現れない。・・・これは神に祈っても病魔に家族を奪われたホドラーの気持ちがこもっているように感じられました。
内容は暗いものだけど、緑が瑞々しく青年も美しい。彼の表情に苦悶が感じられません。
ノルウエーでは同時代にムンクがもっと死の恐怖に怯えたおどろおどろしい絵を描いていたけど、ホドラーには逞しさと均衡を感じます。
やがて生きる事そのものがテーマに
そしてパラレリズム(平行主義)が確立します。反復し隣り合わせで同じように存在しながらも決して交わらない世界。
これは当時スイスでエミール・ジャック・ダルクローズによって提唱されたリトミック(フランス語。英語ではユーリズミックという)という音楽教育に影響を受けているそうです。
特に、舞踊ではギリシャ風の衣装を着た女性が輪になって同じようなしぐさで踊っている写真が展覧会でも展示され、その動きがそのままホドラーの作品の女性と繋がります。
ダルクローズ自身もホドラーの描く人物のポーズに触発されたそうです。
19世紀末から20世紀にかけ、隣の国フランスのアールヌーボー、オーストリアのウィーン象徴派、ドイツのユーゲントシュティールなどの新しい美術運動の影響もあり、人物も風景もリズムを持った形であらわされ、それが不思議な魅力を兼ね備えてました。
「オイリュトミー」1895年
紅葉の中、人生の秋をうつむいて歩く5人の男性。
彼らはこの年まで生き抜いたのです。ごく自然に年を取って人生の秋を迎える。
色彩が美しく、決して悲しい絵ではないと語ってます。
「オイリュトミー」とは「良きリズム」という意味だそうです。
「感情Ⅲ」1905年
「悦ばしき女」1910年
「昼Ⅲ」1907~1910年頃
真中の女性はホドラーの奥様だそうです。
ホドラーの描く女性は痩せていて、時に病的なくらい痩せている女性も素っ裸で描いている。
ホドラーはウィーン象徴派のクリムトと並び称されるそうですし、ご本人も尊敬されていたそうですが、クリムトの描くグラマラスな女性とはずいぶん違ってる。
そして雄大なスイスの自然。
この山々や湖はスイス人にとって猛威であり、誇りでもあり、郷愁でもあるのでしょう。
湖面に山や雲が反転して写り、実像と並行して存在する。
雲はダンスをしてるようで、山肌は岩がリズムを刻んでいる。
「シェープルから見たレマン湖」1905年
「トゥーン湖とニーセン山」1910年
「ミューレンから見たユングフラウ山」1911年
スイス紙幣に使われた原画
「木を伐る人」1910年
大地にしっかり立ち、自然の猛威にもひるまず打ち勝ち勤勉である人。
画面斜めに大きく体を伸ばし斧を振り上げる姿にダイナミックな力強さを感じます。この絵で国民的画家としての評価が決定づけられたそうです。
以前同じスイス生まれの画家ヴァロットン展でやはり画面いっぱいに斜めに体を伸ばす男性が描かれていたのですが、絵のテーマがあまりにも違うのがまた面白いです。
記念碑的な壁画制作
ハノーファー市庁舎の会議室に据えられた壁画の習作
「全員一致」1912年
強い線、横並びに並んで一斉に手をあげる姿に強いメッセージを感じます
そしてチューリヒ美術館にある階段間のための壁画の原寸大の白黒写真がいくつかの習作と共に展示されてました。
「無間へのまなざし」1917年
女性のポーズは反復し、画面の外へひろがる予感を感じさせます。
習作もまたしっかりと立つ女性の存在感がすばらしい
「『無限へのまなざし』の単独像習作」 1913~1915年
ホドラーは二度結婚し、また妻以外の女性とも子供をもうけるなど、恋愛もいろいろあった人のようです。「無間へのまなざし」の制作と同時進行で描いたのは20歳若い恋人ヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルの姿。ホドラーは妻のいる身ですが、ヴァランティーヌとの間に一女をもうけます。
