4/29のリブインピース@カフェでは、渡辺清氏の『私の天皇観』の冒頭にある『少年兵における戦後史の落丁』を読んで、議論しました。
その中で、「渡辺氏と同じように、戦場へ行って大変な目にあった人はたくさんいたはずなのに、彼のように天皇の責任まで突き詰めて考える人が、それほど多くないのはなぜだろうか」という話になりました。責任追及どころか、大多数の人は戦争に負けたことを天皇に謝罪していたんですから。
これについて、渡辺氏がそこまでできたのは、だまされということを自覚し、だまされた自分の「自己責任」を認識することができたからではないか、という意見がありました。
なるほど、自分が加害者であることを認めるのが簡単でないのは当然ですが、自分が被害者であることを認めることも、一見簡単なようで必ずしもそうとは言えません。例えば、詐欺の被害者が、だまされたという自分の愚かさを認めたくないがために、詐欺ではないと思い込もうとする、というようなことはありそうです。それと同じような心理が、戦争被害者にも働くのではないでしょうか。
自分がだまされたと認めなければ、責任を追及するなどという発想は出てこない。天皇の命によって行われた戦争で、辛酸を嘗めさせられたにもかかわらず、その責任を追及する声が少なかったのには、天皇崇拝教育の徹底など、日本の特殊性もあると思われますが、このような普遍的な理由もありそうです。
戦争責任の追及という場合、私はまず、日本が侵略した国々で行った、加害行為の責任を思い浮かべます。しかし、その行為を行った兵士たちは同時に被害者でもありました。そうした被害者の立場からの戦争責任の追及もまた、非常に重要だと思いました。
これは特に、靖国神社参拝の欺瞞を暴くために重要です。安倍首相はじめ靖国を参拝する政治家は、「国のために命を捧げた人への感謝は当然」などと言います。一見もっともそうに見えますが、これは戦死者が被害者であることを覆い隠すことです。
被害者であるならば、謝罪しなければなりません。それを謝罪でなく感謝とすることで、被害者であることを否定し、被害をもたらした責任もなかったことにしてしまうのです。靖国参拝の意味するところはこれです。
被害者であるならば、謝罪しなければなりません。それを謝罪でなく感謝とすることで、被害者であることを否定し、被害をもたらした責任もなかったことにしてしまうのです。靖国参拝の意味するところはこれです。
日本人もまた、戦争によって筆舌に尽くしがたい苦難を受けさせられた被害者であるという視点を持つことで、アジアの戦争被害者と共通の土台の上で、戦争責任を追及していくことができるようになると思います。
(by ウナイ)