第7部後半になります。
231年 祁󠄀山の戦い
司馬懿が手を挙げると魏軍は「混元一気の陣」を構えたのに対して、孔明が軍扇をさっと振ると蜀軍は「奇門八卦の陣」を構えた。孔明は余裕の表情で「この陣が破れたら漢中に戻り二度と来ない」と挑発。司馬懿は部下の武将三人に陣の突破の方法を伝授して軍を率いて突入させるが、魏軍が突入すると陣が変化し軍は取り囲まれ攻撃される。
しばらくすると蜀軍から司馬懿の元に、丞相(孔明)からの黒豚の贈り物といって、先ほど突入させた武将が身ぐるみはがされ顔を黒く塗られ荷馬車に乗せられて渡される。もう一度兵法を習えば3年後戦ってやろう、という伝言に司馬懿はムカッとして又もや挑発に乗ってしまい大敗する。
敗走する魏軍を高台から眺める孔明と姜維と王平。姜維は追撃隊の指揮を名乗り出るが孔明は兵糧の補給が遅れて追撃できない事情を話し、攻撃をあきらめる。
兵糧は15日も遅れて到着。兵糧の責任者の苟安(こうあん)が飲んだくれて配給を遅らせたのが原因だった。そのために司馬懿の軍を倒す好機を逃してしまった。姜維は苟安に腹を立て、孔明も軍規では兵糧調達が3日遅れたら打ち首だと怒る。だが、蜀の内政を司る李厳の甥なので余計な摩擦を避けるため、また他の者が兵糧調達の責任者をしたがらなくなるのを避けるため命は助け、刑罰を処する。
李厳と孔明はいまだしっくり来てないようです。
苟安は荷車に乗せられて兵隊に守られて帰る途中、魏軍につかまり、司馬懿の前に突き出される。命乞いをする苟安に司馬懿は李厳の甥であることを利用して策を計る。
成都で苟安は李厳に挨拶に行き、帰路に魏の密書を手に入れたと言って信書を渡す。それは司馬懿が密かに孔明を買収したという天子への信書だった。李厳の息子李豊(りほう)は離間の計ではと指摘し、孔明がいなくなれば朝廷は混乱し国が亡びると必死で止めるが、李厳はそれを承知で孔明失脚のいい機会と言い
「蜀にはこの私がいる。私とて諸葛亮に劣りはせぬぞ。」そういって信書を劉禅の元に見せに行く。
信書を見た劉禅は驚きながらも、北伐はもともと反対だったので蜀魏が修好を結ぶなら朕の本意だと反論するが、李厳は他にも孔明は独断で密約を交わしているに違いないと言う。蜀の主君は陛下なのか諸葛亮なのかわからない、このままでは漢の献帝と同じ末路をたどってしまう、と劉禅を脅かす。
蜀軍は司馬懿軍に勝利している最中だったが、劉禅から呉が侵攻してきたという理由で至急全軍を戻すようにと直々に信書が届く。孔明は呉の侵攻は方便で、司馬懿による離間の計によるものと気づきながら、軍の指揮を魏延と王平に任せ、姜維と少数の兵を伴うだけで成都に向かう。
成都の城門に近くなると李豊が出迎えに来る。
姜維、李豊を伴って成都宮に入り劉禅に拝謁する孔明。蜀が勝ち進み、魏は大きく敗退している今、何故呼び戻すのか。30万の大軍を動かすのは極めて危険で兵糧も使う。更にこれまで多くの兵の犠牲を無駄にするのかと孔明は表情厳しく言い、劉禅は返す言葉を失うが、代わりに李厳が謀反の疑いありと司馬懿の信書を見せる。李厳はこの信書を苟安が魏の役人から奪い取ったという。姜維は苟安が職務怠慢の為罰を受けた事に逆恨みをしていることを報告。そのうえ苟安は行方をくらませてしまっていた。それでも李厳はこの信書が証拠だから罷免して取り調べするべきと詰め寄ると、息子李豊がたまらずに劉禅に進み出る。
苟安の持ってきた信書は離間の計ではないかとすぐに気づき父に諫言したが聞き入れられなかった為、人を使って孔明に連絡をした事。孔明は大軍を残し自分は少数の兵と共に帰還したのは天子を脅かす気持ちがない事を報告。怒った李厳に張り倒されるが、孔明の疑いは晴れる。司馬懿の計略と気づきながら弾劾しようとした李厳は牢に入れられてしまう。
そしてせっかく順調だった北伐もこのために失敗に終わってしまったようです。
牢の中で死を覚悟している李厳に孔明は酒と食事を持参して尋ねる。
あ、このお弁当箱には見覚えが・・・
二人きりになって向かい合う。孔明は、私になんの恨みがあるのかと聞くと、李厳はふっと笑う。
「そなたに恨みなどない。ただ国を挙げての北伐に反対なだけだ。私は長年蜀に仕え国の限度を知っている、だがそなたは魏を討つと言い張る。兵も民も疲弊して不満が渦巻いている。このままいけば蜀は血を搾り取られると思ったのだ。」
それに対し孔明は
「北伐以来、蜀の民は確かに重い代償を払っており私も心苦しい。」と言いつつ、これまで平和だった蜀もいずれ侵略されてしまうと指摘。「だから先代は漢賊の成敗を誓い、その遺志を継いで北伐を開始した理を何故わからないのか。」と言う。
「天が助ければ中原も手に入られる。かたすみに縮こまって攻めに出ようとしなければいつか蜀は滅びるぞ」
その孔明の言葉に同意できない李厳。わかってくれなくてがっかりする孔明。多分孔明は毎回勝算があるからこそ進軍させているのだろうけど・・・実は私も李厳の方の意見に賛成なんです。