その出産前に癌が見つかり、出産の後だんだん衰弱して死に至る姿を描きとどめます。彼女のどんな姿も忘れぬよう記録するように。
娘さんは奥様が引き取ったそうです。奥様も立派だ。
ヴァランティーヌが1915年に亡くなり、「無間へのまなざし」を1917年に完成したのち、ホドラーも体調を崩し部屋の窓から風景を描きます
「白鳥のいるレマン湖とモンブラン」1918年
山の稜線は、テレビで死の床のヴァランティーヌのラインと重なると言ってました。そうに見えるような、偶然にも思えるような・・・。
やはり並んで描かれている白鳥が気になります。
ヨーロッパでは白鳥は死ぬ前に美しい声で鳴くと言われてます。転じて詩や音楽の最後に残した美しい作品を「白鳥の歌」と呼ばれます。
これが遺作というわけではないそうですが、最晩年の作であるので、画業の最後にスイスの大自然への愛情を描いた気がします。白鳥はこの世へのカーテンコールなのかも。
そして数点展示された写真から気になった写真を
ホドラー氏の右横に木枠に縁どられたガラス板があります。そのガラスには人物のシルエットらしい線が描かれてます。
説明書きにはこのガラス版はデューラーグラスと書いてました。見て分かるように対象の人物や風景を早く正確に形をとる道具です。このガラス板からどうキャンパス画面に転写するのかはわからないのですが、風景画の山の稜線などはほぼ実物と重なるそうなので、この道具を使って風景画や人物の輪郭を描いていたようです。
デューラーグラスの名前からもわかるようにドイツルネッサンスの巨匠デューラー、そしてホルバインもこの道具を使ったそうです。勿論両巨匠ともスーパーテクニックの持ち主で、使いこなすのもまた技術が必要なのだと思います。
スイスで生まれ不遇な若い時を耐え抜き、やがて美しい色彩と生命感のある絵でスイスの自然や、生きる喜びを表現し、大地に立って生きる人を描いた。多くのスイス出身の画家がフランスなど美術の先進国に向かった中スイスに留まり華を咲かせたホドラーは、確かにスイスの国民的画家と言われるのにふさわしい人物だと思いました。
来年1月12日まで開催されてます。
12月2日に国立西洋美術館にて鑑賞しました。
フェルディナント・ホドラーは初めて知る画家でした。
スイスを代表する国民的画家だそうです。
最初に展覧会場の前でホドラーを案内する映像が上映されていたので、見てみると、スイスの鑑賞者が「ホドラーの色がきれいで好きです。」と言われていたのが印象に残り、その映像を見た後、会場に入り、なるほど、と感じました。
フェルディナント・ホドラー(1853~1918年)はスイスのベルンで貧しい家庭に生まれ、小屋のような小さな家に家族が暮し、やがて結核の流行で父と弟二人を亡くし、生活のため母は画家と再婚。その母も14歳のとき亡くし貧窮院から手押し車で亡骸を運んだそうです。やがて31歳までに肉親をすべて結核で失ったそうです。特効薬はまだ開発されてない時代でしたから、また狭い家に家族が寄り添って生活しているから、どうしても防げないし伝染してしまうのでしょう。
生き残ったフェルディナント・ホドラー氏は、だから強い生命力を持った方で、死を身近に感じ人一倍恐れを感じていたでしょうが、その分生きることへの渇望もあったのではないか。
絵を見てそう思いました。
色彩が明るく美しいのです。厭世的な人の色じゃなく、美しい色彩のハーモニーは生きる喜びを感じるのです。
そして、強さを感じる輪郭線。存在感が際立ち生命力を感じました。
ホドラーの画業の始まりは最初の師匠で風景画家フェルディナント・ゾンマーの模写で、いわゆる風景を描くお約束の描きかたを仕込まれたそうですが、それが実はとても実践的な絵の勉強になったのでは。自然に自分の作品を描きたいという欲求をもつようになります。
