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【子どもたちが不憫だ】国際社会に競争社会の視点がない児童虐待の公民教科書【国際社会】

2023-07-19 00:28:15 | 恐るべき公民教育

●国際社会の本質を教えられない可哀想な日本の子どもたち

日本の子どもたち(中3ぐらい)に、国際社会はどんな場所か聞いてみても、何も答えられないでしょう。一部に「国際協調の場」という回答が出るくらいでしょう。

一方、海外の同じ中3ぐらいの公民教育を受けた子どもたちに、国際社会はどんな場所が聞くと、国益と国益がぶつかり合う競争社会というような回答をするでしょう。

この差はどうして生まれたのでしょうか。答えは公民教育にあります。現在の公民教科書は、国際社会を国益と国益がぶつかり合う競争社会であると書いていません。単に国際協調の場として書いています。

●国際社会の本質

国際社会は、国益同士がぶつかり合う競争社会です。なぜ、競争社会なのでしょうか。それは国家の定義と役割に基づきます。

国家には、決まった範囲の領土(りょうど)があって、その周りに領海(りょうかい)を持ち、それらの上に領空(りょうくう)を持ちます。これが国家の領域(りょういき)です。

領域の中にはそこで生活する人々がいて、この人々が国家を運営する主体となります。これが国民(こくみん)です。

国家が、領域や国民を支配する権利を、統治権(とうちけん)といい、これが対外的に独立(どくりつ)し、どの国の干渉も受けないようになると、国家主権(しゅけん)となり、主権を持つ主権国家独立国)となります。

この主権領域国民国家の三要素(こっかのさんようそ)です領域や国民がなければ、国家が成立しないのは分かるでしょう。では、主権はどうでしょうか。

主権を持たない国家は、どこかの国に属するか、他国の影響を強く受ける傀儡国家(かいらいこっか)になるしか、選択肢がありません。このような場合、当然、現地の国民の意思や利益が尊重されるわけがなく、現代の国家は、この主権を持ち、かつ独立し、主権と独立を守ることが重要なのです。

このような現代の国家は、対外的には軍事力を使用した防衛(ぼうえい)により、その主権と独立を保ち、対内的には公共の秩序を維持し、国民の安全を守るとともに、インフラの整備や教育など公共事業への投資(こうきょうじぎょうへのとうし)により、国民の生活の向上を図り、国民の自由と権利(こくみんのじゆうとけんり)を守ることが重要な役割だと考えられています。

国家には、明確な役割がありますから、その役割を果たすために国際社会という場で競争するのは至極当然なことなのです。

国際社会で国益と国益がぶつかり合う具体例を出すと、領土問題で言えば、日本の領土を守るという国益が、ロシアや韓国の領土を広げるという国益のために犠牲になっています。

尖閣諸島でも、日本の領土を守るという国益が、中華人民共和国の領土を広げるという国益のために犠牲になろうとしています。尖閣諸島に対する挑発などで日本の漁業が本格的に衰退すれば、漁業に関する国益までもが侵害されることになります。

国際社会では、この国益を勝ち取るための競争が続いています。競争社会では、真っ先に競争社会だと思っていない人々が搾取の対象となるでしょう。現実に日本は、領土問題という形で、3つの国から、そして拉致問題という形で北朝鮮からも、国益を奪われています。

日本の公民教科書は「国際協調」のために「国益」と「国際社会が競争社会であること」を隠してきました。日本が領土問題や拉致問題で国益を侵害される続ける背景には、こうした公民教科書の実態があるでしょう。

今でも、「国益」という言葉を使って「国際社会が競争社会であること」を明記するのは、自由社と育鵬社だけです。「国益」とはしないものの、「国と国との利益の対立」という形で「国際社会が競争社会であること」を明記するのさえ、帝国書院だけです。

他の教科書は、「国益」も、「国際社会が競争社会であること」も何も触れません。そもそも国と国との対立という考え方がない教科書が一定数存在します。そして、自由社・育鵬社と帝国書院以外の全ての教科書には、国の利益という考え方がありません。

本当に日本人はこんな公民教科書を許して良いのでしょうか。子どもたちがかわいそうではないのですか。

ずっと幻想を見せられて、いざ社会に出たら役に立たないと切り捨てられる、こんなのあんまりじゃないですか。

私は、いくら拉致問題を詳しく記述しようが、領土問題を詳しく記述しようが、何をしようが、国際社会を競争社会と捉えない公民教科書は論外だと思います。

国際社会編だけを見れば、自由社・育鵬社・帝国書院以外の採択はあり得ません。これらの教科書以外の教科書を採択した地方自治体は児童虐待の自治体として批判するべきだとも考えます。

●国家の役割さえも教えてもらえない日本の子どもたち...あまりに不憫で可哀想な日本の子どもたち

先ほど、日本の教科書が国際社会を競争社会と捉えない問題があると書きました。国際社会が競争社会である理由として、簡単に国家の定義と役割を述べました。

しかし、日本の教科書は、この極めて簡単な国家の定義と役割さえも述べていないのです。

繰り返しになりますが、

現代の国家は、対外的には軍事力を使用した防衛(ぼうえい)により、その主権と独立を保ち、対内的には公共の秩序を維持し、国民の安全を守るとともに、インフラの整備や教育など公共事業への投資(こうきょうじぎょうへのとうし)により、国民の生活の向上を図り、国民の自由と権利(こくみんのじゆうとけんり)を守ることが重要な役割だと考えられています。

