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なぜ朝鮮学校は裁判をおこしたのか――(2)朝鮮学校の成り立ち

2013-06-01 | 北朝鮮バッシングに抗して

*極貧と差別、文部省・GHQによる弾圧への抵抗――「阪神教育闘争」を経て

 1945年、在日朝鮮人たちは民族教育を開始し、植民地政策の結果として朝鮮語を話せない子どもたちのために、自主的に「国語講習所」を全国各地に設立しました。この「国語」とは日本語のことではなく朝鮮語のことです。これが朝鮮学校の始まりとなり、全国で五百数十校が設立されました。大阪市内では、生野区、北区、東淀川区、東成区、西成区、港区、旭区、城東区、西淀川区、淀川区、福島区、此花区、大阪府内では現在の池田市、高槻市、東大阪市、八尾市、柏原市、大東市、寝屋川市、堺市、和泉市、岸和田市、泉大津市などに設立されました。

 ところが、米軍占領下でGHQの指令を受けた文部省は、在日朝鮮人に朝鮮学校で学ぶことを禁じ、1948年1月、日本学校への入学を強制する通達を出しました。植民地の同化政策の再現となるこうした通達に対し、在日朝鮮人は各地で反対運動を展開しました。
 それは1948年4月には、「阪神教育闘争」と呼ばれる大きな運動になりました。大阪では通達撤回を求めて、大阪府庁周辺に数万人の人々が集まり、4月24日、警官の発砲で在日朝鮮人少年が亡くなりました。兵庫県では通達撤回を求めて兵庫県庁に集まった人々に対して、非常事態宣言が出されました。どちらも多くの人々が逮捕されました。
 このような力ずくの弾圧で運動を押さえ込み、日本政府は、1949年、港朝鮮初級学校や朝聯私立泉北小学校など大阪の1学園3校だけを認可した以外は全て不認可として閉鎖を命じました。
 それでも在日朝鮮人の子どもたちに対する民族教育は、関係者の多大な努力によって、自主学校(無認可校)、公立学校、日本の公立学校に特設された民族学級や夜間学校という形態を通じて続けられていきました。たとえば、現在の中大阪朝鮮初級学校は1950年に大阪市立本庄中学校今里分校として再び開設され、1951年には独立校となり、大阪市立西今里中学校として民族教育をおこないました。
 1952年には、生野区や福島区などで朝鮮初・中級学校が再開され、さらに大阪朝鮮高級学校が生野区で開校されました。

*サンフランシスコ講和条約の発効=旧植民地出身者の「日本国籍」喪失の後に

 1952年4月、サンフランシスコ講和条約の発効日を期して、旧植民地出身者(朝鮮人、台湾人)は、一方的に「日本国籍」を喪失し、「外国人」になったと宣告されました。
 それまでの日本政府は在日朝鮮人を「日本国籍」を有する者とみなし、彼らの子どもたちに「就学義務」を課し、それを理由に朝鮮学校を閉鎖・改組してきました。
 今度は「日本国籍」喪失が「宣告」されることで、在日朝鮮人の子どもたちの日本学校への就学を「恩恵」であるとし、同時に朝鮮人学校を外国人学校として扱い、法的保護を与える必要なしとしました。文部省は在日朝鮮人の子どもたちの教育については、日本政府は何の義務も責任もないという態度を取ったのです。
 1950年代末には民族教育が再び活発化してきました。1961年、財団法人大阪朝鮮学園が大阪府知事の認可を受けて設立し、朝鮮学校も各地に設置されました。しかし、1965年日韓条約後、朝鮮人が学ぶ公立小学校分校は存続を認めない、朝鮮人学校を私立の正規校として認めない、などとする新しい通達が出されました。日本政府はあくまで朝鮮学校を排除しようとしたのです。
 しかし、日本政府がこのような態度をとり続けるのに対して、1960年代後半から、朝鮮学校への処遇の改善を求める市民の運動が広がっていきました。(続く)

                                                        (鈴)


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