劉備が漢賊と呼ぶ魏軍を討ち天下統一を目指したのは、もともと蜀の民の為ではなかった。劉備と孔明は自分たちの天下統一の足掛かりとして、蜀の豊かな人材と兵糧を取り込むため計画通り蜀に入り支配した。蜀の民は中原を自分たちの領土にしたいとは思ってない。ただ今の国で穏やかに平和に暮らしたい(第5部で益州に劉備を手招きした長松も自分たちの生活が安定して続くことを望んでいて、最初は曹操の配下に入るのを画策していたくらいだ)。それをいつの間にか蜀の民の為だとすり替えて、劉備の大業(と言うか野望)をかなえるための戦争の言い訳になっているように思えてしまうんです。そのために重い税を払い、それ以上に大切な家族を奪われてしまう。徴兵で戦争に駆り出され多くは死んで帰ってこない。李厳の言葉は北伐に納得がいかない蜀の民の声を代表してるように思えました。
だから孔明も李厳に対して厳しい処罰をすることはできなかった。
朝議で劉禅は百官たちに、李厳は自分が兵糧を集められなかったのをごまかすために呉の侵攻という嘘の情報を流したという話にして報告。これまでの貢献や息子李豊の願いもあり厳罰は免れ平民に落とすことになった。
孔明は李豊の堅実な人柄を評価し兵糧調達の責任者に任命。
李豊は父の李厳が庶民に降格されると身も心も軽やかになり嬉しそうだったと孔明に言う。それを羨ましいという孔明の表情は疲れが見えました。戦争をするというのは大変なストレスがかかりますもんね。蜀が戦争をしなくてはいけなかった理由は本当のところはどうなんだろう・・・。
234年 第五回北伐に出発する
劉禅は「相父」と呼んで慕う孔明と手をつなぎ共に城門まで行く。年を取り体が心配な孔明に万感の思いを込めて御車にいざない
孔明は成都の街を振り返って見てから輿車に乗る。
出立していく様子に、もう二度と会えない気がすると涙ぐみながら拱手して見送る劉禅。
孔明がまだ蜀軍の陣に到着してない時、魏延の布く陣に魏から鄭文(ていぶん)が投降してくる。司馬懿の不公平な人事に不満があるという。魏延は偽投降ではと疑うが、陣を攻撃してきた魏の武将を鄭文は討ち取り信用される。
早速魏の情報を鄭文に聞くと、本隊は隴西(ろうせい)に陣を構え13万の兵がいて守りが固いが、実は司馬懿はその先の北原にわずか5千の兵と共にいるという。魏延は司馬懿を討つチャンスと色めき立つ。
その話を険しい表情で聞く副将の馬岱(ばだい)
馬岱は丞相(孔明)の不在の時に勝手に軍を動かすことと、遠方の北原への奇襲の危険性を指摘し、孔明が戻るまで待つようにと進言したが、功を焦る魏延は2万の鉄騎兵を連れて出立。
蜀の本陣に到着した孔明は友人で新しく参軍に任命した楊儀(ようぎ)を連れてきた。
楊儀威公(ようぎいこう)
陣門で出迎える武将の中に魏延がいない。王平から魏延が魏から投降した鄭文の案内で勝手に北原へ出兵したと聞き、すぐに罠とわかり姜維と王平に援軍を命じる。
もちろん司馬懿の策略で、蜀軍最強の精鋭部隊である魏延の鉄騎兵2万を壊滅させるため、道中の紫石谷(しこくや)に伏兵を置き魏延の軍を攻撃し5千の兵を倒す。だが急ぎ駆けつけた蜀の援軍により逆に1万の兵を失い敗走する。孔明は敵の策に引っかかってしまった魏延と馬岱を叱責。償いとして隴西の陣に立てこもる魏軍を挑発することを命じる。
司馬懿は戦争の技では孔明に譲るが守りに入ると固くびくともしない。魏延と馬岱の軍は司馬懿の陣門の目の前で悪口を言って挑発するが10日たってもまるで反応がない。馬岱はばかばかしくなって立ち去るが、魏延はぐっとこらえてとどまっていた。魏の将軍たちは悪口に腹を立てていたが、司馬懿はむしろ孔明が反応しない魏軍に焦りを感じていることを察する。
そこへ蜀から使者がやってくる。参軍の楊儀が孔明の信書と贈り物を入れた箱を持参しててきた。息子の司馬昭や将軍達が睨む中、涼しい顔で楊儀は司馬懿に信書を渡す。信書には
「勇猛なる仲達殿が大軍を抱えながら戦を恐れて縮こまるとは何事か?いつ女人になられた?ならばこの麗しき衣を贈呈せん。戦わぬのならこれを受け取られよ」と書かれていて、箱を開けると真っ赤で派手な女ものの着物が入っていた。孫礼はかっとして楊儀に剣を突き付けるが司馬懿は止め、楊儀に手伝ってもらって羽織ってみる。武将たちにとって女扱いされるのはこれ以上ない侮辱のようです。
女ものの着物を羽織った司馬懿を見るのも耐えられない様子。
司馬懿は楊儀に酒をふるまうように命令する。将軍たちは去り二人きりになると、司馬懿は孔明の様子を尋ねる。楊儀から寝る間も惜しんで仕事していると聞き言う。
「睡眠不足で多忙では体が持たん。孔明殿に伝えよ、人間は何事にも欲をかかなければ枕を高くして眠れる。」・・・北伐の野望を捨てよと牽制。そして孔明の健康状態も察知したようです。
楊儀が去ると将軍たちが攻撃を願い出るが厳しく禁止する。司馬懿は言う
「わしを信じてくれ。ここで戦わぬことが我らへ勝利を、そして諸葛亮には死をもたらす。」