このような役割を担うのが、国会や、内閣、裁判所などの国の機関です。例えば、防衛省や自衛隊は、このうちの防衛を担っています。警察は国内の秩序の維持を担っています。裁判所は、国内の秩序の維持と国民の自由と権利を守る役割を担っています。

国家は、これらの役割を限られた時間で果たすために、できるかぎり合意に努めます。これが政治です。ただし、限られた時間で対立を解消しきれず、合意に達しない場合は、権力による強制も避けられません。この権力が、政治権力です。

政治権力は、一見すると、国家による一方的な強制力のようにも見えますが、実は国民がその政治権力を承認しているから成立しているのです。国民の承認がない政治権力は、歴史上いくつか存在してきましたが、例外なく、その国家は消滅しています。国民の承認がなければ、政治権力を維持することは不可能なのです。

「このような役割を担うのが」以下は、先ほどは出していないですが、日本の公民教科書は、なんとこのような役割を記さずに、国会や、内閣、裁判所などの国の機関を紹介し、教えているのです。

こんなデタラメがあるでしょうか。よく、これまで生徒の方から、なぜ国会や内閣、裁判所が存在しているのか、なぜ国家が存在しているのかという疑問が出てこなかったなと思います。

いや出てきても黙殺あるいは放置してきたのかも知れません。国際社会編にもなると、さすがに対外主権国家の説明はされますが、ここでも国家の役割が説明されることはありません。

ひどすぎませんか。このような悲惨な公民教育を受ける日本の子どもたちと違って、海外の子どもたちは、私が言ったような国家の定義と役割よりも、何倍も詳しい国家の定義や役割を、国家の成立という歴史的観点もまじえながら、学んでいるのです。

このような犯罪級の悲惨な公民教育を受けた日本の子どもたちが大人になるとき、はたして日本国家は生き残ることができるでしょうか。いや、戦後一貫してこのような教育が行われており、明らかに日本国家は衰退と滅亡に向かっています。

特に平成に入る直前あたりから、下手したら今よりも酷い公民教育を受けた政治家が出現し、政治家の国家意識が大幅に薄れました。平成に入ると、そういった人物が首相を努めるようになり、国家の政策から国家意識が消え(人間の行動から人間であるという意識が消えた状態といえば、その恐ろしさが分かる。もう日本国家に自我はないのである。)、正気を失いました。

その結果、拉致問題が発覚しても、長期間にわたりこれを放置するという国家の役割放棄宣言みたいなことをし、国民的な運動により、ようやく拉致問題を取り上げるようになっても、いまだに5人しか帰国できていません(少なくとも数十人以上は被害者がいることが確認されている。数百人は被害にあっていると思われる)。

さらに、裁判官から国民の自由と権利を守るという国家の役割意識が消えたのか、はたまた公明正大な精神が消えたのか(多分両方)、裁判所の判決も、世論や企業といった大きなものに左右されるようになっていきました。

おまけに、緊縮財政(簡単に言うと、ケチ政策)を財務省が必死に政治家たちに説き続けた結果、インフラの高度化どころか、高度経済成長期に整備されたインフラの老朽化への対応すら、できないようになっています。

おそらく、財務省の役人たちは国家が財政破綻することは税収の100倍ぐらいの国債を発行しない限りあり得ないという国家の感覚をなくし、家計簿をつけるケチな主婦のような感覚となったのでしょう。その結果、緊縮財政という名のケチを進め、公共事業への投資をおろそかにしてきたのでしょう。

極めつけは、ヘイトスピーチ解消法を制定し、日本人を差別したことでしょう。

簡単に言うと、この法律の正式名称の「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」にある通り、本邦外出身者、すなわち外国人に対するヘイトスピーチのみを解消するべきものだとし、日本人に対するヘイトスピーチを見逃しているのです。

それだけにとどまらず、外国人に対するヘイトスピーチを解消する責任を、日本人だけに押し付けるということをやりました。

しかし、この法律の制定自体に反対した人はさほど多くなかったんですよね。おそらく、日本人がマジョリティ(多数派)だから、ヘイトスピーチは起こり得ないという幻想に基づいたものでしょう。

ヘイトスピーチは外国人が単に「日本人死ね」「日本人は日本から出て行け」と宣言するだけで成立するので、この幻想は全くもって事実無根です。

ついでに言うと、仮にそれが事実だったとしても、法律にその感覚を持ち込んではいけません。法律は、理念法であろうが、その影響力は絶大です。

そのため、禁止するべきものが、A(外国人に対するヘイトスピーチ)とB(日本人に対するヘイトスピーチ)とあって、それら(ヘイトスピーチ全体)を議論していた場合、Aを禁止すれば、Bは容認したとみなされます。

ヘイトスピーチ解消法は、法の下の平等に反する、とんでもない法律なのです。詳しくは、【法の下の平等に反する】世界最悪の差別法は日本の『ヘイトスピーチ解消法』【違憲立法】 - 教育問題を考えるブログという記事をご覧ください。

長くなりましたが、国家の定義や役割を、海外ほどではないせよ、一応、書いているとみなせるのは自由社だけです。

国家論を展開する自由社以外の国家論を展開しない教科書を採択するのは論外で児童虐待の疑いあり、国際社会が競争社会であることさえも教えない教科書(自由社・育鵬社・帝国書院)以外の教科書を採択すれば、いよいよ児童虐待であるとだけ述べてこの記事を終わりとさせていただきます。