「自我」は3,4歳になって言葉を覚え、
彼我を意識したときから生じる。
だが、これは「魂」でも「自己そのもの」でもない。
あくまでも相対的人間関係の中で生じるもの。
では、我々、「自我」以外に何を持っているだろう。
空白
何もないんじゃないか。
「めんどくさいなあ」
「何で、自分のことをほって置いてくれないんだろう」
「みんなの注目を浴びたい」
「悩んだり、苦しんだりすることこそが生きてる証だ」
「カッコよくなりたいな」
「有名作家、音楽家といった有名人になりたいな」
「うらやましい」
「誰からも必要とされていないじゃない?」
「もっと充実した日々を送りたい」
「一目置かれる存在になりたい」
「人や国を支配したい」
「お金持ちになりたい」
「美人の彼女がほしい」
「他人の不道徳が許せない」
そんなことを考えている自分が、「自分」だと思ってるんじゃない。
それって単なる肉体の欲望だ。
肉体から生み出される「自我=欲」だ。
決して貴方の本体「魂」ではない。
こんなものを自分だと思っていると
釈迦の手のひらから抜け出せない孫悟空みたいに
一生、「小世界」の内でしか生きられないで
迷い、悩み、何にもわからないまま
むなしく「死」を迎える
「身を捨つる人は まことに捨つるかは
捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ」(一遍)
自分の身体にこだわり続ける限り
永遠に迷いの中で生き続けることになる
自分の身体からの離脱 = しがらみ、こだわりからの開放
そうできてはじめて
「自由の身」となり
何の規制を受けることなく自在に生きられる
「真の自分」を縛ってがんじがらめにしているのは
実は自分だと思っているその肉体自身
「死」を迎えれば
再び電子の結合が解かれ
ばらばらに雲散霧消してしまう
便宜的に寄り集まってできただけの存在
なぜこれを「私自身」と思えるのか
これが私自身のはずがない、と何故気づかないのか
生きているうちに
このことに気が付いた人は
このことを皆に知らせたくて
うずうずする
皆にもこのワクワク感を味わって欲しいから
そして「皆」も「私そのもの」だと思うから