蜀軍は北伐の度に兵糧不足で苦労する。今回も兵糧の到着が遅れ残りが少なくなってしまった。孔明は荊州が今も我らの手にあったなら・・と悔しがる。蜀の兵糧部隊は途中の拒馬塞(きょばさい)の桟道でがけ崩れが起きて前に進めなくなっていた。必死で岩を撤去するも人力では埒があかない、責任者の李豊は兵士たちと、険しく狭い剣閣道に持てるだけの兵糧を担いで山を越えて届けてくる。だが人が運べる量は限られていて、これでは到底34万の兵士を食べさせれない。
孔明ははたと気づいて、まだ劉備に出仕してない時に考えた「木牛流馬」の設計図を取り出し急ぎ300台作らせる。
一方司馬懿の陣では孔明の軍の兵糧ががけ崩れで滞り人力で運んでいると知らせが入り、さらに打撃を与えるために兵糧部隊の攻撃を命令。
司馬昭と孫礼と兵士が拒馬塞で潜んでいると蜀軍が見たこともない運搬車に兵糧を載せて運んでくる。
攻撃し、兵糧ととその運搬車を全て奪い司馬懿に見せる
それが木牛流馬。急いで作らせたにしてはちゃんと牛さんのかわいいお顔まで作っていて職人のこだわりを感じます。構造は工事現場で使われる「ネコ」と似た一輪車です。
使い勝手の良さに司馬懿は感心、さっそく自軍の工匠に同じものを作らせることにする。
兵糧を奪われて蜀軍の兵糧はあとわずかになる。軍の撤退も視野に入れながらも、孔明は王平に魏軍からの兵糧の奪取を命じ、小声で知恵を授け、
王平はにっこりする。
長安から出発した魏の兵糧部隊は途中の隴西で魏の少数の兵を連れた武将に呼び止められる。大都督からの命令で兵糧の質を点検しに来たと言われ調べられる。
木牛流馬の頭をくいっと上げて回る兵士たち。一通り調べた後、怪しいものはないと確認して武将たちは去る。兵糧部隊は改めて木牛流馬を動かそうとするとどうやっても動かなくなってしまった。先ほどの武将達が細工をしたと気づいた矢先、待ち伏せした蜀軍が襲って来る。魏の兵士たちは動かない兵糧を置いて逃げざるを得なかった。先ほどの武将は魏の鎧を着た王平。残された兵糧を乗せた木牛流馬は舌を回すと(見た感じは顔を少し揺らしていた)又動きだし、兵糧を蜀軍に運んで行った。木牛流馬の顔にそんな仕掛けがあったなんて、またそれを模倣して作った魏の工匠たちも、知らないうちにそんな細工まで同じに作ってしまったのだろうか。ある意味凄いです(@_@)
聞きしに勝る剣閣道。確かに兵糧を運ぶのは大変だっただろうね。兵糧を見事奪ってきた王平に、楊儀に支えられながら出迎えた孔明は涙ながらに感謝する。
一方魏の兵糧の責任者は即座に処刑されて気の毒でした。
魏の隴西の陣では
敗戦が続き、さらに30万石の兵糧を奪われるという大失態に、勅使(以前、病気と言ってよろよろして参内した司馬懿を支えたあの宦官)が来て、勅書を読み上げる。
頭を垂れて聞き入る司馬懿、司馬昭、郭淮、孫礼
失態の責任をとらせるため降格するが、引き続き大都督の任務は残す。だが1か月以内に結果を出さないとこれまでの敗戦の責任も併せて処罰するという内容だった。司馬懿は震える手で勅書を受け取る。春は食料も尽きかけている季節なのに、無理してかき集めた兵糧をあっさり奪われたと知って曹叡が怒るのは尤もだった。きっと、農民の残り少ない食料さえ無理やり奪うようにして集めたのでしょうね。これで飢えた中原の民を何十万人救えたはずだった。そう思うと司馬懿は罪の意識に震えた。
将軍たちは盗賊め!と怒るけど、司馬懿はこれも兵略だと将軍たちを諫める(魏軍も蜀軍の兵糧を奪っていたし、お互い様ですよね)。さらに司馬懿は孔明がいるから処刑されないですんだとも言う。対抗できるのは司馬懿しかいないと判断され猶予をもらえた。そういう風に司馬懿はいくつも視点を持って総合的に事柄を判断するのが凄いです。
向かって左が副将の郭淮(かくわい)、その隣が熱い男孫礼(そんれい)
1か月猶予の内に成果をあげなければ戦場から外され厳罰を処される。つまり処刑される。次期大都督は無能な夏侯覇が決まってしまい将軍たちは到底承知できない。司馬懿は蜀の兵糧基地の上方谷(じょうほうこく)に注目する。守っているのは蜀の中心となる魏延と王平の精鋭部隊である。・・という事は祁󠄀山にある蜀の本陣の守りは手薄になっている。まずは郭淮と孫礼の軍にに本陣を攻撃させ、上方谷にいる軍が援軍に駆け付けに出て行くのを狙って、司馬懿は司馬昭を伴い軍を率いて上方谷を攻撃、兵糧を奪い返す策を練る。
「孔明はわしから30万石を奪った。自ら奪い返し陛下にお詫びする。」
郭淮と孫礼の軍は激しく本陣を攻める。魏延はぎりぎりまで動かず、本営が破られたと報告が来て素早く援軍にゆき、魏軍の勢いを崩れさせる。
その知らせを受けて司馬懿の軍は上方谷に攻撃し、王平と残った少数の兵は逃げさった。司馬懿は慎重に砦の周りを点検させ、また祁󠄀山方面も警戒してから砦に入る。兵糧は整然と保管され、袋の中には米が詰まっているのを確認して兵糧を積むように命令する。けれど異臭がするのに気づき、手にした米を口に入れると
