藤田宣永訳。小池真理子氏のお連れ合いで、パリ滞在中に笠井潔の友人となり、『バイバイ・エンジェル』の草稿を読んだ人でもある。小説は未読だけれど、翻訳も手掛けていたんだね。
本書に出会ったのは、ほんの偶然だった。
ジュンク堂の創元推理文庫コーナーを冷やかしていると、「ウナギ」という文字列が目に入った。
ウナギ?
気になって、後戻りした。「イルカがせめてきたぞっ」でおなじみ?の小学館の『なぜなに学習図鑑』でウナギの産卵場所が数千キロは離れた海底で、その場所はまだ発見されていないと知って以来、私はウナギに興味を抱いてきたのである。ヨーロッパウナギの産卵場所が、同じ『なぜなに』に怪しげなイラストが出ていたサルガッソー周辺と推定されるというのも、男心をひどくくすぐられた。ウナギなら、これは読まねばならない。
バックして、本棚を上から下に、右に左に見渡しても、「ウナギ」はどこにもいなかった。「ウサギ」はいた。どうやら読み違えてしまったらしい。それが本書『ウサギ料理は殺しの味』である。『ご注文はうさぎですか』のタイトルの元ネタだったりするのだろうか?
手に取ると、帯の惹句には「唯一無二。奔放なる奇想が生み出してしまった、ミステリ史に残る大怪作です」という米澤穂信氏の言葉がある。ふむ?
フランスの田舎町のレストランのメニューにウサギ料理が出ると若い女性が殺されるという、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の連続殺人事件物語である。元警官の私立探偵が、車の故障でこの町に数日滞在せざるをえなくなるところから物語は始まる。指定日までに依頼者のもとへ到着できなかった主人公は、探偵事務所をお払い箱になり、ジャーナリストの下働きとしてこの事件の解明に一発逆転を期すことになる。
占い師、ホームレス、高級娼婦、セールスマン、高級店の店主たち、地方新聞社の社主など、一癖も二癖もある人物たちが複雑に絡み合う。やがてレストランに「ウサギ料理をメニューに載せるな」という脅迫状が届く。
カバーのあらすじ紹介を読んで、なるほど、おもしろそうだ。米澤氏も激賞していることだし、読んでみようかと思った。
原題の Femmes Blafardes は、直訳すれば「青白い女」なのだろうか。料られたウサギと、殺された女性の死体を重ね合わせたダブルネーミング? 原題からかけ離れながら作品のエッセンスを的確に表現しているという意味では、『恋愛準決勝戦』とか『遊星からの物体X』とか、昭和の趣のある邦題といえようか。ただし、地上から5センチ浮いた天使の気持ちを疑似体験できる『ご注文はうさぎですか』のKoiさんが、本作を読んでタイトルを着想した可能性は、皆無に等しいと思った。仲良しのアンゴラウサギのティッピーをいつも頭に乗せたチノちゃんなら、「うさぎを食べるんですか?!」と軽蔑しきった冷ややかな視線を向けるだけだろう。というか、女性なら本作の真相に「ありえない」と不快感を抱く人が少なくないのではないか。
1981年の作品である。ミッテランの名前が出てくるのに時代を感じる。読みながら、RCサクセションのある楽曲の「もともなやつはひとりもいねえぜ」という歌詞を思い出してしまった。何度も登場人物表を確認させられる羽目になったが、細部まで計算され尽くしているのは間違いない。そして、ミステリのお約束を知っていたら、犯人探しもそうむずかしくない。消去法ですぐわかる。ただし後半のカセットテープ(これも時代を感じる)に残された告白を読むまで、犯人の動機だけはさっぱりわからなかった(わかりたくもなかったが)。
時代を感じるといえば、本作に出てくる地方新聞社はいまだ活版印刷である。ヨーロッパの新聞印刷事情は知らないけれど、日本の新聞の場合、バブル最盛期の1980年代後半にオフセット印刷輪転機が導入され、1990年代にオフセット化が急速に進み、2000年ごろには活版印刷のシェアはゼロだったという。フランスも似たようなものだったのではないか。本作の地方新聞社の印刷工場所のジョルジュ爺さんは、活版印刷工であり、凸版工であり、また写真製版工であるとされている。しかし活版=凸版である以上、これは奇妙な訳語だ。原語はわからないが、文脈的には「凸版工」は「組版工」と訳されるべきだったのではないか。
