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自民党総裁と統一教会が連携して行った選挙運動

2022-11-24 | 小日向白朗学会 情報

 今回は、統一教会の申し子、安倍晋三が行ってきた選挙運動の手法について寄稿する。はじめに統一教会が国政選挙に関与するようになった経緯から始めるが、参考にしたのはこれまで多くの『御言選集』を提供してくれた『ちゃぬの裏韓国日記』である。
 統一教会は、昭和43(1968)年に統一教会関連の「幸世物産」を通じて、空気散弾銃「B3」を大量に貯蔵し敵対勢力と武力対峙することを準備していた。このことは昭和48年の国会でも大問題となっていたが、具体的な規制を受けることはなかった。ところが昭和62(1987)年に起きた一連の朝日新聞襲撃事件以降は、方針を転換し、翌年の昭和63(1988)年になると国政を乗っ取ることを計画し具体的に動き出した。具体的には「(御言選集173巻「太平洋時代の旗手」1988年2月18日 韓国・漢南洞公館)」[1]に次のような記述がある。
 昨年(筆者注:1987年)の選挙当時、日本のお金で60億円以上使いました(※政治家への選挙資金・人員提供=賄賂)。お金を使わなければならないというのです。時が尋常ではありません。国会の局面をつかまなければならないと言って、国会に新しく出てきた人たち(※新人候補)を、私たちが...。統一教会は怖いのです。 (選挙応援の信者が)40人いれば一人当選させることができます。これらの人たち(選挙応援の信者)は、いわば訓練された精鋭部隊です。一人が何軒まで訪問をするかというと最低が300軒です。最高訪問記録が1300軒です。訓練されなければなりません。』
 ここで出てくる『昨年の選挙当時』とは、昭和62(1987)年7月6日に行われた第三八回衆議院議員総選挙と第一四回参議院議員通常選挙、そして同年10月20日に行われた中曽根康弘の任期満了にともなう自由民主党(以後は自民党)総裁選挙のことである。その時、ポスト中曽根を狙っていたのは党総務会長の安倍晋太郎、党幹事長の竹下登、大蔵大臣の宮澤喜一の三氏であった。文鮮明によれば、支援する候補者一人に40人の訓練された選挙スタッフを付けることで国会議員一名を誕生させることができるとしている。これは、それまで文鮮明が推進していた20万民兵計画を転換し、政府中枢を選挙で支配する方向に転換したものと考えられる。つまり非合法活動から合法活動に路線転換したのだ。
 この選挙の時に、統一教会は、支援する候補に送り込む秘書を教育する設備まで準備したとされている。この件に付いては有田芳生『統一教会とは何か』が詳しい。
 また同ブログは、文鮮明が国政選挙に選挙スタッフを送るという手法の詳細とその目的に付いて『愛国運動の基地 1986年10月9日 韓国・漢南洞公館』を引用して説明している([2])。
『・・・勝共連合議員だとか、統一教会を代弁する議員だとかいう看板を受けなさいというのです。今回、サインしろというのです。今回、サインしなければ、私は後押し(選挙支援・秘書支援等)しないというのです。
 ・・・そこで今回、日本の国会議員を中心としてこれ全部・・・。今回の選挙で私のおかげで当選した人が多いのです。
・・・昔はお前達(国会議員)が好き勝手に言っても私たち(統一教会)は協力しましたが、これからは私たち(統一教会)が必要な要件をしっかりやれ!(という時がきました)
そのため、三つの条件を(要求する)...。
  第1条は「私は勝共連合勝共議員になることを宣誓する」、
  第2条は「私は統一教会を絶対的に支持する」、
  第3条は「統一思想は人類を解放することができる思想であることを受け入れる」
というものです。三大条件ですよね。ここにサインしろというのです。そして選挙してすぐ140人の議員の名前を書いて、全員勝共連合が後援したと広告を出してしまったのです。このやろうたちめ、どの口でいうのか...。そんな広告などしなかったと言ってみろ、こいつらめ! ぶん殴るというのです。世界日報に全部掲載するというのです。全部発表したら自分たちは身を引くことができますか? (サインを)しないというのなら見ていろ! 反対でもしてみろ! 青い顔をして自分たちがしたサインが全て(こちらに)あるのに・・・。条件として勝共議員になると宣誓したのに、その誓約した人が今どこにいるのか? 身動きできないでしょ? 
このやろう、発表してしまうのです。それ(サインした勝共議員名簿)を世界的に利用するのです。ここにそのサインしたものを持って来ているか? うん? 勝共連合にあるか? (「はい、あります」)
私はそんなに馬鹿ではないのです。先生がすることは抜け目がないというのです。』

