言っておくが、
あなたがたの義が律法学者や
ファリサイ派の人々の義に
まさっていなければ、
あなたがたは決して
天の国に入ることができない。
マタイによる福音書/ 05章 20節
新約聖書 新共同訳
自ら活動して、
他を動かしむるは水なり。
つねに己の進路を求めてやまざるは
水なり。
障害にあいて激しくその勢力を
百倍し得るは水なり、云々(うんぬん)。
黒田如水 ( 1546-1604)
(『水五則」)
▲『潮路はるかに』河北新報社
(写真はミュージカル「常長の祈り」より)
★スペイン・コリア「慶長遣欧使節」末裔 「私達は日本人」
◆NEWSポストセブン 2014年12月2日
スペイン南部、人口3万人ほどの小さな都市コリア・デル・リオ(以下、コリア)に、「サムライの末裔」と称するスペイン人が600人以上暮らしている。彼らの姓は「ハポン」(スペイン語で日本の意)。どんなルーツを持つのか。 * * * コリアに
スペイン南部、人口3万人ほどの小さな都市コリア・デル・リオ(以下、コリア)に、「サムライの末裔」と称するスペイン人が600人以上暮らしている。彼らの姓は「ハポン」(スペイン語で日本の意)。どんなルーツを持つのか。
* * *
コリアに暮らす「ハポン」姓のスペイン人は、約400年前に東北から海を渡った「慶長遣欧使節」の末裔とされる。慶長遣欧使節とは1613年10月に仙台藩主・伊達政宗がノビスパニア(メキシコ)との通商条約締結を求め、イスパニア(スペイン)国王及びローマ教皇の元に派遣した使節のことだ。
仙台藩士の支倉常長を大使とした約200人の一行は月浦(現・石巻)を出航し、3年がかりでメキシコ、スペイン、ローマを訪れた。この時、帰国せずスペインに留まった日本人がコリアに住み着き子孫を残したと考えられている。
『支倉常長遣欧使節 もうひとつの遺産』(山川出版社刊)の著者で現地を調査した太田尚樹・東海大学名誉教授が語る。
「今も教会に残る名簿の調査などから、8人の日本人が残ったと考えられます。恐らく、現地の女性と恋に落ちたのでしょう。ハポン姓の人々はまさに『サムライの末裔』です」
現在、コリアに住むハポン姓の人々にとって、遥か遠い日本は郷愁の対象だ。
「現地の人々の合い言葉は 『ソモス・ハポネス!(私たちは日本人だ!)』。顔立ちや風貌に日本人の面影はもはやありませんが、誰もが真面目で努力家の日本人を尊敬し、ハポン姓であることを誇りに思っています」(太田氏)
ハポン氏たちは、祖先が出航した石巻が東日本大震災で大きな被害に見舞われたことに心を痛めているという。
一方、ハポン姓の謎をめぐる科学的調査も進む。昨年、日本の研究者らが複数のハポンさんから血液を採取。DNA鑑定の結果は今後、発表される予定だ。
※SAPIO2014年12月号
http://www.christiantoday.co.jp/articles/15229/20150203/takayama-ukon.htm
★高山右近 没後400年記念ミサ 金沢教会:石川
◆中日新聞(CHUNICHI Web) 2015年2月3日
▲高山右近をたたえる歌を口ずさむ参加者=金沢市広坂で
命尊んだ生涯学ぶ
キリシタン大名高山右近(一五五二~一六一五年)の殉教四百年を記念するミサが一日、金沢市広坂のカトリック金沢教会であり、集まった信者らや観光客らが、競争より人生や命を大切した右近の生きざまを学んだ。(沢井秀和)
右近が一六一四年に国外追放され、マニラで病死したのが殉教にあたるとして、日本のカトリック教会が最高位の「聖人」に次ぐ「福者(ふくしゃ)」に認められるようにローマ法王庁に働き掛けており、今年にも認定されるという期待が高まっている。
ミサは、没後四百年を迎える三日に、全国のミサが神戸市で開かれるのを前に、金沢教会が催した。参列者が列福を求める祈りをささげた後、右近賛歌を高らかに歌った。
続いて、金沢市出羽町の県立美術館で八日まで開かれている「高山右近とその時代」を企画した学芸第一課担当課長の村瀬博春さん(55)=美学・芸術学=が講演。禁教令が出たころには、右近の家臣らを中心に二千人の信者が金沢にいたと推測。「当時、加賀藩で殉教したことを伝える記録が今のところ見つかっていない。なぜ殉教者が極端に少ないのか」と問い掛けた。
仮説として「これまで命と向き合う生き方を貫いた右近が、家臣ら信者に殉教を禁じ、茶の湯に信仰の真理を見いだすように説得したのでは」と指摘。また「激しい競争原理にさらされる今日こそ、追放の身を選択した右近の真価が深い共感をもって理解されると確信している」と話した。
高山右近 現在の大阪府豊能町高山に生まれ、洗礼名はユスト(義の人)。黒田官兵衛、蒲生氏郷らに洗礼を勧めた。バテレン追放令が出た後も信仰を捨てず、1588年から加賀・前田家に26年間預けられ、金沢城の石垣の修復、高岡城(富山県高岡市)の縄張(設計)にかかわったとされる。
▼右近にちなむ舞踊が披露された慰霊祭=金沢市鳴和町で
右近しのび創作舞踊
金沢・鳴和の教会 孝藤流家元ら奉献
高山右近の没後四百年を前に、金沢市鳴和町の殉愛キリスト教会で一日、慰霊祭が開かれた。孝藤(たかふじ)流家元の孝藤まりこさんらによる右近の生涯を描いた創作舞踊の奉献などがあり、バテレン追放の苦境に遭っても信仰を貫いた故人をしのんだ。
慰霊祭には三十人が来場。教会の山県実牧師(71)が右近をたたえて作詞作曲した賛美歌などを歌った。
山県牧師は、右近が前田利家を頼って金沢に二十六年間住んでいたことを振り返った。宗派の違うカトリック教会で広がっている、右近を聖人に位置付けようとする運動に協調する考えも語った。
山県牧師は「権力者に屈せず、心の生き方を大切にした右近に学ぶことは今も多い。四百年を機に、あらためて魅力を発信したい」と力を込めた。
教会併設の茶室「右近庵(あん)」にはキリストの最後の晩餐(ばんさん)を描いた彫刻を展示。慰霊祭後、来場者が茶を楽しんだ。(福岡範行)
中日新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井
▲『新書太閤記』吉川英治 (写真)
▲北陸中日新聞 2014年8月8日
青山俊董 (愛知専門尼僧堂長)
2014.8.8 平成26年
今週のことば