バルザックの小説に出てくる印刷所では、インキまみれで真っ黒になった印刷工はクマ、忙しなく手を動かして活字を拾い続ける組版工はサルと、お互い罵り合っていた。ジョルジュ爺さんはひとりでクマもサルも兼ねていたということだろう。欧米の新聞社では、タイプを打鍵すると行単位で活字が鋳造されるライノタイプ自動鋳造機が広く普及していて、サルにたとえられた植字工程は自動化されていたから、バルザックの時代とは様変わりしていたはずだ。しかし本作に出てくる求人広告は、老技師自ら活字を拾って組んだものだったに違いない。ちなみに、文字の太さをウェイトと呼ぶのは活字時代の名残で、活字は鉛の塊だから、線の太さが変われば実際に重量も変わったのだ。
脱線すると、活版は活字の凸部にインキを乗せて紙に転写するから、大手印刷会社の社名にもなっている凸版印刷である。凸版もあれば凹版印刷もある。Tシャツやマグカップに印刷するスクリーン印刷、昭和世代には懐かしいガリ版やプリントごっこ、学校の教材でおなじみのリソグラフなどが、版の凹部に盛ったインキを転写するから凹版印刷(孔版印刷)という。オフセット印刷の版には凹凸はない。アルミのプレートにレーザー光線を照射し、親油部(線画部)と親水部(非線画部)に分けて、いわゆる水と油(インキ)の反発の原理を利用して紙にインキを転写する。オフセット印刷は版が平らなので平版印刷という。
さて、「風が吹けば桶屋が儲かる」式のこの連続殺人事件は、すべての人の行動が精密機械の歯車のように噛み合って初めて成立する。このフランスの片田舎の人びとは、マイルールと自分の生活様式を変えようとしない頑迷な変人ばかりだから、このシステムは成り立ちそうにも思える。
しかしいちばん肝心の殺人事件の部分で、偶然に頼る要素が大きすぎる。殺人に至る以前に、「それ」が7回連続で「成功」する可能性は限りなくゼロに等しい。残された告白テープは、「それ」が成功しても殺されず生き残った女性がいた事実を示しているではないか。偶然と不確実性に頼りすぎのご都合主義展開に、被害者の女性も随分と見下されたものだと、私は違和感を感じざるをえなかった。
この違和感は、『氷菓』のホータローくんが、えるちゃんを「おまえ」呼びにしていることに通じるものがある。優れた才能を持ちながら、こうした時代錯誤な表現をしてしまうミステリ作家が評価してしまうだけの作品であることだとは思った。私には、この作品の根幹にあるのは、旧時代の男性作家の時代遅れで無自覚で傲慢なミソジニーであるとしか思えなかった。
ネタバレしない程度に書いておけば、争った形跡のない女性の死体の発見状況に、私は藤堂志津子氏のある作品を思い出した。タイトルは忘れたが、夜、ジョギングしていた見知らぬ男女が併走しているうちに、お互いだんだん気分が盛り上がってきて、セックスに至るというストーリーである。私の偏見かもしれないが、北海道にはそんなこともありうるかという大地のオーラを感じる。本作の犯人と被害者がジョギングしていたわけではないが、フランスではその場所でそういうことがあり得たのか、あれこれ調べてしまった。しかし、いくらフランスが性的に自由といっても、そんな話はどこにも出てこなかった。
作者はこの田舎町がいかに性的に乱脈を極めているかを、これでもかこれでもかと強調している。しかし殺人事件になる前に、逮捕されるリスクが高すぎる。フランスの性犯罪についてあれこれ調べていると、フランス語で強姦を意味するViol(強姦)が、法律的には「他人による暴力、強制、脅迫の下に、または意表をついて行われる、いかなる性質の性的挿入」と定義され直されたのが、本書発表の1年前だったことを知った。本作は、いまの常識では企画段階で却下されのではないか。「ミステリ史に残る傑作」かもしれないが、「いやよ、いやよも好きのうち」が通用するというのは、きれいにいえばファンタジーだが、普通にいってたんなる男性の妄想に過ぎまい。
本書に出会ったのは、ほんの偶然だった。
ジュンク堂の創元推理文庫コーナーを冷やかしていると、「ウナギ」という文字列が目に入った。
ウナギ?