 つまり文鮮明は、国会議員の選挙を支援する代わりに「宣誓書」を提出させ、統一教会を裏切った場合には公表すると恫喝していたのだ。そして勝共連合が発行する「思想新聞」に文鮮明の求めに応じた自民党議員150名の名簿を公開してしまった。
 更に(「文鮮明先生み言葉選集」192巻より 1989年7月4日 韓国・一和修練院)[3]では国政選挙には秘書が重要であると力説している。
『(一番目は)国会議員との関係強化です。そのようにして国会内に(統一)教会を作るのです。国会内の教会ですよ。衆議員教会・・・。国会議員たちを120人以上束ねことのできる名簿を作成するように言っただろう? 今からそのようにして、それ(日本の国会議員)が教会の組織になるようにするのです。そこで原理を教育するだとか・・・すべてのことが可能になるのです。
二番目は、秘書です、秘書。(統一教会から)国会議員の秘書を排出するのです。
三番目は、国会内の組織体制を形成するのです。
四番目は、党の収拾と連合。
五番目、行動結束と挙国。
 それで自民党の安倍派などを中心にして、(勝共の)久保木を中心として、超党派的に、その議員を結成して、その(勝共議員の)数を徐々に増やして行かなければならないのです。わかりますか?』

 文鮮明が国政選挙に提供した秘書が如何なる人物であったのかについては『「韓国は人類の祖国」 1989年6月18日 韓国本部教会』[4]で明らかにしている。
『日本人はおまけが好きですよね? おまけが好きでしょう? (笑)今回の結婚の場合、日本人同士が結婚したのは、おまけ(添え物)の結婚なのです。
そう、最も優れた(日本の)男たち...。東大(東京大学)の卒業生が13名います。国会議員秘書長だった人が43人もいます。
韓国人は知らないでしょう。また、一心病院の医師が7人も入っています。その大半はすべて有名な大学の卒業生です。
 そのような人たちが韓国に来て、新聞配達をします。それはどれほど素晴らしいですか? 歴史にないことです。この歴史的な日をなすのは、千年万年自慢話として日本の秀的精神(ずば抜けた精神、素晴らしい精神)の功績事件として称賛すべきことです。そう思いますか?』

  恐れ行った話である。昭和64(1989)年には国会議員の秘書室長43人が合同結婚式に参加していたというのである。そして、一旦選挙となれば、統一教会員は大活躍したという[5]。
『……九〇年二月の総選挙のとき、統一教会員たちは青山にあるビルに寝泊まりしながら大塚雄司の選挙活動に従事した。その人数は前年十二月から十名ほど、九〇年一月からさらに十人ほどが加わった。その時活動した元統一教会員たちによれば、もし警察に捕まっても後援会のメンバーだと答えて統一教会員とは決して言わないこと、寝泊まりしたビルには文鮮明教祖の写真や教えを説いた本などを置かないこと。内部用語は使わないことなどを幹部から指示されたという。
  選挙活動の内容は、勝共カンパ、ポスター貼り、他陣営候補者のポスター破り、挨拶まわり、推薦はがきの宛名書き、演説会の案内状書き、支持依頼の電話かけなどだった。統一教会員たちは、この青山のビルで「神の側(文鮮明教祖の側ということ)にいる大塚雄司候補をかならず当選させるため最善を尽くそう」と何度も祈った。大塚雄司も何度かこのビルにやってきて、選挙活動をする統一教会員たちを激励したという……』
 
