日本国憲法改定の機会を自ら潰した吉田首相
FEC(極東委員会)内のオーストラリアとニュージランドは、象徴天皇として残った日本国憲法案には反対であった。そこでFECは10月17日、日本国憲法案の再検討の機会を与える旨の書簡をマッカーサーに送った。彼は直接これを日本側に伝えることをしないで、日本国憲法が公布された翌年の1月3日、吉田首相に憲法施行後1~2年の間に憲法の自由な改正を認める旨の書簡を送った。これに対して、吉田首相は1月6日、これに留意する、というたった1行で済ます極めて素っ気ない返書を送った。
マッカーサー書簡はすこし長いが、今日の押しつけ憲法論批判の上では重要なので引用しておく。
「昨年1年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、審査し、必用とならば改正する、全面的にして且つ永続的な自由を保守するために、施行後の初年度と第二年度の間で、憲法は日本人民並びに国会の正式な審査に再度付されるべきことを、連合国は決定した。もし、日本人民がその時点で憲法改正を必用と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくは何らかの適切な手段をさらに必用とするであろう。換言すれば、将来における日本人民の自由の擁護者として、連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意志の表明であることを将来疑念がもたれてはならないと考えている」(ダグラス・マッカーサー、1947年1月3日。袖井林二郎編訳『吉田茂=マカーサー往復書簡[1945-1951]』)。これに対して、吉田返書は「1月3日の書簡確かに拝受いたし、内容を仔細に心に留めました」(1947年1月6日)、とこれだけである。
吉田首相にとっては、天皇制が確保された日本国憲法を訂正する必要は一切なかった。日本国憲法は、彼にとっては押し付け憲法どころか、臣茂として、満足すべき憲法であったのだ。
但し、臣茂にとって痛恨事が一つ残った。日本国憲法制定と合わせて、GHQの命令で刑法(明治40年制定)改正が行われ、「皇室ニ対スル罪」、つまり大逆罪(刑法第73条、75条)と「不敬罪」(同74条、76条)とが刑法から削除されたことであった。周知のとおり、大逆罪は幸徳秋水らのいわゆる「大逆事件」をデッチあげた刑法の根拠条項であり、また1946年の食料メーデーで「朕はたらふく食とるぞ。汝臣民飢えて死ね」とのプラカードを掲げた共産党員が、「不敬罪」で逮捕され、名誉棄損で有罪となった事件があった。吉田は新憲法の下でも、せめて「不敬罪」だけでも存置することを強く願ったが(マッカーサー宛書簡、1946年12月27日)、マッカーサーは熟考の末、これを拒否した。(岩本 勲)
(つづく)