4月23日の「#つなごう改憲反対 キックオフ集会」のパネルディスカッション「私にとっての憲法 改憲されたらどうなるか」にパネラーとして話をしていただいた森松明希子さん(東日本大震災避難者の会代表他)が5月26日の原発賠償関西訴訟の法廷で意見陳述をされました。訴えを広く知ってほしいということでしたので、ここでも紹介することにします。ぜひご覧ください。
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(原発賠償関西訴訟 第33回 2022年5月26日)
平成25年(ワ)第9521号,第12947号 平成26年(ワ)第2109号 平成28年(ワ)第2098号,第7630号
損害賠償請求 事件
原 告 原告番号1-1 外239名
被 告 国 外1名
意見陳述書 原告番号1−1森松明希子
原告の森松明希子と申します(原告番号1-1です)。意見陳述の機会を与えていただきまして、感謝申し上げます。
私は福島原発事故の放射能汚染の影響で、11年間、福島県郡山市から大阪府大阪市に、子ども二人とともに国内避難を続けています。いわゆる母子避難で、2011年3月11日(3.11)当時0歳と3歳だった子どもたちは父親とは離れ離れで暮らしています。
小学校6年生になった娘は、父親と一緒に暮らした記憶がありません。野球部に入部した中学3年生の息子は、週末、父親とキャッチボールをすることさえ叶わない日々を送っています。月に1度しか会えない父親との別れのたび、号泣していた二人ですが、11歳と14歳になった今、“なぜ、避難しているのか”十分に理解していますし、この裁判の意味も分かる年齢になってきました。
また、子どもたちは現在も、福島県が実施している県民健康調査で甲状腺エコー検査を受け続けています。避難していても検査を受け続けなければいけない理由も、その必要性もよく理解しています。
1. 原発事故は終わっていない
原発事故から2ヶ月後に、放射線被ばくの身に迫る危険と命や健康に関わる権利が脅かされながらも、ようやく避難に至る条件がかろうじて整ったので、私は福島から大阪に逃れることができました。
逃げるかとどまるか、客観的な状況を把握したくても、必要な情報は与えられず、他方で「ニコニコ笑っていれば放射能は来ません」「年間100ミリシーベルトまでは大丈夫」などのプロパガンダも含め、おかしいことにもおかしいといえない雰囲気が作り続けられ、耐え難きを耐え忍び難きを忍ぶかのごとくの精神論や、自分よりもっと大変な人がいるからという謎の不幸比べによる我慢大会さながらの美談による陶酔的思考が蔓延する中で、人権保護や個人の尊厳よりも「復興」「頑張ろう福島」という大合唱によって異論を唱えることが困難な雰囲気に包まれる中、「被ばくはしたくない」「子どもを被ばくから絶対に守りたい」という思いで、なんとか私は福島を出てきました。一つでも条件が整わなければ、私は避難したくても出来なかったと、それは今でも強く思います。
やっとの思いで避難をして初めて、放射能汚染の線源からおよそ600キロメートルほど離れたこの関西の地から、避難元の状況を見つめたあの日のことが、今も鮮明によみがえります。
今そこにある危機から即座に避難できる人の方が少ないのです。事故から2ヶ月後の避難は、1年後、3年後、5年後に避難を決断できた人と比べると、極めて早期の避難開始ともいえるのです。何の制度や保障もない中で「自力避難」を余儀なくされる状況では、避難の開始にも時間はかかるのです。
また、一緒に住んでいた家族揃って避難することも“強制避難”でなければ難しいのが現実です。11年経っても家族・親子が離れ離れのまま避難を続けている母子避難等のケースが如実にそのことを表しています。
さらに、実際は、多くの住民が、「避難したくても出来ない」「本当は避難できるものなら今からでもしたい」と話しています。
国と東京電力は、全国各地の避難者が起こした裁判で、圧倒的多数の住民がとどまる中、避難している人はあなた達だけだ、というように、避難している人が何か特別で、まるで異端者であるかのような印象を裁判所に印象付けようとしています。
しかし、避難せず福島にとどまっている人も「あのとき避難しなかった息子たちが将来、癌になったら、孫に何かあったら、ということは今でも考える。覚悟して背負って生きるしかないな、と。苦難の中で生き続けるのも抵抗の仕方として意味がある」(福島生業訴訟原告・2022年04月23日弁護士ドットコムニュースより)と公言し、とどまる人の苦悩や苦痛が現在も続いていることを、今でも多くの人々が話し続けています。
