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千年の古都のタイムトンネル
京都の歴史 その弐百六拾壱
慈照寺の建築物のうち、東求堂と 銀閣は、
その美しさだけではなく、
建築様式の面でも特筆するものがあります。
持仏堂の東求堂は書院造りの原型とも云われ、
入母屋造り、桧皮葺の単層建築です。
内部は四畳・四畳半、六畳の小間・仏間からなり、
東北の四畳半の間は同仁斉と呼ばれている。
ここには造営された当初から、
いろり・違い棚などがあったことが知られ、
草庵茶室の原型とされている。
一方で書院とも記されており、
文台が置かれ、硯や筆・筆架・墨のほか多くの漢籍も持ち込まれ、
義政は書斎としても使っていたようです。
今回はここまで・・
続きは次回に・・
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銀閣寺を創建したのは室町幕府8代将軍の足利義政です。
義政は祖父である足利義満が建てた金閣寺を参考に、
京都東山・大文字山の麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めました。
義政は建築を始めた翌年(1483年)にはここに移り住み、
別荘としてだけでなく表向きの仕事にも使っていました。
金閣寺ほどの規模はありませんが、
銀閣寺にも会所、常御所(つねのごしょ)などの大規模な建物が建ち並んでいました。
しかし、現存するのは銀閣(観音殿)と東求堂(とうぐどう)だけです。
義政は東山山荘の完成を待たず1490年1月に死去しました。
義政の菩提を弔うため東山殿は寺に改められ、
相国寺の末寺として慈照寺が創建されました。
銀閣寺は戦国末期に前関白の近衛前久の別荘にもなったこともありましたが、
前久の死後再び相国寺の末寺となりました。
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