吐き出す。油が染みていた。
作戦とはいえ大切な食料になんて罰当たりな
戦争はこんなにも非情な事をやってしまう・・・
さらに、穀倉の地面には骸炭(コークス)が敷かれていた。孔明の罠と気づいたとき、火矢が雨のように降りかかり、穀倉は爆発。火の海に取り囲まれる。急襲に驚き落馬する司馬懿、矢に打たれ火だるまになって次々と死んでいく兵士、もう逃げ場を失った。
孔明は高台で楊儀に支えられながらその様子を見ていた。密かに王平に命令して兵糧へ細工をさせ、魏延の軍と入れ替わりに廖化の軍を上方谷に向かわせ砦を囲ませていた。
火から逃げ惑う司馬懿を確認すると、
「司馬懿は火の海に溺れるしかない。天と言えどもやつを救えぬぞ」といい、そしてひざまずき天を仰ぐ。
「主君、ようやく雍涼の平定が叶います。中原を平定できるのです。大漢が、ついに再興できます!」
司馬懿は孔明の緻密な策に負けを認め、逃げ場も戦える余地もないことを悟る。将兵たちに蜀に降ることを勧め、自分は責任をとって自刃する決心をする。息子の司馬昭は嫌だと言って突っ伏し、将兵たちも皆大都督と運命を共にすると忠誠を誓い、動かない。司馬懿は叫ぶ「皆は天下一の戦士だ。心から礼を言う!」
次々と火矢に打たれ倒れていっても動かぬ将兵たち。魏の軍人は気概を持ち忠誠心が篤い。司馬懿が軍をそこまで育てた。司馬昭は涙とともに詩を口にする
「風蕭々として易水寒し 壮士ひとたび去ってまた帰らず。」将兵たちも唱和していき、その間も次々と討ち殺されていく。その声は孔明のいる高台まで聞こえてくる。それは秦王暗殺を企てた荊軻が出発するとき易水のほとりで詠った死を覚悟しての詩。孔明は感動する。
「なんと気高い男か、敬服に値する。司馬懿よ、英雄に相応しい潔さだ」
司馬懿はひとり曹操の「短歌行」の一説を口にする。「酒に対えば当に歌うべし 人生幾ばくぞ 例えば朝露の如し・・・太祖、今すぐおそばに参ります」と言い首に刀を当てた、その時
雨粒が堕ちてきてすぐに豪雨になる。火はたちまちのうちに消えてしまった。魏軍は命拾いする。
この地域は9か月も雨が降ってなかったのに、何故この時に雨が降るのか。いつも天を味方にして勝利を呼び危機を救っていたのに。孔明は叫ぶ
「天は我を見放した!」そういって絶望のあまり血を吐き倒れる。
・・・天はきっと食べ物を粗末にしたことを怒ったのだと思う・・・
このドラマでは血を吐くと、たちまち白髪になって、そして命が尽きていく。
すっかり白髪になった孔明は死期が近いことを悟る。孔明の傍らには姜維と楊儀がいた。孔明は姜維に自ら著した「兵法24篇」と「連弩の法(10本の矢を続けて放つことができる武器の作り方)」の書を託す。「そなたならわが未完の大業を受け継げる」
姜維は涙ながらに受け取る。孔明は姜維の事をよほど気に入って信頼しているのだね。そして改めて孔明は「漢と賊は両立せず。蜀が魏を滅ぼすか、魏に滅ぼされるかだ。これ以外第3の道はない」と念を入れる。
そして楊儀には軍を直ちに五丈原に移動し、自分がもしもの時には兵符(全軍統率権を意味する虎の置物)を託すのですぐに漢中に撤退するように言う。楊儀は涙ながらに命に懸けて送り届けると誓う・・・が心配な事があるという。それは
「魏延殿は功も人望もあり5万の兵を従えております。私が兵符を受け取れば魏延殿が謀反を起こすやも・・・。」確か史実でも魏延と楊儀はそりが合わなかったそうですね
孔明は探りを入れてみるという
魏延には孔明の病気を知らせてなかった。そのため魏の動きを報告をしに孔明の元にやって来て、警備兵が病気だと止めたが、前に仮病を使ったことがあったので信じないで構わず入ると、
蝋燭をともして天に祈る孔明がいて、魏延は陣幕に入った勢いで蝋燭の火をひとつ消してしまう。孔明の様子はだいぶ弱っていた。魏延は驚き、手短かに魏の軍備増強の報告をして回復を祈り去ろうとすると、孔明が呼び止める。
孔明は自分の命が長くないことを魏延に話し、自分の死後誰に任せればよいかと魏延に聞く。魏延は答えるのを憚るが、孔明が申せと促すので答える。
丞相(孔明)の功労に比する人はいないが、あえて申すなら蜀の人間に兵符を渡さない方がいい。先帝も今の陛下も蜀の人間ではないので陛下が不利になるし、北伐をやめて蜀の片隅に甘んじてしまう。―ーーーこの意見に孔明も同意する
また軍を司る将軍は人望篤く忠勇で戦功がある者がなるべきと魏延は言う。これも一般的な意見を言ったのですが、この言葉を受けて孔明は魏延にこそ兵符を渡すのにふさわしいと言ってくる。魏延はさすがに辞退すると、孔明は畳みかけるように魏延の武勇と戦功をほめちぎり、そなたしか適任者はいない「千釣の重さの天秤なれどしっかり担ぐのだぞ、先帝の御霊を背かぬようにな」とまで言う。そこまで言われて魏延も承知して神妙に誓う
「この魏延 先帝の御霊に背かずご命を拝します。」孔明はさらに一両日中に全軍の前で兵符を渡すとまで約束する。