原発は国策です。唯一の規制権限を持つのも国ですが、ひとたび事故を起こせば犠牲になるのは周辺に住む無辜の人々です。原発に賛成していた人にも反対していた人にも無差別に被ばくの脅威はおそいかかります。そして、特に被ばくに最も脆弱な子どもたちが、いちばん犠牲になるのです。
国策による犠牲を、とりわけ子どもたちに強いることは許されないと私は思います。
2.避難しても地獄 とどまっても地獄 帰還しても地獄
東京電力福島第一原発事故から11年後の奇しくも本日(2022年5月26日)、東京地方裁判所では3.11当時福島県在住の6歳〜16歳だった子どもたちが、小児甲状腺がんになったのは東電福島原発事故の放射能被ばくによる健康被害だとして裁判所に訴えています。健康被害の因果関係を争う裁判は、私たちの裁判以上に時間も労力も奪われることは必至です。それでも、3.11当時、子どもだった世代も、被害が顕在化しているところから、「おかしい」という声を上げ始めています。それに対し、世界中から共感と応援の声が上がっています。
とはいえ、健康被害が明確に顕在化しなければ、そして、子どもが病気になってからでなければ、訴えを起こすことができないのでしょうか。
避難した私たちも、避難したからそれで終わりではありません。原発事故直後の被ばくにより健康を害するリスクは確実に高まっておりその後に避難したことにより、被ばくのリスクがさらに高まることを防ぐことができているだけであり、避難したから安泰で平穏な日常が取り戻せたというわけではないのです。もしかしたら自分が、あるいは子どもたちが、がんや被ばくによる疾病を発症するかもしれない、という恐怖は、避難した人もとどまる人も帰還した人も、ずっといだき続けているのです。
何の保護や救済もない現状は、「避難しても地獄 とどまっても地獄 帰還してもまた地獄」なのです。
そのような被害は、裁判所以外に、一体どこの誰が正当に評価してくれるのでしょうか?
11年後の今、原発事故までは100万人に1人か2人しかならないと言われていたにもかかわらず、分かっているだけでも300人近い子どもたちが小児甲状腺がんを発症しています。この小児甲状腺がんの多発の事実を前にして、それでも、自らに健康被害が生じなければ訴えるに値しない、「避難」の必要はないと、皆さんは考えるのでしょうか。
事故が起こったとき、最も被害を受けるのは、社会的にも弱く、また被ばくに対しても最も脆弱な子どもたちです。子どもは親が避難しなければ基本的には自分の意思で避難することはできないのです。被ばくは嫌だと訴えも出来なければ、被ばくを避ける術も持ち合わせてはいません。制度や保障がなければ、自らの意思にかかわらず、避難することは出来ないのです。
また、避難できたとしても、避難先でいじめられたり、家族の意見が対立する中、家族離散を経験し、「生き地獄」と表現した現在中学2年生の少女もいます(愛媛訴訟原告・最高裁弁論での原告意見陳述より)。
この国は、子どもの権利条約を批准しているというのに、最も守られるべき子どもたちの受けた被害や損害、とりわけ「子どもの権利」侵害については、まったく評価も賠償もされていません。この14歳の少女は、最高裁判所に対し「この世は変わらない、と思わせないようにして欲しい」と訴えていますが、大人である私も全く同じ思いです。
放射能汚染の事実があり、被ばくを避ける必要があるから、多くの人が、あらゆる困難を乗り越えてでも「避難」という決断をしたのです。
実際に避難するのは、そしてその避難生活を継続させるのは、簡単ではありません。避難の決断とともに、避難の継続には、実際に、強制避難区域と同様に、精神的負担、経済的負担を強いられます。差別的な取扱をすることは許されず、それは国連の「国内避難に関する指導原則」にも明確な規範として国際社会でも共有されている世界の標準です。そうであるにもかかわらず、人権保護の観点からの救済はありません。人権侵害が常態化しているから、この国は、国連人権理事会ほか、国際社会からも数多くの勧告を受け続けているのです。
3.「線引き」による差別
そして、事故直後に福島第一原発からの距離という合理性のない線引きを行い、あたかも国が認める公式の避難者と非公式の避難者といわんばかりに被害者を分断し、賠償に差別的思考を持ち込んでいるのも、紛れもなく責任を問われ、また、国策で原発を推進している国です。土壌の汚染や内部被ばくは考慮に入れず、また、年齢・性別・職業・家族構成などきめ細やかな保護も施策も救済も11年経っても確立されず、ひたすら私たち被害者は“いないこと”にされ続けています。
私たち原告は、そうした国と東京電力が勝手に持ち込んだ避難区域内・区域外・福島県外などという差別と偏見と固定観念を助長するような線引きによる分断を乗り越え、放射能汚染地のすべての被害者の救済を求めています。