「インターラーケンの朝」1875年
これから上ってくる朝日が自分の絵を確立していこうという目覚めに感じます。
もともと描く才能もあったホドラーは形をとり表現する技法を見につけ、ジュネーブに行き美術館で模写をしているところを認められ美術学校に通います。そしてスペインに行き、帰国して明るい色調に変化。
「マロニエの木々」1889年
すでにホドラーらしい明るい色調とくっきりとした輪郭、そして実像と水に映った虚像が同時に存在するパラレリズムが現れています。
並行して同時に存在しながらも決して交わらない世界。
水面のマロニエは最初はもっとくっきりと描かれていたそうですが、後年油性クレヨンで水面を一部霞ませたそうです。
下積み時代、彼は自分と同じく貧しい暮らしの人を描き、そして死を見つめてました。
死体を描いた小さな作品がありましたが、痩せ衰えた男性の顔は何故か安らいだ表情でした。死によって苦しみから解放されたのか・・・。
また、死と生の境界線にいる人も描きました
「傷ついた若者」1886年
これは旧約聖書のなかのエピソードを絵にしたそうですが、ほかに殆ど同じ絵で青年の横に助けようとする「善きサマリア人」が描かれているのに、この絵では途中からサマリア人を塗りつぶしたそうです。
強盗に襲われ身ぐるみはがされ頭から血を流しているユダヤの旅人。彼を救うべく現れるサマリア人(キリスト教を象徴してるそうです)が現れない。・・・これは神に祈っても病魔に家族を奪われたホドラーの気持ちがこもっているように感じられました。
内容は暗いものだけど、緑が瑞々しく青年も美しい。彼の表情に苦悶が感じられません。
ノルウエーでは同時代にムンクがもっと死の恐怖に怯えたおどろおどろしい絵を描いていたけど、ホドラーには逞しさと均衡を感じます。
やがて生きる事そのものがテーマに
そしてパラレリズム(平行主義)が確立します。反復し隣り合わせで同じように存在しながらも決して交わらない世界。
これは当時スイスでエミール・ジャック・ダルクローズによって提唱されたリトミック(フランス語。英語ではユーリズミックという)という音楽教育に影響を受けているそうです。
特に、舞踊ではギリシャ風の衣装を着た女性が輪になって同じようなしぐさで踊っている写真が展覧会でも展示され、その動きがそのままホドラーの作品の女性と繋がります。
ダルクローズ自身もホドラーの描く人物のポーズに触発されたそうです。
19世紀末から20世紀にかけ、隣の国フランスのアールヌーボー、オーストリアのウィーン象徴派、ドイツのユーゲントシュティールなどの新しい美術運動の影響もあり、人物も風景もリズムを持った形であらわされ、それが不思議な魅力を兼ね備えてました。
「オイリュトミー」1895年
紅葉の中、人生の秋をうつむいて歩く5人の男性。
彼らはこの年まで生き抜いたのです。ごく自然に年を取って人生の秋を迎える。
色彩が美しく、決して悲しい絵ではないと語ってます。
「オイリュトミー」とは「良きリズム」という意味だそうです。
「感情Ⅲ」1905年
「悦ばしき女」1910年
「昼Ⅲ」1907~1910年頃
真中の女性はホドラーの奥様だそうです。
ホドラーの描く女性は痩せていて、時に病的なくらい痩せている女性も素っ裸で描いている。
ホドラーはウィーン象徴派のクリムトと並び称されるそうですし、ご本人も尊敬されていたそうですが、クリムトの描くグラマラスな女性とはずいぶん違ってる。
そして雄大なスイスの自然。
この山々や湖はスイス人にとって猛威であり、誇りでもあり、郷愁でもあるのでしょう。
湖面に山や雲が反転して写り、実像と並行して存在する。
