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千年の古都のタイムトンネル
京都の歴史 その弐百八拾九
文明7年( 1475 )、越前吉崎を離れた蓮如は、
いったん河内に退いたが
海老名五郎左衛門という篤志家から、
山科の土地の提供を受け新たな布教の地とする。
山科は京から東山を越えた所、東は逢坂山を越えれば近江に通じ、
近江からは当時本願寺派の布教が実を結び、
真宗王国を形成していた北陸や東海地域にも繋がる、要衡地で、
また土地を提供した海老名は「 山科七郷 」の野村郷の指導者で、
山科一帯に生活する人々の支援も期待出来る。
「 応仁・文明の乱 」終結の翌年、文明10年( 1478 )
寝殿工事を皮切りに講堂伽藍の建設が始まる。
寝殿に続き御影堂、阿弥陀堂と続々と堂舎が完成し、
4年後の文明15年( 1482 )、
「 寺中広大、無辺荘厳、さながら仏国の如し 」
という様相をなしていたそうです。
山科本願寺では、当初より地元山科の郷民だけでなく、
諸国から多くの門徒や商工業者が集住し工事が進められた。
このため伽藍の完成後は、
山科のこの一帯は、周囲を末寺や門徒たちの街区が取り囲むように発展した。
さらに、
そうした街区は二重とも三重とも言われる、
土塁と水堀によって囲まれ、
その全体が一つの町になっていたそうです。
本願寺を中心に、宗教都市の様相を為していたのです。
今回はここまで・・
続きは次回に・・
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