以上が、統一教会がいうところの選挙支援の実態であった。
ところで近年、安倍晋三を中心に統一教会を利用した選挙はどのように行っていたかを調べてみた。これに付いては、前参院議員宮島喜文の例が最もその実態を示していて、2022年8月20日付け朝日新聞「旧統一教会側の支援受けた自民・宮島氏 陣営幹部「教団の力すごい」」に記載がある。
『2016年の参院選で「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」の友好団体から支援を受けた自民党の前参院議員の宮島喜文氏(71)が朝日新聞の取材に応じ、その経緯や支援の実態を語った。今夏の参院選前にかわした安倍晋三元首相とのやりとりの内容も証言した。そこから浮かぶのは、選挙を通じた自民と教団側との深い結びつきだ。
 安倍氏の銃撃事件の後、宮島氏は複数回にわたって取材に応じた。宮島氏の陣営の複数の幹部らも別に取材に応じた。
 宮島氏は、12年から日本臨床衛生検査技師会(日臨技、東京都)の会長を務め、16年の参院選比例区で初当選。改選を迎えた今夏の参院選では教団側からの支持が得られなかったことなどを理由に、すでに得ていた党の公認を辞退して立候補を取りやめた。
 16年参院選への立候補は、伊達忠一・元参院議長(83)から「選挙の1年ほど前に打診を受けた」ことがきっかけだった。伊達氏は臨床検査技師出身で、当時の役職は参院幹事長。派閥は清和会(現安倍派)に所属していた。
 宮島氏の陣営は当時、日臨技の政治団体とほかの関連団体などで、計10万票を得たいと思っていた。自民が比例で18議席を得た13年の参院選では、自民の比例候補の当選ラインは7万7千票、12議席だった10年は10万8千票だった。この10年参院選では、12番目に滑り込んだのが臨床検査技師出身の候補だった。
 「正直、当選できる自信はなかった」。宮島氏はそう振り返る。当選を確かなものにするために、さらなる上積みが必要だった。そこで加わったのが、教団側からの支援だったという。
 宮島氏は公示の直前に伊達氏から「党の支援団体の票をもらってきたと言われた」。団体名は「世界平和連合」と聞いた。陣営幹部から旧統一教会と関係があると教えられ、戸惑ったという。平和連合は教団の友好団体。陣営幹部は宮島氏に「上がつけてくれた団体ですから、もうあとには引けません」と進言した。
 宮島氏は伊達氏の指示で都内の関連施設で平和連合幹部にあいさつしたという。宮島氏らは「教団側の支援が公になると危うい」と考え、「一部の陣営幹部のみが知るトップシークレット」と位置づけた。宮島氏は陣営幹部から「外でおおっぴらに言っちゃいけません」と忠告された。
陣営幹部「教団票は6万~7万票あったと思う」……』