そうして魏延が去ってしまうと、物影から楊儀と姜維が出てきて、やはり魏延は全軍を自分のものと思っていると怒る。
確かに魏延は心のうちで蜀軍を自分の手で統率できれば、考えてたとは思います。でも、大概の力のある武将は一度は考えてしまうのではないだろうか。その心をくすぐるようにあんな言われ方すればその気になってしまうのが普通じゃないだろうか。
これは探りを入れるという事ではなく、謀反の疑いを作り上げる罠。
それも全軍の前で兵符を渡すとまで言って・・・。その兵符を渡すときが魏延が油断するとき。その時に始末する事に決める。魏延を殺す者は・・・
孔明は魏延の軍の副将である馬岱を呼び出す。馬岱は西涼の馬一族の生き残りで、蜀の五虎将軍馬超の従弟。馬一族は漢王朝で重任を果たした名門。だが曹操に滅ぼされてしまった。孔明は劉備と共に漢王朝再興を目指しながら早死にした馬超の無念を語り、魏への晴らせぬ恨みを馬岱に託していると言う。馬岱はその無念を自分が受け継ぎますと答える。それを受けて魏延が自分の亡き後謀反を起こして蜀漢滅亡の危機が訪れるからその前に斬れと命令する。馬一族の無念の情に訴えて魏延への惨殺命令へとすり替えた。
234年8月23日 五丈原の陣で孔明は劉禅への遺言を楊儀に口述筆記させる。そして息を引き取る。享年54歳。
孔明の遺言にしたがい、全軍を漢中に引き上げることにし、姜維は楊儀に兵符を渡す。その時、魏延が兵符を取り上げ、全軍を指揮すると宣言し北伐の継続を命令。魏延は孔明から後継者だと言われてたので、すっかりその気でいる様子。姜維は謀反を起こす気だなと怒ると魏延は丞相亡き後恐れるものはないと笑う。各将軍に命令を下そうとしたとき馬岱は一気に魏延を斬る
どこのマフィアなんだ・・・。これは内部粛清ではないか。いつも孔明は魏延には肝心なことを知らせず蚊帳の外に出していた。魏延に撤退の話をしてなかったじゃないか。
これまで長い間貢献してきた武将を、若い武将たちがこんな形で殺すのを正義というのだろうか。魏延は本当に謀反の気持ちがあったのだろうか。ドラマでは孔明は魏延が好きじゃなく厳しい対応をしていて、魏延も感じていたように見えました。自分の武勇を過信して時に孔明に逆らうこともあったのも確かで、自我の強い人物でしたが、勇猛な武将で精鋭部隊を育て上げ、兵士に人望があったと楊儀も認めていたじゃないか。孔明の死後、武将間で対立が深くなることを事前に防いだという事なのだろうか、魏延が孔明の葬儀でもう怖い者はいないと笑ったのは本音だと思うけれども、要するに孔明とシンパが魏延が気に入らなかったから悪者に仕立て上げたのだと思いました。少なくともこのドラマでは魏延に少し同情的でした。
司馬懿のいる陣に蜀軍が退却していると報告が来る。しかも陣には孔明の葬儀をした痕跡があったという。司馬懿はこれも孔明の策略ではと疑心暗鬼に駆られるが、いずれにしろ兵糧が尽きて退却しなくてはならないのは確か、各将軍と慎重に連携して蜀軍を追撃することにする。
白い喪服を羽織った蜀軍。陳倉道で姜維の軍は王平が率いる本軍と離れて魏軍を待ち伏せする。
一方司馬懿の軍は蜀軍が立ち去った五丈原の陣を偵察してから追撃に行く。伏兵がいるとしたら陳倉道に違いない。追っていくと案の定陳倉道で伏兵が攻撃をしてくる。そのせっかちな攻撃に司馬懿は孔明の死を確信する。が
崖の上から孔明が現れる。・・・頭ぐらぐらさせながら・・・(^^;)
司馬懿は孔明を見て驚き、慌てて退却する。
蜀軍が漢中に戻ると関所をふさぎ国を挙げて喪に服した。孔明は本当に死んでいた。それを知り、司馬懿は口惜しさに身もだえする。百年先まで「死せる孔明行ける仲達を走らす」と言われてしまう。
そして崖に残された孔明の木像を回収させ、相対する。
「孔明よ、なぜ死んだのだ?そなたがおらぬと寂しいではないか。我らは百年に一人の稀有な天敵同士、そして千載に一遇の友でもあった」
感慨に浸る間もなく再び以前にも訪れてきた勅使が来て曹叡の勅令を伝える。国境を取り戻したので、大都督を解任し都に戻るように・・・もう孔明がいないから司馬懿はお払い箱にされてしまった。
ひっそりと馬車に乗って司馬昭を伴って都に向かう司馬懿に将軍たちはみな「大都督!」と叫び続けて馬を駆け追いかけてくる。追いつくと将軍たちは大都督と離れたくないと懇願。せめて洛陽までお供すると申し出るが、司馬懿は朝廷で自分を嫌う人の口実になってしまうと言って断る。将軍たちは涙ながらに誓う。
「これだけは覚えてください。私の大都督の忠誠は生涯変わりません。いつの日か大都督の命とあらば例え千里であれ万里の果てであれ、必ずや駆けつけて命を捧げます。我らは永遠に大都督に従います」共に艱難辛苦を乗り越えた将軍たちの司馬懿への忠誠心はさらに強まっていて感動的でした。
洛陽への帰途に司馬懿と司馬昭は荒れはてた何進将軍の祠堂を尋ねる。静珠の祖父の祠堂で、漢王朝の乱れを正そうとして45年前に殺害された。司馬懿は祠堂の修繕を命令する。