気になって、後戻りした。「イルカがせめてきたぞっ」でおなじみ?の小学館の『なぜなに学習図鑑』でウナギの産卵場所が数千キロは離れた海底で、その場所はまだ発見されていないと知って以来、私はウナギに興味を抱いてきたのである。ヨーロッパウナギの産卵場所が、同じ『なぜなに』に怪しげなイラストが出ていたサルガッソー周辺と推定されるというのも、男心をひどくくすぐられた。ウナギなら、これは読まねばならない。
バックして、本棚を上から下に、右に左に見渡しても、「ウナギ」はどこにもいなかった。「ウサギ」はいた。どうやら読み違えてしまったらしい。それが本書『ウサギ料理は殺しの味』である。『ご注文はうさぎですか』のタイトルの元ネタだったりするのだろうか?
手に取ると、帯の惹句には「唯一無二。奔放なる奇想が生み出してしまった、ミステリ史に残る大怪作です」という米澤穂信氏の言葉がある。ふむ?
フランスの田舎町のレストランのメニューにウサギ料理が出ると若い女性が殺されるという、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の連続殺人事件物語である。元警官の私立探偵が、車の故障でこの町に数日滞在せざるをえなくなるところから物語は始まる。指定日までに依頼者のもとへ到着できなかった主人公は、探偵事務所をお払い箱になり、ジャーナリストの下働きとしてこの事件の解明に一発逆転を期すことになる。
占い師、ホームレス、高級娼婦、セールスマン、高級店の店主たち、地方新聞社の社主など、一癖も二癖もある人物たちが複雑に絡み合う。やがてレストランに「ウサギ料理をメニューに載せるな」という脅迫状が届く。
カバーのあらすじ紹介を読んで、なるほど、おもしろそうだ。米澤氏も激賞していることだし、読んでみようかと思った。
原題の Femmes Blafardes は、直訳すれば「青白い女」なのだろうか。料られたウサギと、殺された女性の死体を重ね合わせたダブルネーミング? 原題からかけ離れながら作品のエッセンスを的確に表現しているという意味では、『恋愛準決勝戦』とか『遊星からの物体X』とか、昭和の趣のある邦題といえようか。ただし、地上から5センチ浮いた天使の気持ちを疑似体験できる『ご注文はうさぎですか』のKoiさんが、本作を読んでタイトルを着想した可能性は、皆無に等しいと思った。仲良しのアンゴラウサギのティッピーをいつも頭に乗せたチノちゃんなら、「うさぎを食べるんですか?!」と軽蔑しきった冷ややかな視線を向けるだけだろう。というか、女性なら本作の真相に「ありえない」と不快感を抱く人が少なくないのではないか。
1981年の作品である。ミッテランの名前が出てくるのに時代を感じる。読みながら、RCサクセションのある楽曲の「もともなやつはひとりもいねえぜ」という歌詞を思い出してしまった。何度も登場人物表を確認させられる羽目になったが、細部まで計算され尽くしているのは間違いない。そして、ミステリのお約束を知っていたら、犯人探しもそうむずかしくない。消去法ですぐわかる。ただし後半のカセットテープ(これも時代を感じる)に残された告白を読むまで、犯人の動機だけはさっぱりわからなかった(わかりたくもなかったが)。
時代を感じるといえば、本作に出てくる地方新聞社はいまだ活版印刷である。ヨーロッパの新聞印刷事情は知らないけれど、日本の新聞の場合、バブル最盛期の1980年代後半にオフセット印刷輪転機が導入され、1990年代にオフセット化が急速に進み、2000年ごろには活版印刷のシェアはゼロだったという。フランスも似たようなものだったのではないか。本作の地方新聞社の印刷工場所のジョルジュ爺さんは、活版印刷工であり、凸版工であり、また写真製版工であるとされている。しかし活版=凸版である以上、これは奇妙な訳語だ。原語はわからないが、文脈的には「凸版工」は「組版工」と訳されるべきだったのではないか。