放射能汚染という客観的事実に向き合い、「万が一にも事故を起こさない」と約束した側が「これくらいの被ばくなら良いだろう」と勝手に基準を決め、被害者は誰かを勝手に決めるような線引きをし、「被ばくしたくない」「健康を享受したい」という私たちの人間としての生命と生存に関わる根本的な権利を侵害し、尊厳を踏みにじることは決して許さない、という思いから、その思いを同じくする人々とともに、こうして司法による救済を求めることにしました。
逃げることは簡単ではありません。原発事故による放射性物質がばらまかれても目には見えません。色もついていないし、放射能被害は晩発性障害が多く、被ばくから数年後、数十年後に起きるからです。
火事があったら逃げるのは当たり前です。「逃げずに火を消せ」と言われたら「それはおかしい」「私は嫌だ」と言えるのは、被害を知り、避難の権利性に気づき、確信をもっているからで、たとえ圧倒的多数の人が避難を選ばなかったとしてもその権利を主張することができると私は思うのです。
私たちは、これまで、「放射線被ばくから免れ健康を享受する権利」の具体的・直截的・積極的な被ばく防護の行為として、原発事故により拡散された放射線被ばくからの「避難の権利」ということを主張してきましたが、「逃げること(避難)」、「逃げ続けること(避難の継続)」の権利性について、もっと多くの人にその重要性を知ってほしいと思いますし、裁判において確立してほしいと思います。
4.避難は終わっていない
福島をはじめとする放射能汚染地から続々と逃れる人がいる反面、戻る人もいます。福島原発事故から数年後には、避難する人より戻る人のほうが多いと喧伝され、これもまた、避難する状況にない、非常事態は終息したという宣伝に用いられるわけです。
しかし実際のところは、「原子力緊急事態宣言」は現在も発令されたままで、今現在も緊急事態宣言下にあるのです。緊急事態宣言を解く事ができないのは、国際基準(国際原子力事象評価尺度International Nuclear and Radiological Event Scale, INES)からしてもレベル7の事故が終息していないからです。
さらに、モニタリングポストの空間線量こそ水素爆発直後の線量よりは下がったというだけであって、土壌(土)には、まだ何万ベクレルもの汚染があり、何よりも、38万人ほどの福島県民の子どもたちを調べただけでも300人の子どもたちが小児甲状腺がんを発症し、私の子どもたちと同世代の子どもたちの身に明らかに異変が起きているという事実があるのです。
そうであるにもかかわらず、実際に避難している人の人数さえまともに数えられたことはなく、何人が避難したのかも、そのうちの何人が戻ったのかも、11年経っても明らかではないというのが日本の現状です。
私もこの11年間で、何人もの母親の避難させてもらえなかった涙とともに、「住み慣れた我が家に帰りたい」「子どもが父親と離ればなれで泣き続ける」「自力での避難費用が底をつき、精神的にも経済的にも不安におしつぶされてしまう」と泣きながら帰還していった母親の姿を見てきました。その声は、「復興」「頑張ろう福島」の大合唱にかき消され、いつも「ない」ことにされています。
非常事態であればあるほど、実際には「逃げる」ことは許されません。心を一つにして、一丸となって頑張れと鼓舞されます。その雰囲気の中、本当はいやだ、逃げたい、と思っても、抗い実際に行動に移せる人がどれだけいるのでしょうか。
確かに、避難せずに「とどまれ」という命令こそ出されはしていません。そして、多くの人々が放射能汚染の「ある」場所にとどまっています。
でも、汚染地にとどまる人々が、みんな安全だと思ってとどまった訳ではありません。少なくない人たちが、被ばくのリスクにおびえながら避難できずに生活しています。
被ばく防護のための施策があれば、状況は違ったと思います。もっと多くの人々が、被ばくから身を守るため、避難することが出来たと思いますし、多くの被害者がこれほど全国各地で声を上げ続けなければならないこともなかったと思います。
少なくとも、被ばくから身を守るための何の制度も施策もない中で、放射能汚染があるところに、私は避難を終えて子どもたちを連れて帰還することは、考えられないですし、放射能汚染をばらまいた側が、客観的な汚染の事実や住民の心情も把握せず、合理的根拠もなく「いつまで避難と言い続けるのか」とか「避難はもう終わりでしょう」と勝手に避難の終期を決めることもありえないことだ と思います.
5.「平和のうちに生存する権利」について
裁判官のみなさんは、「平和」とは何かと子どもにたずねられたら、何と答えますか?