洛陽では曹叡に拝謁し国境の回復と孔明を死に追いやった功績を褒められる。そして洛陽で余生を暮らすように言う。司馬懿は自邸に戻り静珠を見てくつろぎ癒され、妻にすると言う。静珠は涙ぐみ喜ぶ。本当なら大将軍の孫娘で不自由のない身分だったのに、自分を下女と言う静珠も苦労が多かったね。二人は夫婦となった。
洛陽宮では曹叡が病に伏し自分の命がわずかなのを悟っていた。いまや側近となった大司馬の曹爽を呼び、曹一族の地位を脅かす司馬懿の対策を話し合う。司馬懿は用心深く屋敷にこもり殺す理由が見つからない。一計を案じ、曹叡は司馬懿を宮廷に呼ぶ。
参内した司馬懿に曹叡は自分の命が長くないことを打ち明け、司馬懿の人望と実力を褒め、曹爽と共にまだ幼い太子の摂政をしてほしいと頼む。・・・これはまさに孔明が魏延を陥れた罠と同じじゃないですか。
魏延は現場の人間で戦場で直接戦うことが専門。深く真意を探らなかったので孔明の言葉をうのみにしてしまったが、司馬懿は現場でも陣中で策を練るのが専門。さらには曹操と孔明が認める智将、すぐに真意を察する。
司馬懿は曹叡の意向に感謝しながらも、高齢を理由に固辞し、曹爽と夏侯覇の両体制を推挙。曹叡が鋭い目で曹爽が実権を握れば遺恨のある司馬懿一族を受け入れないぞと言うと、司馬懿は自分の官職を全て取り上げ、さらに郭淮ら将軍たちの軍権を取り上げ、息子たちを庶民に降格するように申し出る。
「さすれば曹爽どのもご安心でき、私も天寿を全うできます。」
司馬懿が退室すると物陰で聞いていた曹爽が現れた。曹叡は司馬懿の天寿を全うさせることにした。もし、司馬懿が摂政を承知したら一族皆殺しにするところでした。
さらに曹叡は曹爽に言う
「先帝の御世に司馬懿の動向を探るためにある者を送り込んだ。十数年にわたりその者が朝廷に代わり司馬懿を見てきた。朕亡き後はそなたに託すからその者を使うがよい。」
239年 曹叡崩御 享年36歳でした。
次に帝位についたのは幼い曹芳。・・・この曹芳は曹丕の弟曹彰の孫だそうです。
司馬懿は邸宅で静珠と睦まじく暮らし、静珠は子を身ごもり司馬懿は喜んで見せたが
顔が笑ってないんです。
やがてお産となり、産婆や女召使たちが静珠を取り囲みその後ろで司馬懿は心配そうに様子を見ていた。だが、たいへんな難産で、子供が生まれず出血が続く。静珠はは恐ろしい痛みに苦しみ、叫び、
司馬懿に救いを求めるように見つめ、死んでいく。
司馬懿はショックのあまり倒れ、意識を失う。口からよだれをたらし壮絶な表情です。画像を撮って一度ここに貼ったのですが、見ていて楽しいものではないのでやめました。
その知らせは曹爽のところまで届き、宦官(曹叡の側近で、司馬懿の陣にもたびたび勅信を伝えに来ていたあの宦官です)に司馬懿を見舞いに行かせ、明日をも知れない命だと確認する。
家を案内する司馬昭。庭に咲く桃の花の美しい季節でした。
安心した曹爽は、翌日の清明節に天子曹芳に付き添い文官武官全員を連れて先祖の稜に墓参りに出かける。
その喧噪を聞きながら
司馬師、司馬昭兄弟が父の御座所の中に入ると、そこには
元気な司馬懿と駆けつけてきた郭淮や孫礼達武将がいた。驚く息子達。武将たちは誓った通り、司馬懿の招集に密かに駆けつけてきていた。
司馬懿は曹爽と曹芳の外出で警備が手薄になった皇宮に軍隊を率いて入り、近衛兵を掌握、郭太后(曹芳の母)に国賊曹爽を討つようにという命令を無理やり書かせる。
曹芳と曹爽の一行に太后の命令書と共に司馬懿の軍が現れる。曹爽が天子曹芳を守って司馬懿を殺すよう命令したが、司馬懿は百官たちの家族も人質にしたと脅し、文官武官ともども司馬懿に帰順してしまう。
曹爽は取り押さえられ、司馬懿は素足で曹爽を踏みつける。
長年の曹一族との確執の決着は司馬懿に軍配が上がる。曹爽は悔し気に言う
「司馬懿、司馬懿よ、お前の勝ちだ。曹氏4代で築いた領土をわずか1日で奪うとは・・・」司馬懿は答える
「わしが剣を抜いたのは一度。だが10数年剣を磨いてきた。」その知恵を授けたのは皮肉にも曹操だった。
軍部に絶大な実権ををもつ司馬懿は曹一族から政権を奪い魏王朝は傀儡政権となる。曹操が危惧した通りになってしまった。いやもしかしたら、曹操の危惧に曹一族が過剰に反応してしまって司馬懿を弾圧し、むしろ反撃を促してしまったのかもしれない。
もしかしたら、司馬懿はもっと早くに曹一族に反旗を翻すこともできたのかもしれない、でもわざわざこの時期まで待ってたのでは、と、このドラマに関しては思うときがあります。司馬懿は曹丕との約束を守って息子曹叡の治世までは曹家を守っていたのでは。勝手な憶測ですが・・・。
歴史は勝者が記していく。敗者の曹爽はこのドラマで悪役になってしまいました。
蜀の魏延だって、斬られたのが姜維や楊儀だったら、彼らが悪役に書かれてたかもしれません。
孔明の言う「北伐」も魏から見たら「侵略」ではないか。
こと、争いにおいての正義とは流動的で絶対はないように思えました。
曹爽の一家は皆殺しになったそうです・・・