バルザックの小説に出てくる印刷所では、インキまみれで真っ黒になった印刷工はクマ、忙しなく手を動かして活字を拾い続ける組版工はサルと、お互い罵り合っていた。ジョルジュ爺さんはひとりでクマもサルも兼ねていたということだろう。欧米の新聞社では、タイプを打鍵すると行単位で活字が鋳造されるライノタイプ自動鋳造機が広く普及していて、サルにたとえられた植字工程は自動化されていたから、バルザックの時代とは様変わりしていたはずだ。しかし本作に出てくる求人広告は、老技師自ら活字を拾って組んだものだったに違いない。ちなみに、文字の太さをウェイトと呼ぶのは活字時代の名残で、活字は鉛の塊だから、線の太さが変われば実際に重量も変わったのだ。
脱線すると、活版は活字の凸部にインキを乗せて紙に転写するから、大手印刷会社の社名にもなっている凸版印刷である。凸版もあれば凹版印刷もある。Tシャツやマグカップに印刷するスクリーン印刷、昭和世代には懐かしいガリ版やプリントごっこ、学校の教材でおなじみのリソグラフなどが、版の凹部に盛ったインキを転写するから凹版印刷(孔版印刷)という。オフセット印刷の版には凹凸はない。アルミのプレートにレーザー光線を照射し、親油部(線画部)と親水部(非線画部)に分けて、いわゆる水と油(インキ)の反発の原理を利用して紙にインキを転写する。オフセット印刷は版が平らなので平版印刷という。
さて、「風が吹けば桶屋が儲かる」式のこの連続殺人事件は、すべての人の行動が精密機械の歯車のように噛み合って初めて成立する。このフランスの片田舎の人びとは、マイルールと自分の生活様式を変えようとしない頑迷な変人ばかりだから、このシステムは成り立ちそうにも思える。
しかしいちばん肝心の殺人事件の部分で、偶然に頼る要素が大きすぎる。殺人に至る以前に、「それ」が7回連続で「成功」する可能性は限りなくゼロに等しい。残された告白テープは、「それ」が成功しても殺されず生き残った女性がいた事実を示しているではないか。偶然と不確実性に頼りすぎのご都合主義展開に、被害者の女性も随分と見下されたものだと、私は違和感を感じざるをえなかった。
この違和感は、『氷菓』のホータローくんが、えるちゃんを「おまえ」呼びにしていることに通じるものがある。優れた才能を持ちながら、こうした時代錯誤な表現をしてしまうミステリ作家が評価してしまうだけの作品であることだとは思った。私には、この作品の根幹にあるのは、旧時代の男性作家の時代遅れで無自覚で傲慢なミソジニーであるとしか思えなかった。
ネタバレしない程度に書いておけば、争った形跡のない女性の死体の発見状況に、私は藤堂志津子氏のある作品を思い出した。タイトルは忘れたが、夜、ジョギングしていた見知らぬ男女が併走しているうちに、お互いだんだん気分が盛り上がってきて、セックスに至るというストーリーである。私の偏見かもしれないが、北海道にはそんなこともありうるかという大地のオーラを感じる。本作の犯人と被害者がジョギングしていたわけではないが、フランスではその場所でそういうことがあり得たのか、あれこれ調べてしまった。しかし、いくらフランスが性的に自由といっても、そんな話はどこにも出てこなかった。
作者はこの田舎町がいかに性的に乱脈を極めているかを、これでもかこれでもかと強調している。しかし殺人事件になる前に、逮捕されるリスクが高すぎる。フランスの性犯罪についてあれこれ調べていると、フランス語で強姦を意味するViol(強姦)が、法律的には「他人による暴力、強制、脅迫の下に、または意表をついて行われる、いかなる性質の性的挿入」と定義され直されたのが、本書発表の1年前だったことを知った。本作は、いまの常識では企画段階で却下されのではないか。「ミステリ史に残る傑作」かもしれないが、「いやよ、いやよも好きのうち」が通用するというのは、きれいにいえばファンタジーだが、普通にいってたんなる男性の妄想に過ぎまい。