私は、平和とは、平穏な日常の暮らしそのものがあることだと思います。住み慣れた家や町で、家族で毎日の食卓を囲み、「行ってきます」「行ってらっしゃい」「ただいま」「おかえりなさい」「おはよう」「おやすみ」と顔を見て挨拶や言葉を交わし、子どもの健やかな成長をともに見守り育てるというあたりまえの日々の暮らしそのものであると思います。
その平和な暮らしが3.11以降、原発事故により一変し、奪われました。空気・水・土壌が汚染される中、私は、幼い子どもたちに汚染された水を飲ませてしまいました。また、自らも汚染された水を飲み、0歳の娘に母乳を与えてしまいました。葉物野菜や乳牛の出荷停止が続く中、人間にだけ放射性物質が降り注がないわけはないのです。
知って被ばくすることと、何も知らされずに被ばくさせられることは、まったく意味が異なるのです。
一体どれほどの初期被ばくを重ねたのかも定かではなく、避難していても、とどまる人と同じように、将来いつ自分や被ばくに脆弱な子どもたちに影響がでないだろうかと「核の脅威」にさらされ続けているのです。
だからこそ、避難元の客観的な汚染の事実を知った今、私は、これ以上、1マイクロシーベルトたりとも無用な被ばくを重ねることはしたくないですし、被ばくの生涯積算量を無駄に増やしたくはないのです。被ばくを拒否することも、それを拒否して自身の被ばく量をコントロールする権利も私たちの側にあり、国がその圧倒的な権力で基本的人権を蹂躙し続けている現状を一刻も早く改めてほしいと願っています。
戦争でなくても「逃げることは許さない」という雰囲気は容易に作り上げることができることを証明し続けているような11年間でした。避難し(続け)たくても出来なかった人の声は一切表には出てきません。かろうじて避難できた私たちも「非国民」とか「歩く風評被害」、「風評加害者」などと揶揄され続けています。
さらに、東京高裁の法廷では、あろうことか、区域外避難者の損害賠償を認める と、「自主的避難等対象区域に居住する住民の心情を害し、ひいては我が国の国土に対する不当な評価となる」(令和元年9月11日付け国側第8準備書面27頁) と国は主張しました。
国土を放射能で汚染したのは、私たちではありません。原子力発電所を動かしていた東京電力と、唯一の規制権限を持つ国が事故を防止する義務を怠ったからです。責任転嫁も甚だしい厚顔無恥な主張を繰り返す国と東京電力によって、私たち被害者はさらなる苦痛を与えられ続けています。
有事のときこそ、国策による人権侵害が横行するのです。
来月2022年6月17日には、最高裁判所が国の責任を認めるかどうかの判断を下します。絶対に忘れてはならないことは、裁判所がどのような判断を下したとしても、客観的な汚染の事実が消えてなくなるわけではないということです。科学的には、半減期をすぎれば低減していくというだけで、客観的な放射能汚染の事実が今なお厳然と存在し、同時に、私たち原発事故による被害者は、国策によって稼働していた原発の事故によって苦痛を受け続けながら存在しているのです。
目には見えないのを良いことに、放射線被ばくの問題から目をそらし、なかったことにする、もしくは、終わったことにすることは、不誠実かつ欺瞞に満ちています。「被ばくしたくない」、「健やかに平穏に暮らしたい」、という、人としてあたりまえの暮らしそのものが奪われ続けているという被害事実は今もあるのです。
なぜ、被ばくから身を護るための保護も救済もないまま11年間、私たちは放置されなければならないのでしょうか。
なぜ、被ばく情報を直後も知らせてもらえず、今なお、私たち周辺に暮らしていた人々は、一体どれくらい被ばくしたかも知らされず、被害もなかったことにされなければならないのでしょうか。
なぜ、将来にわたり、生涯積算被ばく量を自分でコントロールできないのでしょうか。
放射能をばらまいておいて、無主物だとか、原状回復できないだとか、多くの人が我慢してそこに住んでいるからだとかは全く理由になりません。
誰しも、無用な被ばくを本人の意思に反して強いられる根拠はありません。
この問題は、人の生命・健康にかかわる基本的人権の問題なのです。
そして、人間の尊厳に関わる問題であると私は思っています。
この裁判を通して、核被害の脅威にさらされた時、被ばくを強いる側に立つのか、それとも被ばくから人々の命と健康を守る側に立つのか、司法がどちら側に立つのかが、明らかになります。
被ばくするかしないかは「私が決める」、無用な被ばくを強いられることに対しては一歩も引かない、というのが私の今の思いです。
被ばくにもっとも脆弱な子どもたちが守られる社会を実現するため、今こそ裁判所の役割を果たしてほしいと思います。そして、司法のあるべき姿を次世代に見せてほしいと私は願っています。