ドラマで、英雄たちの様々な武勇や軍師の謀策が繰り広げられましたが、最後は雰囲気が違いました
数年後老いた司馬懿が静珠の墓に行くと、あの老宦官がいた。
司馬懿はこの宦官が静珠を自分に贈ったのではと聞くと、それは司馬懿の主君曹丕だと答える。曹丕の命令で静珠に間諜の役目を負わせて司馬懿に贈ったという。その静珠の正体を司馬懿はとっくに気づいていた。でも静珠がいたから曹丕はじめ曹一族は自分への警戒を緩め命がつながったという。
宦官は聞く、静珠を殺したのは司馬懿ではないか。司馬懿は最愛の妻であるぞと反論するが宦官は信じない。
「この世でそなたが執着したのは功名と大業だったはず。そなたにとって静珠は使い捨ての道具に過ぎない」
司馬懿は認める。産婆を丸め込んで薬を飲ませ殺したという。宦官が先ほど最愛と言ってたのに非道な仕打ちだと責めると、司馬懿はわしが執着しているのは功名と大業だと指摘したではないかと答え、逃げるように輿車に入り涙を流し去っていく。
静珠は本当にかわいそうな女性でした。大将軍の孫娘として生まれたのに、没落して放浪の身となり、このままいけば悲惨な末路が待っているだけだったのだと想像します。だけど美貌と育ちの良さで曹丕に拾われ司馬懿の間諜の役目を負わされ褒美の品としてもらわれていく。静珠には他に生きる道がなかった。司馬懿だけでなく曹丕も曹叡も宦官にとっても静珠は道具でした。司馬懿があんなに静珠を可愛がったのも、結婚したのもまんまと静珠の色香にほだされているように見せて曹一族を安心させるための作戦だった。少しは愛情はあったのだとも思います。優しい静珠の思いやりに癒されていたし、祖父の祠堂を直してあげてました。でも、司馬一族の結束の方が強かった。
静珠に青春はなかったけど、自分を救ってくれた曹丕に淡い想いがあったかもしれない。司馬懿は曹丕と静珠の関係をいぶかるように見ていた時がありました。その後、詳しくいえば曹丕の没後、少しずつ司馬懿にやさしくされ愛情を感じていったように見えました。だけど曹一族によって負わされた間諜の役目を拒否できず、きっと心苦しかっただろうね。それでも自分を正式な妻にしてくれて、子供が生まれる喜びを感じて、やっと幸せになったと思って出産に挑んだのに、裏切られ苦しんで殺されていく・・・。司馬懿にとって静珠に子供ができるのは不都合な事だった、曹家の息のかかった女の子供だから。だから静珠も生まれてくる子供も殺した。静珠が死んでもすぐに赤ん坊を母体から出したら生きていた可能性があったのにそれもしなかった。そして静珠の死にショックを受け病に倒れたふりをして曹爽を油断させた。静珠と嬰児を殺し、さらにその死を利用して曹一族を殺した。本当に恐ろしい人だ。でもそうしなくては自分たちが殺されてしまう。人を欺いて行かなければ生き残れない。
それでも愛情が芽生えていて、司馬懿は静珠に果した仕打ちに自分も苦しんでしまう。
静珠は実のところドラマのオリジナルの人物ですが、彼女を通して、乱世の実体を示しているように感じました。
それから、はたと気づいたのですが、この老宦官は、ドラマの最初、董卓が専横した時代に百官に号令をかけた宦官と同じ人ではないだろうか
似ているのです・・・。この宦官こそが空気のように宮廷や英雄たちの中枢にいて英雄たちの浮沈を見届けた歴史の生き証人では。
251年 司馬懿は孫の幼い司馬炎のおさらいを聞いてます。
「庭に楡の木ありて その上に蝉あり
蝉は羽を広げて鳴き 清露を飲まんと欲す
蟷螂が後ろにありと知らず その首を曲げる」
それはこの時代を象徴し、これからも予言する文章。司馬懿は聞きながら眠るように亡くなります。72歳でした
これをもってドラマは幕を下ろしました。
蜀は孔明の予想通り魏に滅ぼされます。その魏もすでに司馬一族が曹一族から政権を取って代わっています。劉禅は蜀滅亡後も恵まれた生活を保障されて案外幸せだったそうです。三国のうち一番長く続いたのは、北伐をせず領土を固く守り貿易で国を富ませた呉だったそうです。呉は229年に孫権が皇帝の位につき、孫劉同盟を必要とする孔明は多くの祝い品を届けたそうです。けれど孫権亡き後国が乱れ、司馬炎が魏王朝を廃して立てた晋の国に滅ぼされたそうです。280年でした。その晋も分裂して、やがて新しい王朝にかわる。
さらに王朝が取って代わっていき、1800年後の現在は王朝という制度を失っています。孔明の願った永遠はありえなかった。
諸葛亮孔明は、万能の人でこれまで超人的な印象があったのですが、このドラマの孔明は、悩んだり苦しんだり欠点もあって人間的でした。人の好き嫌いがはっきりしていて、好きな人物には結構甘くそうでない人には厳しく対応していました。そうやって自分の意に沿う人を選んで重要な任務を任せていました。その不平等な対応に思う事もあったけれど、それこそ孔明だって万人に合わせられるわけじゃなくて、明日の運命もしれない戦乱の世にはいちいち自分に合わない人を説得する余地はなかったのかもしれません。そして鋭い洞察力をもって先の先まで読んで策を考えていく非凡な知能は本当にすごかったです。孔明の「兵法の極意というのは術(すべ)ではなく道にあるのだ。万物の変化には虚実と奇正がある。術は上辺にすぎず根底にある道こそが肝要」という言葉が現代の物事にも当てはまると感じ、心に残りました。孔明に対して感じたことは、私は必ずしも好感だけではなかったのですが、この人と思った劉備にぶれることなく生涯誠実に尽くしていった人生は素晴らしいとおもいました。
