という本の最終頁は、次のような背筋も凍る言葉で終わっている。
「次はお前の番だ」
これは、ローマに「私も昔は(今の君のように生きていた、君もいずれ(今の私のように)死ぬだろう」という墓碑銘があるが、
その超意訳が、この言葉になるそうだ。
人は必ず老いて、寿命が尽きて死ぬ。医者も患者も家族も、国家も、この当然の真理を直視できずに目を背ける。「人生百年時代」などと浮かれているが、この長寿社会は人々に幸福をもたらしているのか?
という問題提起が、主として癌患者の現況(著者は、癌治療の専門医)から易しく書き下されていて
なかなか考えさせられる本だった。
今日のブログは、この本の内容紹介ではないので、以下、話の流れが少し飛ぶ。
私の仲間も何人か亡くなっているので
次はお前の番だ、という言葉には背中がぞくっとしたが、
「まだ私ではないだろう」
「まだ、15年は大丈夫だろう」
などとたいした根拠もないのに、安穏として時間に流されている自分の存在を発見したことに妙な納得をしてしまう。
私が高校2年生の時、西湖湖畔の根場(ねんば)という集落が山津波によって一夜のうちに消滅してしまったことがあった。
当時、その集落からも高校生が通ってきていた。だから、何人もの高校生も駆り出され、或は自分から救助隊を結成して見るも無残な根場地区に行ったことがあった。
土砂の中から死体の手が飛び出していたりボロボロの空気が垂れこめていたりした状況が今でも鮮明に脳裏にはりついている。
病気でもなく、老衰でもない人間の死に直面したのは、その時が人生で初めてだった。
見るも無残な状況の中では、無残な言葉や無残な行動だけが飛び回る。
人間は、悲しい時には悲しいことしか言わない。
「あの家は、おバアが助かって若いもんが死んだ。なんで反対にはならないんだ。おバアが死ねばよかったんだよ」
誰かが言ったこの言葉も耳の奥にずっと残っている。
人生百年時代の不幸から、話がとんでもない方に流れて行ってしまったね。
文脈もぐちゃぐちゃになってしまったね。
今日は、ごめんなさいです。