この裁判で、国の責任がみとめられ、その上で、被害実態に見合った損害が認定され、人としての尊厳が、これ以上踏みにじられることのない公正な判断がなされることを、心から期待しています。
私は、放射線被ばくから免れ、命を守る行為が原則であり、それを社会の共通認識にすべきと考えます。裁判長、人の命や健康よりも大切にされなければならないものはあるのでしょうか。
以上(意見陳述を終わります)
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(原発賠償関西訴訟 第33回 2022年5月26日)
平成25年(ワ)第9521号,第12947号 平成26年(ワ)第2109号 平成28年(ワ)第2098号,第7630号
損害賠償請求 事件
原 告 原告番号1-1 外239名
被 告 国 外1名
意見陳述書 原告番号1−1森松明希子
原告の森松明希子と申します(原告番号1-1です)。意見陳述の機会を与えていただきまして、感謝申し上げます。
私は福島原発事故の放射能汚染の影響で、11年間、福島県郡山市から大阪府大阪市に、子ども二人とともに国内避難を続けています。いわゆる母子避難で、2011年3月11日(3.11)当時0歳と3歳だった子どもたちは父親とは離れ離れで暮らしています。
小学校6年生になった娘は、父親と一緒に暮らした記憶がありません。野球部に入部した中学3年生の息子は、週末、父親とキャッチボールをすることさえ叶わない日々を送っています。月に1度しか会えない父親との別れのたび、号泣していた二人ですが、11歳と14歳になった今、“なぜ、避難しているのか”十分に理解していますし、この裁判の意味も分かる年齢になってきました。
また、子どもたちは現在も、福島県が実施している県民健康調査で甲状腺エコー検査を受け続けています。避難していても検査を受け続けなければいけない理由も、その必要性もよく理解しています。
1. 原発事故は終わっていない
原発事故から2ヶ月後に、放射線被ばくの身に迫る危険と命や健康に関わる権利が脅かされながらも、ようやく避難に至る条件がかろうじて整ったので、私は福島から大阪に逃れることができました。
逃げるかとどまるか、客観的な状況を把握したくても、必要な情報は与えられず、他方で「ニコニコ笑っていれば放射能は来ません」「年間100ミリシーベルトまでは大丈夫」などのプロパガンダも含め、おかしいことにもおかしいといえない雰囲気が作り続けられ、耐え難きを耐え忍び難きを忍ぶかのごとくの精神論や、自分よりもっと大変な人がいるからという謎の不幸比べによる我慢大会さながらの美談による陶酔的思考が蔓延する中で、人権保護や個人の尊厳よりも「復興」「頑張ろう福島」という大合唱によって異論を唱えることが困難な雰囲気に包まれる中、「被ばくはしたくない」「子どもを被ばくから絶対に守りたい」という思いで、なんとか私は福島を出てきました。一つでも条件が整わなければ、私は避難したくても出来なかったと、それは今でも強く思います。
やっとの思いで避難をして初めて、放射能汚染の線源からおよそ600キロメートルほど離れたこの関西の地から、避難元の状況を見つめたあの日のことが、今も鮮明によみがえります。
今そこにある危機から即座に避難できる人の方が少ないのです。事故から2ヶ月後の避難は、1年後、3年後、5年後に避難を決断できた人と比べると、極めて早期の避難開始ともいえるのです。何の制度や保障もない中で「自力避難」を余儀なくされる状況では、避難の開始にも時間はかかるのです。
また、一緒に住んでいた家族揃って避難することも“強制避難”でなければ難しいのが現実です。11年経っても家族・親子が離れ離れのまま避難を続けている母子避難等のケースが如実にそのことを表しています。
さらに、実際は、多くの住民が、「避難したくても出来ない」「本当は避難できるものなら今からでもしたい」と話しています。
国と東京電力は、全国各地の避難者が起こした裁判で、圧倒的多数の住民がとどまる中、避難している人はあなた達だけだ、というように、避難している人が何か特別で、まるで異端者であるかのような印象を裁判所に印象付けようとしています。
しかし、避難せず福島にとどまっている人も「あのとき避難しなかった息子たちが将来、癌になったら、孫に何かあったら、ということは今でも考える。覚悟して背負って生きるしかないな、と。苦難の中で生き続けるのも抵抗の仕方として意味がある」(福島生業訴訟原告・2022年04月23日弁護士ドットコムニュースより)と公言し、とどまる人の苦悩や苦痛が現在も続いていることを、今でも多くの人々が話し続けています。
