自然保護団体は野山に生息するあらゆる動物はどんなことがあっても守るベきで動
物を殺すのは残虐行為だとヒステリックに叫ぶ。異論は多くあろう。狩猟で生計を立
てている時代でないことは確かだ。一種のゲームとして動物の命を対象にしている
だけだと言う人もいる。
では、植物には命はないのか。魚には命がないのか。毎日、食べている肉はどうし
たのか。人間の食料にはすべて生命が宿っているのだ。狩猟をすることは自分でそ
の動物の命を絶つことになる。しかし、食卓の肉は例え人間が飼育したからとは言
え、人の手で殺されて来ているのだ。
人間が飼育したものは人間が殺してよく、野生のものを殺すことは許されないのか。
と熟中していた時はよく思った。
誰も、現実を知らないで一方的に自然保護を語るべきでない。野生動物の生態を
壊したのは人間だ。人間が利便を求めてそうすることもあれば、結果としてそうなる
こともある。猪の被害は農家にとって甚人な損失だ。春に田を起こし、水を張り、田
植え、水加減を見る、除草、肥料と多くの手を掛け、梅雨明けすると稲が形を整えて
くる。この頃の稲の中の米になるものを食べると白い汁が出てくる。猪はこれが好物
で下から上に実だけを刈り取り、クチャクチャと食べ汁を吸いモミ殻は捨てる。それ
だけでは済まず田のなかでヌタを打つ。一晩で田の1枚や2枚は平気で全滅させる。
山際のすぐ傍にある田で道から見えにくいような場所は格好の餌場になってしまう。
実りかけた稲を食べられるだけではなく、ヌタをうつような行動をとるから、時には猪
の相撲大会が開催されたようになることもある。
猪が暴れた田の稲は泥に埋まったりするから、脱穀しても微細な土が残ったり、体
臭が残ったりして食料としての価値はなくなる。それは酷いもので田の持ち主が怒
るのはよく判る。だからと言って猪を全滅させてもいいとは思わない。
八十八の仕事を積み重ねてやっと収穫される米が、こうなってしまうことを防ぐため、
一晚中、電気を照らしたり、ラジオをかけたり、古タイヤを燃やし続けたりして防ごう
とするが効果はない。ガス鉄砲で脅しをかけるがドーンと鳴るすぐ横で猪が稲を食
べる姿を何度も見た。最近は田の周りに電線を張り微弱な電流を流して駆逐する
方法が取られているがそれすら被害を食い止める得策にはなっていない。猪の被
害はこの他に芋、筍等がある。兎、鹿の被害は造林業に出る。山を刈り植えた檜が
30センチほどに育ったものに雪が降ると食べ物がなくなった兎、鹿は、雪の上に伸
びるその芽の部分や細い枝を食べてしまう。先を失くした檜は大きくなるが頭のな
い木になり商品価値として落ちる。植林するまでの労力だけでも莫大なのに植えた
ものがこうではやるせないだろう。
皇居の掘りで名を馳せたカル鴨も、宮城県では稲を大量に食い尽くしその被害に
音をあげた農家が駆除のお願いしたこともある。
これらの保証は誰もしてくれない。
人間と動物が共にバランスを保ち生活出来る場所の模索が進められている。彦名
の水鳥公園もその一つ。しかし、ごく一部のケースを除き共存には、人と動物あ互
いの利害関係(?)があり妙案はない。