ドラマに登場する女性はみな時代や戦いや権謀に振り回され、自分のために生きることができなくてとても気の毒でした。女性の生きづらい時代だったです。それを考えると英雄たちは勝利しても負けて非業な死を迎えても精一杯生き抜いていけた恵まれた立場だったようにも思いました。
このドラマを見て、見えない存在となって空気に溶け込み馬を駆ける英雄たちの頬をかすめ、作戦会議の仲間に加わっている気分になりました。実際にこの時代に生きるのは過酷ですが、英雄たちの活躍はやはりとても心躍り、しばし現実を忘れ1800年前に想いを馳せ、時空の旅を楽しみました。そして三国志のドラマに感じたことを自由に書く醍醐味を大いに味わうことができ幸せな時間でした。
これからも三国志について気になったことを書いてみたいと思いますが、ドラマの感想はこれで終ります。読んでくださりありがとうございました。
最後に、ごみつさんへ。「三国志 three kingdoms」のDVDを快く見せてくださりありがとうございました!
一昨年の夏に第1部をお借りして、秋に第1部の感想をアップして、1年と4か月かけて感想を書き上げました。気持ちが入り込むと、一つ一つの事柄がとても大切な一部に思えてしまい文章が長くなってしまいました。それに三国志ドラマの物語を綴る嬉しさは、本当に格別でした。
戦乱の世に英雄が現れ、どうしようもない時代を新しい時代へと革新していく行動力と人を惹きつける魅力と、ついて行く武将たちの忠疑心や勇猛ぶり、策をめぐらす智将の活躍する物語に胸があつくなりました。時代の大きなうねりがあらわされ、さらに一人ひとりの人物がとても魅力的でした。
100年続いた「三国志」の世界も、終わって見れば死屍累々、英雄たちの物語だけが残された・・。
本当にその通り
英雄たちの華やかな戦いの影にどれだけ無念の死があったか。名もなき兵士という言い方があるけど、本当は一人ひとりに名前がありもっと生きたかったですよね。農民が汗水たらして作った作物が戦争の為荒らされたり兵糧として取り上げられ、飢えて苦しむ。その声なき声は英雄たちの活躍の影に隠れてしまうけど、
それでも戦いが続く。
その戦いを終わらすためにまた戦う。
ごみつさんが言われている通り、大きな力でどこかが帝国を築かないといつまでも戦が終わらない。
そのことは心にとどめて見ておきたいと思いました。
それでも様々な英雄たちの活躍は心躍り、悲しみには涙してみました。そして私たちの今の生活や人間関係、物事の見方などに彼らの言動から参考になる事も多かったです。
諸葛亮孔明が上方谷の戦の前に言った兵法の極意は、日常の中にもあてはまり、心にとどめておきたいと思いました。
ドラマと共に、別の世界を経験したような気持になった時間でした。俳優さんも素晴らしかったし、ドラマの評判が高いのも納得。そしてやはり三国志の史書と演義が人の心をつかむすばらしさを持っていたからですね!
本当に楽しい時間をありがとうございました
とうとう「スリキン」記事も最終回ですね!
最初の記事から1年ちょっとでしょうか?何だか感慨深いですね。
本当にお疲れさまでした。
そして、毎回、とても丁寧な記事にしていただいて有難うございました。
毎回、私も再度ドラマをみなおしている様な臨場感を感じながら楽しませていただきました。
私も「レッド・クリフ」から中華ドラマや歴史にはまって、色々な作品を見たり、読んだりしてきましたが、中華の歴史は本当に過酷で残酷ですね。
中国は(どこの国もそうでしょうが)大きな力でどこかが帝国を築かないといつまでも戦が終わらないんですね。
始皇帝が中華統一するまで、数百年にわたって続いたのが戦国時代。
で、乱世っていうのは、はたから見る物語としては物凄く面白いのですが、その時代を生きていた民百姓は本当に過酷な人生を送っていただろうと思います。
三国志も同じで、この三国をどこかが統一しないといつまでも戦が続いてしまう。
だけれどもその後も次々と支配者は変わっていき戦争は続く。
それが人間の歴史で、考えると愚かだしやりきれなくなります。
100年続いた「三国志」の世界も、終わって見れば死屍累々、英雄たちの物語だけが残された・・。
祇園精舎の鐘の音が聞こえてきますが、これが人間なんですね・・。
himariさんの感想記事で私もあらためていろいろな思いを巡らせてしまいました。
またお会いした時、お話しできるの楽しみにしておりま~す!