原発は国策です。唯一の規制権限を持つのも国ですが、ひとたび事故を起こせば犠牲になるのは周辺に住む無辜の人々です。原発に賛成していた人にも反対していた人にも無差別に被ばくの脅威はおそいかかります。そして、特に被ばくに最も脆弱な子どもたちが、いちばん犠牲になるのです。
国策による犠牲を、とりわけ子どもたちに強いることは許されないと私は思います。
2.避難しても地獄 とどまっても地獄 帰還しても地獄
東京電力福島第一原発事故から11年後の奇しくも本日(2022年5月26日)、東京地方裁判所では3.11当時福島県在住の6歳〜16歳だった子どもたちが、小児甲状腺がんになったのは東電福島原発事故の放射能被ばくによる健康被害だとして裁判所に訴えています。健康被害の因果関係を争う裁判は、私たちの裁判以上に時間も労力も奪われることは必至です。それでも、3.11当時、子どもだった世代も、被害が顕在化しているところから、「おかしい」という声を上げ始めています。それに対し、世界中から共感と応援の声が上がっています。
とはいえ、健康被害が明確に顕在化しなければ、そして、子どもが病気になってからでなければ、訴えを起こすことができないのでしょうか。
避難した私たちも、避難したからそれで終わりではありません。原発事故直後の被ばくにより健康を害するリスクは確実に高まっておりその後に避難したことにより、被ばくのリスクがさらに高まることを防ぐことができているだけであり、避難したから安泰で平穏な日常が取り戻せたというわけではないのです。もしかしたら自分が、あるいは子どもたちが、がんや被ばくによる疾病を発症するかもしれない、という恐怖は、避難した人もとどまる人も帰還した人も、ずっといだき続けているのです。
何の保護や救済もない現状は、「避難しても地獄 とどまっても地獄 帰還してもまた地獄」なのです。
そのような被害は、裁判所以外に、一体どこの誰が正当に評価してくれるのでしょうか?
11年後の今、原発事故までは100万人に1人か2人しかならないと言われていたにもかかわらず、分かっているだけでも300人近い子どもたちが小児甲状腺がんを発症しています。この小児甲状腺がんの多発の事実を前にして、それでも、自らに健康被害が生じなければ訴えるに値しない、「避難」の必要はないと、皆さんは考えるのでしょうか。
事故が起こったとき、最も被害を受けるのは、社会的にも弱く、また被ばくに対しても最も脆弱な子どもたちです。子どもは親が避難しなければ基本的には自分の意思で避難することはできないのです。被ばくは嫌だと訴えも出来なければ、被ばくを避ける術も持ち合わせてはいません。制度や保障がなければ、自らの意思にかかわらず、避難することは出来ないのです。
また、避難できたとしても、避難先でいじめられたり、家族の意見が対立する中、家族離散を経験し、「生き地獄」と表現した現在中学2年生の少女もいます(愛媛訴訟原告・最高裁弁論での原告意見陳述より)。
この国は、子どもの権利条約を批准しているというのに、最も守られるべき子どもたちの受けた被害や損害、とりわけ「子どもの権利」侵害については、まったく評価も賠償もされていません。この14歳の少女は、最高裁判所に対し「この世は変わらない、と思わせないようにして欲しい」と訴えていますが、大人である私も全く同じ思いです。
放射能汚染の事実があり、被ばくを避ける必要があるから、多くの人が、あらゆる困難を乗り越えてでも「避難」という決断をしたのです。
実際に避難するのは、そしてその避難生活を継続させるのは、簡単ではありません。避難の決断とともに、避難の継続には、実際に、強制避難区域と同様に、精神的負担、経済的負担を強いられます。差別的な取扱をすることは許されず、それは国連の「国内避難に関する指導原則」にも明確な規範として国際社会でも共有されている世界の標準です。そうであるにもかかわらず、人権保護の観点からの救済はありません。人権侵害が常態化しているから、この国は、国連人権理事会ほか、国際社会からも数多くの勧告を受け続けているのです。
3.「線引き」による差別
そして、事故直後に福島第一原発からの距離という合理性のない線引きを行い、あたかも国が認める公式の避難者と非公式の避難者といわんばかりに被害者を分断し、賠償に差別的思考を持ち込んでいるのも、紛れもなく責任を問われ、また、国策で原発を推進している国です。土壌の汚染や内部被ばくは考慮に入れず、また、年齢・性別・職業・家族構成などきめ細やかな保護も施策も救済も11年経っても確立されず、ひたすら私たち被害者は“いないこと”にされ続けています。
私たち原告は、そうした国と東京電力が勝手に持ち込んだ避難区域内・区域外・福島県外などという差別と偏見と固定観念を助長するような線引きによる分断を乗り越え、放射能汚染地のすべての被害者の救済を求めています。
