オヤジのひとり言

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伏見稲荷

2011年05月05日 | ボランティア
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伏見稲荷

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千年の古都のタイムトンネル

京都の歴史

その弐六

もとは農耕の神だった・伏見稲荷—

餅を的に矢を射ると、餅が白馬に変わり、

稲が生えたと言う伝説をもつ

京の東山三十六峰の最南端にある、

伏見山の麓に祀られた伏見稲荷大社は、

現在ではもっぱら商売繁盛の神様として知られる。

しかし、
本来、この稲荷神は、

この付近に勢力を持っていた秦氏が、

農耕の神として祀った可能性が非常に高いようで、

『山城国風土記』逸文によると、

秦公伊侶具が自身の裕福に慢心して、

餅を的に矢を射たところ、

その餅が白馬となって飛んで峰に降り、

そこに稲が生えたという。

そこに社を祀り、

名前も「稲生り」すなわち「稲荷」としたという。

伊侶具の後裔がそののち先祖の非を悔いて、

社の杉の木を抜いて家に植え、これを祀るようになる。

杉が根付いて成長すると福を得、

枯れてしまうと福は得られないという。

これがすなわち「験の杉」といわれるもので、

この後稲荷社のシンボルとなって歌にも詠まれるように生りました。

以来、秦氏の子孫が禰宜(ねぎ)・祝(はふり)となって、

神社に奉仕してきた。


延久4年(1072)3月には、後三条天皇がはじめて行幸し、

以降、鎌倉時代まで歴代の天皇が行幸しています。

室町時代に成立した『二十二社註式』という本によると、

和銅4年(711)に稲荷山の3箇所の峰の平坦地に神が降臨したのだという。

これが稲荷上社、中社、下社の3社です。

のち四大神社と麓の田中社とが加えられ、

合わせて稲荷五社といわれるようになりました。

上社、中社、下社は応仁の乱で焼けてしまうが、

そのあと山上にあった社殿は麓に降り、

現在地に祀られるようになった。

現在の本殿は、明応八年(1499)の建築で、

五神が一間ごとに並んで祀られる桧皮葺の五間社流れ造りで、

稲荷造りという独自の建築です。

 稲荷社が、平安時代以降とくに繁栄したのは、

氏子地域(産土地域)が平安京の南部にあったということが大きい。

現在でも春に行なわれる稲荷祭は、

神輿が京都市南区京都駅近くの油小路に御旅所に渡御しています。

そうです、

いつも通っている京都駅南口の手前イオンの向かいです。

今回はここまで・・   

続きは次回に・・ 

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