 自民党総裁であり内閣総理大臣である安倍晋三は、憲法改正に必要な三分の二の国会議員を獲得するために「自民党県連」と「日韓トンネル推進県民会議」を組み合わせた選挙運動を編み出した。
支援する候補者の条件は、自民党公認候補であっても当選後は、安倍派も若しくは麻生派に属して憲法改正に積極的に活動を約束したものを選ぶことにした。その斡旋をしたのが地方組織の幹部なのである。次の踏み絵が、候補者が当選後に食い逃げしないように文鮮明が編み出した「誓約書」での提出である。当初は「誓約書」としていたが、それではあまりにも語調が強いため「推薦確認書」に変更したと考えられる。
また「推薦確認書」を「政策協定」を読み替えるマスコミがいるが、これは間違いである。「推薦確認書」を提出する議員は、憲法改正に必要な人数を揃えるための数合わせであるとともに、政策は既に自民党と統一教会で策定済みであって独自の協定を結ぶことなどはありえない。候補者にも若干の自尊心が残っていた表れであろうか。
くどい様であるが統一教会から選挙運動の支援を受けた議員は、必ず「誓約書」若しくは「推薦確認書」を提出している。「なんとなく」とか「いわれるがまま書いた」ということはあり得ない。
以上(寄稿:近藤雄三)
P.S.
令和元年7月21日に行われた参議院選挙で河井克行と河井案里は公職選挙法違反で逮捕されている。この事件を思い出すに、安倍晋三が統一教会の運動員を全国規模で動員して行った選挙が適法であったのか疑わしいと思うのは筆者だけであろうか。ちかいうちに、安倍晋三の公職選挙法違反を追及してみたいとおもう。
[1] 『朝日新聞襲撃事件(1987年)と同時期に文教祖は朝日新聞を攻撃するように幹部に指示していた』https://ameblo.jp/chanu1/entry-12195140161.html
([2]) 「文教祖が日本の国会議員に統一教会信者の秘書を送り込んだ理由」『ちゃぬの裏韓国日記』https://ameblo.jp/chanu1/entry-12050744081.html(2022年9月04日閲覧)。
[3] 『文教祖が日本の国会議員に統一教会信者の秘書を送り込んだ理由』
https://ameblo.jp/chanu1/entry-12050744081.html
[4] 『文教祖が日本の国会議員に統一教会信者の秘書を送り込んだ理由』
https://ameblo.jp/chanu1/entry-12050744081.html
[5] 有田芳生『統一教会とは何か』97頁。

 

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石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ~~世に暗殺の 種は尽きまじ

2022-11-24 | 小日向白朗学会 情報
 石川五右衛門さんの辞世の句だそうだ。残念ながら真実なのだろうと思う。時の流れは人の心を善の道へと導いてくれる、などというのは幻想なのだろう。
 1909年明治42年10月26日に伊藤博文公が暗殺された。安重根さんが犯人とされたが、今の常識では別の真犯人某が致命傷となった弾丸を撃ち込んだとされている。ただ「某」が特定されてはいない。1932年昭和7年5月15日、世にいう515事件だが、犬養毅が暗殺されたが、暗殺犯は死刑になっていないという。1963年昭和38年11月22日、そう59年前の今頃、ジョンエフケネディが暗殺された。JFKのソ連との共存方針、政府による通貨発行権の奪還、CIA解体計画などがある方々から嫌われてしまい、当たり前のように消されてしまった。そういえば、その1年前1962年10月キューバ危機を一発の爆弾も撃ち込まずに収拾したことも嫌われた理由の一つだろう。ある方々は「さーっ核戦争だ!!!」と意気込んでいたのだから。
 暗殺未遂っていうのもある。昭和59年6月2日副島嘉和さん(世界日報の元編集長)という方が襲われた。心臓のすぐそばにまで刃先が届いていたというから相当な殺意だったのではないだろうか。でも、生き残り命を懸けて言いたいことをアピールしていたようだがわが国の主要マスコミは沈黙していたようである。
 私が思うのに、暗殺される本人も暗殺される瞬間まで自分が殺されるというような切羽詰まった危機感を感じてはいないのではないかということだ。さらに、暗殺する側においても、「人を殺す」などというつまり「殺人」など私が冒すわけがない、という≪良識≫の持ち主だったりするように思う。要は暗殺は現実として実行されるのだけれども、それを実行する人間も殺される人間にとっても「暗殺」はフィクションなのだ。
 ただこんな話も聞く。小日向白朗が戦後キッシンジャーらとのやり取りの中でくっきりとその姿を浮上させてきていた亡国奴たち、いわゆる台湾ロビー等々政界の大物や右翼の大物・暴力団の大物etc・・・・だが、彼らのうちに自らの命を狙う眼差しを感じていたようである。当時ぴったりと白朗に侍従していた腹心のT氏に「(危ないから) 当分私に近づくな」と言っていたそうである。そうした危機意識が功を奏したのか白朗は暗殺されることはなかった。
 「物語」としての暗殺が何度も何度も繰り返される。確実に命が遮断抹殺されているのだけれどその重みを感じる人は意外と少ない。この辺で暗殺のメロディーを止めたいものである。(文責:吉田)
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