放射能汚染という客観的事実に向き合い、「万が一にも事故を起こさない」と約束した側が「これくらいの被ばくなら良いだろう」と勝手に基準を決め、被害者は誰かを勝手に決めるような線引きをし、「被ばくしたくない」「健康を享受したい」という私たちの人間としての生命と生存に関わる根本的な権利を侵害し、尊厳を踏みにじることは決して許さない、という思いから、その思いを同じくする人々とともに、こうして司法による救済を求めることにしました。
逃げることは簡単ではありません。原発事故による放射性物質がばらまかれても目には見えません。色もついていないし、放射能被害は晩発性障害が多く、被ばくから数年後、数十年後に起きるからです。
火事があったら逃げるのは当たり前です。「逃げずに火を消せ」と言われたら「それはおかしい」「私は嫌だ」と言えるのは、被害を知り、避難の権利性に気づき、確信をもっているからで、たとえ圧倒的多数の人が避難を選ばなかったとしてもその権利を主張することができると私は思うのです。
私たちは、これまで、「放射線被ばくから免れ健康を享受する権利」の具体的・直截的・積極的な被ばく防護の行為として、原発事故により拡散された放射線被ばくからの「避難の権利」ということを主張してきましたが、「逃げること(避難)」、「逃げ続けること(避難の継続)」の権利性について、もっと多くの人にその重要性を知ってほしいと思いますし、裁判において確立してほしいと思います。
4.避難は終わっていない
福島をはじめとする放射能汚染地から続々と逃れる人がいる反面、戻る人もいます。福島原発事故から数年後には、避難する人より戻る人のほうが多いと喧伝され、これもまた、避難する状況にない、非常事態は終息したという宣伝に用いられるわけです。
しかし実際のところは、「原子力緊急事態宣言」は現在も発令されたままで、今現在も緊急事態宣言下にあるのです。緊急事態宣言を解く事ができないのは、国際基準(国際原子力事象評価尺度International Nuclear and Radiological Event Scale, INES)からしてもレベル7の事故が終息していないからです。
さらに、モニタリングポストの空間線量こそ水素爆発直後の線量よりは下がったというだけであって、土壌(土)には、まだ何万ベクレルもの汚染があり、何よりも、38万人ほどの福島県民の子どもたちを調べただけでも300人の子どもたちが小児甲状腺がんを発症し、私の子どもたちと同世代の子どもたちの身に明らかに異変が起きているという事実があるのです。
そうであるにもかかわらず、実際に避難している人の人数さえまともに数えられたことはなく、何人が避難したのかも、そのうちの何人が戻ったのかも、11年経っても明らかではないというのが日本の現状です。
私もこの11年間で、何人もの母親の避難させてもらえなかった涙とともに、「住み慣れた我が家に帰りたい」「子どもが父親と離ればなれで泣き続ける」「自力での避難費用が底をつき、精神的にも経済的にも不安におしつぶされてしまう」と泣きながら帰還していった母親の姿を見てきました。その声は、「復興」「頑張ろう福島」の大合唱にかき消され、いつも「ない」ことにされています。
非常事態であればあるほど、実際には「逃げる」ことは許されません。心を一つにして、一丸となって頑張れと鼓舞されます。その雰囲気の中、本当はいやだ、逃げたい、と思っても、抗い実際に行動に移せる人がどれだけいるのでしょうか。
確かに、避難せずに「とどまれ」という命令こそ出されはしていません。そして、多くの人々が放射能汚染の「ある」場所にとどまっています。
でも、汚染地にとどまる人々が、みんな安全だと思ってとどまった訳ではありません。少なくない人たちが、被ばくのリスクにおびえながら避難できずに生活しています。
被ばく防護のための施策があれば、状況は違ったと思います。もっと多くの人々が、被ばくから身を守るため、避難することが出来たと思いますし、多くの被害者がこれほど全国各地で声を上げ続けなければならないこともなかったと思います。
少なくとも、被ばくから身を守るための何の制度も施策もない中で、放射能汚染があるところに、私は避難を終えて子どもたちを連れて帰還することは、考えられないですし、放射能汚染をばらまいた側が、客観的な汚染の事実や住民の心情も把握せず、合理的根拠もなく「いつまで避難と言い続けるのか」とか「避難はもう終わりでしょう」と勝手に避難の終期を決めることもありえないことだ と思います.
5.「平和のうちに生存する権利」について
裁判官のみなさんは、「平和」とは何かと子どもにたずねられたら、何と答えますか?