雲はダンスをしてるようで、山肌は岩がリズムを刻んでいる。
「シェープルから見たレマン湖」1905年
「トゥーン湖とニーセン山」1910年
「ミューレンから見たユングフラウ山」1911年
スイス紙幣に使われた原画
「木を伐る人」1910年
大地にしっかり立ち、自然の猛威にもひるまず打ち勝ち勤勉である人。
画面斜めに大きく体を伸ばし斧を振り上げる姿にダイナミックな力強さを感じます。この絵で国民的画家としての評価が決定づけられたそうです。
以前同じスイス生まれの画家ヴァロットン展でやはり画面いっぱいに斜めに体を伸ばす男性が描かれていたのですが、絵のテーマがあまりにも違うのがまた面白いです。
記念碑的な壁画制作
ハノーファー市庁舎の会議室に据えられた壁画の習作
「全員一致」1912年
強い線、横並びに並んで一斉に手をあげる姿に強いメッセージを感じます
そしてチューリヒ美術館にある階段間のための壁画の原寸大の白黒写真がいくつかの習作と共に展示されてました。
「無間へのまなざし」1917年
女性のポーズは反復し、画面の外へひろがる予感を感じさせます。
習作もまたしっかりと立つ女性の存在感がすばらしい
「『無限へのまなざし』の単独像習作」 1913~1915年
ホドラーは二度結婚し、また妻以外の女性とも子供をもうけるなど、恋愛もいろいろあった人のようです。「無間へのまなざし」の制作と同時進行で描いたのは20歳若い恋人ヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルの姿。ホドラーは妻のいる身ですが、ヴァランティーヌとの間に一女をもうけます。
その出産前に癌が見つかり、出産の後だんだん衰弱して死に至る姿を描きとどめます。彼女のどんな姿も忘れぬよう記録するように。
娘さんは奥様が引き取ったそうです。奥様も立派だ。
ヴァランティーヌが1915年に亡くなり、「無間へのまなざし」を1917年に完成したのち、ホドラーも体調を崩し部屋の窓から風景を描きます
「白鳥のいるレマン湖とモンブラン」1918年
山の稜線は、テレビで死の床のヴァランティーヌのラインと重なると言ってました。そうに見えるような、偶然にも思えるような・・・。
やはり並んで描かれている白鳥が気になります。
ヨーロッパでは白鳥は死ぬ前に美しい声で鳴くと言われてます。転じて詩や音楽の最後に残した美しい作品を「白鳥の歌」と呼ばれます。
これが遺作というわけではないそうですが、最晩年の作であるので、画業の最後にスイスの大自然への愛情を描いた気がします。白鳥はこの世へのカーテンコールなのかも。
そして数点展示された写真から気になった写真を
ホドラー氏の右横に木枠に縁どられたガラス板があります。そのガラスには人物のシルエットらしい線が描かれてます。
説明書きにはこのガラス版はデューラーグラスと書いてました。見て分かるように対象の人物や風景を早く正確に形をとる道具です。このガラス板からどうキャンパス画面に転写するのかはわからないのですが、風景画の山の稜線などはほぼ実物と重なるそうなので、この道具を使って風景画や人物の輪郭を描いていたようです。
デューラーグラスの名前からもわかるようにドイツルネッサンスの巨匠デューラー、そしてホルバインもこの道具を使ったそうです。勿論両巨匠ともスーパーテクニックの持ち主で、使いこなすのもまた技術が必要なのだと思います。
スイスで生まれ不遇な若い時を耐え抜き、やがて美しい色彩と生命感のある絵でスイスの自然や、生きる喜びを表現し、大地に立って生きる人を描いた。多くのスイス出身の画家がフランスなど美術の先進国に向かった中スイスに留まり華を咲かせたホドラーは、確かにスイスの国民的画家と言われるのにふさわしい人物だと思いました。
来年1月12日まで開催されてます。