人間には、四つの苦があるという。
生の苦
老の苦
病の苦
死の苦、である。
『中阿含』(ちゅうあごん)という書物の中に
青年の時のお釈迦様が
老人や病人や死人を見た時の憂愁について書いてある箇所がある。
『突然に反省が彼(釈迦)を襲う。
今、彼は若い。
しかし、いつか遠からぬ日に、彼もまたあのように老人になるのではないか。
そう思ったとき、
彼の若い誇りは、いちどに色あせた。』
と書いてある。
その気づきをきっかけにして、お釈迦様は、
人間の相を熟視し、本格的な思索を始めたのだという。
⁂⁂⁂
また、『地獄の思想』(梅原猛著・中公新書・35頁〜)の中に、老いの苦について書かれた次のくだりがある。
「老い。なんという深い嘆きが老いのなかに含まれていることであろう。
人生は間もなく過ぎてゆく。
子供が成長して一人前になる。一人前になったとき、すでに老いはひそかにしのびよる。
そして老いは、ひそかに容色や肉体や頭脳の衰えによって、われわれに告げ知らされる。
若さは去り、あとには、衰退の人生しか残っていない。
若き日は、もはや二度と帰りはしない。
歓楽の若き日を送った人は後悔する。
空しく青春がすぎ去り、彼の晩年には、みじめな人生しか残っていないことを。
勤勉な青春を送った人もまた後悔する。
彼の青春時代があまりに禁欲的であり、もはや彼には、
快楽に耐える力が残っていず、快楽を味わわずに彼の青春が過ぎてしまったことを。
老年がひそかにおとずれるとき、すべての人は後悔し、すべての人は悲しむ。
東洋の伝統的な敬老の精神、それは深い思いやりに支えられているかにみえる。
老人、それは死の近くにすむみじめな人間である。
もしも、人がこのみじめな人間にうわべだけでも尊敬の態度を示さなかったなら、
老人たちはどうして自己のみじめさに耐えられよう。
しかも、そのみじめさは、いつかは、だれもが体験しなければならぬみじめさなのだ。』
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このくだりを読んで、反発する人は、ステキである。
このくだりを読んで、
「でも、私は、強く生きる」と決心する人は、もっとステキである。
さらに
私は全てを受け入れるけれど
「しかし、私は、残りの人生を強くしなやかに生ききってやる」と願う人は
もっともっとステキである。
生涯学習で求められる《人生の締めくくり方の学び》というのは
四つの苦を、どう乗り越えるか。
そして、そのなかでも
老いの苦を、どう見切って自分らしく生ききるかを、再認識し
残りのエネルギーを再注入することではないのか。
ふっと、そんなことを考えた。
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