私は、平和とは、平穏な日常の暮らしそのものがあることだと思います。住み慣れた家や町で、家族で毎日の食卓を囲み、「行ってきます」「行ってらっしゃい」「ただいま」「おかえりなさい」「おはよう」「おやすみ」と顔を見て挨拶や言葉を交わし、子どもの健やかな成長をともに見守り育てるというあたりまえの日々の暮らしそのものであると思います。
その平和な暮らしが3.11以降、原発事故により一変し、奪われました。空気・水・土壌が汚染される中、私は、幼い子どもたちに汚染された水を飲ませてしまいました。また、自らも汚染された水を飲み、0歳の娘に母乳を与えてしまいました。葉物野菜や乳牛の出荷停止が続く中、人間にだけ放射性物質が降り注がないわけはないのです。
知って被ばくすることと、何も知らされずに被ばくさせられることは、まったく意味が異なるのです。
一体どれほどの初期被ばくを重ねたのかも定かではなく、避難していても、とどまる人と同じように、将来いつ自分や被ばくに脆弱な子どもたちに影響がでないだろうかと「核の脅威」にさらされ続けているのです。
だからこそ、避難元の客観的な汚染の事実を知った今、私は、これ以上、1マイクロシーベルトたりとも無用な被ばくを重ねることはしたくないですし、被ばくの生涯積算量を無駄に増やしたくはないのです。被ばくを拒否することも、それを拒否して自身の被ばく量をコントロールする権利も私たちの側にあり、国がその圧倒的な権力で基本的人権を蹂躙し続けている現状を一刻も早く改めてほしいと願っています。
戦争でなくても「逃げることは許さない」という雰囲気は容易に作り上げることができることを証明し続けているような11年間でした。避難し(続け)たくても出来なかった人の声は一切表には出てきません。かろうじて避難できた私たちも「非国民」とか「歩く風評被害」、「風評加害者」などと揶揄され続けています。
さらに、東京高裁の法廷では、あろうことか、区域外避難者の損害賠償を認める と、「自主的避難等対象区域に居住する住民の心情を害し、ひいては我が国の国土に対する不当な評価となる」(令和元年9月11日付け国側第8準備書面27頁) と国は主張しました。
国土を放射能で汚染したのは、私たちではありません。原子力発電所を動かしていた東京電力と、唯一の規制権限を持つ国が事故を防止する義務を怠ったからです。責任転嫁も甚だしい厚顔無恥な主張を繰り返す国と東京電力によって、私たち被害者はさらなる苦痛を与えられ続けています。
有事のときこそ、国策による人権侵害が横行するのです。
来月2022年6月17日には、最高裁判所が国の責任を認めるかどうかの判断を下します。絶対に忘れてはならないことは、裁判所がどのような判断を下したとしても、客観的な汚染の事実が消えてなくなるわけではないということです。科学的には、半減期をすぎれば低減していくというだけで、客観的な放射能汚染の事実が今なお厳然と存在し、同時に、私たち原発事故による被害者は、国策によって稼働していた原発の事故によって苦痛を受け続けながら存在しているのです。
目には見えないのを良いことに、放射線被ばくの問題から目をそらし、なかったことにする、もしくは、終わったことにすることは、不誠実かつ欺瞞に満ちています。「被ばくしたくない」、「健やかに平穏に暮らしたい」、という、人としてあたりまえの暮らしそのものが奪われ続けているという被害事実は今もあるのです。
なぜ、被ばくから身を護るための保護も救済もないまま11年間、私たちは放置されなければならないのでしょうか。
なぜ、被ばく情報を直後も知らせてもらえず、今なお、私たち周辺に暮らしていた人々は、一体どれくらい被ばくしたかも知らされず、被害もなかったことにされなければならないのでしょうか。
なぜ、将来にわたり、生涯積算被ばく量を自分でコントロールできないのでしょうか。
放射能をばらまいておいて、無主物だとか、原状回復できないだとか、多くの人が我慢してそこに住んでいるからだとかは全く理由になりません。
誰しも、無用な被ばくを本人の意思に反して強いられる根拠はありません。
この問題は、人の生命・健康にかかわる基本的人権の問題なのです。
そして、人間の尊厳に関わる問題であると私は思っています。
この裁判を通して、核被害の脅威にさらされた時、被ばくを強いる側に立つのか、それとも被ばくから人々の命と健康を守る側に立つのか、司法がどちら側に立つのかが、明らかになります。
被ばくするかしないかは「私が決める」、無用な被ばくを強いられることに対しては一歩も引かない、というのが私の今の思いです。
被ばくにもっとも脆弱な子どもたちが守られる社会を実現するため、今こそ裁判所の役割を果たしてほしいと思います。そして、司法のあるべき姿を次世代に見せてほしいと私は願っています。
この裁判で、国の責任がみとめられ、その上で、被害実態に見合った損害が認定され、人としての尊厳が、これ以上踏みにじられることのない公正な判断がなされることを、心から期待しています。
私は、放射線被ばくから免れ、命を守る行為が原則であり、それを社会の共通認識にすべきと考えます。裁判長、人の命や健康よりも大切にされなければならないものはあるのでしょうか。
以上(意見陳述を終わります)